1989年の韓国・扶餘での調査では、百済 時代の貴族の末裔だといわれる扶餘文化院院長の李夕湖先生にたいへんお世話に なった。日本の学校を出られ百済に関す る著書もあり、百済時代の瓦の研究者と しても実績のある方である。
李先生より「百済時代の建物は韓国にはほとんど存在しない、唯一定林寺の石で作られた五重塔ぐらいである。木造の百済様式を知りたいのであれば、法隆寺を見なさい」とアドバイスを受ける。 日本の仏寺建築は和様・大仏様・禅宗様・折衷様に分けられるが、法隆寺・法起寺 などを飛鳥様式(または百済様式)と呼ぶ 研究者もいる。
博物館内の客舎は建物単体で建っているものであるが、客舎は本来塀で囲われた敷地の中心に建っており、そしていくつかの付厲建物と共に配置されているものである。扶餘近郊の客舎のいくつかを李先生に案内していただくうちに、塀で囲われゆったりとした甍を見せるその姿にすっかり虛になってしまう。
百済の館の全体の配置計画のアイデアはこの時に生まれたものである。狭い敷地内にどのように観光施設としての機能を持った建物の平面計画を、そして四方から見られることとなる建物の外部デザインを計画していけばよいのか、いろいろと考えている時であった。
柔らかい表情を持つ塀のディテールは一種類ではない。その後、数回訪れることとなった韓国のいたるところに地域の素材を使った魅力的な塀があり、韓国 の建物の特徴の一つになっているように感じた。
百済の館の設計も順調に進み、1989 年の秋には工事着工となる。客舎を特徴づけているものとして、屋根の瓦と木部に塗られた丹青(タンチョン)そして足下に敷き詰められた敷瓦(チョントル) がある。瓦はその昔、百済の工人が伝えたものと言われている。百済の館建設にあたって、これらは韓国の物をぜひ使おうということで進める。
百済の館の工事が進む中、韓国との交流が意外な展開で進んでいくことになる。1990年1月に韓国青少年連盟より日 本研修団180名(中学生)の南郷村内での ホームステイの要請があった。村としては初めてのことであり、戸惑いながらもとりあえず半分の90名を受け入れることとなる。このホームステイは1泊2日と短期であったが、結果として「草の根の 交流」を南郷村民に定着させることとな る。儒教の精神の残る韓国で育った中学生は、目上の者に対して礼儀正しく接し、 村のお年寄りに感激をもって受け入れら れたのである。
同年には国際交流員を韓国から受け入れ、韓国文化の紹介、そして韓国との積極的な交流へと村の取り組みは進んでいく。 7月、百済の館の現場に韓国から7人の丹青師が来る。柱・梁・垂木すベての木部材が塗られていく。白木の建物があざやかな建物に姿を変えていくなか、 金鍾泌氏(現・韓国首相)が南郷村を訪れ、 村民の熱い歓迎を受けることとなる。
当 時、韓国は高度経済成長期のまっただ中にあり、建築の近代化が進められており、 客舎をはじめとする伝統的な建物に関心が薄い時代であった。金氏は異国の地、 それも百済王族の伝説を大切に守り続ける小さな村で、自国の文化が限りなく本物に近い形で再現されようとしていることにいたく感激される。この出来事により草の根の交流が、より一層深い交流へと向かうことになった。
4・交流の中の風景