私は「西の正倉院」建設にあたっては、 付属施設計画業務について参加した。い わば「院」の部分の計画であり、神門神社の境内整備をも含めて、正倉の配置、 付厲施設、外構施設の検討を始めた。
当時、各種検討のため役場の担当者とともに正倉院や奈良国立文化財研究所を訪ねる機会があり、奈文研の紹介で復元作業の進む薬師寺の現場事務所を訪れた。 倉庫には大量の製材された桧が積まれていた。ただしすベて「台湾桧」であった。 日本で揃えることができず、台湾から購入したものであり、当時国内では大径木の桧の入手は非常にむずかしいものとなっていた。
ヒバ材の検討を進めようとしていた1989年の4月に、南木曾の勝野材木店から役場担当者に電話が入る。「全国から見積もり依頼が きている。調査したところ南郷村の計画 のようだが、間接的な取り引きは高くつくので直接取り引きをしないか」という 内容である。「子々孫々に誇りうる南郷村の創出」を基本コンセブトとしている 南郷村にとって、ヒバ材の採用は苦渋の選択であったため、勝野材木店の申し入れはありがたいものであったが、すぐに材の準備ができるということではなかっ た。すべての用材が集まるまでしばらくかかることとなる。建設省より木曽駒ヶ岳に東洋一の大砂防ダムの計画が発表さ れ、支障木として天然の桧が伐採されることとなり、このことにより「西の正倉 院」の用材がすべて揃うことになった。
設計に長い年月を要した別の理由として建築基準法の壁があった。当時の基準法を厳密に解釈していくと38条による建設大臣の許可が必要であった。県の担当課との打ち合わせのなかで鉄骨による補強方法についての検討の打診があったといわれるが、あくまでも本物づくりへの 強いこだわりのなか、最終的には日本建築センターの評定にゆだねることとなる。 設計をスタ一卜して4年目の3月に評定書がおりた。
南郷村では「西の正倉院」実現のために5つの壁を超えなければならなかつたといわれる。専門機関の学術支援、宮内庁の協力、膨大な檢材の調達、建築基準法のハードルであり、胫後の1つが資金計画であつた。計画内容については自治省の「まちづくり対策特別事業」による起債が認められていたが、当初計画より大きく予算オーバーしてしまったのであ る。支援基準をはるかに超えた内容に 「前例がない」と突き返されたのだ。
しかし村は、県の窓口そして国に対し て、「国の事業趣旨は『より個性的で魅力的な地域づくりの推進を図る』とあるではないか。南郷村の計画はどこにでもあるものでなく、村独自の個性的でより魅力的な取り組みに挑戦しようとしているものである。子々孫々に誇りうる『西の正倉院』をぜひつくりあげたい」と訴 えた。南郷村の熱意は国の基準の壁をも越えたのであった。1992年3月「西の正倉院」工事が始まる。
8・想いづくりの風景 ①