全体概要について
□1 建造物が建っていた地域の概要
現在、清水家は宮崎県綾町の酒泉の杜内に移築保存されているが、元は宮崎県高岡町(現宮崎市)の旧国道10号線(旧薩摩街道)沿いに建っていた。道路拡張により建物の取壊しが検討されたが、関係者が建物の価値を考慮し移転先を探して現在の場所に移築保存された。
高岡町は薩摩藩の外城があった場所で、薩摩街道の要所であり、大淀川による物資運搬の拠点でもあった。この地より大淀川河口の上野町を経由し、大阪や江戸に物資が送られていた。
島津斉興(なりおき10代藩主)が藩主の時代(文化6年〜嘉永4年・1809〜1851)に藩は財政危機に陥るが、嘉永(かえい)元年(1848)に御手山経営(薩摩藩による直営の山林事業)に取り組み財政立て直しをはかる。御手山経営で取り扱われた物の中でも特に利益が多かったものは、櫓木、白炭、椎茸で、高岡の清水八郎左衛門や水間次左衛門、高城の後藤五市の所有する船で江戸や大阪に送られた。
□2 清水家の概要
清水家の歴史は古く中世にまでさかのぼり、日向の代表的豪族であった土持家の七頭(党)の一つである。南北朝争乱にかかわる土持氏の動向を伝える「土持文書(宮崎県指定有形文化財)」は清水家相伝のものとされ『宮崎県史 史料編 中世1(宮崎県 平成2年)』に収録されている。清水家は代々回漕業を営み五百石積程度の栄順丸と寿宝丸を所有し薩摩藩の御用船として大阪や江戸に米を運んでいた。
嘉永6年(1853)12月4日に島津斉彬が巡見のため高岡を訪れ清水新兵衛の家に泊まっており、小納戸を務めていた山田為正の日記に「旅宿清水新兵衛家手広く表之間は大坂より切込廻し建たりと云、浴室雪隠など田舎体にてはなし、給仕小女是また大坂こと葉なり」と「高岡町史(上巻)」に記載されている。
□3 地域の変遷
戦後米軍により撮影された航空写真を見ると旧外道沿いにほぼ同じ大きさの屋根を持つ町屋が4件確認できる。当時豪商であった清水家、水間家、田丸家、白坂家などの商家と思われる。その内三軒は店を街道側に面し反対側は大淀川に面している。その内でも清水家は約3000㎡の敷地内に幾棟の建物を有する豪商であった。
旧国道10号線拡幅の時に清水家は移築され他2軒は解体されたが、唯一水間家だけは曳家を行い現在に至っている。正面の店部分は下屋を陸屋根に変えているが、主構造はそのまま残されており、早い時期に調査が実施されることが望まれる。
建造物の概要について
□4 建造物の概要(由緒・沿革など)と特徴
建立は文化-文政(1804年〜1830年)の頃といわれている。現在残されている建物は、間口が16.655+4.98m、奥行きは17.895m、棟木下端で8.845m、木造2階建の瓦葺き切妻屋根である。現在1階床下地腐朽のため上ることができず、現在の状況については土間から確認できる範囲だけである。建物概要については移築前の昭和47年(1972)に宮崎県が奈良国立文化財研究所に委託し作成した報告書「宮崎県の民家」があるので、それを引用し原文を赤字にて表示する。
「現在国道10号線となっている街道に面した大規模な町屋。屋敷地は広大で両隣を含め約3,000㎡あり、裏は大淀川に接し昔はここから舟出しをしたという。この家を建てたのは、酒造業が営んでいた8代目(安政5年80才で没)で、安政の大火(一説には文久元年)にも焼け残ったとの伝承もある。いま表側を2つの店に、内部を数人に分割貸しして旧形をそこなった部分があるものの、構造材はほぼ完存し大型町屋としての豪壮さを保っている。
平面は向かって左を土間、右を居室部にし、居室の奥にさらに座敷を2部屋付属する。土間は4間幅と広く、表から3尺のふみこみがあって、左手に上下2枚にわかれた摺り揚げ戸といた壁にかこまれた2間×2.5間程のシモミセがあった痕跡を残す。ウチニワは4間幅で裏まで通り、裏口は現在小部屋として張り出している部分についていた。
居室部のうち食料品店になっている表の間はすべて合板で張りめぐらしているのでまったく旧状をつかむことができない。その奥にウチニワに面する長い16帖の部屋はほぼ当初のままを残し、太く長い大黒柱は、並列する土間上の梁、それに布石と広縁とによってなる土間よりの昇り口、などと相まって、この家の豪壮さを最もよくあらわしている。
奥の間は土間より3尺ひっこんで8帖あり背面を4本溝の建具と雨戸でとじる。西寄りの部屋通りは大・小3部屋にわかれ、付属する座敷への廊下をもとりこむ。鍵座敷は表側に6帖、裏側にとこ・たなをもつ8帖の2部屋あり、道路から中庭を通って直接縁に上ることができる。
使用木材はいたって上質で、とこ・たな・間仕切りのオサランマ等にも行きとどいた神経が感じられる。屋根は本屋に大きな切妻屋根をかけ、正面と側面に庇をまわす。座敷部は本屋に接して同方向に別の屋根をかけ、両面の縁は庇でつける。本屋の天井上はツシ2階(小屋組が大きいので普通のツシより天井は高い)にして適当に間仕切りを設けて小部屋に分割している。
このように表まわりに多少不明な点を残すものの、規模・形式・手法ともに優れ、復元保存されれば全国的にみても価値の高いものとなろう。なお建立年代についての確証はないが、文化-文政頃と推定される。」
宮崎県の民家(民家緊急調査報告書)51頁「清水ミ子家住宅」より
□5 補修・改修について
平成元年(1989)に高岡町から現在の場所に移築され、平成4年(1992)5月に綾町指定文化財となった時点で、創建後に付け加えられた間仕切りなどが除去され主屋部分だけだか創建当初の姿に近いものになったと思われる。
□6 評価について
文化-文政(1804〜1830年)頃に建てられた全国的にも価値の高い町屋と報告書で評価されている。また嘉永6年(1853)に島津斉彬が宿泊した時の付き添いの日記に「表之間」は大阪で切り込まれ建てられたとある。当時の薩摩藩の御用商人としての清水家の立場を考慮すれば、京や大阪周辺で活躍した職人が関わったことは間違いないと思われる。
清水家の平面構成は、日本を代表する民家である飛騨高山の吉島家・日下部家に見られる「町屋の三列型」であり、奥の居室であるザシキとブツマを妻の外側に張り出し、正面隅にナカニワを設けているところまで同じである。また滋賀県近江八幡市にある国指定文化財の西川家(1706年建立)と、その平面は左右逆だが土間、面する和室群、そして奥座敷まで酷似している。
清水家のドマ奥から小屋組が見えるがその架構は、吉島家・日下部家のダイナミックな柱と梁による洗練されたものではないが、大型町屋の大空間を構成する柱と梁による架構の素形と思われる。
清水家は江戸から明治にかけて商人が富を得て町屋が発展していく過程の一つの姿を残している。当時、大阪・京都・近江で活躍していた大工の技が遠く離れた薩摩藩高岡郷まで及んだ貴重な建物であり、再度専門家による綿密な調査が望まれる。
現在、綾町の酒泉の杜という焼酎メーカーの敷地内に建っているが、老朽化が著しくその存亡さえ危うい状況である。建物の規模内容を考えると町指定という取り扱いではなく、より上位の指定として補修を行いその価値を広く周知することが必要だと考える。
(参考文献)
大淀川流域の歴史、
HP宮崎 歴史こぼれ話、
HPみやざき文化財情報、
宮崎の民家(民家緊急調査報告書)、
飛騨高山における町屋の平面特性(田中清之・是澤紀子)
文責 柴睦巳 柴設計(ひむかヘリテージ機構 世話人)