建築主より
建築主より
1 我が家の家づくり・1・2・3 (国分の家)
我が家の家づくり・1
(小学校PTA文集 2008年3月掲載)
我が家は今、家づくりをしています。もともと古民家(昔の家)が好きで、釘を使わずに木組みで造る伝統的な家(鉄腕ダッシュの民家)にあこがれていましたので、これを目指しての家づくりです。子供のころ田舎のお婆ちゃんの家で寝転がると夏でも涼しく、天井に頼もしく存在する太い梁(はり)が理想のイメージとなったのかもしれません。
建てる家は太い柱で土壁を塗りたいと構想を練ったのが8年前ですので相当長い時間が経過しました。理想ばかり語る施主に付き合ってくれる設計士さんは簡単に見つからず結局、宮崎の設計士さんにお願いしました。
この方とは7年前に知り合い、正式に設計の契約を交わしたのが半年前ですので共に気の長い者同士です。7年間何をしていたかと言いますと北小校区で木の家を建てれる土地を探していました。もっと田舎であれば広い敷地が比較的簡単に手に入ると思いますが、仕事の関係や家族のことを考えると今の生活圏から離れることもできず、かといって狭い場所では防火の関係で板壁にはできず土地探しは難航しました。それでもやっと見つかりいよいよ設計士さんの出番です。
しかし、ここでも再び問題発生です。いくら予算があったとしても昔の家のつくりは現在の建築基準法をクリアできず、無視してつくれば違法建築になります。結論として鉄腕ダッシュの民家は北小校区に建てることはできない(正確には日本国中どこも)のです。がっかりですが、それでも伝統的な造りに近いように設計士さんが頑張ってくれています。
概略、設計は出来上がり着工は今年の暮れになります。この間何をしているかと言いますと、家の構造材を選定し伐採し、自然乾燥させます。木は宮崎県のはずれ、諸塚村の自然乾燥材を使用します。私個人も庭に敷く切り石を探したり、家の内部に使う無垢板を探し、さらには子供のベッドと机を作りたいと考えています。家づくりにかけられる予算は非常に少ないので、やれることは何でも自分でします。
最後になりましたが、私の道楽とも言える家づくりに不平も言わす応援してくれている家族に非常に感謝しています。家づくりを通して、また家族の絆が深まった気がします。・・・私の予想では・・・
追加ですが、石塀に使う切り石(小浜石とも言うそうです)を探しています。安く譲ってもらえる方はご連絡下さい(電話・・-・・・・)。
我が家の家づくり・2
(小学校PTA文集 2009年3月掲載)
昨年は自宅の建築計画を書かせていただきましたが、20年7月にいよいよ自宅の建設が始まりましたので今回はその状況を書きます。
設計士さんと現場監督さんへの要望は 1.昔の民家をイメージしたものとし、大工さんが刻んだ木組みが見える家とすること 2. 集成材、ベニアやクロスなど使わず節があっても構わないので無垢(むく)の木を使うこと 3. 施主である私も建築工事に参加させてもらいたいの3点でした。
問題なのは3番目の要望です。私も一般のサラリーマンですし、もちろん住宅建築などに関わったことなどないのですが動物でも自分の住みかを作るのだから自宅のできあがる過程に少しでも参加したいとの思いから基礎コンクリート打ちに2日間、構造材の木組みから上棟式まで7日間、それ以降は週1回のペースで何とか職場から休みをもらい工事に参加しています。
大工さんからは始めはよそ者扱いで、「家主(やぬし)さん」と呼ばれていましたが、現場に通ううちに名前を呼ばれるようになり、ついに重宝がられ今度はいつ現場に来るのか棟梁に聞かれるまでになりました。工事に参加とえらそうに言っても作業場を掃除したり、材木を大工さんの足元に運んだりの小間使いですが私は十分満足です。
一番印象に残っているのはやはり住宅建築の一番の山場である建方(たてかた:家の骨組みづくり)でコンクリート基礎しかない状態から、大きな柱や梁が次々にクレーンで設置場所に移動され大工さんが「かけや」と呼ばれる大きな木づちで木材を打ち込み家の骨組みを作っていきます。大工さんはサルのように身軽で次々と足場を移動し木が組まれます。
私の仕事はクレーンで運ばれた木材を大工さんが木材に打ち込めるように指定した位置に設置する役目で、1階部分はまだ余裕があったのですが2階部分になると大部分の時間は柱にしがみついていました。でも格好だけは一人前でマイヘルメットとマイ地下足袋を付け、腰には使いもしない釘袋を下げています。
家の最も高い部分に越屋根(こしやね)と呼ばれる小さな屋根の付いた換気口があるのですが、足場の無い状態で大工さんが越屋根を組み上げる姿はとても格好よく感動的な光景でした。
建築現場では花形の大工さんですが、皆さんお孫さんはおられてもお弟子さんはいません。後継者がいないため、あと10年もすると我が家のような昔ながらの方法で作り上げる家づくりはできなくなるかもしれません。非常に寂しいことです。
工事は来年の2月まで続きます。次の工程は左官さんの壁塗りです。職人さんの技を見るのを私は楽しみにしています。最後に一言「私のやりたい様にさせてくれる家族にはとても感謝しています。子供たちが成長し私たち夫婦が老齢になっても、皆で集う家になってほしいと思います」。
我が家の家づくり・3
(2009年6月 記)
平成20年の夏から始まった我が家の家作りが21年春についに完結しました。8年前の柴さんに連絡したのを皮切りに、新聞や雑誌等で情報が入れば土壁を塗る左官さん、和紙をつくる職人さん、腕が良いと評判の大工さん、無垢の木材を扱う銘木屋さんと可能な限り情報を集め一生懸命に取り組んだ家作りでした。結局、柴さんを除くとお会いした方は全て家作りには直接参加してもらわなかったのですが、今となっては良い思い出です。
家作りを終えて思うのが設計士さん、現場監督さん、職人さん、そして施主が力を合わせて物を作り上げるすばらしさです。皆さん、自分の持てる技術の全てを使って家作りをしていただいと思います。
現場にいつも通ったおかげで、家の各部位がどの職人さんが仕上げたか、私は克明に覚えています。それもあって家の持ち主は私と家族ですが自分たちだけの家でない、皆さんが頑張ってくれたのだから大切にしたいという気持ちを強く感じます。
我が家の玄関には柴さんをはじめとして職人さんの名前を刻んだプレートを貼りました。皆で取り組んだ家作りであることを形にして残しておきたかったのです。
このように多くの方の協力をいただいた家作りでしたが一番お世話になったのが、もちろん柴さんです。私の様々な要望を真摯に受け止めすばらしい家を設計していただきました。長い間、相談したこともあり私の好みを熟知しておられ初めの設計から殆ど文句のつけようのない出来でした。
また設計が終了し大工さんによる建築が始まると、柴さんは家の設計ではなく風景をつくる方ではないかと思い始めました。それほど周囲の風景にとけ込んだ家でした。今、家の植栽も緑が深くなり昔からそこにあったようなたたずまいを見せています。
一番高い部分は、柴設計お決まりの越屋根です。建築中に職人さんがハト小屋と呼んでいた部分です。私の今の希望は柴さんが設計し大工さんが組み上げた越屋根の住宅が増えることです。
柴さんの設計する住宅は決して高性能の住宅ではありません、床暖房も無ければ高気密でもありません。しかし職人さんが魂を込めて打ち込んだ多くの木材とコミ栓が家を支えています。使用する木材の生まれ故郷を見て、施工していただく職人さんと会話し、建築現場に立ち会うことができる、すばらしい経験をさせていただきました。柴さんをはじめ我が家の家作りに関わった全ての人に感謝したいと思います。
2 私たちの家は別棟の二世帯住宅 (門川町 加草の家)
(2009年7月 記)
私たちの家は別棟の二世帯住宅です。今は敷地いっぱいに住宅が占めていますが、ついこの間までは作業所と倉庫が建っていて、海産物の加工業を行っていました。井戸水と自然塩を使った天日干しの“元祖あじのひらき”でした。私たちの住む母屋(既存住宅)は40年前に祖父の建てた家です。
仕事は親族でしていましたので、いつも家族が集まっていました。家族の歴史のいっぱい詰まった家になります。30年近くは祖父母夫婦が二人で暮らしていたと思います。その後は両親が受け継いでいたのですが、両親のリタイヤをきっかけに私たちが譲り受けることになりました。それが2年前の春のことになります。
父ははじめ、自分たちは作業所に住めるように簡単なリフォームを考えていました。知り合いの大工さんにも相談していたようでした。一方で私たちは、信頼の出来る建築士を探していました。
特に重要視したのは、話をよく聞いてくれることで、バランスを上手にとってもらえることでした。私たちは二世帯、大人が4人も暮らすことになります。父は自営業、私は公務員ですので色々と考え方も違うだろうと思ったからです。次に考えていたのは、できるだけ自然な素材を使った落ち着いた雰囲気の設計ができることでした。
しばらくの間は、歩いていても運転をしていてもいろんな家が気になって仕方ありませんでした。これ、という人はなかなか見つかりません。その年の暮れには店を仕舞う予定でしたので、次第に焦ってきました。そんな時、「これだ!」と思う家があったのです。その家を初めて見たのは今から4年前でした。
“こんなに丁寧に家を構える人たちがいるのだなぁ・・・”と感動したのを思い出しました。その時にはまさか、いずれ自分たちの生活にリンクするようになるとは思いも寄らぬくらい、本当に遠い存在で無縁のもののように思っていました。まだなんとなく、叶わないような気がしてしばらくは躊躇しましたが、想えば想うほどに、その家は両親に住んでもらいたい家でした。
どんな人が住んでいるのだろう、どんな人が作ったのだろう。私は、呼び鈴を押すために自転車から降りました。樹木のトンネルをくぐりドキドキしながら通ったポーチ、待っている間に垣間見える絵本の部屋、開いた扉の奥様の向こうに見える優しい雰囲気も・・・それはそれはとても素敵なものでした。
その存在はさらに遠のいていくように感じたような気もしますが、でもしっかりと、「やはりこの家だ」と、あたかも正解を導いたときのような手応えを感じました。幸いのこと、私は柴さんと面識がありました。まだ不安はあったのですが、嬉しくなってすぐに連絡しました。
顔合わせは夏に実現しました。何軒かを見学させて頂きました後、暮れには設計監理の契約ができました。リタイヤ生活に突入した春、本当はまだ両親は少し迷っていました。プランはほぼ今の形に決まりかけていましたが、HI邸を見学させて頂きましたときのことです。花盛る庭一面、たくさんの鯉のぼりが元気いっぱいに泳いでいました。
一通り説明を聞いてリビングに戻ってきた時です。いつもならサービス心旺盛の父、「いいねぇ」「良かったねぇ」「さすがは柴先生!」と連発のはず。食卓の椅子にじっと腰を下ろしたまま、腕を組んで庭を睨んでいます。しばらくは黙っていた父でしたが、「先生!この家くんない(ください)!」と大真面目に言ったのでした。
その様子に、私たちは可笑しいやら嬉しいやらで笑いがとまりませんでした。父の心にも雷が落ちたのです。私たちの迷いは一気に吹き飛びました。家づくりをはじめてからちょうど1年後のことでした。
ところが、その雷というもの、このときに父に与えた衝撃はとてつもなく大きなものでした。とにかく、父はHI邸をひどく惚れ込んでしまったのです。これまでずっと、父は頑なに母屋の解体には反対していました。母屋は自分も譲り受けたものですし、10年前に外壁の張替え等の大幅な工事まで行って大事にしてきたものでした。
そんな父が、自分の考えを変えた方がよいか・・・と思わんばかりの衝撃だったのです。結局は、完全新築の考えはなくなり今までどおりに母屋は残して使うように決めましたが、父のHI邸への思い入れはそれからもずっと消えずに、工事中も何度も業者さんとお邪魔しました。
私たちにとって、HI邸との出会いは大きなターニングポイントでした。完成した今となっては、その選択は決して間違ってはいなかったように思います。
その後、順調に設計も終了し、秋には工事契約ができました。まずは作業所を解体し、離れ(両親の住宅)の新築工事に着工、両親の引越しを終えてから車庫・物置を増築して、最後に母屋の改築といった段取りです。
私がこの家づくりを通して一番驚いたことは、週1回の現場定例会議に施主も必ず同席することでした。両親は隣で毎日見ていたので、定例会の意味合いは本当に決め事だけだったかもしれません。
でも私は、できる限り都合をつけて宮崎と門川の往復をする中、短い間でしたが、どこをどんな人がどんな風に頑張って手間をかけて下さったのかを目の当たりにすることができました。もし定例会に同席しなかったら、勿論同じ感謝の気持ちには違いないのですが、今日感じる有難さの大きさとはかけ離れたものだったと思います。
リフォームに取り掛かったのは翌春になりました。リフォームというと、内部工事だけですので簡単な工事のような気がしていました。いよいよ床・壁・天井を剥いでしまうと、その粉塵も40年分のカビや埃、そして害虫の糞などの臭いも想像のできぬくらい大変なものでした。
そんな環境の中で毎日仕事をして下さったかと思うと、本当に頭があがりません。しかも、母屋は新築当初に轢屋をしていたので傾きも相当あって柱自身もねじれていました。座標がとれないので、本当に面倒な仕事だったと思います。回を重ねるたびに感謝の思いが増して行きました。少しでも作業の様子を見ることが出来て、ほんとうに良かったと思っています。
定例はいつも夕刻でしたので、帰る前には両親の新しい家で晩御飯の時間を過ごしました。その時間は、帰らなくてはいけないのにどうしても帰りたくなくなってしまうくらいに本当に心地よい空間でのひと時でした。
両親は今から15年前に交通事故にあっていて、母は脳挫傷を負っています。後遺症で記憶障害と足のもつれがあり、あまり目も見えていません。果たして母が新しい環境に慣れるのか、「帰りたい」と言い出したりしないか、心配もありました。
はじめのうちは、IHにも慣れなくて母屋のキッチンのとうとう無くなるギリギリの日まで前の台所で食事をしていました。毎週毎週いろんなことができるようになってきて、先日は本当に頑張って美味しい料理を振舞ってくれました。
家事動線も一直線、なにしろテーブルからキッチン、洗濯機、トイレ・お風呂までの動線のすべてが一直線に設計されているので、母にとってもわかりやすく、口数少ない母ですがとても気に入っているように思います。
勿論、父も大のお気に入りで、「母屋と離れとどっちが好き?」と聞いたところ「決まってるわ!」と笑っていました。
出来上がってみて、床の間をそのまま残してやっぱり良かったと思いました。祖父母がそこに生きているように感じます。まるで4世代同居みたいです。私たちの引越しは、仕事の都合でしばらくはお預けですが、これから先あの家での暮らしが待っていると思うと、とても幸せです。
両親へはもちろんのこと、娘にそんな生活をプレゼントできると思うともっともっと幸せです。いつか大きくなったら、「神楽を見た郷の木でできたお家なんだよ」と話したいです。そしてまた、どんな花の咲く樹を植えていこうかと考えると毎日がとても楽しく感じます。これが私たちの家づくりの物語です。これからも家族の集まる、人の集まる、賑やかなお家でいられますように。
最後に。突然の訪問に親切にお答えくださいましたOBさん、お忙しい中拝見の時間をとって下さいました皆様、何度大勢でお邪魔してもいつも暖かく迎えて下さったHIさん。皆様のあたたかい励ましのお蔭様で私たちもとうとう実現に至りました。その節は本当にありがとうございました。私たちもそうなれますように、新たな出会いを期待しつつこれからの生活を大事にしていきたいと思います。
そして何より柴設計の柴さん、藤田工務店の藤田さん、棟梁の金丸さんをはじめ工事に携わって下さったすべての皆様へ、本当にお世話になりました。両親もとても喜んでおりますし、私たちもいつか暮らせる日を心待ちにしています。ほんとうに感謝申し上げます。ありがとうございました。
3 家 造 り 体 験 記 (延岡市 野田の家)
(職場文集 2007年5月掲載)
家造りというと、皆さんもご存じの田野町にあるSさんのログハウスです。10年の歳月をかけ、ご自分で造られたということで「すごい」の一言です。これに比べると私の家造りなど足下にもおよびませんが、家造りの一つの事例として紹介できればと思います。
私は32歳ぐらいから趣味として子供の学習机などの家具づくりをしていたので、将来自分の家も自分で造れたらいいなと思うようになりました。しかし建築の技術を勉強をするためポリテクセンターに通ってみると、さすがに家を造るということがどれほど大変な作業なのかがわかり、自分で造ることはあきらめました。ただ当時からログハウスの本やウッディーライフなどの本を読んでいたので、家を造るなら木の家、それも合板などではない無垢の木の家を造りたいと思っていました。
私が家を建てようと計画を始めたのが2001年、41歳の時です。まず最初に家造りに関する本をいくつか購入し、家造りの勉強を始めました。その中で農文教から出ている『木の家に住むことを勉強する本』に私は釘付けになりました。これこそ私が理想としている家造りについて書いてある本でした。
そこには日本の材木を使った伝統的な家造りとその技術を引き継ぐ職人さん達が紹介されていました。また日本の材木市場の危機的な状況(現在、杉の立木の値段は40年前と同じである)も書いてありとても驚きました。ただこのような私の理想とする家を造ってくれる人が宮崎にいるのか心配になりました。
ところがその本の中にこのような家造りに取り組んでいる全国の業者を都道府県ごとに紹介しているページがありました。ドキドキしながら宮崎県を探すと、一業者だけ載っていました。そうです、我が家を設計し、完成まで導いてくれた『柴設計』でした。
今思うとこの出会いがなければ、今の我が家はなかったかもしれません。それから2001年4月に電話をし、わたしの家造りの思いを伝えました。柴建築士の印象は、とても穏やかな口調の方で真剣に私の話を聞いてくれました。私は、当然柴建築士が家造りについて具体的な話をするとばかり思っていたのですが、驚いたことに最初に言われたのは「木を見に行きませんか」というお誘いでした。
どういうことかというと、「家の主材料である木がどのように育ち、どのような過程を経て家づくりに使われるのかを実際に見てみませんか。」と言われたのです。さすがに最初は驚きましたが、『木の家に住むことを勉強する本』の中にも同じようなことが書いてあったので、とても興味がわき、行くことにしました。
場所は、諸塚村、ここでは諸塚村と森林組合、ウッドピア諸塚の共同プロジェクトとして1997年度から産直住宅(「九州の家は九州の木で」を合言葉に地域材を使った安全な家造りをめざした事業)に取り組んでおり、2006年3月31日現在で九州を中心に105棟の実績をあげています。
2001年7月、諸塚村の森林組合で柴建築士と待ち合わせ、森林組合の工場長の車で材木を山から切り出す現場や加工センター、柴建築士が設計したモデルハウスなどを見学しました。
この体験を通して『木の家に住むことを勉強する本』の中に書かれていたことと同じようなことを見聞きするうちに、このような家造りをしたいという気持ちが強くなっていきました。その後柴建築士が設計され、諸塚村の産直住宅で建てた家を4棟見学させていただきましたが、家主の方々は大変満足しているようでした。
それから年が変わり2002年4月、転勤により高千穂町から出身地である延岡市に引っ越してきた私は、本格的に家造りに取り組み始めました。早速翌5月には柴建築士と設計及び施工管理の契約を結び、これからの家造りについて具体的な打ち合わせに入りました。
これ以降、設計図が完成するまでの柴建築士との打ち合わせは、日数にして32日、時間にして約112時間(1回あたりの平均打ち合わせ時間が3時間30分として)、期間にして1年1ヶ月にもなりました。
この長期間にわたる打ち合わせの中で感じたことは、柴建築士の誠実さであり、1級建築士としてのレベルの高さでした。大学等で建築学の講師をされるなど多岐に渡って活躍されており、私の様々な質問・要望に対して、いつも丁寧かつ誠実に答えていただきました。また、打ち合わせ期間中も諸塚村には柴建築士と何度か足を運び、家造りに使う杉材や梁に使う松材を山まで行って決めてきました。
家造りにおいて、木材の乾燥度はとても重要(乾燥してる木材ほど狂いが少ないため)で、諸塚村では施主の方に早めに使う木材を決めていただき、できるだけ長い期間乾燥させた上で提供しています。ちなみに我が家の杉材は、ちょうど1年間乾燥させました。それでも家ができて1年目は木の割れる音(パキーン)がしたので、できれば2年間乾燥させるといいかもしれません。
続いて施工業者の選定です。設計図が完成した2003年7月、5つの業者に見積依頼をしました。2社が私、3社が柴建築士が選んだ業者でした。見積書を見てびっくり。柴建築士から話は聞いていましたが、これほど金額に差が出るとは驚きです。
なんと一番高い業者と一番安い業者で1,800万円の違いがありました。これを見て、一般的な家造りの方法(業者を決めてから家を造る)では結構高く購入しているのではと思いました。その後、さらに県内大手3社に見積依頼をし、8社の中で一番安かった日向市のN工務店に決めました。
N工務店はこれまでも柴建築士の物件を数件扱っており、その点でも安心できる業者でした。それでも見積額が私の予算を超えていたので柴建築士と仕様の変更等(設備のグレードを下げるなど)を行い、再度N工務店に見積りを出してもらいました。この作業の中でまたまた驚きがありました。
柴建築士が業者から出された見積書のすべての項目ごとに単価を安くできないか交渉をしてくれており、総額140万円値切ってくれました。この中には我が家を気に入ったからと業者から無料でいただいたもの(30万円相当)もありました。
おかげで当初の仕様に対して、屋根とシステムバスのグレードを下げただけで予算内に納めることができました。もう一つ予算を安く上げるためにしたことが、自作です。ひのき材を使って洗面所の脱衣棚、靴箱の扉、台所の調理台等を作りました。おかげで今まで購入した木工道具代(約150万円)の半分ぐらいは浮かせたかもしれません。
ここで、我が家の仕様についてこだわりをいくつか紹介させていただきます。喘息の子供がいるので、まず安全な素材にこだわりました。屋内は洗面所及びトイレの床と台所の天井を除き合板やクロス張りなどを一切使用せず、無垢の木(諸塚産直材)と塗り壁(中霧島壁)仕様にしました。
そのため窓硝子が結露したこともなく、トイレのアンモニアの臭いもありません。家を閉め切って2,3日留守にしても家の中の空気が新鮮で、とても気持ちがいいです。
また、私たち家族は気がつかないんですが、我が家に来た人はよく「木の臭いがする」と言います。家が出来た頃、子ども達が友達から「おまえは木のにおいがする」と言われたそうです。
それから、家自体が呼吸できるように外壁も7割は塗り壁にしました。これにより、夏涼しく(ただし、外気温30度ぐらいまで)冬暖かい家(朝、屋外が氷点下でも室内は13度ぐらいあります)になりました。次に、バリアフリーです。階段と屋外からの出入り口を除いて、屋内全域にまったく段差がありません。お掃除の時も便利です。
そして、すべての部屋の出入口を引き戸にしました。これは、広さがあまりとれない日本の住宅事情においては最高の建具の一つだと思います。閉めていても開けっ放しにしてもまったく邪魔にならず、車いすの生活でも問題がありません。
もう一つが「薪ストーブ」です。北国ではよく見かけるかもしれませんが、宮崎県ではわずかしかないと思います。本当に暖かく、薪の炎は心を落ち着けてくれます。燃料である薪づくりは大変な作業ですが、家族総出で楽しんでやってます。
冬になると、薪ストーブの周りには家族みんなが集まり、家族団らんに一役買ってくれてるようです。また我が家の薪ストーブはオーブン仕様になっており、妻がパンやピザを焼いたり、スープやシチュウなどを作るのにも使っています。
さて、施工業者も決まり、いよいよ着工です。2003年9月に地鎮祭を行い、建築が始まりました。11月には上棟式(棟上げ)を行い、もちまきも経験しました。建築中も2週間に1回の割合で、私と柴建築士と施工責任者の3人で打ち合わせを行いながら進めました。家も完成に近づいてくると様々な細かい打ち合わせが必要になり、大変でしたが、細かいことまですべて3者確認をしたうえで進められたので、納得のいく家造りが出来たと思ってます。
そして2004年2月末日、当初の予定どおり施工が完了しました。その後、私と柴建築士と施工責任者の3人で完成検査を行い、30数カ所の手直しを経て、3月17日EAUの皆様にお手伝いいただき、無事新居に引っ越しました。
それから3年が経過しようとしていますが、入居後も細かい所まで入れれば50カ所近く手直しをしていただきました。もちろんすべて無料です。2004年9月の台風の時は、桧の樹液がしみ出して塗り壁が変色したことがあったのですが、最初は塗料が原因かもしれないと大阪本社からメーカーの担当者に来てもらったこともありました。
以上のように私の家造りは、最初にも書きましたが、柴建築士のおかげで本当に満足できるものになりました。よく家造りにおいては業者とのトラブルについて聞きますが、私は全くと言っていいほど何もありませんでした。すべて私の要望は柴建築士が業者に伝えてくれるし、業者も柴建築士から言われたことは必ず実行するという感じで、本当にストレスなく家造りを楽しめたと思っています。
最後になりますが、ほとんどの人にとって「家」は一生において一度かつ最高の買い物だと思います。これから家を建てようと考えている人は、後悔のないようじっくりと時間をかけて、楽しんで家造りに取り組んでいただけたらと思います。
4 柴設計の住まいづくり考 (宮崎市 古城の家)
5 宮崎市 海の見える家 建築主へのインタビュー
出会い・ホームページは時代のツール
海の見える土地探し
半世紀ぶりの帰郷
ホームページはビジネスチャンス
やりとりはインターネットで
宮崎の木を使った家づくり
敷地の使い方、アプローチの変更
終の住処
住まいの計画
ここは誰が掃除するの・・
イルミネーション
室内の暖房・照明
施主と建築家・非日常と日常
ブログを使って施工状況の報告
建築家と現場との距離
家での楽しみ
お友達・家族との楽しみの住まい
開けたが勝ちよ
台風・・・
柴
今日はよろしくお願いします。
宮崎家づくり塾で今度制作するホームページ上に、県外から移住をされた方のお話を紹介するページを作る事になりました。本日は、平成17年に出会いがあり、昨年(平成20年)の夏に完成しましたM邸のMさんご夫妻に色々なお話をしていただきたいと思います。インタビュー担当として、塾メンバーの松竹さん、そしてホームページ作成をお願いしている柳本さんに、お願いします。とりまとめは私の方でやりますから、ご自由にお話しください。
松竹
インタビューというのは、日頃やっている訳ではありませんので、今日は雑談をさせていただきたいと思いますので、よろしくお願いします。
「出会い・ホームページは時代のツール」
M氏
柳本さん、ホームページづくりという仕事は、宮崎で成り立ちますか。
柳本
そうですね、(笑い) 成り立たせようと今がんばっています。
M氏
実は、僕も、13年前(1996年代)まだホームページがめずらしかったころ、ある新聞社の公式ホームページの編集長をやっていましたのでご苦労は良く分かります。
柳本
それでお詳しいのですね、書斎にホームページの本がおいてありましたね。
M氏
現役ではありません元ですよ、初期の時代です。制作業者もそんなになかった頃ですね、ホームページがまだ珍しい時代ですから、ウェブデザイナーを育てながら運営をやっていました。一人でがんばっている人は何となく応援したくなります。
柳本
ありがとうございます。
松竹
僕も一人なんですけど。(笑い)
M氏
まあ設計士は多いのかしれませんね。
柳本
女性で一人でやっているという人はなかなかいませんね。
M氏
家造りとぜんぜん関係ないけれど、当時、宮崎東中同窓会というホームページがありました。今でもあるか不明ですが、ここの主催者が柳本さんと同じような仕事をされていました。同窓会でいろいろと苦労話をした記憶があります。
柳本
宮崎、結構狭いので、だいだい顔を知っているのですよ、名前をお聞きしたら知っている人かも知れません。お互い、情報交換をしたり、協力し合ったりしています。
M氏
しかしね、家造りでは、ホームページは今の時代とても重要なツールになっていますよ。
松竹
ふーん、いかんな。
M氏
僕は、柴ちゃんのホームページを偶然見つけたのですけどね。その中で、冒頭の「家づくり塾」で4人の設計士がグループを組んで活動していると・・・あなたのホームページの中で見ていました。今回の話を聞いて、あのグループのことだなと思いました。ただし、ホームページ上ではその後の更新があまり無いような気がしますが・・・。
柴
グループとしての活動は確かに少なくなりました。
M氏
初期の頃は、あなたの髪の毛がまだ黒々としていましたよね。多分、松竹さんも載っていましたね。
松竹
そうですね、まだ若い頃の写真がのっていたと思います。10年も前だったら、
M氏
僕も、柴ちゃんに設計依頼のコンタクトをとる以前から彼のホームページは知っていました。彼以外の宮崎の建築家2~3人のホームページもチェックしていました。中身を見ながら設計した建物の写真を見ていましたよ。すごい家もありました。要は、フィーリング合うか合わないかだけでしょう。それで、ズ~とチェックしたのは事実ですね。
「海の見える土地探し」
松竹
まあ、遠くて、距離がありますから、やむを得ない事ですね。近ければまた違うのかもしれませんけれど。でも、もともと宮崎のご出身なのですよね。東中と言われていましたから。
M氏
そうです。それこそ宮崎に家を建てようと思って、土地探しから始めました。土地探しを開始して、たまたま一番初めに見たのがここなのです。
松竹
でその他にも見られたのでしょう。
M氏
もちろん見ました。土地探しに、不動産屋さん2社か3社かに声をかけていました。要件は明確に伝えたつもりなんですよ。最大要件は海が見える事、二つ目は生活するための基本インフラがそろっている事、まあスーパーや病院など。
松竹
そうですよね、誰でも一緒ですけど、これから先だんだんと年をとっていきますから。
M氏
そうそう
松竹
病院が近いとかですね。
M氏
まず、第一条件は海が見える事、その次は基本インフラがそろっている事、そして、あまり明確に伝えなかったのは、交通機関です。この三つの条件で土地探しを開始しました。そうしたらね、宮崎の人はおおらかなのでしょうね、要件なんか全然気にせずに違う所に連れて行ったりするのですよ。
松竹
「ちゃんと、僕の話聞いてくれた」という感じなのですね。いやそんなところがあるかもしれませんね。
M氏
要するに不動産屋さんのほうで、どんどん連れて行く、確かに海が見える所もありました。日南海岸の堀切峠から向こうの所、昔のサボテン公園の近くだったかな、崖があって別荘がいっぱいあるじゃないですか。
松竹
貼り付いて建っていますね。
M氏
「ここはインフラがだめじゃないの」と言いました。
松竹
週末のお家にはいいのかもしれませんけれど。
M氏
街中もたくさん連れて行かれました。街中では海は見えませよね。
松竹
じゃ、条件に合うのはここしかなかったのですか。
M氏
海の近くはありました。青島の方ですね。歩いて海に行ける所が、見えはしないのですね。
松竹
やっぱそうなんですね、ちょっと高台で見下ろすくらいがいいですよね。
M氏
これはしょうがないな、佐土原の方かなと思ったのですがね、田島の方に地図で見たら高台があるのですよ。あっちかなあと思ったのですがね。インフラが今一ですね、あっちの方は。
松竹
この団地は県内でも有数な団地ですからね。
M氏
そう、インフラはそろっていますからね。ただし交通機関がちょっとですな。
柴
確かにそうですね、ただここは駅が近いからいいですよ、私の所はだいぶ遠くなりますよ。
M氏奥さん
そうですよね、先生の所からするとだいぶ遠いですよね。倍くらい、いや倍と言わないくらいありますよね。
M氏
駅まで、ここからだと10分かからないですよ、坂を下りて行けばすぐですからね。
松竹
普段は何を使われているのですか。
M氏
車です。
M氏奥さん
私は原付バイクです
松竹
奥さんのバイクなのですね。
M氏奥さん
バイクが一番便利ですよ、最近ではあそこまでいきましたよ。まなび野
柴
ああ、まなび野。
M氏奥さん
やっと見つけました。以前建設中に見学したAさんの所、地図で見つけていたのです。前の前の土地がまだ空いていましたよね。
「半世紀ぶりの帰郷」
松竹
ところで、どのくらいの時に宮崎を出られたのですか。
M氏
15才の時です。半世紀ぶりに帰ってきたんです。
松竹
ご家族の転勤とか言う事ですか。
M氏
私だけです。
松竹
ああそうなんですか。もし聞いてよければ、どういった理由で15才から出られたのですか。
M氏
高等学校からでました。
松竹
それは自分の意思で出ようと思われたのですか。
M氏
はいそうです。
松竹
今、ご親戚とか、ご両親とか宮崎にいらっしゃるのですか。
M氏
両親はもう亡くなりましたけど、親戚はいますよ。僕は江平小から東中ですから。もう50年になりますね。半世紀ぶりに帰ってきました。
松竹
それじゃ、もう1回、最後は宮崎に住もうかと、ふるさとというのはもちろんあるでしょうけど。他にも、条件はあったのですか。
M氏
宮崎に住もうと思ったのは、基本的にはふるさとであるということと、気候が穏やかですよね。
松竹
たしかに生活しやすいですよね。
M氏
正に、環境を含めてその生活しやすいというのがあります。もう一つは、我々はもう年金生活ですから、物価が安いということ、それこそ福岡と比べたら多分2割くらい安いですよ。.という事は年金2割増と一緒ですよね。
松竹
まあ、そういうことですね。
M氏
あらゆる面で住みやすいという意味ですよ、それで宮崎かなあと思ったんですよ。家内もたまたま宮崎出身ですから。
松竹
出会われたのは、都会で。
M氏
いいえ、江平小学校1年の時から知っています。
松竹
幼なじみですか。はあ、やるな。奥さんはズーと宮崎におられたのですか。
M氏奥さん
いえ、親が転勤族で、私の方が早く宮崎を出ていました。
松竹
はあそういう事ですか。じゃ実は、追っかけていかれたのですか。(笑い)
M氏
いや、偶然ですよ。小学校一年生の頃お遊戯した仲間です。5年生6年生は同級です。
松竹
あらら、あらら・・・・
M氏
中学校になった彼女は父親の転勤で宮崎を出ましたが、行った先で再会しまいましてね、偶然ですよ。
柳本
偶然会うんですか。
松竹
それは東京とか大阪とかですか。
M氏
熊本です。それからお互いバラバラでしたけど、まあ.。
柳本
すごいですね。
松竹
奥さんは宮崎に何年くらいいらっしゃったのですか。
M氏奥さん
中学校の一年の夏までですね。
M氏
両親も宮崎出身ですしね、西都出身です。私の両親は宮崎にいましたけど、結局私が帰るまでは長生きできませんでしたね。
松竹
そうですか。
M氏
兄弟もまだ宮崎に住んでいます。親類はたくさんおりますよ。
松竹
まあ、でも、全く見知らぬ土地というのは不安ですよね。
M氏
ただね、半世紀ぶりに帰って街を歩きよると、分からんですね、まるっきり違うですね。
松竹
え、それはまちが変わって分からないと言う事ですか。
M氏
そうです、50年振りですから。
松竹
50年前はどうだったんですか、ちょうど僕が生まれたぐらいですね、今52才ですから。
M氏
50年前は駅の東側は、昔は芋畑や刑務所やらがありました。柴ちゃんの事務所の方ですね。
松竹
僕の事務所は刑務所のすぐ近くなのですよ。
M氏
線路から向こうには、行ったらいかんと言われていました。
松竹
そういう所だったと思います。
M氏
それから今はすごいことになっているでしょう。駅から斜めに江平の方に抜ける道があるじゃないですか。あの辺の町名がえー!と言う感じですね。町名は覚えています、丸島町とかですね。昔、東雲町というのがあったのですよ、今もう無いですね、東の雲と書いてですね。ちょうど宮崎東中学校の前あたりだったのですよ。
松竹
良い名前ですよね。
M氏
良い名前が消えているのですよ、東に雲と書いて「しののめ」、万葉集にも出てきますよ。
松竹
実は、僕は広島に行っていたのですけど、広島には東雲という所があるのですよ。
M氏
せっかくあった地名が橘通りに統合されている。寂しいですね。
松竹
あの僕の話しをしてもしょうがないのですが、家内とは大学で知り合ったんですよ、広島大学を出たのですが、教育学部は東雲という所にあるんですよ。
M氏
実は息子も広島大学なのですよ。
松竹
ええそうなんですか。驚いた。
M氏
広大だったのですか。
松竹
広大だったのですよ、ああそうなんですか。ところで学部は?
M氏
次男坊なんですけど、何か知らんけれど、今は鹿児島で先生をしています。
松竹
じゃ教育学部ですね、家内と一緒ですね、歳が違いますけど。
M氏
そうでもないですよ、35歳ですから。
松竹
随分違いますよ、僕は52歳ですから(小声で)。
M氏奥さん
ええ若いですよね!
柳本
見えないですよね。
松竹
ありがとうございます。柴さんと近いんですよ、なんて.。
M氏
柴ちゃんはおいくつですか。
柴
55歳です。
松竹
3つ違いです。
M氏奥さん
松竹さん、酉年でしょう、
松竹
酉年ですよ、すばらしい計算ですね、一回りですか。
M氏
一回りかな。
松竹
ふた回りだとだいぶ違いますよ。
「ホームページはビジネスチャンス」
M氏
ああそうか、僕もウェブをやり始めたのが51歳くらいですよ。
松竹
すばらしいですね。
M氏
51歳の時、当時の社長に呼ばれて「ホームペーシといのがある、ちょっと、それを作れ」と。
柴
北九州にいらっしゃる時ですか。
M氏
そうです。いきなり「お前ホームページ作れ」と言われたのです。「えっえっ!・・スタッフは?」と聞いたら、「自分で集めろ」と言う。どうすれば良いか分からなくてね、それから一生懸命ホームページを見たのですよ。どういう仕掛けになっているのか五里霧中でした。作れる人を集めなければしかたがないじゃないですか。それこそ、柳本さんみたいなお嬢さんをスカウトして来たのですよ。
M氏
商売でホームページを一生懸命見ていたら、たらたまたま柴ちゃんに出会ったのですよ。
松竹
それは、良い出逢いだったですね、
M氏
先程も言いましたが、宮崎の建築家で最初に見つけたのは柴ちゃんです。他の人のも何人かは見ていました、モニターしていました。柴ちゃんのホームページは綺麗に作ってありましたよ。
松竹
充実していますよね。
M氏
そう、それもビジネスチャンスに広がる一つのケースですよ、そう思いますよ。
松竹
なにせもう、マメですから。
M氏
あの世界は更新しなければ客は離れますからね。
松竹
作るのは、やめようかなあ(笑い)まめで有名な柴さん、
M氏
そうでしょう。
松竹
ルーズで有名な松竹ですから。
M氏
ところでね、今でこそ、バラしますが、十数年前の九州のニュースサイトは、一日1回程度しか更新しなかったのですよ。だから、急に大事件が起こって更新をしたくても、スタッフが帰ってしまったら、もう出来ないわけですよ。
松竹
まあ、そういうことなのでしょうね。
M氏
そんなことは人に言われんでも、分かっているのですけれど、社内でもよく言われましたよ「お前のところニュースは古いな、ウェブの意味がない」と。
柳本
10数年前でそう言われたのですか。
M氏
10数年前、一日1回、ニュースを入れ替えるのがやっとでした。政治、経済。社会、文化、スポーツ等あらゆるジャンルを全部変えようと思ったら、すごく時間がかかります。スタッフがたくさん居れば出来ますが、コスト以前に、人を集めること自体が困難でした。
松竹
それでもすごいですよね。
M氏
毎日更新ですからね、あらゆるジャンルを。
柳本
地元紙でも最近ですよね、更新が随時になったのは。
M氏
当時は、ニュース速報なんてとんでもないですよ、はっきり言って。新聞より遅いのですよ。
松竹
なるほど
M氏
新聞は朝刊と夕刊でニュースを繋いでいきますが、新聞を越え、一日3回以上更新する、本当にウエブらしくなったのはそれから4~5年後だと思いますよ。九州では。
松竹
僕がのんびりしていた時に、そんなに早いスピードで動いている社会があったのですね。「ニュースなんて一日に1回見ればいいわ」なんてことですからね。
M氏
そういうお客さんばかりではないですね。電話をかけてくる人がけっこういました。例えば、「青森で交通事故が起きているけれど、まだお宅のホームページにはまだ載っていない」と。「分かっています!今猫の手も借りたいくらいなのです」とお答えしたい気持ちでした。(笑い)。もちろん実際には言いませんが。
松竹
その当時どれくらいの人が見ていたのでしょうかね。
M氏
結構いたと思います。電話も多かったから。個人のホームページだったらそういうことはないと思うのですがね、新聞社のホームページのアクセスは多かったと思います。電話はその比例だと思います。まあ公共性の強い民間企業だから仕方ありませんが.。
松竹
そうですよね。そういうのに、業務上ですけど、長けていたというのがあって、いろんな情報を取り入れるということでは、チャンスが広がったんですね、それは家づくり以外のことでも、そうなのでしょうか。
「やりとりはインターネットで」
M氏
そうですね、家づくりの時に、インターネットというツールがなかったら、僕は宮崎に家が建てられなかったかもしれませんね。まず柴ちゃんを見つけたということが1つ、それは、そのツールで見つけたということです。それと、たぶん彼からお話をきいていただくなり、それを見ていただくと分かると思いますが、ここの家そのものを作る時でも、そう何回も帰っていないのですよ。私の記憶ではたぶん3回くらいかな。
松竹
なんか、そういうふうに書いてありますね。
M氏
書いてありますか、いや建築中にということですよ。
松竹
2ないし3回と書いてあった気がします。
M氏
それはね、たぶん普通だったら出来ませんよね。まあ、設計士に完璧に任せるのであれば別ですよ。
松竹
まあそうですね。
M氏
結構、言うことを聞かないものですからね。(笑い)
松竹
まあたいへん有り難いお客さんですね。(笑い)
柴
最終の検査を含めて8回現場打ち合わせをしていますね。
M氏
ああ、そんなに帰っていますか。うち2回は検査ですよね。3月ころから建築でしょう。
柴
3月29日が上棟式ですね。
M氏
ああそうだったのですか、頑張って帰って来ていますね。週例会とかのレベルだと無理ですよね。
松竹
それは無理ですよね、そういう意味では信頼関係ですよね。
M氏
その時にだからメールでやり取りしていました。電話は、彼も僕も留守が多いですしなかなかコンタクトが取りづらい。メールというツールでお話をしました。まあ口だけではなくて、その方が形に残りますからね。
松竹
そうですね、記録に残りますからね、
M氏
メールというツールは非常に良いと思いますよ。彼からは図面は送ってきますから、図面をチェックしてから、こう変えて欲しいというのはほとんどメール、又は添付ファイルで送りました。必ず形が残るようにするという点でも却って良かったですよ。
松竹
それは、たまたま業務上長けていたから出来る訳で、宮崎に戻って家を造ろうかと思っている、同じくらいの年代の人で、それが出来る人というのはなかなか厳しいのかもしれませんね。
M氏
今からの時代は、逆に出来る人がいっぱいいるわけですからね。
松竹
これからはですね。
M氏
僕は、建築家のホームページをかなり充実させておいた方が良いと思いますね。絶対見ていますよ、団塊の世代を含めて。あの年代以降の人々が定年を迎え、年金年齢(65歳)に近づけば、私同様のことを、都会で思っている人がいっぱいおりますよ。今は逆にチャンスじゃないですか。ホームページを充実させておくというのは、玄関の入口を広く開けておくのと一緒ですよね。
松竹
なるほどですね。逆に言うと、どうですか、柴さん、こういうすばらしい方との出逢いもあるけれど、もう冷やかし的なものというのはないですか、
柴
冷やかしというのはないですね、メールで問い合わせをされる方はみなさん真剣に考えている方達ですね。今うちのお客さんを考えると、インターネット関連では半分くらいはありますね。
M氏
だから、今は、ホームページは建築家のショーウインドーと思った方が良いですよ。
松竹
そうなんですね。
M氏
個人企業家にとっては。だからあれはどんどん充実させていったらと思いますね、あれは、実態がなくても店が大きく見えますもんね、うまく作れば。(大笑い)
松竹
そうか、そうですね、事務所が汚れていても綺麗に見えますね。
M氏
その時だけ片付けて写真とれば良いわけですからね、それとね、ホームページの文章は長く書くと駄目ですね、読んでくれません。グラフィックで見せないとだめです。文章はチョコットで良いのですよ。我々の専門用語で絵解きといいますが、文章は絵解き程度で良いと思います。例えば説明文は3行以上書かないと、自分に課せば良いのですよ。そのかわり画面が重くなりますよね。写真を一杯にするとデーターが重くなるから、その作りを何とか工夫することです。ワン画面でパッと出る形で見せないとお客のストレスが溜まりますからね。ワン画面の総データー量が一定量を超えないようにしておくとか、常にレスポンスを気にして作成することです。繰り返しますが、建築家にとってホームページはショーウィンドーですよ。今から特に。
松竹
ん.ガンバロウ。
M氏
多分、県内の方も多く見ていますよ。最初の印象が大事なのですよ。トップページからの何ページかは、「ああこの家良いじゃない」と思わせないといけないのですよ。自分の感性に非常に近いなあと思わせないといけないのですよ。
「宮崎の木を使った家づくり」
松竹
一番感性に近いと思った所はどういう所ですか、柴さんのを見られて。
M氏
木かなあ、木使い、木でしょうね。
松竹
宮崎において、家を作ろうと思われた時に、最初から木で作ろうと思われたのですか。
M氏
そういう事ですね、もう1つは、あるエッセイで読んでいたのですか、家というのは、食べ物の地産地消と同じじゃないかなと考えました。何キロ以内の食べ物を食べていれば病気にならないというじゃないですか。あれと同じように、その地方に育った木を使った方が、基本的には丈夫なんだという。法隆寺を再建された、ええとあの大工さんは誰だっけ・・・。
柴
西岡常一さんですね。
M氏
そうそう、西岡さん、西岡さんのエッセイにも書いてありましたね「木は生きている。樹齢1000年の木は1000年持つ」と。なんとなく宮崎県の材料を使って建てたいなあと思っていたのです。もともとはね、そうしたら、たまたま彼のホームページの中で同じ様な考えでやられている、木もたくさん使っていらっしゃるし、ちょっと意外だったのがあの小屋根だけだったですね、なんで付いているのと最初は思っていました。
柴
越屋根ですね。
松竹
ここに来て、何でここに2つも付いているのかと思ったのですが、これだったのですね。(笑い)これの為にあったのか。きのこが生えているのかなあと思っちゃいますよね。でも、これがお家の特徴になっていますよね。
M氏
シンボルになっています。柴ちゃんが設計した家だなあというのがすぐ分かります。これね、正直妥協したのですよ。(笑い)
松竹
柴さんの家にはどこでも越屋根が付いているなあ。
M氏
そう、ある大工さんが「現場で屋根に上って仕事をしていたら、何軒か先に越屋根の家が見えたので、あれは柴さんだとすぐ分かった」と言っていました。(笑い)
松竹
そうですね。なるほどね、そういう個性が見えるというのも良いことなのかもしれませんね。
M氏
これはね、「もうしゃないわ」と思いました。
松竹
「しゃない」ですか。(大笑い)
M氏
換気は必要だと思うんですよ、効果的だと思います。だけど手法はいろいろとあるじゃないですか、壁の間を通す方法も最近ありますよね、積極的に壁内を通している家もありますよね。色々と方法はあるわけですよね。
松竹
その機能性と形とは別ですからね。
M氏
これは、柴さんに頼んだ以上は、これは「しょうがない!」と。(笑い)
松竹
他にしょうがないと思ったことないですか。(笑い)それを聞いておきたいなあ。
M氏
後はね、あんまり言うことを聞かなかったつもりなんですよ。例えば台所の流しの延長線上に、彼はよくテーブルを作り付けていますよね。
松竹
ああ、良く作り付けで作っていますよね。
M氏
僕は作り付けの家具というのは、悪い話ではないと思っているんだけれども、ただ、それで自由度が制限される気がします。レイアウト変更は改装せん限りはできないし。
だからはテーブルというは僕個人の生活のなかでは、家具の方がいいと思っている、例えば、あの丸いテーブルもそうなんですけれど、あれは今朝までは僕の部屋にあったんですよ。
松竹
ああ、今日は気持ちが良いからこっちに持ってこようと、
M氏
そうそう、これもそうなんですけれど。
松竹
今日は月明かりが良いからちょっと窓際に寄せようとか。
M氏
昨日は中秋の名月で、ここからの眺めが素晴らしかったのです。東の窓中央下部から月が上がってくるのですよ。昨日はテーブルを東の窓に寄せて、西側に二人で座って食事をしました。
松竹
良いですね、二人こちら側に座って、名月を見ながら食事をするのも、家にはそういう融通性というは大切ですよね。
M氏
僕は、基本的には作り付けというのは、例えば、そこに食器棚がありますが、最低限は必要だと思っています。しかし、その生活年代によりニーズは変わります。例えば、車いすになり、広いスペースが欲しい時には、家具を捨てるなり、レイアウトを変えるなりする。だから基本的には作り付けのものは少なくしようと思っていたのですよ。
M氏奥さん
それもあったけれど、すでに家具を持っていたからですよ。
M氏
そう、持っていてそれを大事にしていましたから、それを使いたかったです。
松竹
そう、それはとっても大切な事ですよ、その方の想いもこもっているし、趣味がそこではっきりするし、私たちは手だてが見えやすいです。お宅に相談に行って、「好みの家具なんてありませんから、これ全部捨てますから」と言われると、それも困るんですよね。実際、千円か、二千円のユニット棚をおかれていると、この方はどういう感覚で、物の価値を感じているのかと、思ったりしますよね。でもはっきりと「私この家具が好きなんです、だからこの家具だけは絶対」とかいうのがあると、それを僕たちはよりどころにしてお家が作れるのです。さっきもちょっと聞きましたけれど、こういう色合いというのは、絶対、そういう所からきているのだなあと思いました。
M氏
そうそう、これらは全部持っていた家具なのですよ。逆にそれを生かそうとも思いましたしね。
松竹
落ち着いた良い色ですよね。
M氏
昔から使っていた家具を大事にしようと、もちろん机もそうなのですけれど、それをしようと思ったので、先生から最初に出てきた図面はもちろん参考にしました。もちろん良いところもいっぱいありました、正直言って「さすが専門家だな」と思う所もありました。こちら東側入り口、もともとこっちが敷地的にはそうだったのですよ。
「敷地の使い方、アプローチの変更」
松竹
そうですよね、こちらが下がっているからこの方が入りやすいですよね。
柴
そこに、切り込みと車庫スペースが、階段とあったんです。
松竹
造成した時から、そういうのがあったんですね。
M氏
ありました、それで売り出していたのですね。
柴
ただ、そっちが2メートルの高低差があったんですよ。
松竹
え、それは今なくなっているのですが。
柴
いや、一台分だけ残してあります。階段とかはつぶしました。
松竹
それは、良いですよ、予備として使えますよね。
柴
一台分だけ残し、カーポートを設置しました。
M氏
あれは、大成功だったですよね。お隣への圧迫感がないのですよ、お隣の車庫の隣にうちの車庫があるのですよ。これが、もしうちが車庫じゃなくて土盛りをしてしまったら、向こうはもう一つ暗くなりますよね。圧迫感もありますよね、あれね、僕は良かったと思いました。
松竹
でも、すごく良いと思いますよ、奥さんにしてみればここに立っていると、ご主人とか来る人の気配が分かりますよね、こっちだとわかりませんよね。
柴
それと車いすの問題というのが最初から出ていたのですよ、車いすでの生活を考えた時の2メートルの高低差とこちらの1メートル若の高低差ですよね。こちらだと後々スロープの設置ができるのですよ。
M氏
それは、常に考えていましたね。
「終の住処」
松竹
こうやって宮崎に帰ってこられるとか、また行くでもいいのでしょうけど、終の住処として考える事が、いいという事でしょうね。条件は、かなり宮崎は整っているという事でしょうね。
M氏
インフラ上は絶対良いと思います。宮崎は、終の住処として、ここは常に終の住処のつもりで作りましたので、部屋はともかくとして、通路だけは最低1200は確保しようと思いました。何があっても良いように。基本的にどこの通路も、そこははずせますから、1200はとってあります。
松竹
それがまた、お家の中の開放性につながり、通気につながります、みんな良い事ばかりですよね。
M氏
ただ、やっぱり三家族くらい集中して帰ってきたらね、寝る所がないんですよ。(笑い)広さばかりあってね、良いじゃないかそこ辺に寝とけよと、まるで合宿ですわな。
松竹
いや、それがまた楽しいのですよ。
M氏
楽しいですよ。僕は良いですが、家内は「そういう訳には行かない」と言うのです。しかしね、だいたい小学校高学年からから中学校くらいの子はね、おまえ、そこに寝ろと言うと、喜びますよ。
松竹
いや、そうでしょう、夏なんか帰ってきたら、キャンプ気分でここに寝ますよね。
M氏
そう喜びます。僕はそれで良いと思っています。年に何日かの話でしょう。
松竹
何もかもできるように、しつらえたお家よりもちょっと工夫するとかね、そういうお家の方が楽しいですよ。
M氏
この辺に寝たって良いですからね。布団敷いてね。
松竹
平気ですね。かえって思い出になっていいですよ。でも、もしバラバラのお客さん用の部屋があってもしそちらに寝たら、なにも面白くないですよ。こういう所でねっころがって夜遅くまで話をしながら.というのが良いですよね。
M氏
僕はそう思っている。最悪ね、女部屋と男部屋だけ確保しようかと思っているのですよ。それで良いじゃないかという思想ですよ。
松竹
ずっと良いですよ、世代間のつながりができて、おじいちゃんの家に行ったけれど、ぜんぜん別の部屋で、おじいちゃんとおばあちゃんは別の部屋で、早く休んじゃうし、面白くないね。何の思い出もない、それよりもこんなところで、みんなでゴロゴロしていた方が、「ああしたよね、こうしたよね」って思い出がたくさん残りますよ。お家というのはそういう思い出がしみ込むお家の方が良いですよね。
M氏
と、僕も思うのですよ。
松竹
それには、こういう木とか、こういう土とかは何となくそういうムードを盛り上げてくれますよね。いや最高ですよね。それと、このロケーションと。
M氏
家族がね、子供達とその連れ合い、孫、全部入れると12人になるのかな、去年の夏は全員集結しました。お正月は何人か欠けましたが。だから実際泊まる時には、だからきちんとした所に寝たいと思っている奴がいたら足らんのですよ。
(大笑い)
松竹
そいつだけ布団もってむこうへ行けっと、(笑い)
M氏
足らんのですよ、ああそうか、広い割には寝る所がないなあ、感じています。
松竹
ここは何坪くらいあるのですか。ああ39坪くらいはあるのですよ、そこそこ大きいですね。
M氏
大きいんですよ、平屋ですしね、ところが実際、和室は一つしかないし、それに柴ちゃんの6畳は小さいですからね。
柴
910モデュールですよ。
松竹
ああ、そうですね、僕も910以外ではほとんど設計しませんから。
柴
まあ応接間と書斎が個室化できるようになっています。それぞれの家族への対応という事でしたね。
M氏
書斎は、寝られませんね。本が落ちてきたら危ない。
柴
かえってこっちの方(縁側)が良いですね。
松竹
いや良いですね、夏なんかは、そこに簡単なベッドでもおいて昼寝をしたら最高だね。
M氏
まもなくここに庭が完成しますので、完成したら、たぶんそう道路からの目線も気にならなくなります。
松竹
そういう事ですよね。いいね、木立の中からむこうに海が見えたり、陽が昇るのが見えたり、最高ですね。
M氏
ここは低い生け垣にしますので、せいぜい1メートルくらいにします。
松竹
もう向こうの線を隠さない高さですね、海の線をですね。
M氏
そこに座ってですな、そのつもりで今、庭師さんと計画中です。庭師さんも最初の紹介は 柴さんからでしたけれど、それ以降はホームページでチェックしていました。庭師さんも立派なホームページを作られていますからね。よく更新もされていますし、あれは誰がされているのですか。
柴
奥さんです。
M氏
「宮崎のレストランで良い所はありませんかね?」と気楽に聞いたら、メールでマップ付きで紹介頂いたのでこの間テイスティングに行って来ました。
柴
庭もすてきな所だったのじゃないですか。
M氏
庭もすてきな所でしたよ。
松竹
もちろんその庭師さんが作った庭なのですよ。
M氏
なかなか良かったので「良かったですよと」と書いたら、向こうからまた返信が来ていました。あれは奥さんだったんですね。(笑い)ご本人がされている訳ではないんですね。
柴さんの所は、柴さんがするのですか。
柴
メールですか。
M氏
いやいや、ホームページ。
柴
はい、うちは全部自分でします。
M氏
弟子さんは?弟子さんもしていないのですか?
柴
彼は、模型制作というブログを作っています。
松竹
見ました、見ました。もう彼も何年になるのですか。
柴
5年ですね。
松竹
ほーう、ずいぶん修行を積んだんでしょうね。50個くらい模型を作ったと書いてあったから、すげえ50軒もやっているのかと。
柴
いや、作り直しが多いのですよ。以前作った模型が古くなったのでね。
「住まいの計画」
松竹、
その作り直しで、思い出しましたが、ところで、ここのプランはどのくらい作り直しがあったのですか。直接話してプランをつめるのと、それこそメールでやりとりするという違いがあるかなあと、さきほどの話を聞いて思ったんですけれど。
柴
最初にね、Mさんの方からこういう案をという提示かあったのですよ。何種類か、ただそれは前提として北側のアプローチだったんですよ。それで何案か提示があって、先ほど話のあった、家の向き、そして車いすでのアプローチを考慮して、こちらからのアプローチに修正した案をいくつかお出しして、最終的には、先ほどの作り付けのテーブルではないけれど、Mさんのこのつながった空間を前提として案に落ち着いてきたという感じですね。プランとしては、どうでしょうかね、基本的な案で考えると、Mさんから提示いただいた案を含めて5つか6つくらいですかね。まま大きな流れして、そのくらいですね。まあ細かい修正はたくさんありますけれど。
松竹
それあ、そうですよ。基本線というのがあるので、細かい所はそれぞれに詰めれば良い訳ですから。
M氏
はっきりしていたのは、この地形を考えて一番眺めの良い所を台所と食堂にしようということ。それは、最初からの考えでした。
松竹
それは、大正解ですね、一番長くいる所をベストの位置に持ってこなくてはですね。まあ。昔だったら、そこが客間になったりするのだけれど、絶対使わない、年に何回しか使わない客間がベストポジションにあるという事が昔は良くありましたけれど。
M氏
一番良い部屋を食堂にするというのは最初から決めていましたし、広さの要件も大体このくらい欲しいというのも最初から決めていました。私の書斎がその次で、遊びのテラスもここだというものだいたい決めていました。つながりは別ですよ。
松竹
それをまとめるのが、設計する人の仕事ですから。
柴
最初あった要望の中で、打合せをする中で、消えていったものがお風呂上がりのデッキ、外から見えない所といったものがありました。
M氏
裸で昼寝ができるデッキが欲しかったのです。
M氏奥さん
本当は、海が見えるこの辺りにお風呂が欲しかったのです。
M氏
柴ちゃんには話しているから良いでしょう。私の友達にN設計で設計室長をしていたNというのがいるのです。
松竹
ああ、あれに書いてありますね。
M氏
書いてあります。
松竹
その彼がデザインしてくださったのですよね。
M氏
彼は、この土地に来たんですよ、飛行機に乗って東京から、ここで4時間くらい立って考えていたんですよ。彼のアプローチはそこから(北東角)だった、そこからエルに入ってここが玄関だった。
松竹
ああそうですね、まあ、どうしても南側を残そうと思うからどうしてもそうなるでしょう。
M氏
もう、すごいんですよ、エレベーターが付いているんですよ。
M氏奥さん
いや、自分が最初に言い出したのじゃないですか。
M氏
いや俺が言ったのは、生活の主力は2階にし、眺めを優先する。そして車いすになっても大丈夫なように考えろと。と言ったら当然エレベーターになりますよね。
松竹
なりますね。
M氏奥さん
エレベーターだけで2、3百万かかると言われたんですよ。(大笑い)
M氏
軽自動車くらいですよね。
松竹
そうですね。
M氏
だけど、それは良かったです、これでどのくらいかかるのと聞いたら、7千万か8千万かかると言いました。(大笑い)ただコストダウンは今から図れるよと、言っていました。
M氏奥さん
模型まで作ってですね、全部できていたんですよ。
松竹
わー、親切。
M氏
この間も電話がかかってきましたけれど、2階に半露天風呂も作ってあるのですよ。やりたかったですけれどね。
松竹
それは家の形は別として魅力ですね。
M氏
お金さえあったらやったんですけれどね、2階が生活の主力なのですよ。だから眺めは絶対良いですよね。
松竹
このロケーションだったらこの低さが良いような気がしますね、地面に近い方が安心感があるかなあ。
M氏
ただね、今でもチラッと思っているのですけれど、隠し部屋に窓を付けて、明り取りと眺望を確保すると面白そうかなーと。雨の日の遊び場所ですな。
松竹
それは思いますね、一人でちょっとあがって座って、小さなテーブルくらいあって本を読めるかビールが飲めるか、もう俺だけの部屋という。
M氏
そう眺めもね、小さくても良いから窓が欲しいな。
M氏奥さん
そのテーブルは、そこに持っていったら、お父さん。(笑い)
松竹
いや、木造はこれから先どのようにでもなりますから。
柳本
2期工事で。
M氏
いやそこに一つあるのですよ。ただ窓が付いていないから、玄関の屋根裏部屋が一つあるんですよ。
柴
書斎からあがれるようになっているのですよ。
松竹
あそうなんだ、
M氏奥さん
いや大きいですよ4畳ありますよ。
柳本
窓を開ければ良いのに、素人考えですけど。
松竹
これだから素人は困るよね(笑い)うそうそ、ただね、そういう僕らでは大変かなあと思う事を言ってもらった方が良いですよ。僕らは、柴さんと僕はあんまりそんな事はないかもしれないけれど、面倒くさいこととか、難しいことは避けよう避けようとする人が沢山いる、ほとんどですから。
M氏
そうそう。
松竹
逆に難しい事と、面倒さがあるとまたやってみたくなるのですよね。だから、お客さんは無理な注文を出すべきなのですよ。それに答えようとするのですよ。それに答えようとしない人は、その時点で却下していけば良い「ああこの人はもうこれ以上付き合いができないなあ」と、そうしないと面白くないですよ。
M氏奥さん
レンジ排気はだいぶ悩みましたよね。
柴
そうですね、どこに排気するのか。
M氏
最後の最後まで妥協しなかったのはそれだけですかね、最初はねこの高さの天井がそこからこの辺まで続いていたのですよ、図面上ね。
松竹
これは気持ち良いですよ。
M氏
本当は平天井がこの辺りまで来ていました。
松竹
でき上がった時の雰囲気はぜんぜん違うでしょうね。
M氏
天井は高くしたかった。レンジの排気はできるだけ小さい方が良いと思ったんですね。柴ちゃんに知恵を絞ってもらいました。
松竹
そうですね、せっかく向こうとつながっているから。
M氏
そこのガラスのアイデアは完全に柴さんのアイデアですけれど、私の想像を超えて良かったですね。
柴
この2本のタイコ梁が見てわかる通り1本ものなのですよ。向こうまで繋がっているのですよ、それをよく見せるようにと思ってですね。
松竹
ああ、これですね。
M氏
そこのガラスは想像を絶しました、いや図面上は知っていたのですけれどね。
松竹
上もガラスがあったら天井が繋がったですよ。(笑い)
柳本
そうですね、あるとないとでは違いますね。
M氏
なるほど、上もガラスにするという手もない事はないですな。
「ここは誰が掃除するの・・」
M氏奥さん
でもね、ここは拭けるけれど、そこは拭けないですよ。
松竹
拭けません、拭けません。
M氏
あ!それから、この家は掃除することをあまり考えていないね。(大笑い)例えばあそこの、北面のガラスはどう掃除すればよいの?
松竹
北面ね、僕も良く言われます。良く言われるどころじゃなくて、うちの家を作った時に奥さんに言われました。「誰が掃除するのこれ」、うーん。
M氏奥さん
最初に、私、柴さんに言いましたもの「すいません、これは誇りが溜まりますから嫌です」て。(笑い)
松竹
ですよね、実は僕のお家にも、やっぱりこういうのがあるのですよ。ちょっとものがおけるようにこのくらい出っ張っているのですよ。でき上がってうちの家内が来て、真っ先に言いました「誰が掃除するの」。
柳本
「僕ですって」。(笑い)
松竹
僕です「なんで先に言ってくれなかったの」と言われました、ずいぶんおこられました。
M氏奥さん
わかりますよ、それ。この間、そこにあがった時に「そこはずーとほこりがしているよ」と言いました。(笑い)
松竹
ですよね。
M氏
煤払いを生竹でするじゃないですか、もっと合理的な道具がありませんかね。
松竹
ああ良いかもしれませんね。
M氏
僕はこの間からナフコで探しているのですよ。なんかうまい方法はないかと思っているのですけど。
松竹
難しい所ですね。
M氏奥さん
まあ、何もかも良い事はないですよね。
M氏
でもあのガラスはふかんといかんのかなあ、きのうみたいに桜島の灰がいっぱい来ますとね、汚れますよね。
柳本
来ました?
M氏
来ましたよ、すごい灰でした。
柴
灰は気がつかなかったですけど、ガラスの振動がありましたね、事務所でね。
松竹
あれは、桜島だったんだ。うち、ゆれたような感じがしたんだけれど、まあ実際揺れはしないけれど。
柳本
ああそうですか。
M氏
灰がすごかったですよ。ご近所も同じです。そこの塀にもはっきり分かるほど積もっていましたよ。
「イルミネーション」
松竹
いやぜんぜん灰とか知らなかった。そういえば昨日、僕は家に居なかったからね、僕はあれから日向に行ったんですよ。ちょっと家に帰って2時間くらい仕事をして、日向に、昨日日向で15夜祭りというのをやっていて、我々と同じ建築士の仲間達が、竹の灯籠をですね、鈴木君と言うのだけれど、彼らがみんなで1500本灯籠を作ってまちに並べるって「見に来てよ」と電話があったから行ってきたのですよ。55.04
M氏
灯籠、中はロウソクですか。
松竹
ロウソクです、まあそれはきれいですね。
M氏
僕も竹で作ってずらっと並べようと思っているのですよ。
松竹
簡単に出来て、斜めにパンと切って、そしてこんな小さな円盤みたいなロウソクがありますし、もし可能であれば廃油みたいなもので自分で作れば、環境にも良いですし。
M氏
大分県の竹田市にも竹楽まつりがありますね。町中に並べているのでしょう。
松竹
臼杵の方がもう超えてしまいました。竹宵祭りといってね、もう人気が出過ぎて、一晩だけでお客さんが10万人くらい来るそうです。もう街を歩くのにぜんぜん知らない人がこんな状態なのですよ。それくらいお客さんがいっぺんに見えるそうです。ちょっと風情がなくなってしまったと言っていました。最初の時は「もう良かったよ」て。竹の灯籠の間を人が散策している感じで良かったんだけど、今はちょっと人気が出過ぎてしまいました、でもまあすばらしい試みです。
M氏
あれは、直径15センチくらいの竹でしょう。
松竹
はい、それより小さいと、ものすごく熱を持つみたいで、まあ自然のものですからしょうがないですね。この辺だったら20本も並べればまああきれいでしょうね。
M氏
やってみようかと思っています。
柳本
ぜひ、キャンドルナイトにしてしまえば良いのに。
松竹
いや、今から先良いと思いますね。僕らはそれを真冬にやったんだけれど、こういゆ時期も良いんだけれど、真冬はまた良いんですね、空気が澄んでいるし、明かりがあったかい感じがするし、とても良いですね。
M氏奥さん
うちは20年位、イルミネーションを12月になるとやっています。家の前の街路樹に飾りつけをします。近くの中学校の通学路で、中学生が「ああ今年もやっている!」と喜ぶので、段々と増やしていきましたね。最初はほんのチョビットだったけど。
M氏
クリアランプだけです。色物は使わない。
松竹
いやその方がきれいですよ、青とか黄色とかいっぱいはいちゃうんですけれど、あれは。
M氏
パチンコ屋みたいにね。
松竹
動物の形になったりね、どんどんなっていくのでしょうね。
M氏奥さん
だんだんエスカレートしていくのでしょうね。
M氏
ここもね、外にコンセントが準備してあるのですよ。
松竹
じゃ、できますね。
M氏
早く植木屋さんが、木を植えてくれんかなあ。
松竹
クリスマスはイルミネーションですけれど、それ以外の時は竹でね。人に見せて楽しむんじゃなくて、我家が楽しむという感覚でやられると、いうのが良いのでは、という感覚でやられると、それくらいがいいですよね「どうだ見てみろ」とやると「このやろう」という感じになりますから、「私たち、楽しんでいるんですよ」とやっていると、ご近所の人も「ああ良いわね」とみえる、ですよね。
M氏
ここは団地の東の端で暗いんですよ、だから通る人のあかりとしてもやらんといかん。
松竹
いや、意外と名所になるかもしれませんね。
M氏
そうしたら、旧道とバイパスから見えますからね。
柳本
名所になりますよね。
M氏
あれは、あまり色を使わない方が良いですよね。
松竹
このお家もそうなんでしょうけど、夕方と夜になって明かりがほのかにともっているからきれいなのですよ。これでございと全部つけて、照らしちゃうと、何の事はないんですよ。そういうのが、生活感が外にポロッと出るくらいが本当はきれいなのですよ。
M氏奥さん
ああ価値観が一緒だわ。
M氏
色もあんまり使ったらいかんですよ、絞らんといかんですよ。
松竹
ここもそうですよね、モノトーンでこの赤い光がぽっとあるから綺麗なのですよね。
M氏
そう思います。
松竹
それをまた人に押し付けるのも良くないですよね、自分らで楽しむと、そしたら、ご近所の人たちも良いわねと思っていただければ、
M氏奥さん
私も結構かたくななものがあったから、
松竹
かたくなな、何があったんですか。(笑い)
M氏奥さん
好きなものと嫌いなものがはっきりしているからね。
「室内の暖房・照明」
松竹
通常の暖房は何になるのですか、エアコンですか。
M氏
ええそうです、いや本当はストーブです。好きなんですよ、それと火鉢です。あれね、小倉時代に夫婦二人で使っていたんですよ、2人で火鉢に向かい合ってね。
松竹
良いですね。
M氏
股火鉢ですよ、そこで色んな物を焼いて食べるのが大好きでね、カキでしょう、野菜とか、猪肉とかね、もうもうと煙をだしてね。
松竹
ここのお家はいいんですか。
M氏奥さん
そこでやりますから。
M氏
そのために作ってありますから。
柴
煙出はちゃんと付いていますから、越屋根が。
松竹
ああそうですね。(笑い)
M氏
この照明も小倉から持って来たのですよ、これに合うように作ってもらったんですよ。
松竹
そうなんですね。
柳本
向こうにも、家があったんですよね、それを売って。
M氏
ええ、そうですよ、ごく最近売れました。
M氏奥さん
今日、お友達から「解体が始まりました」と電話がありました。
M氏
つい、10日くらい前かな、いや1週間前かな、売れました。それで忙しかったのです、不景気だからもう少し時間がかかるかと思っていましたけれど、あの照明器具も持って来た物です。
松竹
グリーンのもの。
M氏
そうですよ。逆に言うと最初にこれがあるかな、居間と玄関の照明器具はそれに合わせたのですよ。
松竹
壁に付いているやつですね、
M氏
雰囲気を合わせたんですよ
M氏奥さん
先生に切り込みを入れていただいて、(笑い)
松竹
ああ、途切れ途切れに、あれはわざとしてあるのかなあと思っていました。
M氏
あれは高さを優先したんですよ、アレがもう少し下だと嫌だったのですよ、頭を打ちそうになって、高さを優先したら、あそこをきられてしまった。(笑い)
柳本
デザインだと思っていました。
松竹
柴さんが「切って良いですよ」と言ったんですか。
M氏奥さん
柴さんは切りたくなかったんですよ。
M氏
我々が高さを譲らなかったんですよ。あれより低いか高いかですよね、上に付けたら高すぎるのですよ。
柴
つけ鴨居の下に10センチの板を横に付けているでしょう、つけ鴨居だけだとも線が細すぎる、だからあそこに10センチの幅の木を通したかったのですよ。
M氏
アレを下に持って来たら、白い壁を残しながら下げないといけないでしょう。そうしたらあんまり下過ぎるのですよ。頭打つんですよ、鴨居の上では高く過ぎるでしょう。
M氏奥さん
でも随分けんかしましたよ、私は下で良いと言ったんですよ。(笑い)ああいうのは、低めにに付けても、あの下を通るわけではないから、現実にそうです。もうちょっと下の方がちょうど良いですよ。
M氏
でもね、あそこと玄関の高さを揃えないといかんのですよ。
M氏奥さん
いや玄関も下で良いですよね。
M氏
いや鏡の位置がおかしくなる。
M氏奥さん
多少それはありますけど、だいぶけんかしましたよ(笑い)私は雑誌とか持って来て、洋式の照明はこういう風にこの辺で良いんだとね。
M氏
それはそれで良いんだけれど、今度は玄関のバランスがおかしくなる、あそこに鏡を付けなければ良いんですけどね。
松竹
そこまでこだわるんですね、僕も今までお付き合いしたお客さんでも、照明の微妙な高さがどうのこうのと言われたお客さんは、ほとんどいなかったですね。(笑い)
柳本
そうなんですか。
松竹
いませんね。
柳本
皆、家を作る人は必死なのかなと思いますけれど。
松竹
分からないんですよ。
M氏
いや違う違う、照明の頃は、多分みんな検討に疲れている。(笑い)
柳本
一杯決めなければいけないことがあって。
「施主と建築家・非日常と日常」
M氏
そう、僕はそう思う、だって、建築家にとって家づくりはビジネスでしょう。日常のことなんですよ。僕はどこかに書いていますけれどね、我々にとっての家づくりというのは非日常なんですよ。
松竹
うん、そうですね。
M氏
ね、日常ではなく、イベントなんですよ。一生に一度か二度のイベントなんですよ、興奮状態にある、施主にとっては。
松竹
いや、そうですよね、
柳本
結婚式とかに似ていますよね。
M氏
施主にとっての家づくりとは非日常なのですよ、だから非日常と日常の人達の戦いなんですよ。(笑い)
松竹
あはは、面白い、面白い、そうですね。
M氏
その接点を分かった上で、逆に戦わなければイカンとですよ。施主側から見ると、あなたがさっきいみじくもおっしゃったけれど、できるだけ面倒なことを避けようとする、それは日常だからですよ。
松竹
そうなんですよ。
M氏
僕に言わせればそれは本能だから、だから建築家にとっての家づくりは日常だから、ややこしいことは避けよう、不安定なことは避けよう、失敗せんほうがいいわけだから、それが日常なんですよ。
柳本
施主にとっては、戦闘モードなんですね、常に。
M氏
施主側にとってはイベントですからね、非日常なんですよ。この日常と、非日常がぶつかるから、いろんな意思疎通もうまく、図らないといかんということですよ。だから興奮状態で物を言っていたら、100パーセント自分の思いが相手には伝わりませんよ、そこの所が難しさでしょうね。
松竹
そういう所はありますね、かえって冷静に言われた方が、そうかなと考えたりしますよね。
M氏
日常の建築家にとってはね、見えている時もあるのですよね、非日常の施主が言うわけですからね。
松竹
そうですよね。
M氏
本当は「それは違いますよ」と言いたいんですよね。それは、良く分かる、当たり前なんですよそれは。
松竹
当然です、いくつか経験をしてきているわけですから。
M氏
年間に5軒も6軒も設計している人と、一方は一生に1回か2回の興奮状態にある人と、これは土俵が違うのですよ、はっきり言ってね。
松竹
日常になって当たり前だと思っている所に、非日常のポンと入って来た時に、どう反応するかですよ。それが、ああそうかと思う人と、面倒臭いと思う人と別れてしまうのですよね。
M氏
そうだと思いますよ。
M氏奥さん
たいがい、ご夫婦でけんかなさるというけれどね、いやだんだん違ってくるけれどね。なんかの本で建築家の方が書いていたんですけれど、喧嘩はなるべく早い時期にして下さいと。(大笑い)
松竹
そうです、もう終わるころだとたいへんです。
M氏
手直しになりますからね。
M氏奥さん
早い時期に喧嘩してくださいとね。
松竹
でも設計の段階で、細かい所まで分かりませんからね。
M氏奥さん
ある程度出来上がってから、ああして下さい、こうして下さい、てね。
「ブログを使って施工状況の報告」
松竹
さっきね。7回しか現場にお見えにならなかった、7回でこういう密度のお家が出来るというのは、よっぽど密に話しをしているし、信頼関係があるということなんでしょうけれどね。
M氏
図面は正直真剣にみましたよ、図面で見て手直しをだいぶ出しました。
松竹
ある意味良いあり方なのかも知れませんね。できればね7回とは言わず、10回でも20回でも来ていただいた方が良いんですよね。またそうやって家づくりを楽しむということですよね。
M氏
本当はそれをしたかったんですけれどね。
松竹
ですよね、またそれは現実としてしょうがない、遠くだからしょうがないですけれど、それはもちろん信頼関係があるとか、メールとかいろんなツールを通じて情報交換できるでしょうけれどね。
M氏
またこういう時代だからこそ、それが出来たんだろうと思いますよ、一番良かったのはね、柴さんがそれこそメールに添付で写真を送ってくれたことです。
松竹
それは良いですよね。
M氏
それとホームページのプログの中で、頻繁に写真を載せてくれるのですよ、そうすると分かるんですよ、昨日の状態が、ここまで進んでます。
M氏奥さん
それもだし、それと息子達が見ていたんでよ。
M氏
長男は宝塚、次男は鹿児島、長女は大牟田にいますが、皆このホームページで家造りを見ているんですよ。
柳本
すごいですね。遠隔地から見ているんですね。
松竹
みんなで共有しているんですね。
M氏
皆で見ているんですよ、次男なんかは彼のブログにアクセスしていましたよ、感想を。
柴
うんうん、ゲストブックにですね。
松竹
それは面白いですね。
柴
最初はメールでとにかく写真を送っていたんですけど、ブログの方が色んな人に見てもらえるから。
松竹
お客さんによりけりですね、
M氏
そう個人情報の問題ですからね、
松竹
以外とぼくのお客さんは、そっちの方が多いのですよ。だから見学なんかも松竹さんが連れて来たら見せてあげるけれど、そうでなければ嫌だとね、家が出来上がったときも見学会とかは、できればしたくない。まあ、もちろん写真等も公開されるが嫌だと言われる方も以外と多いのですよ。
M氏
子供達はね、去年の夏全員集合したんですけれどね、来る前から大体この家が分かっとんです。
松竹
どこになにがあるのか「ほう」と珍しそうにみんな見ないんですね。
M氏
だから、来たらね、すぐに、秘密部屋にさっさと上がるのですよ。(笑い)そこの玄関の上にあるんですが、「ここか!」と言ってね。
柴
すぐ上がったんですか。
M氏
上がりましたよ。孫も上がりました。
松竹
実物はこれだあと。
柳本
写真でだいたい見ているわけですね、
M氏
そこの部分は写真が無く文章だけでしたが。
柴
ここは公開しなかったんですよ。
柳本
すごい、
松竹
家族と距離を超えて情報を共有できているってほんと良いですね。
M氏
こういう時代なんですね。だから、遠隔地における家造りだけじゃなくて、地元の人でもそれをやっていたら、遠くに行っている息子達がそれを見られるということでしょう。
松竹
そういうことですよね。
M氏
自分の家がこう変わっていると、だからそれこそ、嫁まで見ているわけですよ。長男の嫁もね、もうウェブ中毒症ですからね、半分。(笑い)
柳本
ものすごいアクセス数だったのではないですか、ここの身内だけで。
M氏
だから知っているのですよ、長男の嫁は入って来たら「これね、お父さん大黒柱は」と言うんですよ、見てるんですよウェブで。
松竹
いいですね、それで会話が弾んで。
M氏
だから、僕は、これは家づくりの面白い手法の一つだなあと思いましたよ。まあそれは、柴ちゃんがこまめにね、さっきからおっしゃっていた通り、まめにアップしてくれたからですけれどね。
松竹
絶対そうですね、僕から言わせたらマメすぎるんですけれど。
M氏
助かりましたよ。
「建築家と現場との距離」
M氏奥さん
それと、お住まいがほら近いから、
松竹
それはありますね。
M氏
朝、事務所に行かれる前にほぼ毎日見ているのですよ。
M氏奥さん
安心していられる。
松竹
同じ遠隔地の家づくりで、逆に設計した人からみて遠くの家づくりということの方が、ちょっと危険ですね。危険というか、ちょっと心配ですよね。ここは良いですよね、毎日散歩の途中でも見れると言うのは。
M氏
ああそれからね、これも、一回メールで安心したんですけれど、まだ住んでいない時ですよ。この家は1年間空家でしたから、台風らしきものが来た時に、彼がチャントね、見廻ってくれてるんですね、それで異常なしとメールで知らせて来る。本当にその時は安心しました。
松竹
そうか、建築家の近くに家を作るというのはお得ですね。(笑い)じゃと言って、遠くに物理的になかなか見に行けませんもんね。
M氏
さっきから、ちらっと言っていますけれど、N設計の彼といろいろと話した中で、最大の彼のアドバイスは実はそれなのですよ。「俺が設計したって構わん、個人住宅は夢があり、やりたい仕事ではあるけれど正直言って自信がない、ビルとは違う、無理だ」と言うのですよ。「なるべく家の近くで頼め」と言うのですよ。彼のアドバイスでした。
松竹
またこれからがスタートですけれど、これからが長いわけですからね、家はね。
M氏
そして彼の事務所が吉村町とは知っていましたが、自宅が近所とは後で知りました。
松竹
ああ、これはしめたと。
柳本
運命ですかね。
松竹
何かあればすぐに来てくれるぞ。(笑い)
M氏
いろんな家を見学させていただいたうちの一軒が彼の自宅だったのですよ、「ええっ、木花台なんだ」と。
M氏奥さん
家族とも親しくなりましたからね。
柴
いや、ありがとうございます。
M氏
一緒に遊んでいるのですよ。
松竹
いいですね(笑い)
M氏
彼には娘がいるんですよ、Rちゃんという。
松竹
ええもう何年生ですかね。
柴・M氏
高校2年です。
松竹
一才違いだったんかね。
M氏
Rちゃんと友達ですからね、ゲーム友達ですよ。
松竹
いいですね、孫がいるようなもんなのか。
「家での楽しみ」
柳本
何のゲームをするのですか。
M氏奥さん
Wii(大笑い)ここでするんですよ。
柳本
はあ、参加したいな。
M氏
「上手?」。
柳本
私、Wii未体験なんです。
M氏奥さん
やれば!・・・(大笑い)
松竹
僕も未体験ですよ。(大笑い)
M氏奥さん
やれば、(笑い)
M氏
奥さんもね、息子さんのあきら君もみんなもうはまってしまって、(大笑い)
柴
いやはまりますね。
松竹
柴さんもするの、
M氏
するするする。
柳本
やりたい、
M氏奥さん
やれば・・・・(笑い)
M氏
我が家は、お客さんが来たらウィー大会をします。この前も熊本からのご夫婦も、その後の市内の親戚が何人か来た時も、皆でボーリングをね。
柴
すごく多趣味で、面白いものをたくさん持ってらっしやるんですよ。
松竹
そういう、新しいものに抵抗がないんですね。
M氏
ない、全然無い。
松竹
僕なんか、すごく抵抗があるから。
柳本、
書斎の本棚を見渡しても、すごくジャンルに巾があるんですよ。
M氏
面白い、遊ぶのは大好きだからね。
柳本
実際のスポーツとかは何かされるのですか。
M氏
魚釣りしかしませんね。
松竹
川ですか、海ですか。
M氏
海です。海と言うか、船です、うまいですよ。
柴
魚のさばき場も作っているのですよ。
柳本
え、この中にですか。
柴
外に(笑い)
柳本
船釣りと言ったら結構大きなものを釣られるのですね。
M氏
大きいですよ、宮崎ではまだ行っていない、ただね暑過ぎてね、暑過ぎて戦意喪失してしまいましたね「ちょっとこれは死ぬバイ」とね。(笑い)
松竹
どこに、行かれるのですか、串間の方とか、北の方ですかね。
M氏
そうですね、友達から電話がかかってきてね、もうちょっと陽気が良くなったら、もうだいぶ良くなってきましたが「誘うから」と言う話で、柴さんの従兄弟さんがね、青島で釣具屋さんをやられているので、まもなく取材に行きます、暑い間は行きませんでしたけれど。
柴
青島でね、釣具屋さんをしているのです。
M氏
柴釣具ですよ。
柴
柴釣具商会と、フィッシング柴です、青島と宮崎港の近くですね、
柳本
あのお店は柴さんの親戚なんですか。
柴
両方ともそうですよ。
M氏
まもなく、そこにいってご教授頂こうと思っています。今まで、ちょっと暑くて、それと小倉の家の事をやっていたものですから、時間が取れなくて、もう全部終わりましたので、そろそろ本来の漁師に戻ろうと思っているのですよ。(笑い)
松竹
いい、船宿を紹介してもらって、漁師だったんですね。
M氏
そう、本来の漁師に戻らんとイカンですね、間違って時々背広を着て会社に行っていたんですけどね。
M氏奥さん
ウィーの体験だけでもしてみたら、
M氏
リトルジャーマンをまずは見せてあげたらどうですか、ロボットが演奏するよ。
柴
あれは面白い。Wiiはね奥さんが一番上手なの。
柳本
ええそうなんですか。すごい・・・
松竹
ああテレビで見た事があるな、お人形が演奏するのでしょう。男のなんとかという本に良くでているよね、男の趣味の本があるのですよね。
(リトルジャーマンの演奏が始まる)
柳本
わああ・・・・。
松竹
微妙な動きをするんだ。
M氏
口見て、口を。
松竹
ちゃんと合ってる。
M氏
みんな合っているんですよ。
松竹
すげー。
M氏
トランぺッターは足でリズムを取っていますよ。
柳本
ええええ。
松竹
ああ本当だ、リズムを取っている足で。
M氏
ちゃんと曲に合うとるでしょう、全部皆さん。
松竹
ちゃんとマイクを握ったね。
柳本
これセットなんですか、一個ずつ買うんですか。
M氏
これとこれがオプションですね、これはセットですね。ボーカルは美空ひばりもおるんですよ。美空ひばりが真っ赤な太陽とか歌うんですよ、顔もそっくりですよ、声はひばり本人ですけれどね。
松竹
すごいですね、微妙な腰つきが悩ましいですね、単純な作りなのに、うまく動くなあ。
M氏奥さん
ピアノはエルトンジョンに似ているでしょう。
松竹
ほんとだ。
M氏奥さん
そしてこっちはオヒョウさんに似てません、ドラム叩く人。
松竹
ああ、似てる、色が黒いけれど、白いひげが似てる。
M氏
すごいでしょう、最初これを見た時に感動したんですよ。
松竹
多趣味なんですね、お家も、趣味の延長で作られているような気もするし。
・・・・・
・・・・・
リトルジャマンの演奏後、後柳本さんWiiに熱中する、しばし、インタビューは中断・・・
「お友達・家族との楽しみの住まい」
M氏奥さん
この家はね、みんなで遊ぶための家なんですよ。
M氏
そう本来、この家はみんなで遊ぶための家なんですよ、柴ちゃんにも言ったんですよ、我々同級生でしょう、同じ友達がいっぱいいるんですよ。
松竹
ああそうか、共通の友達なんですね。
M氏
そう、だからみんなが集まって遊ぶための家なんですよ。
M氏奥さん
それと、子供達が一時にいっぱい帰ってくるからね、
松竹
当初の目的の取材になっていないよね、インタビューはこんなものでいいんでしょうかね。
M氏
いいんじゃないですか。
松竹
でも、総括しました「いつでも行ける家なんだ」なあと。
M氏
ようは遊ぶための家を作ったと言う事ですね、終の住処ですからね。
松竹
そうですね。
M氏
だから、ここは、全部建具が収納できるようになっているのですよ、家がワンフロアーになるんですよ。
M氏奥さん
台所しながら、こっち向いて一人だけと言うのは寂しいじゃないですか。
松竹
そうですね。
M氏
だから、これ全部開きますよ、ワンフロアーですよ。ここも全部広がるし、建具は全収容にしてくれと柴さんに言ったんですよ。
松竹
建具も広がるしね、外にも広がるんですね。
M氏
物入れ以外は全部引き戸にしてあるんですよ。
松竹
いやすばらしいお家を見せていただきました。ありがとうございました、だんだん長居をしてしまいそうなので。
M氏
今度はお酒飲みしましょう。
柳本
お酒は結構飲まれるのでしょうか。
M氏
飲みます、たくさんではないですけれどね。
松竹
じゃ始めますか(笑い)
M氏
いいですよ、車を置いて来てください。
松竹
ぜひ、それじゃ、いつかうかがいます。
M氏
先日も、ご近所の二組の夫婦と夕食をしました。年代は一回りくらい上なんですけれどね、Wiiで楽しんだんですよ、盛り上がってね、びっくりしましたよ。夕方の5時くらいから始めて、10時くらいまでね、(笑い)
柳本
ずーと、Wiiですか。
M氏
いやいや、酒を飲んだ後でね、
M氏奥さん
あの時は、お月様も綺麗でしたね。
「開けたが勝ちよ」
M氏
我家は東西南北開いているでしょう、庭師さんが教えてくれた事があるんですけど、本当にそうだと思いました「開けたが勝ちよ」だと。(笑い)
松竹
うまいね、
M氏
外側の窓を開けているでしょう、外を通る人はこちらを見ませんよ、向こうを見ながら通っていますよ。
松竹
そんなもんなんですかね。
M氏
そんなもんですよ。
松竹
意外と家の中というのは見えないんですよね、夜は別だけれど。
M氏
ここで晩ご飯を食べているでしょう、そしたらね、通る方が見ちゃ行けないと向こうを見るんですよ。
松竹
ああそうですね、通る方が遠慮するのですね、気を使って。
柳本
勝ちましたね、
M氏
そう、「開けたが勝ち」なんですよ(笑い)隠さずに、開けときゃいいんですよ。
松竹
そう言う事か、堂々としときゃいいんだ。
M氏
開けることにすぐ慣れますよ。僕は元々どうもないけれど、この人が「どうするの」と言っていますが、開けときゃ勝ちなんですね。
M氏奥さん
いや、娘がきたら「お母さんここはどこで着替えるの」と言いますよ。
松竹
ううーんそれもそうですね、でも開放感がいいですね。
M氏奥さん
風通しは抜群ですね。
M氏
今は閉めていますけど、あそこも開きますからね、海風・陸風がすごいですよ。
柳本
いいなあー。
松竹
東西ですからね。
M氏
そうそう、そしてそこも開けられるでしょう、そうすると南北になるでしょう。だから、開けたが勝ちですよ、あの庭師さんの名言ですね、「いただいた」という感じですよ、記録にとどめていますよ。
松竹
開けたが勝ちか。確かにそうですね、
M氏
かえって閉めると見るんですよね。
松竹
ああそうかも知れませんね。
M氏
これだけ開けとくとね、
松竹
向こうが遠慮するわ。
M氏
遠慮します、絶対遠慮します、ただチラッとだけは見ますね、犬の散歩をする人はみんな向こうを見て歩いています。「あぶない、あぶない」とこっちが言いたくなりますよ。(笑い)面白いですよ。
松竹
おかしいなあ
M氏奥さん
まあね、この年だからそうできるのですよね、若い人にはね。
松竹
まあそれもあるかもしれませんね。
M氏
僕らはずうずうしくなっているんですかね。
松竹
そういうのは、もう超越したのでは。(笑い)
M氏
はずかしいこともとあんまりないですしね。
M氏奥さん
ここでご飯を食べていたら、お母さんと女の子と男の子がマラソンしているのですよ。三周目か四周目くらいに「ガンバレー」とここから応援したら、男の子がこっちを見て「ああ」と手を振って答えるのですよ。
松竹
いいですね、
M氏奥さん、
そうしたら、恥ずかしいのか、お母さん達はこの頃ここを廻らなくてってね。(大笑い)
松竹
コースからはずれた。(笑い)
M氏奥さん
そうか、違う所を廻っているのかもね、(大笑い)その時は三周目くらいに男の子がだんだん遅れちゃったんですよ。
柳本
かわいい。
「台風・・・」
M氏
ここは天気がよかったら気持ちがいいですよ。
柳本
向こうの海まで見えるのですね。
M氏
波が見えますよ、白い波がね。
松竹
でも、このしっとりした感じもいいですよ、台風が来なければいいですね。
M氏
台風はまだ経験していないんですよ。
松竹
なかなか、ここはね「台風さんいらっしゃい」とい感じですね。(笑い)
M氏
開けたら勝ちとはいかないですよ。(笑い)
柳本
それは閉めといた方がいいですよ。
M氏
いやいや、ガラス越しに見てみようかなあと、どうなのか。
松竹
それは、怖いわ、恐ろしい。
M氏
そこはでも見えますよね。
松竹
でもここは飛来物はなさそうですよね、風だけですよね。台風は風自体もだけれど、飛んでくるものが怖いですよね。
M氏
台風は、未経験なんですよ、どうなるかですね。
松竹
楽しみですね
M氏
楽しみです。(笑い)
松竹
「柴さんちょっと来て」・・・(笑い)
M氏
飛んだがなあ~。
柳本
来るとしたら週末なんですかね。
松竹、
今回のは、大丈夫でしょう、少しはずれるのでは、まともに来た時には怖いですよね。
M氏
障害物がないですからね。
松竹
真っ向勝負よ。
M氏
しかしお隣とこちらは以前から建っていて健在ですからね。
松竹
そうですよね、だからそうたいした事はないですよ。
M氏奥さん
もう全部柴さんの責任だから。
松竹
でた・・・。(大笑い)
M氏奥さん
越屋根が・・・。
M氏
台風が過ぎたら上だけ無くなっていてね。(大笑い)
柴
縁起でもない。(大笑い)
M氏
越屋根が二つあるのが一つないとかね。(笑い)
松竹
でも、すいません、ずいぶん長居してしまいました。楽しい時間を過ごさせていただきました。今日はいろいろなお話ありがとうございました。
(MI氏は、海の見える家の建築主です)