感覚の捉え方

意拳と特に関係の深い触覚は、視覚、聴覚、臭覚、味覚からの感覚不足分を補い情報の共有化を図り、接触する皮膚感覚から得られた感覚は、形状や圧力、強弱、温度、音、光、方向性、振動など様々な状況を感知でき、特に身体が快適な状態であれば、脳は、快適性を認識し、その感覚による分析対応能力は、ずばねけて高くなる。

俗に言われる第六感は、ずばねけた触覚ではないかと思ってしまう。

我々が、単独の場合における触覚は、何に対して作用しているか、それでは、接触する対象物を探してみると足裏は、地面と接触し、地面からの情報を捉え、その他は、体全体覆う大気圧から情報を捉え、対人の場合は、相手との接触皮膚感覚から情報を捉え、武器であれば、それらを媒体として感覚情報を捉える。そして捉えた、感覚情報に対応するため、作用を受け、反作用として対応処理する。

感覚対応処理能力が高いほど、小さく、短く、速く、鋭く力みが無く、リラックスして反射的に全身一致による一つの動作となり、かけ算式による戦力を集中するナポレオンが行った局所優勢主義の各個撃破である単純な合力ではなく、三次元的なものである。

更に、居着かぬ足を運用して、どこに当たっても集中する柔軟性がある機動打撃が可能である。

力みの度合いが高いほど、動作は、緩慢となり、足し算式による戦力の逐次投入のような、居着いた足のような手際の悪い方法となる。

外形動作として、認識すると各種要因を足し算運用をして頭で理解してしまうが、感覚として、認識すると各種要因をかけ算運用として体得する。

感覚の開発は、付け足しでなく、かけ算である。データ保存に例えると名前をつけて保存ではなく、上書き保存に似ている。

これらの感覚情報処理能力は、緊張度が高いほど低下し全身がリラックスすれば、脳もリラックスし能力は、向上し、脳と身体は快適性と弾力性と軽快性によって協調ができる。

地球上の全ての物には、大気圧がかかり、これを質量として、或いは空気抵抗として、感覚として捉えることができるかどうかである。

風力が強い時は、感じるが、通常の状態であれば、よほど感覚を研ぎ澄まさないと難しい。

古の武術家は、風を感じていなければ、勝てないと言った。

また、足は、しっかりと地に足をつけていなければならないと言うのは、地面からの情報を捉えていなければならないことである。

地面からの情報で、最も大きい対象は、重力とその反作用にあたる抗重力であり、各種状況におけるあらゆる地面及び身体の起伏から継続して感覚を捉えることを追求する。

これに伴い、背筋がシャンと伸び、顎は引き、頭は、真っ直ぐでなければならないと言うのは、足裏から上昇する抗重力を抗重力筋群により頭頂までの中心線(重力線)に引き上げるための感覚と姿勢をいう。

この重力を感覚として、捉えることができれば、これに伴い大気圧を感覚として、捉えることができる站椿と同じ状態と言える

この重力線を継続的に運用できる試力練習及び摩擦歩の要領から腕力で操作しない、足裏と裏股の操作により地面からの反作用を受け、六合、三尖相照、形曲力直、反方向性転移、反面操作などから三次元的な全身感覚により全身が一致する全身の法を体得する。

逆に腕力で操作すれば、力みにより、上半身がぶれないようにバランスをとるために足は踏ん張り、居着き、地面からの抗重力も使えない状態となる。

端から見て、外形フォームとしては、同じであるが、ナカミと内容からは目的が大きく違ってくるので、踏ん張るための足裏ではないことを認識しなければならない。

この重力線で作り上げた中心線感覚は、相手の中心線を防衛反応と自然反応による感覚で、時間と距離を拘束し時間的余裕を与えず、相手側を常に緊張させた感覚を誘発させる。

自己の接触感覚は、相手側の緊張状態を継続してリサーチして、時間と距離を短縮して、時間的余裕を持った快適な感覚状態で、絶好の機会を獲得し梃入れなどの力学的原則及び矛盾の状態を把握し矛盾の力を発揮する弁証法的原則などをフォームではなく、効果の確認と実感と理論を感覚として捉え、体得する。

古から頭で覚えたものは、忘れるが体で覚えたものは忘れないと言われるのは、このことではないかと思い当たる。

このように意拳の練習要領のほとんどが、感覚を研ぎ澄ましていくものである。

自己の感覚能力が相手側の感覚能力を上回った時、優位な主導権を獲得するものであり、これらの感覚能力は、尽きる事がなく、潜在的な能力の開発を追究できる可能性があり、たいへん魅力的な武術と確信する。