意拳練習日誌第特(71~80号)

意拳練習日詩第特71号


【全ての練習は発力の条件を備えることにあり、その条件を備えるには、効果の高い梃子入れが必要である。】

これは、昔、岳銘先生が言われていたことで、梃子入れの条件が揃わなければ、発力が出来ない、全部同じであるとも言われていました。

 

梃子入れ動作の要因とは、全て感覚操作であり、操作上のポイントが意拳論には示されていて、その効果は、各指導者からの実践操作を持って確認が出来る。



その1

梃子体の要領については、過去の日誌に何回か紹介してますが、反面操作による反方向性転位と言います。

作用反作用の法則から常に手は順行で体(中心)は逆行します。作用点と力点が逆方向に可動する様に三次元的に稼働する梃子体となります。

梃子の原理は、アルキメデスの法則にある様に連鎖的に可動すると倍加する。

 


その2

起動する力は勿論、ニュートンの万有引力の法則である。地球の下側に働く重力と逆方向に上側に働く抗力即ち上下の力を活用し、人間の体に無意識的に働く平衡感覚、即ち防衛反応の速度と感度とその動作にある作用反作用を弾力的に捕らえることが出来るかが大きな手掛かりとなります。

即ち中心軸の感覚であり、これを自己として上下前後左右へと六面に拡大して行く。

 


その3

それでは、この弾力的な作用反作用を捕らえるには、站椿練習においては、地面まで有る大きなボールを抱くあるいは、大きな大木を抱く様に固執しない相対性の有る物を主体にする。

また、逆に固執する外観イメージを優先させることなく、防衛反応に伴う物理的感覚を優先する。

これらの感覚は、四肢だけではなく、四肢と身体が同化して体全体に広がる。

例えば、下方に圧して作用すれば、反作用として上方に反発力が発生し或いは、内側に圧して作用すれば、反作用として外側に反発力が発生する様にこれらは、三次元的に全身各部に同時に発生する。

そのコツとは、考えて感じては固執して失敗し、その逆に感じて考えることが融通性の有る手掛かりとなりこれが秘けつとなる。

この状態は、站椿における静止不動の状態において三次元的に相対性対立状態が拮抗している即ち作用反作用が同時に発生している状態である。



その4

試力及び摩擦歩は、ゆっくりと動く中で作用反作用の拮抗状態を感覚として捕らえる。これらを比喩とすればゴムやスプリングや水飴の様に万有引力がある媒体であれば固執して考える物はなく感じることを優先する。動く中で弾力性と融通性に富んだ梃子体を鍛練する。



その5

発力は、試力で得た感覚を優先させ、短く早く鋭く動く中に作用反作用の拮抗状態を感覚として捕らえた弾力性と融通性に富んだ梃子体を鍛練する。



その6

相手と接触する推手、断手、対人練習においては、相手と我の間に発生する作用反作用の拮抗状態を感覚として捕らえ、速くとも遅くとも速度と感度から万有引力の発生状態を捕らえる。

この種の機能を持った梃子体から自己の中心を使って相手に梃子入れを行い相対性対立状態から相手側の中心線を暴露させ、発力の機会を捕らえる練習を徹底的に行う。

推手は、なぜ回すのか?

どこからでも梃子入れが開始できるスタンバイ状態を体得する為であり、やり易いところでやっては、回すことが無駄になる。あらゆる時期と条件に対応する為の練習である。その為に微細な万有引力を捕らえることが出来るかどうか、そのコツは釣りと似たところが有り、アタリとなる浮きの状態を感覚として捕らえる観察動作にも似ている。

その為に大雑把に手や足を振り回して当てる練習ではなく、相手の中心を的中させる練習そのものが本丸である。その為に、椿站、試力、摩擦歩、発力など基本練習からの相対性対立状態と万有引力の具現化現実化練習であり、感覚が掴めれば、目に見えない物が見え、耳に聞こえない物が聞こえ、感じることができない物が感じられ、考えがつかなかった物が考えられる様になる。



その7

過去の日誌に紹介したとおり、下方に働く重力から逆方向に働く抗重力を感覚として捕らえてたとき、頭頂が上方に引っ張られる感覚として上下の相対性対立状態が発生します

これが中心です。

考えて、感じるは失敗を招き、感じて考えるが成功の秘けつです。

足は、大地を支え精神は、頭上を貫く。

足心となる足の土踏まずが生かせているか、手心となる手のひらのたなごころが

生かせていれば、さすれば頭心となる頭頂が生かせる。



釈迦の八正道に有る教えで強い者が勝つのではなく、怠らない者が勝つのである。 



意拳練習日詩第特72号


【全ての練習は発力の条件を備えることにあり、その条件を備えるには、効果の高い梃子入れが必要である。】

これは、昔、岳銘先生が言われていたことで、梃子入れの条件が揃わなければ、発力が出来ない、全部同じであるとも言われていました。

 

梃子入れ動作の要因とは、全て感覚操作であり、操作上のポイントが意拳論には示されていて、その効果は、各指導者からの実践操作を持って確認が出来る。


さて、ここに面白い文献があるクラウゼヴィッツの絶対的戦争論である。意拳を学ぶにあたって興味深いのでここに紹介します。


重心(Schwerpunkt, Center of gravity)とは、軍事学においては、戦場における力と運動の中心を指す概念である。

敵の弱点を突く

重心を攻撃する


重心とは敵の力の中心であり、弱点でもある。この重心を攻撃することによって敵の撃破、すなわち戦争の目標が達成される。


○重心は敵の弱点


 この項では、『戦争論』第八編ではじめて登場する「重心」の概念について見てみよう。


 重心の概念は、第8編第4章「戦争の目標に関するさらに厳密な定義――敵の撃破」の中でとりあげられている。重心とは、敵の力の中心であるとクラウゼヴィッツは述べている。いいかえれば、敵の弱点である。クラウゼヴィッツは、あらゆる力をもって重心を攻撃することによって戦争の目標、すなわち敵を撃破することができると述べている。


 1991年の湾岸戦争で、多国籍軍はイラク本土にまで侵攻しイラク軍は崩壊寸前だったが、クウェートを解放しただけでフセイン政権の打倒もイラク軍の撃滅も達成されず不十分な結果に終わった。多国籍軍はイラク軍を重心と判断したが、本当の重心はフセイン大統領個人だったという議論がある。


○重心の具体例


 クラウゼヴィッツは、それぞれの場合に重心は異なるとして、次のような例をあげている。?アレクサンダー大王、グスタフ・アドルフ、カール12世やフリードリヒ大王※の場合、重心はその軍隊にあった。?国内政治が不安定な国家の場合は、通常その重心は首都にある。?大国との同盟に頼る小国の場合は、重心は大国の方の軍隊にある。力関係が同等の同盟関係においては、重心は利害の一致する点にある。?国民の武装蜂起においては、重心はその指導者個人と世論にある。


 クラウゼヴィッツによると、攻撃はこれらの重心に対して指向されなければならないという。第一次世界大戦で、ロシアは常にドイツとオーストリアの両方を攻撃していたが、より強いドイツに戦力を集中すべきであった。


※この4人の国王はいずれも軍人として数々の戦争で輝かしい勝利をあげた。


概要 編集

重心はドイツにおける歴史的な軍事教義において用いられ、現代ではアメリカの軍事教義にも採用されている軍事理論の概念である。研究者クラウゼヴィッツは重心の概念を初めて理論的に位置づけようとしていたが、彼はいくつかの文章で微妙に異なる意味合いで重心を定義している。例えば戦略的な局面において、重心とはそれを打倒することにより決定的な影響を与えることができる戦力の配置と関係していることを説明している一方で、重心とは敵国が単一の戦役によって打破されうる場合にのみ認められるとも説明していた。さらにマイケル・ハワードとピーター・パレットによる翻訳によって、重心の概念はその理解をめぐっていくつかの見解が分かれることになった。


伝統的なドイツにおける解釈によれば、重心とは様々な状況における主要な戦力の焦点を意味するものとして捉えられていた。つまり重心とは指揮官が作戦を立案する上で自ら設定するものであって、敵の内在的な関係とは無関係であると考えられていた。したがって、重心とは目標の明確化や戦力の集中といった軍事作戦を考える上で不可欠な事項を考えるための概念であり、例えばゼークトは攻撃を考える上で重心を定めることが重要であると考えていた。また第一次世界大戦後に発表されたドイツ陸軍の教範類でも主たる戦力は常に決定的な地点に配置すること、そしてすべての攻撃には重心が含まれていることが述べられている。一方でクラウゼヴィッツの重心の概念は歴史的な文脈から解釈する学説もある。それは物理学の概念としての重心の概念を軍事的に置き直したものであり、戦闘における決定的な地点に集中したあらゆる戦力を意味すると考える立場である。つまりクラウゼヴィッツが強調しようとしていたことは戦闘における戦力の集中と理解する立場であり、その意味において決勝点の概念に近いと考えることができる。


意拳では、この重心を中心としている。この中心を暴露させ為、重力を使ってアンバランを発生させ、このアンバランを相対性対立操作により、中心を的中させ

崩壊させる技術である。



釈迦の八正道に有る教えで強い者が勝つのではなく、怠らない者が勝つのである。 


意拳練習日詩第特73号


【全ての練習は発力の条件を備えることにあり、その条件を備えるには、効果の高い梃子入れが必要である。】

これは、昔、岳銘先生が言われていたことで、梃子入れの条件が揃わなければ、発力が出来ない、全部同じであるとも言われていました。

 

梃子入れ動作の要因とは、全て感覚操作であり、操作上のポイントが意拳論には示されていて、その効果は、各指導者からの実践操作を持って確認が出来る。


さて、ここに面白い文献があるヘーゲルの矛盾概念である。

ヘーゲルは、相関性を次のようにして論理的矛盾に作り上げるのである。「対立物の各々は、第一に、他方が存在する限りにおいて存在する、第二にそれは他方が存在しない限りにおいて存在する」(1)と述べている。この意味からその内容は、他方が存在することや他方が存在しないという表現を相関性においては矛盾律を、犯しているように見える。しかし、より探求して考えて見るならば、この場合二つは決して同じ意味ではないことが明らかになる。この対立物は、他方は存在しまた存在しないといわれるがそれはいったいどこに存在しまた存在しないのか不明である。存在するといわれる場合は、それは右が左の地には存在しないこと両者が空間的に区別されていることを意味する。この相関性については、どんな独自の論理があろうとそれは少なくとも論理的矛盾ではない。われわれは、相関的なものの一側面を独立化された抽象とすればやがて思考内で論理的矛盾が生じるである。しかし、この一面化から生じるものは、論理的矛盾と相関性そのものをヘーゲルのように論理的矛盾とするのとは、別なことなのである。


 そこで言えることは、われわれがヘーゲルの積極面を継承し発展させることは彼のこうした混乱を、明確に批判することにある。そこにおいてわれわれは、ヘーゲルが対立から矛盾へ移っていく際の最後に矛盾と考える事態とは何かを捉え、そこにどんな問題があるかを明らかにしなければならない。われわれは、すでにヘーゲルが対立物の分極的な各側面のうちにどのようにして論理的矛盾を見出してくるかを見たのである。そして、そこに見出される内実は、ヘーゲルが考える論理的矛盾がそこにおいて対立から矛盾への認識過程を、なしているものである。すなわち、一方でヘーゲルは、対立その物の内に矛盾を発見するのであるから対立と矛盾とは、同じものであるように見える。ところが他方でヘーゲルは、矛盾の内にある新しい事態について述べているようにも、見えるのである。つまり、ヘーゲルの矛盾は、対立と違っているようにも見えるがこの問題を解決するためには、我々は先ず矛盾の下でどういう事態を考えているかを、見定めなければならない。


 ヘーゲルによれば、対立と区別して矛盾の下で新しく展開される事物のうちに内在する否定性を把握し、自己運動を認識することにある。換言するならば、或る事物が自分自身のうちにその自己否定を内在した他のものを、含んでいると言うことである。対立から矛盾への移行について言えば、ヘーゲルは先ずこのような事態を対立の各側面のうちに見出して今度は広くこのような事態そのものを、矛盾という新しいカテゴリーとしたのである。このような、対立する事態は、この矛盾という事態について相関の各側面にのみ留まらず事物一般に適用することが、できるようになる。たとえば、生あるものは、萌芽の時から死を自己のうちに含むと言うように理解することが、できるようになる。だから、一般に矛盾という事態は、すべて世界を動かすものは矛盾であるという内容が矛盾という概念をそのような意味において、用いているのである。簡単にいえば、対立において二つのものが相互に向かい合っている事態が考えられていたのが、矛盾においては自己のうちにその否定が内在するという事態が、考えられるのである。ヘーゲルが、このような事態を見出してそれを世界の原理としたことは彼の大きな功績であると言えるだろう。


 だがしかし、ヘーゲルにある混乱は、その方法の本質において相関性の一側面から他の側面へと進む思考過程を、実体化するために同時的な連関と変化における連関とがその思弁のうちでは、区別されなくなることにある。つまり、ヘーゲルの思弁の内には、相関性の一側面の矛盾も変化する事物のうちにある矛盾も同じものに、なってしまうのである。ヘーゲルは「運動や衝動のようなものの内では、矛盾はこれらの規定の単純性のうちに隠されていて、表象には見えなくなっているが、これに反して相関的な規定のうちでは、矛盾は直接にその姿を現す。上と下、右と左、など無数の最もありふれた例は、すべて一方のうちにその対立を含んでいる。上は、下でないものとしてのみ規定されており、しかも下がある限りにおいてのみ存在する。その逆の場合も同じである。つまり、一方の規定のうちにその反対が存在する」(2)と述べている。このような対立は、論理的矛盾でもなければまた現実的矛盾でもなくて単なる相関性なのである。


 われわれは、このような対立をそこに現実的矛盾を見出そうとするならば、相関する二つの側面の間に現実的な抗争関係が示されなければ、ならないのである。ここにおける問題は、ヘーゲルが捉える矛盾の規定を事物の変化との関係において、どう評価したらよいかと言うことである。この規定そのものは、正しいがそこにはなお明らかにすべき二つの問題がある。その一つの物は、それは果たして論理的矛盾であろうかという問題であり、もう一つのものはそれが現実的矛盾とどんな関係にあるか、という問題である。第一の問題は、ヘーゲルが自分自身のうちに矛盾を持つ限りにおいてのみ運動し、衝動と活動性をもつという場合にこれは決して、論理的矛盾ではない。ヘーゲルは、これによって反弁証法的思考を破ることはできるがアリストテレスの矛盾律を、破ることはできないのである。ヘーゲルは、具体的な例について語る場合にそのように言ってはいない。たとえば、彼自身は、いわば生命は自己のうちに死を含むという関係を具体的には次のように言い表現している。「生あるものは死ぬ、しかもその理由は、生あるものが生あるものとして死の萌芽を自己自身のうちに持っているからである」(3)と述べている。




意拳は、この矛盾の状態を重力から自己を中心に上下前後左右へ三次元的に発生させ、それに伴う相対的に働く対立状態を操作する技術である。



釈迦の八正道に有る教えで強い者が勝つのではなく、怠らない者が勝つのである。 



意拳練習日詩第特74号


【全ての練習は発力の条件を備えることにあり、その条件を備えるには、効果の高い梃子入れが必要である。】

これは、昔、岳銘先生が言われていたことで、梃子入れの条件が揃わなければ、発力が出来ない、全部同じであるとも言われていました。

 

梃子入れ動作の要因とは、全て感覚操作であり、操作上のポイントが意拳論には示されていて、その効果は、各指導者からの実践操作を持って確認が出来る。


さて、ここに面白い文献がある「慣性の法則」も「相対性理論」も結局、釈迦の教えと同じである。

この宇宙はすべてが運動と変化をしている、つまり「空」なものであるとすれば、何か他に「固定されて、動かないもの」「変化しないもの」、つまり「空でないもの」は宇宙にないのであろうか。


それが厳然としてあるのだ。真理という「原理」「原則」「法則」というルールである。


19世紀までは、物質あるいは質量(重さ)が、この変化しないもの(不変なもの)ではないのか、と言われた。


そしてそれが「物質不滅の法則」「質量保存の法則」(化学反応の前と後で物質の総質量は変化しないという法則)などと呼ばれた。


物理学における「絶対不変なもの」

しかし現代の科学、物理学ではこれは否定されている。それならば、「絶対不変なもの」は他にないのか。


この問いを、「保存法則」(物理的変化あるいは化学的変化の前後で物理量の値が変わらないという法則)はないのか、と問い直すこともできる。ここで「保存」というのは「変わらないもの」という意味である。


それがあるのだ。


それは、「運動の勢い」と呼ばれるものである。もちろん、この「運動の勢い」は速度と関係する。速度が速いほど勢いは大きくなる。また質量は大きい(重い)ほど大きくなる。


飛んでくる石に当たったとき、石の速度が大きいほど、石が重いほどダメージは大きくなるのだ。この量は「エネルギー」と「運動量」と呼ばれる。


エネルギー=質量×速度×速度に比例する量

運動量=質量×速度


ただし、これはニュートン力学の段階の定義であり、ミクロな原子物理の世界になれば、表現は異なってくる。エネルギーと運動量はいついかなる時にも、いかなる場所でもいつも不変なのだ。これが般若心経でいう「不増不減」「不生不滅」の真理と同じということになる。


アインシュタインも包括する


気がつけば、科学や物理学には他にも絶対不変なものがたくさんある。それらは「基本法則」(自然現象を支配する基本的な法則)と呼ばれている。


たとえば「ニュートンの法則」(すべての物体は、外から力が加わらない限り、同じ速さで直線運動をし続ける)がそれである。


「ニュートンの法則」によって、トイレで出すおしっこの流れる形(放物線軌道に近いもの)は決まる。この形は別のトイレでも変わらない。新幹線のトイレでもジェット機のトイレでも同じではないか!(試しにやってごらん)


もちろん、トイレでのおしっこの流れる形は昔も変わらなかった。このようにして「ニュートンの法則」は「基本法則」であり、これはいつも、どこでも不変な法則なのだ。これこそ、「不増不減」「不生不滅」と同じということができる。


アインシュタインはこの不変法則を「相対性原理」と述べた。アインシュタインの「特殊相対性理論」と「一般相対性理論」の出発点は、この「相対性原理」という哲学、つまり「不増不減」「不生不滅」の教えにあるのだ。


画・田中ひろみ

『般若心経』に科学の本質がある

「相対性原理」は物理学の基本法則がいついかなる時にも、またいかなる場所でも不変なものという原理であるから、逆に物理学の法則のうちで、ごくごく基本的で絶対不変な基本法則がどれかを判定するのに役立つ。


つまり、物理学で最終的な真理を見つけることが出来る。『般若心経』の「不増不減」「不生不滅」という哲学が、アインシュタインの「相対性原理」までも包括しているとは驚きではないか!


私が子供の頃から疑問に思っていた、「地球はなぜまわり続けるのか?」への答えであるニュートンの「慣性の法則」。目に見えるもの、形づくられたものは、実体として存在せずに時々刻々と変化しているという「諸行無常」。


また、マルクス・エンゲルスの「唯物弁証法」(弁証法的に運動する物質が精神の根源であるという考え方)。何事も理由なしには起こらないというライプニッツの「充足理由律」。 アインシュタインの不変法則である「相対性原理」。


それらすべてを、紀元前5世紀ごろに生まれた釈迦はすでに知っていて、『般若心経』にもそのことが書かれているのではないか。釈迦は偉大な哲学者で科学者であり、『般若心経』には科学の本質が入っているのだ。

この様な哲学者が、西洋のキリストが生まれる約500年前に東洋に誕生し、紀元前から現代に至る間、幾多もの賢者が生まれその真理は、同様に一貫し意拳にも共通することに興味を捨てきれない。

それ故に拳学の真理とも言われるのが納得できる。



釈迦の八正道に有る教えで強い者が勝つのではなく、怠らない者が勝つのである。 


意拳練習日詩第特75号


【全ての練習は発力の条件を備えることにあり、その条件を備えるには、効果の高い梃子入れが必要である。】

これは、昔、岳銘先生が言われていたことで、梃子入れの条件が揃わなければ、発力が出来ない、全部同じであるとも言われていました。

 

梃子入れ動作の要因とは、全て感覚操作であり、操作上のポイントが意拳論には示されていて、その効果は、各指導者からの実践操作を持って確認が出来る。


その1【矛盾力】

矛盾論は、アルキミデスの矛盾律から歴史上の様々な矛盾論が紹介されていて共有するところもあり、その分野別に知識や経験により

異なるところもあるが、意拳のターゲットは、何か

そのターゲットとは、局部的な箇所を狙って崩壊させることではない。それでは何処なのか相対的にバランスを保った中心である。

即ち、中心の在りかを探せ

中心とは、物理的には重心であり、その重心を暴露させ、バランスを崩壊させる為である。

これは、クラウゼビッツの絶対戦争論にある敵に決定打を与えるには、敵の重心を叩け、さすれば敵の戦闘力は崩壊するとあるように

物理的な思考過程からも興味深い内容である。

全ての物体は、有る力が働いた時、必ず反対の力が発生する為、最も現実に感覚として捕らえる力は、重力と、その反対に働く抗重力であり、足の裏側がから頭頂までの上下に対立した螺旋を伴った上にも下にも偏りのない同時に発生した力を感覚として捕らえているこの対立状態とは、均整を保ち中性浮力の様な状態、或いは無重力の様な状態を意拳では、矛盾の状態と表現している。

この上下の矛盾の状態から自己の中心を感覚として捕らえれば、左右及び前後へと三次元的に全周多面方向への矛盾の状態が発生する即ち何時でも何処でも中心の在りかを的中するための原理原則である。



その2【抽象の中に具体性を求める】

これら、どちらにも偏りのない矛盾の状態から偏りが在れば同時同一全身各部一致により逆向から均整を保った基本練習により、自己の中心を獲得する。

故に練習の比喩やヒントとして、ボール、大木、水飴やスプリング、ゴム、水中、泥沼など物体そのものが作用と反作用が同時に発生する矛盾の状態を持っているものに例えているので、考えて固執する必要はなく、感じることを優先して矛盾の状態を追求する。それが、対人練習において感覚とされる作用と反作用が同時に発生する矛盾の状態であり、矛盾の力を発揮する。


その3【守中用中】

獲得すれば、自己は、矛盾の状態となり、自己に対して在る力が働けば、自己を中心に反対に働く力を全身各部一致の相対的対立操作により、相手側の中心を暴露させ、矛盾の力を発揮することで、相手側の中心を崩壊させることができる。

即ち、自己が矛盾の状態であれば、相手側との接触により、矛盾の力を発揮することができる。



その4【無力の中に力を求める】

基本練習から対立練習において、一貫した共通事項は、自己を中心に矛盾の状態を保ち、在る力が働けば必ず矛盾の力を発揮することができる。その力を発揮する為の運動は、矛盾の状態を保有し螺旋を伴った梃子の原理等を活用した様々な物理的な力学から反対に働くを発揮する。この際、意識による局部的な力みがなく、無意識による防衛反応から力みがない体全体の運動が一致していることが特徴である。

意識的な力は、腕力による単なる力み感覚であり、無意識的な力は、体全体が一致した梃子の力学を運用するため力み感覚がない。

アルキミデスの梃子の原理を連鎖的に運用すれば、僅かな力で大きな力を発揮するため力量は倍加する



その5【中心的中】

一触即発による対人練習において螺旋を伴った在る力が作用した時、防衛反応と物理的反作用が同時に発生した瞬間に作用と反作用の対立状態がその中心である感覚を捕らえて、その中心暴露させ、崩壊させる。この同時に対立する感覚を上下前後左右及び全周多面的並びに三次元的に瞬間的に捕らえる。この為、対人練習は、局部的な練習ではなく、積極的に攻防一体化し或いは主導的立場と受動的立場の一体化した体全体による三次元的な状態から相手側の中心を的中させる練習へとレベルアップが必要である。



その6【抽象の中に具体性を求める】

考えて意識的に捕らえるのではなく、感じて考える感覚を練習する様に温度の変化を捕らえる皮膚感覚の様に無意識で行われ此を考えて聞く、又は読む様に磨く

動作の外観は拙劣であり誰でも真似ができるが、内観の巧妙さは、まるで生糸を斬らずに操る様な感覚で繊細であり、或いは、釣り糸を垂らして、浮きを観察し、その当たりを捕らえて釣りあげる。その当たりは、眼を凝らしても力んでもだめ、観察して、矛盾の状態に似た感覚で捕らえる。

特に揺法と旋法の練習は、中心を的中させる為の重要な練習である。揺法は、側面斜面を捕らえ、旋法は、揺法の連続で螺旋力を発揮する。

歩法においても、揺法と旋法の機能が発揮され、駒の回転の様に動き、相手が動けば、矛盾の状態を保ち、螺旋を伴って先発して進撃し、或いは後発して迎撃する様に何時接触しても螺旋して矛盾の力を発揮する。



その7【微動の中に速度を求める】

常時、体全体は無意識に螺旋を伴った重力から矛盾の力を得ている。

駒の回転や地球の自転に似ている。地学の範囲から共有すると中心となる地軸が回れば、地球が回り、それに伴い地球を覆う大気や水も回り、渦ができ、波が起き、気流や海流が発生し、遠心力や向心力等の様々な物理的な力学が発生し、その影響を常に受けているため、生物は自転に伴って体内時計や発生する重力に伴って防衛反応による平衡感覚等を共有化して物理的な力学と生理的及び心理的な側面からも影響を受けた弁証法的唯物論は、否定できない。

地球は、自転してその外観は素早く大きく動いている様に目に見え、逆に中心にある地軸は、止まって様に見えるが内観で観る地軸は、非常に小さく微動或いは不動にあり最も速く地軸は、回転している。





釈迦の様な賢者が、西洋のキリストが生まれる約500年前に東洋に誕生し、紀元前から現代に至る間、幾多もの賢者が生まれその真理は、同様に一貫しシンクロしている。意拳にも共通することに興味を捨てきれない。


それ故に拳学の真理とも言われるのが納得できる。



釈迦の八正道に有る教えで強い者が勝つのではなく、怠らない者が勝つのである。 


意拳練習日詩第特76号


【全ての練習は発力の条件を備えることにあり、その条件を備えるには、効果の高い梃子入れが必要である。】

これは、昔、岳銘先生が言われていたことで、梃子入れの条件が揃わなければ、発力が出来ない、全部同じであるとも言われていました。

梃子入れ動作の要因とは、全て感覚操作であり、操作上のポイントが意拳論には示されていて、その効果は、各指導者からの実践操作を持って確認が出来る。



【矛盾の力を体得する】

地面に対して重力、対立して身体に対して抗力を感じて、その双方に同時に反発して対立する中間の状態が重心であり、自己の中心である此を矛盾の状態と言う。この矛盾状態を掴めば自己を中心に前後左右へと膨張拡大し三次元的に自己の中心を体得することができます。即ち「有る力が働けば、必ず反対に働く力が発生する。」これらを基本練習から対人練習までの様々な千変万化から臨機応変の矛盾の状態を捕らえ矛盾の力の体得を目標に励んで下さい。

ここで、共通する興味深い話しだが、人間の体格に大小色々あるが、リアルタイムに二足の足裏で立ち重心を安定させているのは、人類全体の絶対条件である。

最も信頼できる状態とは、リアルタイムと地面を踏んで足裏で感じる重力である実感であり、そこには、未来の不安も過去の後悔も迷信的思想もない現在進行形である。もし、不安の未来と後悔の過去ではない客観的な未来と過去が有るとすれば、矛盾の状態の範囲から片寄らない見透せる未来「読み」であり、見返せる「聞き」である。この範囲から逸脱すると悲観的な未来と過去に悩まされる。


即ちこのリアルタイムの実感による重心は、螺旋を帯びた中心であり、体の大小に関わらず唯一無二の最大の弱点である。

意拳は、この最大の弱点を叩くのである。

矛盾の状態の実感とは、どちらか一方に偏りが無く、双方順逆同時に働いていて、有るようで無い、無いようで有る或いは上に行けば下に牽かれ、下に行けば上に牽かれ、左に行けば右に牽かれ右に行けば左に牽かれ、前に行けば後ろに牽かれ、後ろに行けば前に牽かれる状態が同時に働く、この様な状態が左右、上下、多面的に同様に働いてその身体操作は、終始全身一致している。この際、重力と抗重力の上下に働く矛盾の状態から螺旋を帯びた中心を主軸に体得することが極めて重要である。

それでは中心とは、外観的中心は、目に見える鼻と口を中心に通る正中線であり、その中心は鼻である。対して内観的中心は、重力と抗重力の上下に働く螺旋を帯びた中心線でありその中心は、双方同時に対立する矛盾の状態が発生するところである。

全身一致の要領は、各指導者から伝授されるのでここでは、省略する。



【站椿練習】

静止不動における各種站椿練習を通じて、「有る力が働けば、必ず反対に働く力が発生する」この双方順逆同時に働く相対性対立状態を自己を中心した矛盾の状態と言い、各種站椿における各種矛盾の状態を全身一致で多面的に捕らえ各種矛盾の力を多面的に体得する。この際、重力と抗重力の上下に働く矛盾の状態から螺旋を帯びた中心を主軸に体得することが極めて重要である。

皮膚感覚と同様、無意識に行われる感覚であり、重心を安定化させる為の防衛反応であるため、考えて感じるのではなく、感じて考える感覚練習である。

【秘訣】

「矛盾の状態から中心を掴め」



【試力練習】

静止不動の站椿練習から自己を中心した矛盾の状態を維持した状態で上下へ前後へ左右へ旋回へと多面的に三次元的に「有る力が働けば、必ず反対に働く力が発生する」この双方順逆同時に働く相対性対立状態を体得した緩やかな梃子運動による各種可動練習から動けば必ず反対に働く力が同時に発生し全身一致の各種矛盾の力を体得する。

重要なポイントは、重心を安定させる足裏は、身体操作による矛盾の状態を作用させることで重力を落下させ、地面からの抗力を反作用をさせ、全身一致の矛盾の力を体得した梃子運動を行う。練習の秘訣は、外観動作は、ゆっくりと緩慢であるが内観は、生糸を操る様にと切らせず、ゆっくりの動作中の全てが順逆同時の矛盾の状態を体得する為で、全身一致して偏りが無い状態である。

即ち何時でも何処でも動けば必ず矛盾の状態が発生し矛盾の力を発揮する。

この際、重力と抗重力の上下に働く矛盾の状態から螺旋を帯びた中心を主軸に体得することが極めて重要である。

【秘訣】

「矛盾の状態から中心を掴め」



【摩擦歩練習】

自己を中心した矛盾の状態を維持した状態で前進後退停止、方向変換し上下へ前後へ左右へ旋回へと多面的に三次元的に「有る力が働けば必ず反対に働く力が発生する」この相対性対立状態を保った緩やかな梃子運動による各種歩法練習から各種矛盾の力を体得する。

歩法練習は、必ず矛盾の力を有する梃子運動である。

前進すれば、後ろに牽かれ後退すれば、前に牽かれる様に練習の秘訣は、外観動作は、ゆっくりと緩慢であるが内観は、生糸を操る様にと切らせずゆっくりの動作中の全てが順逆同時の矛盾の状態を体得する為で、全身一致して偏りが無い状態である。

この様に双方順逆同時に働く相対性対立状態を体得すれば、何時でも何処でも動けば必ず螺旋を帯びた矛盾の状態が発生する。

この際、重力と抗重力の上下に働く矛盾の状態から螺旋を帯びた中心を主軸に体得することが極めて重要である

【秘訣】

「矛盾の状態から中心を掴め」



釈迦の八正道に有る教えで強い者が勝つのではなく、怠らない者が勝つのである。



意拳練習日詩第特77号


【全ての練習は発力の条件を備えることにあり、その条件を備えるには、効果の高い梃子入れが必要である。】

これは、昔、岳銘先生が言われていたことで、梃子入れの条件が揃わなければ、発力が出来ない、全部同じであるとも言われていました。

梃子入れ動作の要因とは、全て感覚操作であり、操作上のポイントが意拳論には示されていて、その効果は、各指導者からの実践操作を持って確認が出来る。



【発力練習】

試力練習から矛盾の状態を維持した状態で上下へ前後へ左右へ旋回へと多面的に三次元的に「有る力が働けば、必ず反対に働く力が発生する」この双方順逆同時に働く相対性対立状態を体得した緩やかな梃子運動から動きは一変して、瞬間的に地面を踏んだ反作用は、螺旋力と弾力性に富み、均整がとれ、小さく、鋭く、軽やかで威力は、絶大となる必要最小限となるコンパクトな全身一致の動きとなる各種発力練習から動けば必ず反対に働く力が同時に発生し全身一致の各種矛盾の力を体得する。発揮すれば、無駄な力みが無く、バネやゴム毬の様に即リラックスして基の発揮位置に自然に戻る非常に小さな全身一致の状態である。見た目が派手な格好を付けたダアナミックな動作ではなく、シンプルで、その動作は相手を引摺り込んで突き放す状態であるが動作が極限まで小さく見てとれない地味な振動の動作に近いが確実に相手の最大の弱点である中心を的中させ、崩壊させる。

【秘訣】

「矛盾の状態から中心を掴め」



【試声練習】

発力練習に合わせて行う

横隔膜運動を矛盾の力で発揮する発声練習である。

当初の発声練習は、有声で試力練習から矛盾の状態を維持した状態で上下へ前後へ左右へ旋回へと多面的に三次元的に「有る力が働けば、必ず反対に働く力が発生する」この双方順逆同時に働く相対性対立状態を体得した緩やかな梃子運動に合わせて上下の作用反作用により横隔膜を降下させ矛盾の状態と同時に明朗に長く声を発する練習から動きは一変して、瞬間的に地面を踏んだ作用反作用に合わせて短く鋭く横隔膜を降下させる短切に強い発声練習を行い、発力における身体操作と同時に発声され螺旋力と弾力性に富み、均整がとれ、小さく、鋭く、軽やかで威力は、絶大となる必要最小限となるコンパクトな全身一致の動きとなる各種発力練習から動けば必ず反対に働く力が同時に発生し全身一致の各種矛盾の力を体得する。発揮すれば、声は無声とり、横隔膜は発力動作に合わせて弾力的な振動をして、無駄な力みが無く、バネやゴム毬の様に即リラックスして基の発揮位置に自然に戻る非常に小さな全身一致の状態である。見た目が派手な格好を付けたダアナミックな動作ではなく、シンプルで、その動作は相手を引摺り込んで突き放す状態であるが動作が極限まで小さく見てとれない地味な振動の動作に近いが確実に相手の最大の弱点である中心を的中させ、崩壊させる強力な要因である。

【秘訣】

「矛盾の状態から中心を掴め」



【対人練習】

推手、断手、対抗練習は、

地面に対して重力、対立して身体に対して抗力を感じて、その双方に同時に反発して対立する中間の状態が重心であり、自己の螺旋を帯びた中心である此を矛盾の状態と言う。この矛盾状態を掴めば自己を中心に前後左右へと膨張拡大し三次元的に螺旋を帯びた自己の中心を体得することができる。即ち「有る力が働けば、必ず反対に働く力が発生する。」

これらを基本練習で体得して、対人練習時に接触が発生する接触箇所は、矛盾の状態を有する梃子の原理から支点となり、重力と対立する足裏は力点となり「有る力が働けば、必ず反対に働く力が発生する。」様々な千変万化から何時でも何処でも臨機応変の矛盾の状態を捕らえ作用点となる矛盾の力の発揮を体得する。

自己の中心を守り自己の中心を用いて、「有る力が働けば、必ず反対に働く力が発生する。」この間に相手の移動中、準備中、調整中の重心(中心)を暴露させ、崩壊させる。

実戦では、スタートが予想出来なく意識的にとれないため、無意識的にスタートができる練習が推手練習である。

特に推手練習では、何処からでも無意識にスタートができる如く、意識的にスタートをしてはいけない様に何時でも何処でも矛盾の力を発揮できる様に接触したまま円周に回す円周運動内の何処でも場所及び時間を撰ばず、機会を求めず意識的に考えず、感じて機会を捕らえる様に例えて、釣りにおいて釣り糸及び浮きを通じた当たりの機会を矛盾の状態の感覚として捕らえることを優先して、矛盾の状態の範囲から片寄らない見透せる未来を「読み」取り、見返せる「聞き」取りで相手側からの有る力が働けば、力み感覚のない防衛反応により直ちに反対に働く力で応じる

これを接触箇所の腕力のみで行えば、力み感覚が発生し使い物にならない。

また、この範囲から逸脱すると敗因を招く結果になる。常時矛盾の状態から螺旋を帯びた自己の中心を感覚として保持しなけばならない。

接触した状態から離れることなく、接触箇所から手による大きな動作はしない。

接触箇所は、矛盾の状態を保った梃子運動による支点であり、地面を踏む足裏は力点である。

相手側からの有る力が働けば、力み感覚のない防衛反応により直ちに反対に働く矛盾の力で応じて、作用点となる相手の中心の在りかを暴露させ、崩壊させる運動は、千変万化により臨機応変に密接かつ継続的に発揮される。

それでは中心とは、外観的中心は、目に見える鼻と口を中心に通る正中線であり、その中心は鼻である。対して内観的中心は、重力と抗重力の上下に働く螺旋を帯びた中心線でありその中心は、双方同時に対立する矛盾の状態が発生するところである。この中心を捕らえた瞬間、好機が訪れ勝因を招く。

【秘訣】

「矛盾の状態から中心を掴め」



釈迦の八正道に有る教えで強い者が勝つのではなく、怠らない者が勝つのである。 


意拳練習日詩第特78号


【全ての練習は発力の条件を備えることにあり、その条件を備えるには、効果の高い梃子入れが必要である。】

これは、昔、岳銘先生が言われていたことで、梃子入れの条件が揃わなければ、発力が出来ない、全部同じであるとも言われていました。

梃子入れ動作の要因とは、全て感覚操作であり、操作上のポイントが意拳論には示されていて、その効果は、各指導者からの実践操作を持って確認が出来る。


その1

【相対性】

有る力が働いた時、必ず反対に働く力が発生する。

【相関性】

互いに関連し影響を及ぼしあっている。

「有る力が働けば、必ず反対に働く力が発生する」

例えば、人が壁を押すと壁から人を押し返してくる実感がある。これが作用反作用である。

このように相互に対立したどちらにも力が拮抗した均整状態、どちらにも偏りが無い状態、作用反作用の状態を意拳では、矛盾の状態と呼び三次元的に相関性があるこの状態が物体の合力となる中心であり、重心である。

矛盾の状態とは、「有る力が働けば、必ず反対に働く力が発生する」この対立状態を体得することが目的である。


その2

站椿では、静止不動の状態で唯一、足裏のみが重力に従って地面を押して作用させ、そして地面から押してくる反作用を受けた上下の対立状態から中心(重心)を捕らへ、更に拡大して前後左右へ更に多面に働く対立状態を矛盾の状態と呼び三次元的に相関性があるこの状態を物体の合力となるこの状態が中心となる重心である。(重心)を全身一致で体得することが可能である。


体は、静止しているが、終始、矛盾の状態となる対立運動を続け中心(重心)の在りかを獲得している。

【即ち静中の動】である。

矛盾の状態とは、「有る力が働けば、必ず反対に働く力が発生する」この対立状態を体得することが目的である。


その3

試力、摩擦歩、発力、試声

などの運動状態から唯一、足裏のみが地面に作用させ、そして地面からの反作用を受けた上下の対立から中心(重心)の在りかを獲得し、更に三次元的に拡大して前後左右へ更に多面に働く対立から中心(重心)在りかを終始、全身一致で体得することが可能である。


特に発力は、極限まで小さくコンパクトに瞬間的に全身一致が目的である。

即ち、ダアナミックなリードは捕らず、接触した状態から瞬間に発する力である。

体は、絶えず動いている間も終始、矛盾の状態となる対立運動を続け中心(重心)の在りかを獲得した静止不動の状態である。

【即ち動中の静】である。

矛盾の状態とは、「有る力が働けば、必ず反対に働く力が発生する」この対立状態を体得することが目的である。


その4

対人練習

相手の弱点は何処に在るか

人中なのか、頭部なのか、首なのか、目なのか、こめかみなのか、脇腹なのか、みぞうちなのか、大腿部なのか、それら全ては、局部であり、動き回る中、当てるまで非常に難しく、当たらなかったら消耗戦が余儀無く続き、当たっても軽度であれば、効果なし。

意拳では、一貫している弱点は、相手の中心(重心)である。

基本練習では、対人状態を想定して行い。

対人では、基本練習状態を想定して行う。

基本練習により矛盾の状態から自己の中心(重心)の在りか(弱点)を獲得すれば、矛盾の力を体得することができる。

即ち【守中用中】の秘訣である。

対人練習では、相手と自己との対立運動から矛盾の状態を捕らえ相手の中心(重心)の在りか(弱点)を捕らえ、その中心(重心)を崩壊させる。

即ち相手と接触すれば必ずや「有る力が働けば、必ず反対に働く力が発生する」この時、中心(重心)の在りか(弱点)が出現する。この矛盾の状態を体得し相手の中心(重心)の在りか(弱点)を暴露させ、接触した状態からリードを捕らず発力の好機を捕らえる。

意拳では、対立する矛盾の状態から自己の中心を体得し、矛盾の力を発揮する。

矛盾の状態とは、「有る力が働けば、必ず反対に働く力が発生する」この対立状態から相手からの作用をこちらの反作用により中心(重心)調整中のところを暴露させ、この弱点である中心(重心)を乱して崩壊させる。これらを体得することが目的である。



釈迦の八正道に有る教えで強い者が勝つのではなく、怠らない者が勝つのである。 


意拳練習日詩第特79号


【全ての練習は発力の条件を備えることにあり、その条件を備えるには、効果の高い梃子入れが必要である。】

これは、昔、岳銘先生が言われていたことで、梃子入れの条件が揃わなければ、発力が出来ない、全部同じであるとも言われていました。

梃子入れ動作の要因とは、全て感覚操作であり、操作上のポイントが意拳論には示されていて、その効果は、各指導者からの実践操作を持って確認が出来る。


その1

【相対性】

有る力が働いた時、必ず反対に働く力が発生する。

【相関性】

互いに関連し影響を及ぼしあっている。

「有る力が働けば、必ず反対に働く力が発生する」

例えば、人が壁を押すと壁から人を押し返してくる実感がある。これが作用反作用である。

このように相互に対立したどちらにも力が拮抗した均整状態、どちらにも偏りが無い状態、作用反作用の状態を意拳では、矛盾の状態と呼び三次元的に相関性があるこの状態が物体の合力となる中心であり、重心である。

矛盾の状態とは、「有る力が働けば、必ず反対に働く力が発生する」この対立状態を体得することが目的である。


その2

站椿では、静止不動の状態で唯一、足裏のみが重力に従って地面を押して作用させ、そして地面から押してくる反作用を受けた上下の対立状態から中心(重心)を捕らへ、更に拡大して前後左右へ更に多面に働く対立状態を矛盾の状態と呼び三次元的に相関性があるこの状態を物体の合力となるこの状態が中心となる重心である。(重心)を全身一致で体得することが可能である。


体は、静止しているが、終始、矛盾の状態となる対立運動を続け中心(重心)の在りかを獲得している。

【即ち静中の動】である。

矛盾の状態とは、「有る力が働けば、必ず反対に働く力が発生する」この対立状態を体得することが目的である。


その3

試力、摩擦歩、発力、試声

などの運動状態から唯一、足裏のみが地面に作用させ、そして地面からの反作用を受けた上下の対立から中心(重心)の在りかを獲得し、更に三次元的に拡大して前後左右へ更に多面に働く対立から中心(重心)在りかを終始、全身一致で体得することが可能である。


特に発力は、極限まで小さくコンパクトに瞬間的に全身一致が目的である。

即ち、ダアナミックなリードは捕らず、接触した状態から瞬間に発する力である。

体は、絶えず動いている間も終始、矛盾の状態となる対立運動を続け中心(重心)の在りかを獲得した静止不動の状態である。

【即ち動中の静】である。

矛盾の状態とは、「有る力が働けば、必ず反対に働く力が発生する」この対立状態を体得することが目的である。


その4

対人練習

相手の弱点は何処に在るか

人中なのか、頭部なのか、首なのか、目なのか、こめかみなのか、脇腹なのか、みぞうちなのか、大腿部なのか、それら全ては、局部であり、動き回る中、当てるまで非常に難しく、当たらなかったら消耗戦が余儀無く続き、当たっても軽度であれば、効果なし。

意拳では、一貫している弱点は、相手の中心(重心)である。

基本練習では、対人状態を想定して行い。

対人では、基本練習状態を想定して行う。

基本練習により矛盾の状態から自己の中心(重心)の在りか(弱点)を獲得すれば、矛盾の力を体得することができる。

即ち【守中用中】の秘訣である。

対人練習では、相手と自己との対立運動から矛盾の状態を捕らえ相手の中心(重心)の在りか(弱点)を捕らえ、その中心(重心)を崩壊させる。

即ち相手と接触すれば必ずや「有る力が働けば、必ず反対に働く力が発生する」この時、中心(重心)の在りか(弱点)が出現する。この矛盾の状態を体得し相手の中心(重心)の在りか(弱点)を暴露させ、接触した状態からリードを捕らず発力の好機を捕らえる。

意拳では、対立する矛盾の状態から自己の中心を体得し、矛盾の力を発揮する。

矛盾の状態とは、「有る力が働けば、必ず反対に働く力が発生する」この対立状態から相手からの作用をこちらの反作用により中心(重心)調整中のところを暴露させ、この弱点である中心(重心)を乱して崩壊させる。これらを体得することが目的である。



釈迦の八正道に有る教えで強い者が勝つのではなく、怠らない者が勝つのである。 


意拳練習日詩第特80号


【全ての練習は発力の条件を備えることにあり、その条件を備えるには、効果の高い梃子入れが必要である。】

これは、昔、岳銘先生が言われていたことで、梃子入れの条件が揃わなければ、発力が出来ない、全部同じであるとも言われていました。

梃子入れ動作の要因とは、全て感覚操作であり、操作上のポイントが意拳論には示されていて、その効果は、各指導者からの実践操作を持って確認が出来る。


その1

【万里一空】

1つの空のもと世界は1つに繋がっていることから、物事を冷静に捉える精神を表し、現代では意味が広がり、「1つの目標に向かって努力し続ける」という意味である。



その2

この様に万里一空を追求すれば、洋の東西を問わず古きは、東洋の陰陽思想からニュートンのリンゴが落ちる法則まで一貫して共通していることがある。

それは、有る力が働いた時、必ず反対に働く力が発生する。

この様に古から現代に至るまで数々の賢者が一貫していることがある。これを

「シンクロニティ」と言う簡単に言うと意味のある偶然の一致や、偶然が偶然を呼ぶなどという現象を示したことである。



その3

このように相互に対立した

状態を相対性と言い、この対立状態が自己の中心(重心)である。

意拳では、此を矛盾の状態と言う。

基本練習では、この矛盾の状態を体得する。



その4

対人練習では、体得したこの矛盾の状態をもってあらゆる方向からの対立を矛盾の状態へ操作する運動により相手の最大の弱点である中心(重心)を的中させる。練習間終始、相手との接触にいて、有る力が働けば必ず反対に働く力が発生する。この様に対立した作用反作用の状態をとらへ、これを作用反作用で操作するその際、常に全身はどの方向からも矛盾の状態となり一致して矛盾の力を発揮する。



その5

技の優劣は、拳技ではなく足技ではなく、間接技ではなく、投げ技ではなく、速さではなく、大きさではなく、格好よさではない、全身一致して矛盾の力を発揮することのみを追求することが最善である。

全ての練習は、この為に有る。

その為、矛盾の力を無視した妄想や既成概念や迷信的思想は、一切排除する。

矛盾の状態を体得し自己の中心(重心)をとらへ、此を操作して、相手の弱点である中心(重心)を的中させる矛盾の力を発揮する。この様に矛盾の力と言う「1つの目標に向かって努力し続ける」



釈迦の八正道に有る教えで強い者が勝つのではなく、怠らない者が勝つのである。