演技の根幹
及川廣信
マイムは芸術の一部門であるとともに、人間というものを知るため、また表出するための基本的な分野であると思います。英国のケンブリッジ派のハリスンがギリシャ劇を文化人類学的に分析して、パントマイム・ダンスが芸術の出発点であったといっているのも、このような意味で、日本の芸能も同じくマイムから出発しています。
人間の表現は、ことばとからだと顔の表現に分類されますが、ことばとからだは根本的に違ったもののように見えますが、その表出の根本的意味には変りはなく、また一方、顔とからだは同じ表出手段に見えますが、よく調べてみますと、その表出する対象が全く違ったもので、いづれにしろ、この三つの分野はそれぞれ人間の表現の扉であり、この扉から入って人間というなぞを解こうとしているのが、シンボルの哲学であり、心理、感情よりもこの表現手段そのものを問題にしているのが現代の演劇だと思うのです。
ダンスとマイムは出発点においてパントマイム・ダンスといわれたほどに、それは近似のものであり、混合したものだったのですが、スタイル化したバレエは、内面化したマイムとは融合し難くなっています。スタイル化したものをもういちど、原初的な発作的舞踊にとり戻すか、あるいは日本舞踊のように内閉的なマイムの殻を硬化して、それを突破し奔流した形でちょうど生命力のようにバレエのム−ブマン(動き)を連結させるほかないと思います。さもなければ、マイムもバレエもモダンにスタイル化したまま結合し、趣味的、ファッション的にショ−ダンスを作ることが残ります。
モダン・ダンスははじめギリシャに変えることからはじまったのですが(イサドラ・ダンカン)そのうち時代の要求にそって、筋肉的なディナミズムを踊りの主体とし、その表出はより感情的なものとなりました。いまでは、バレエからますます遠ざかり、踊るというより、肉体をオブジェ化し、ますますマイムに近くなっています。違うところは、マイムはあくまでも行動する主体として自分のからだを使っておりますが、ダンスのばあいはヴィジョンのために自分のからだを他者として手段として空間に位置づけ、運動させていること。また、マイムの演技も観念的演技を必要とするのですが、リアリズムに帰ろうとする引力がつねにまとわりついている。そのためより感量的であるのですが、一方ダンスは、現実からより離れようとする傾向があるように見えます。
ここで空間ということばが出たついでに申しますが、古典的な空間に対する二つの解釈、空間を大きさとしてみる見方と、彫刻家の感じるように、じぶんの身のまわりに、動くにつれてかたちを成して行くものとする見方、この二つの空間の解釈があるとしますと、ダンスは前者、マイムは後者から出発しています。
しかしこの空間に対する考え方もいまでは大分進歩していると思うのです。いづれにしろ、この二つは客観的な場として、見る面からと、触れる面から主体が働いたものですが、主観と客観を飛び越えることによって、それとは別な空間を、外的空間、内的空間でもない、引力と、凝縮と開放、溶解と煮沸、硬化と破裂を包んだ、すべてのものを日常の殻と習慣から解き放し、ある電流を持って一つの方向に進ませるものです。それこそドラマを生ませる根源的な場であり、主観と客観の形式と、ショ−ペンハウア−のいう因果の法則と論理の法則と、時間、空間の存在の根拠と、動機づけとしての行為の根拠をつき抜けることによって、真に世界の、人間の、ドラマの起こるべき土台としての場をいうのです。
ここに至る道は二つありました。ひとつは行動範囲の空間を自分と見ることからはじまって、立っているまわりを家のようなアンチ−ムな自分、空間と皮膚面で接する肉体をじぶん、盲目の杖の先までのじぶん、上体の頭部をじぶんとして四肢を他者とする。精神だけがじぶんで肉体は他者。このようにして、主体と客観との境界はなくなりました。まず最初にものが与えられ、肉体ができ、精神ができた。精神は肉体の反映であり肉体はものの反映である。だが、精神が働き、表現するためには肉体を使わなければいけません。この矛盾を飛び越すものは、精神も肉体もしょせん同じだということ、精神の働きは引力の働きと同種の高次のものであるということ。そして演劇の表出においては、高次のものから低次のものへ、精神的次元から心理的次元へ、心理的次元から生理的次元へ、生理的次元から物理的な次元へと、より原初的なものに向かって、重層的にも表出されなくてはいけないということです。
もうひとつの道は、内からの技術の道でした。最初は内容を包むものとしてフォルムが問題でした。フォルムは観念、概念とは切っても切れぬ縁を持っているものです。フォルムから筋肉のディナミズム、筋肉から生理的なもの(呼吸、血液、神経など)、それから皮膚の意識に入って行きました。ここに至って問題は広がりを持ったのです。からだを包む全体の皮膚面を意識するということは、意識的に動かせる筋肉を通して、それとつながる細かな無意識の筋肉を意識化し、それと結ぶ皮膚面を意識できるように努力するのです。このように努力しているうちに、単に動きから感じていた空間は、もっと密度のあるものに感じられてき、内と外を矩てる皮膚は細胞の幕のように感じられ、それと同時にからだの中心から、あるひとつの突き動かす動力が外に向かって働き出すのであす。そのときの殻はじぶんの肉体の表皮でもあるし、じぶんのアチチュ−ド(態度)を包むマユのような空間図でもあります。
社会学者のコントは古代と中世は宇宙的世界、十七、八世紀は形而上学の世界、十九世紀をリアリズムの世界、と分類していますが、ギリシャ劇と能は宇宙的空間の芸術。バレエとオペラは形而上学的空間の芸術です。歌舞伎は形而上学的なものを多分に持っています。イプセン以来の演劇はリアリズム演劇であることは論を待たないことですが、現代の演劇は四次元の世界だと思います。これは物質的な四次元の世界とは違ったもので、世界を空間的にまたは時間的にどうとらえるかということよりも、じぶんのからだ、ものの大きさ、距離、かたち、存在する数多性、因果性、関係と意味などを越えて、物自体と、世界の内的本質が露呈されるものです。それには与えられた現実の事柄、習慣は仮のヴィジョンである、偶然的なものであるということをまず知り、感じることが大事です。それから、数が因果性を持って変化してゆく、この現象を逆にたどることによって、そのものの事象に迫ることによってその本質を感じることができるのではないかと思います。
それは、ものが存在するということは空間的にも時間的にも延長するということ。すべてのものには同じものがある。ものが変化発展するばあい、つねにこの類似がまとわりついている。動物と人間の類似性、ある基本的シチュエ−ションを元ドラマの類似性、六つの感情を基底にした感情表出の類似性などです。またすべてのものには差異がある。その差異のスキ間に入って行くということは、ものごとを概念的に、知的に、客観的に、とらえることではなく、一つのものまたは心のうちに、主客を離れて入って行く、つまりもの自体事象そのものを感じとることだと思います。湯川秀樹の「同定」、フランスの哲学者デリダの「差延」ということばはこのあたりから来ていると思います。
人間を素材として考えるとき、神秘性、感覚性、官能性の三つに分けることは古典的といえます。能は神秘的な演技であるし、歌舞伎は感覚と官能をまぜ合わせたものですし、リアリズム演技は感覚というより感受性といった方がいいと思います。心理学者ユングがいったように感覚には内向的感覚と、外向的感覚とがあります。外向的感覚とは外側のものを感じとることで感受性といっていいと思います。それに反して内向的感覚というのは創造する場合の自己の運動を感じることです。芸術は感覚を通して表現されるものといわれるのはその意味だと解釈しています。
また美学者フィドラ−は芸術は意識化されたものだといっていますが、それと隣接した考えだと思います。しかし、無意識的なものを意識化すること。そして表現するばあいそれを意識するわけですが、この意識の程度が問題なので、認識と結びつけると固定しすぎ、結果的になります。無意識の動きも含ませて、内からの運動を瞬間瞬間に意識してゆくことだと思います。解釈して意識的に固定して表出することではないと思います。
観念ということばも、同様に曖昧に使われています。「芸術は観念ではない」とか「観念的すぎる」とか、つねに観念は否定的に使われています。果たしてそうでしょうか。肉体的素材から離れて抽象化するにつれて、感覚は失われてゆくものですが、一方感覚はどこまでもまとわりついてゆくものだともいえるのです。完全な抽象的なことば以外、ことばは常に漢学を帯びている。ことばはやはり、実体として生きていると思えるのです。人間が行動するばあい、原始の動物のように生体的反射反応だけで行動しているのではなく、必ず観念が働いている。問題はあくまで行動から離れた次元で頭だけで考える観念でなく、行動する直前のより感覚的な観念を問題にすべきなのです。観念を通ってはじめて人間は眼でみる範囲の現実から離れて働くことができる。そのときこの観念を<b>自我</b>の次元のもっと奥の<b>我</b>の次元で働かすばあい、それはプラトンのイデエとなるのではないかと思います。
イデエは人間の行動を導くものです。しかしそれはパタ−ンとして表出されず、つねに現実の状況と、ものの引力に引かれ、感覚的に振動するものです。これは、腰が人間の動きの中心ではなく、より根元的な土台は、肉体と物理的世界との接触点である足のうらであり、人間は植物のようにその上にゆらめくものであることと一緒に、演技の中心的柱と、その振輻だと思います。
現代はあの神秘性、感覚性、官能性ではとらえられないものを持っています。もっと端的にとらえるものは何かといったばあい、それはオブジェではないかと思います。人間をものとしてとらえること。ももの表面のあの固さ。溶解し煮沸するものをやっと支えているあの硬性。内からのあらゆる力をそれによって止め、また外からの影響をかたくなに守るもの。それがあるから、人間はキャラクタ−を保持できるのだし、それだけでなく、人間は人間なりに、動物は動物、植物は植物、鉱物は鉱物として、現状を保てるのだと思います。
演技とは、単に、そのつもりになって、じぶんの生理的心理的経験を生かして行動するだけではない。まず自己を習慣を脱した危険な立場に立たせること。そして緊張と、自由な奔流。引力を感じとること。化学的に溶解する感覚。硬さの保持。これらこそ、名優が意識せずして所有している、存在の中心と結びついた実感だと思うのです。
(初出「肉体言語」No.8/1976)