皮膚の表と裏側に起こるもの
粉川哲夫
マックス・ヘッドルームのようなコンピューター合成の〝人物〟がテレビの大衆的スターになるような時代には、生身(*1)の肉体による身ぶり・表情・アクションといったものはもはやパフォーマンスがまじめに関わりあう問題ではなくなる。「肉体」の問題は電子的なオーディオ・ヴィジュアル・テクノロジーにまかせたほうがよい。
われわれはながいあいだ、皮膚によっておおわれたいくつもの〝突起物〟の全体を身体の主要な要素とみなしてきた。それらの動き、皮膚上の〝痙攣〟が演技であり、パフォーマンスだった。
しかし、それらはもう、〝人間〟よりも電子装置が一手に引きうけてくれる。『ゴドーを待ちながら』のラッキーのせりふと所作に生身の役者はいらない。安いサンプリング・マシーンのほうがラッキーのせりふにはふさわしいだろう。
とはいえ問題は、電子的なオーディオ・ヴィジュアル・テクノロジーによって代替される〝肉体〟は、多くの場合、身体そのものの最も粗野な部分にすぎないということだ。
だから、逆にこうも考えられる。われわれは、電子的な〝肉体技術〟のおかげてかえって身軽になり、身体によりふさわしいパフォーマンスをできる状態にさしかかっているのだ、と。
すでに、敏感なパフォーマーたちは、皮膚の〝裏側〟で起こる動きや出来事に関心をもっている。もはや誰も、「自己表出」のためなぞに肉体を動かしはしない。〝裏側〟で起こったことが〝表〟に「表出」されるのではなく、〝裏側〟とさしあたり呼んでおく場で起こることは、〝表〟とは全く質のちがう出来事なのだ。
表象されるものを一旦カッコに入れる必要がある。
わたしがいま、ボディ・アクションのないパフォーマンスに関心をいだいているのはこのためである。
(初出:「メイープロジェクト PART-2」パンフレットより/1987)
採録者註
*1 原文では「生ま身」