私論アントナン・アルトー
私たちの“場の演劇”のために
及川廣信
伝説化したアルトーのイメージ、それは無意識のうちに、ヨーロッパ文明がつまはじきした結果の、鏡の像でもある。彼が提唱した残酷演劇の叫び、怒り、狂気など、また文節言語、肉体など、彼の思想を形成する基本概念までが、ながい間、誤解の内に包まれている。
この誤解を解こうとして、哲学、文学、演劇の立場から、アルトーの経歴、日常行為、手紙類をもとに、彼の書き残した詩、台本、批評、論文などの内容を実証し、解明しようと試みた。だが、彼がなにを生きようとしかは、彼の存在の証しがどのような意味を人類に問いかけるかは、まだ本質的には解明されていない。
その第一の原因は、彼が病者としていっているのか、人類の限界を越えた一人の偉人としていっているのか、判断をつけかねているからである。考えてみると、彼ほどその区別のつけにくい人間はいない。そして、深淵な思考はかならずしも健康な人間から生まれるとは限らないのである。
われわれはまず、社会にとって精神病理とはなんなのか、という問題を掘り下げ、アルトーの基本的態度、この日常的現実の向こう側に真の現実があるのだという、錬金術的思考態度を認める必要がある。理念を求めて日常的な秩序の裏側に詩的ヴィジョンを描くことが、彼の病歴のゆえに精神病者の幻覚ととられやすい。そもそも幻覚とは、現実との意識のずれなのだが、彼は最初から意図してそれをずらそうとしていたのである。
詩人の書いたものを、詩の作品としてではなく、現実に真に在るものだと主張したなら、狂人と受けとられるだろう。ところが、現代の錬金術師としての彼はそれをやったのだ。しかもヨーロッパ文化を素材にし、それを打ち壊すことによって理念としての真の文化を築こうとしたのである。その手段というか実験室は、彼のばあい演劇であり、肉体そのもであった。
ニーチェの思想は時代の上に意味づけられ、それなりに継承されたが、アルトーのばあいはこれからの問題である。
だが果してアルトーの本質を掴み得るだろうか。まずそれに近づくためには、彼の書いたものを病者の言として疑うことなく、素直にその真意を読みとろうと心がけよう。そのうえに、彼の語り得なかったものを、また生涯彼を突き動かして止まなかった内なるものを知ること。だが、どのような方法によってそれが可能だろうか?
それは、彼があるほどまでに苦闘し、最後まで不信の念を抱いていたことばだけをもって判断しようとしないことである。生きた時代によっては、アルトーがべつのアルトーであっただろう表層の部分と、つねに変わらぬアルトーの実質の部分、アルトーがべつの表現で語ることができたならば、知らすことができたであろうアルトー自身。これらのものは、ひとつの仮説をたて、いままでの論説の基準となっていた土台を揺がすことによってのほか掘り出すことはできないだろう。
その仮説とは、自分自身の内にアルトーを見い出すよう努力すると同時に、アルトーの経歴に内在するリズム、その容貌に掘り込まれた彼の内面、日常的な行為とは違って真意を盛り込んだ彼の演技を対象にして、人類の精神史の上から、現代の文化と演劇の状況から総合的に判断することである。しかし、これはアルトー自身がいっていたことではないだろうか。そのものの本質は、綿密に関連して表出された状態にあり、それを告げる言語は、単にことばだけでなく、ものの形態、ジェスト、使用する道具類であるということを。
アルトーのいっていることは、ことば自体の不具性のため、結果として暗示に終わっているばあいが多い。また、伝えられる彼の言動は、本来的に意味をなさないことが多い。
暗示を指し示すものの本質をとらえるには、アルトーがいっているように、オブジェに向かって強烈な光を投ずるほかはないだろう。その光とはたぶん叡知のことだろうが、私のばあいは、直観による独断と偏見かもしれない。
1
自然と一体となって行動を起こそうとするとき、人間は起承転結の四つの段階を踏む。チェホフの戯曲は、これに基づいて四幕で創られている。ときにより人間は積極的に他者にいどみ、ドラマを展開する。そのリズムは序破急の三段階である。そして、破の部分がさらに分裂拡大して序・破(序破急)・急の五段階となる。三幕、五幕の戯曲は洋の東西を問わず通常のスタイルである。
未来に向かって人が計画を立てるとき、よく五カ年計画の五の幅を基準にする。歴史は十進法の年表で区画されているが、個人の運命はこの予定された十の区切りと、四または五の自己のリズムとの葛藤としてとらえられる。
ピタゴラス、またはカバラの「聖なる正三角形」のように、定義の意味をもつ三の数と、四小節または四楽章のような、観念の動きのワクとしての四の数が、人間の心をべつべつに支配する。この二つの数の倍数の十二の数が、十二支、十二宮、十二ヶ月、十二時間として人間の生活を規定してきたが、それと並行して、主として便利さから十の数が使用されてきた。江戸時代には十二支によって一日が区分けされていたが、いまは時計の文字盤に十二の数字が刻まれ、六〇分のほかに、五分または五秒の単位も示す。
人間として、生きたドラマの張りが、十単位の年表の上に、明瞭な循環性として出ている人と、出ていない人とがいる。そして四年を幅としている人と、五年を幅としている人と。アルトーのばあい、明確に五年ごとに、個別的に分断された意味を持って、ドラマの起伏が起こっている。それは彼の内からの意志によって生じたリズムとしてとらえることができる。
数はものの奥に潜む本質を伝える。五の数と、その明瞭な循環性と、分節されたおのおのの時代の経歴は、アルトーの生の本質と動きの様態を見せている。ここで本誌のアルトーの年譜を参考にしていただきたい。たとえば、彼が自分の人生の中心に置いた演劇の側から見ると
1921年、彼の演劇の出発点とみられる、アトリエ座のデュランの下に学んだこの年からの5年間は、シュルレアリスム活動を含む文学の実践と並んで、その後の演劇活動の準備期間ともいうことができる。
1926年には、彼自身の基礎的演劇観も固まって、本格的な演劇運動を社会に向かって推進することを決意し、アルフレッド・ジャリ劇場創立宣言を行う。この後の5年間はアルフレッド・ジャリ劇場の時代である。
1931年は、彼の残酷演劇への開眼の契機ともなったバリ島の演劇を、ヴァンセヌの植民地博覧会で観ている。35年の『チェンチ一族』の上演までの5年間は、残酷演劇の時代といっていいであろう。
1936年、彼はメキシコへ旅立ち、タラフマラのペイヨトルの儀式に参加する。帰国して後、聖パトリックの杖を持ってアイルランドへ。そして逮捕、精神病院への監禁。この5年間は彼の内部のオカルトの世界と、外部の現実世界との衝突の時代である。
1941年、彼は各地の精神病院へのたらい廻しのあと、パリ郊外のヴィル・エヴラールの精神病院にて最悪の状態にあった。友人のエリュアールとデスノスの依頼を受けて、43年にフェルディエールはアルトーを引き受ける。精神病院内の生活はこのあと45年までつづく。
1946年、マルト・ロベールとアダモフの相談によって、フェルディエールは条件付きでアルトーの解放を許可する。ポール・テブナンの世話でパリ郊外のイヴリィの療養所に移る。著作とパリでの生活が始まり、再起が成ったかにみえたが、直腸ガンのため48年の3月4日死去する。
運命と内的生命のリズムが織りなす、この過酷なドラマ。そこでは周期的にあるひとつのきっかけを捉え、それを出発点としてテーマを定め、内的運動が展開する。
アルトーは意識の下に底知れぬ空虚を感じとっていた。この予感と、分離する意識と、狂気への怖れから、彼は必死に生命と、リアリティにかじりついていたのである。
それでいて彼は、平衡よりも、極端なるもの、絶対なるものを望んでいたのである。それは自己の苦悶のうちに休みなく突き入れることによって見出されるものとしていた。
2
アントナン・アルトーの顔は長形で、秀でた額を持ち、その繊細な顔面、鼻梁の目立つ高い鼻、薄い唇、眉と眼尻のやや下向きぎみな線、顎の部分のがっちりした構造によって、人類学の山崎清博士の説、がっちり型とやせ型の複合タイプに属する。<山崎博士はクレッチマーのがっちり型(テンカン質)、やせ型(分裂質)、太り型(躁うつ質)の三つのタイプを基準にして、そのおのおのの複合タイプも存在するという説を唱えている。>
このタイプは精力的で粘りがあり、才気煥発で、つねに新しい仕事に向かい、組織を作り、プランニングを好み、進歩的な実践活動をするという。このことは比較的健康であった青年時のアルトーに、そのまま当てはまる。
そのうえ、緊密に収縮された彼の顔面は、環境との接触を避ける彼の傾向を示しているが、反面、特定の環境内での意欲的な交際をも表わしている。知性地帯としての顔面上部の秀でた額は、人間の思考(彼のばあいは、頭部の神秘性と結合している)の限界にまでいどみ、人類の精神文化の遺産のすみずみにまで触手を伸ばす彼の才能を内蔵している。感覚地帯としての中部の顔面は、そり落とした頬とせばめられた鼻翼によって繊細さを表わし、眼は内部に沈静さをたたえ、外部に向かっては強い光を放っている。官能地帯としての下部は、充分に発達した下顎部が、真横につよく張られた薄い唇とともに、彼の妥協を許さぬ強固な意志の力を示している。これらのものは現実に目に見える存在として、彼の体質と気質を、また経歴が重ねた痕跡の意味と存在の様式とを証明してくれる。
観念の形而上学を生みだす土台としての、眉間から毛髪の生え際までの、知性地帯の顔面上部。目、耳、鼻、頬(触覚)の外に開かれた感覚器官を持ち、外環境と対する眉間から鼻の下までの、感覚地帯の顔面中部。口からのど、消化器を通ってからだと連結する、鼻の下から顎先までの官能地帯の顔面下部。
アルトーの唇は薄く、官能性がけずりとられており、横につよく引かれた唇の両端と、発達した顎の部分が、肉体の意志的部分を強調している。アルトーにとって、肉体とは官能ではなく、生のエネルギーを基にした意志的肉体だったのである。
頭骨と顔面骨の接着中心点としての眉間はまた、自己の内面と外環境との接点でもある。眉間を蔽う縦皺が、彼の外部との接触と、内部の苦闘のいらだちを如実に見せている。その中心点の上に、彼の思考と自我の統一のために煩悶が、また彼のひとつの特性である生涯追い求めつづけたアニマ(アナイス・ニン)の像が、そしてまた、彼の理念としての『演劇とその二重性』が描かれたのである。
ネオ・プラトニズムの洗礼を受けたダウィンチやデューラーは、人間の顔を科学的に三等分するだけでなく、人間が存在するための三つの特性である知性、感覚、官能をその上に投影したのである。それら人間の生活機能の上に存在する頭部の神秘性を加え、それが演劇の表出する内容、技術でもあった。
九鬼周造のいうように、歌舞伎は官能性と感覚性を、また能は神秘性を表出するものである。しかし知性は、肉体として表出しにくかった。わずかにセリフ劇としての論理を受け合ったにすぎない。
アルトーは眉間の点のうえに、場としての演劇を、神秘とは接触するが神とは結びつくことのないリアリティの演劇を、下部から上昇する肉体の生の力で演じようとしていたのではなかろうか。
考えてみると、この眉間こそ彼の存在の中心点だったのである。それにつけても晩年の彼の顔の、筋肉が落ち窪み、苦難のあまりに歪められ、眼球が孤独のあまり顔面奥に引き込まれた顔を見るごとに、彼のそれまでの長期にわたる苦闘と受難の歴史が忍ばれるのである。しかし、依然として横に強く引かれた唇の両端は、彼の一度として屈服しなかった強固な信念というよりも、人類の使命を背負って神に立ち向かう姿の、その驚嘆すべき意志の力を思うのである。
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アルトーは舞台よりも、映画のなかでより彼の演劇観を表出できたかのように思われる。演劇こそ生のままで、偶然性をともなって、しかも観客の意識を変えるためのるつぼとなり得る筈だったのだが、実際には当時の演劇は、論理的会話の上に成り立つ心理劇の慣習からまだ抜け出してはいなかった。そのうえ、周囲の状況、演劇を創る側の制作段階でのブルジョアとの関わり、劇場主の態度、また対象としては観客とそれをとりまく一般大衆、また官権など、結果としてはすべてが敵意をみせていたことになる。
この大衆のつくり出す評判と批評家の無理解のため、いくら困難を乗り越えて、やっと不充分ながら若干の意図を果していくらか成功したかに見えても、やがて、あれは不成功だったという定評にいつの間にか変ずる。そういう目に見えぬ心理作用と、裏からの作意には勝てなかった。アルフレッド・ジャリ劇場も『チェンチ一族』も、歴史として残されたのはただスキャンダルとしてだけだった。ただ『演劇とその二重性』だけが、実現されなかった彼の「演劇論」として評価された。しかもガリマール社から一冊の本として出版されたのは、ちょうどアルトーがアイルランドで問題を起こし、捕われ監禁され、精神病院に送られ、そのうわさがパリに広がったころだった。作者の不在とスキャンダルの追憶から、この本はますます伝説化していったのである。
アルトーが映画に関係した当初は、まだ無声映画の時代だった。数少ないながらも実験的な良質の作品を創り出していたから、それに参加することによって、まがりなりにも、ばあいによって彼の意図する演劇の一端を表出できたものと思う。失われ誤解されたままの彼の演劇よりも、ここでは現存する彼の出演映画を参考にしよう。
数ある出演のなかで代表的なものはつぎの三本である。クロード・オータン・ララの「三面記事」(1924)。アベル・ガンスの「ナポレオン」(1926)。カール・ドライヤーの「裁かるるジャンヌ」(1927)。この三つの作品のそれぞれの人物の役柄は、おのおの異なる演技方式の下に行われ、アルトーの演技の多面性をよく表わしているが、彼の演劇観をもっとも表出しているものは「三面記事」のなかの三角関係の一人、紳士2の役を演ずるアルトーである。
内容はドラマというより、立体的に図示化した恋のヴァリエーションともいうべきものであるが、したがってそれなりに、俳優の演技がシンプルに浮きだされている。二人の名優ポール・バルテとララ夫人と相対し、映画出演2作目の新人アルトーなのだが、その演技の奥にひそむ本来的な彼の行動様式は以下の通りである。
直感的に眼球の働きを遠くにまで及ぼす注意力。
地面に屹立する実在感。
からだの急激な角度変更により、意識の錯乱とその転換。
直進する歩行による、形而上の幾何学的思考のライン。
演技する場を磁場としてとらえ、時期を感じながらの本能的判断機能。
上昇する精神と肉体の葛藤。
アルトーの意図した基礎的演技方式が、このなかで見事に表現されている。
アルトーは映画に対して大いなる期待を抱き、実験映画の制作会社を創ろうとしたほどである。シナリオもまた数多く書いている。しかし、そのなかで実際に映画化されたものは「貝殻と僧侶」(1932)だけだった。
当時のアルトーの恋人ジェニカ・アタナジウも出演しているこの映画は、女流監督ジェルメーヌ・デュラックによって作られた。その出来上がりに対して、アルトーは憤まんやる方なく喧嘩を売ることになるのだが、それほどこの作品はアルトーの意を汲まぬものだった。
まず第一に夢の問題である。アルトーは夢に関しては、シュルレアリストたちと違った考えを持っていた。アルトーははじめからシュルレアリストであり、シュルな状態と夢にあこがれるシュルレアリストたちとは反対の立場にあったのである。彼にとってはリアリティこそ必死に獲得したいものであり、彼の内側の夢はリアリティと密着することを熱望していた。しかしこの映画では、夢がリアリティから分離して夢幻的なものになっている。
第二にストーリーの展開の仕方である。アルトーの考えていたことは、内的必然性から生ずる状態の変転だったのであり、それはまた現実社会が歴史の進行の上でとるべきかたちでもあったのである。しかし映画は外側から、内的な繋がりがなくたんなる夢のストーリーで終わっている。
第三に僧侶が街路を四つんばいで歩く場面があるが、役者が台本の真の意味を実感としてとらえていない。ブローによると、アルトーはかつて「ボルドーのユニオン」の稽古の際、四つんばいの演技をしてデュランと言い争いをしたそうであるが、人間のリアリティである地面に対する密着した在り方としてのこのサインに、アルトーはかなり拘泥していたのである。
アルトーは当時の演劇界のデュラン・ジュヴェ、ピトエフとも合い入れなかった。彼はつねに孤立した状態だった。ちょうど意識の下に泥沼に杭を打つことによって、フォルムとしてのことばの概念をつくってゆくように、演劇も肉に喰い入る痛みと、状態の変転としての内側からの変革を願っていたのである。
シュルレアリストのブルトンたちが革命を政治と結びつけることによって意見を異にし結局はたもとを分かつことになるが、彼が抱いていた革命とは、このリアリティの内側からの精神革命だったのである。
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アルトーは5歳のとき脳膜炎を煩う。その後遺症のため、以後生涯頭痛に悩まされつづける。鎮静のためヘロインや阿片などを常用し、またその毒物の解毒治療のため苦しむ。私が精神医に訊ねたところ、脳膜炎の後遺症と分裂病とはまったく関係ないそうである。ただその後の麻薬の乱用が、彼の意識を疲れさせ、思考のまとまりを失わせ、自分を他者のように感ずることを促進させたものと思う。しかし、この思考のまとまりを失うことと、自分を他者のように感ずるということは、リアリティを突きつめていったばあい、当然行きつく個所である。アルトーはヘーゲルのような観念論者ではないのである。思考が感覚と密着したばあい、矛盾した現実から思考が飛躍できないのである。そして意識と、外からみた自己とは二分されて感じられるのである。
分裂病とは、精神病とは?分裂質、分裂病質、分裂病、それは連続した一直線のものである。境界は社会との接触面ので生活可能、不可能の判断による。この破局は周囲と自我とのあつれきの結果か、自己の内部から湧き起こる欲望(リビドー)による自我の統一の破綻による。おうおうにして、天才的な才能を秘めた欲望の力が、自我の統制力を圧倒する。
あれほどまでにリアリティを大事にしていたアルトーだったが、ヨーロッパ文化の圧力の下にジャリ劇場も残酷演劇も失敗に終わったあとには、気持の上ではヨーロッパの現実を捨て、内部のオカルトの世界の探求のため、メキシコのタラフマラに向かうことになる。
そこから帰ったあとの彼は、もうヨーロッパの現実世界とは接触を維持することがかなり困難になっていた。しかも彼の側でももう妥協はすまいという決意ができあがっていたように思われる。この危険な接触のとき、彼の強大な内なる欲望が弱められた自我に向かって攻撃をかけたと判断してはどうだろう。
もしそのようにして分裂病と診断されたとしても、患者の意識が妄想に落ち入ることがあっても、意識の荒廃に落ち入らぬかぎり、意識の集約の努力によって、その内的蓄積の幻想的連結の結果は、社会的基準からはずれていても、内容的にはより深く、豊かで、緊密化し、真実に迫るものがある。しかしアルトーのばあいは意識が混乱し、妄想の状態に落ち入ったのはごくわずかな期間である。そのほかはごく明晰な頭脳を保持していた。
優れた精神医たちは、直観によってアルトーの稀な才能を見分け、またその危険性も察知していた。最初の文学的出発の際、後援を惜しまなかったトゥールーズ博士(患者に対してヒューマンなあつかい方をして精神病院の改革を行った人物)、ジャリ劇場以来、終始金銭面でも援助したアランディ博士とその夫人(博士は精神分析医で神秘主義者でもあった)、アルトーを社会に復帰させたフェルディエール博士(精神病の芸術療法の開拓者)などがそうである。
アルトーが現代演劇に方向性を与えたというよりも、アルトーは現代演劇の方向を先取りしていたというほうが当たっている。そのことは現に、演劇がことばを捨ててマイム、舞踏の方向に向かっていることを考えてみると理解できる。
彼は肉体こそ精神的なものを生む根幹であり、いったんことばを捨ててからでないと、真の肉体の秘密を嗅ぎとることができないと信じていた。ことばはそれほど文化に合ったかたちに分節、結合され、いまはもう魔術的能力をすっかり失っているからである。
アルトーは、はやくからニーチェのバッコスとディオニュソスに対する関心と同じように、ギリシャのエレウシスとオルペウスの神秘劇に対して関心を抱いていた。これは豊饒と再生を願う密儀で、人間と神との精神的交換を演ずるものである。それは秘儀であると同時に演劇でもあった。そのほかアルトーはエジプトの秘儀、占星術、ピタゴラス学派、新プラトン主義、グノーシス、カバラ、錬金術、薔薇十字、フリーメーソン、魔術、またヨーガ、チベット密教などそれぞれに関心をよせた。
アルトーのこの探求は、たんに象徴主義を受け継いだ時代の趣向とか、彼個人の神秘主義好みという域を出たものである。人間の精神のあらゆるヴァリアントを探求するこの彼の動きは、たんなる知の欲求から出たものでもない。上昇する精神の行き処と、リアリティの根源としての肉体との間を彼はつねに往復していたのである。あるときにはキリストに帰依し、そのあとにはキリストを侮蔑する。
このことをよく理解するためには彼の初期の作品、『ポール・ウッチェロ』を参考にするといい。このメンタルドラマとしての小品は、彼の相対する思考の高まりが、明確に構図的にドラマ化されたものとして注目に値する。
そのなかでは、物質と性欲のみのブルネレフスキと、高められた精神のみで生きるドナッテロと、その中間に位置するポール・ウッチェロの三者の葛藤が知的ドラマとして描かれている。そしてポール・ウッチェロはアルトー自身なのである。彼の精神と肉体に対する態度は、基本的には終生変わらなかったのではなかろうか。
最初アルトーはヴィトラック、アロンといっしょにアルフレッド・ジャリ劇場を創った際には、内容はべつとして、方向性としては『ユビュ王』のアルフレッド・ジャリのことが先駆者として頭の中にあったのだと思う。だから、その名を劇団名に冠したのである。方法的には、アルトー自身にはあまり相応していないが、時代の趣味としてのユーモレスクの手法を使うことにその時点ではかなり狗泥していた。また作品は時代の文化をそのまま表出するものとして、他人の作品を逆手にとることもあえてした。そしてまた自分の側からの一方的な解釈で、他人の作品を素材に使ったりもした。
作家としてのアルトーは、性急さと追求ぐせからふくらみのある小説や戯曲を創ることは不得手だった。彼の芸術的特性は、豊かな創造力というよりも、極限への挑戦と、その鋭利な神経にある。
バリ島の演劇を観てからのアルトーは、より自身の体質と嗜好に合った道を選んだように思われる。理論はより精密に構築されてゆく。しかしそれは普通の演劇書ではなくて文学の書であり、思想の書である。
バリ島の演劇のなかにアルトーはなにを観たのだろうか。アルトーはつねに理念として抱いていたギリシャのエレウシスとオルペウスの神秘劇が、眼の前に似たようなかたちで演じられているのを目撃したのである。現実のオブジェもジェストも記号化することによって精神の高みへと上昇させてゆくのを、また、あらゆる肉体、音響、音声、衣装、道具が言語となって互いに共感し、ひとつの精神の状態を表象しているのを。
この民族の宗教と生に密着した演劇を観て、アルトーはヨーロッパのリアリティの上にひとつの起爆剤としての演劇を仕掛けようとしたのである。それはヨーロッパの文化を根底からくつがえす演劇だった。彼は屈折したいい方を選んだ。彼の頭に浮かんだシンボリックなひとつのことばは「残酷」ということばだった。怒り、破壊するもの、引き裂かれる叫びをともなう、まるであの破壊と創造の神シバが、世界を壊滅して、ふたたび活力をもって再生させるかのように。
メキシコのタラフマラの経験は、彼の観念としての演劇を、自然のなかにみることができた。自然は記号とフォルムに満ちていた。このばあいの記号は、象徴の最高位としての記号である。フォルムは外郭を線で描いたものでなく、ものの本質のかたちとしてみえた。ペイヨルトの儀式は彼の精神を洗礼し、解放した。彼にとってもう演劇を創る必要はなかった。世界が演劇であり、彼はその主役だったのである。
5
この国の谷間、緑濃きあたり
善き天使らの翔び交うところ
その昔、威ありて美しき宮
かがやきて立ちてありけり。
ポオの『アッシャー家の崩壊』の中の詩の一節である。アルトーは年少のころボードレールとポオを愛読した。ポオに対してはとくに体質的に親近感を覚えていたらしい。アルトーはフェルディエールの病院で、芸術療法のためデッサンのあと詩の潤色を依頼されたとき、冒頭の詩を選んだのである。
没落、解体、崩破。アルトーは年少の頃から、自分の肉体の芯がくずれ落ちるのをはやくも予感していたにちがいない。アルトーは演劇を自分の生涯の仕事としたのだが、気質的には文学の人だった。したがって書くものは、同じ思考を語るにしても論理的でなく感覚的である。
アルトーは語彙と文の構造そのものが文化の形態を写しとっているものとした。最初肉体から発せられた音と語が、文化の構造に合わせて分節結合されたものとして、彼はこのシステマティックに作られた分節言語をねじ曲げ、分散し、解体させようとしたのである。語がふたたび肉体に帰ることを望んだのである。
フェルディエールの病院のころから、アルトーの関心は肉体と音に向けられた。彼の前に肉体はまるで世界地図のようにくり広げられ、人類の誕生の歴史が一瞬の間に凝縮されて見えた。人体が神の前の粘土細工のように感じとられたのである。ただし、このばあい彼は神からそれを奪いとることを念願とした。
アルトーは、はやくからタントラ・ヨーガに精通していた。しかしヨーガ行法によってでなく、彼自身の生活の体験としてである。ナディは彼のいう磁気として感じとっていたし、ムーラダーラ・チャクラは第一の骨と呼び、そこからフロイドのいう生命と性欲の混合したエネルギーが脊柱を脳天まで走りのぼる体験もしていた。そして七つのチャクラがそれぞれ意味を持って働くことを。しかし、禅が第二のチャクラのサハスララ・チャクラ(丹田)を選んだのとは違って、外界と自己との意識的統合の点としてアジナ・チャクラに相当する眉間の点を自分の立場として選んだのである。
彼はヨーガから学びはしたが、晩年にはそれに対してキリスト教に対すると同時に怒りを覚え、全集刊行にあたって『ローマ教皇への上奏文』といっしょに『ダライ・ラマへの上奏文』を序文として掲載する。
彼は現実と生を捨てて瞑想にふけるラマ僧の生活態度に我慢できなかったのである。現実の生活体験と修練を通してでなく、安易なヨーガ行法によるチャクラ体験に、また生と性欲の根元の暗闇の穴ぐらに、あたかも冬眠するへびのようにとぐろを巻いて無為に惰眠をむさぼるその状態に我慢できなかったのである。生きるということ、あらゆる苦難に立ち向かって生きるということ。それはまたヨーロッパ人に共通する態度でもあった。
肉体は性欲から発する肉を持っている。が、すべてをあいまいにし、人類を堕落させた根源は性欲にある、と彼はいう。しかし彼はキリストのようにそれを抑え、神へ向かって上昇することはしない。それは欺瞞であり、人間に対して高慢であるととらえる。彼はあくまでリアリティに留まり、性欲の底流と生の尊厳を大切にする。
第一の骨から上昇する、精神と生の感応の音がことばの原初のかたちである。母音はからだの状態を表出する。aは開かれた状態、iはいらだちの状態、uはつまった状態、eは快い状態、oは感動の状態を。それに対して子音は外部とのさまざまな接触の在り方を、たとえばm、s、t、kなど。
呼吸は生命体の維持のほかにも意味を持つ。呼吸は呼気と吸気に分かれ、吸気は空間に浮遊するスピリットの交換を、呼気は他者に向かっての自己主張を表わす。中世の歌謡は息を吸いながら歌った。自我の確立が形成されたヨーロッパにおいては、服部四郎によると、吸って発音する言葉は相手を受け入れるイエスということばただひとつだそうである。
ことばは伝達の手法として使われ、いきおい分節言語は社会の構造に合ったシステムを持つようになった。原初の語感と、音が本来持っていた状態としての感情が失われてしまったのである。晩年アルトーが熱中した音韻詩は、彼のこの原初に帰ろうとする魔術的試みだったのである。
息はまた、日常の幅を越えることによって無意識の領域に立ち入ることができる。そして音と語は、地球の一回転の記憶の時間の上に、音符のように乗せられる。のどによって発せられた音は、口腔と唇と舌によってかたちを整えられる。しかしその響く場所によってそのときの人間の行動様式を表示する。ユンクは人間の行動機能を思考、感情、感覚、直観とし、インドでは直観の代わりに意志とする。したがって硬口蓋は思考と明瞭性を、のどは感情と官能性を、上唇は感覚と繊細さを、下顎は意志と地の実感を伝える。
彼は肉体は死なぬという。肉体は死ぬとき粉々に分散し、また結合して新らしい肉体を形成するという。このイデー、この信念、このことを現実化しようと孤独に奮戦するところに彼の本質的なものがあり、彼が歴史上に残したものがあるのである。
ここまで書き終えて、仕事に来ていた名古屋から足をのばして大和の山の辺の道の探索に向かう。近鉄の車中にて観光案内書を読んでいると、石上神宮の項のところで次の文にあたり、一瞬息を飲み、意識が不安におののく。
「ー草を食べる馬魚の住む池がひろがりー」
これはたんに馬と魚の間に印刷上のミスで句点が入らなかっただけの話なのだが、アルトーは読み疲れた私には、そのまま両棲動物の馬魚が草を食べてはまた池に帰り住む原始の姿がまだ存在しているのか、と疑ったのである。
人間のからだと機能は分節言語と同じように、人間の生活文化に合ったかたちにつくられている。馬も魚もまたそうである。外側から形だけ馬になろう、魚になろうとしてもそれは模倣に終わる。ほんとうにそのものに成ろうとして動きと機能と意識を内側から変えてゆくこと、これがアルトーのいう俳優にとっての解剖体ではなかろうか。
後記ー 後日、上記の石上神社の現地を訪れたところ、"馬魚"なるものは境内の池の中に水棲しておりました。池の水が濁っていたため、その姿を確かめることはできませんでしたが、古代の両棲生物ならず、ただ珍しく「馬のように草を食する」魚のようでした。
(初出「肉体言語」第11号/1983)