音と映像と身体
丸山亮
私は「作曲」という行為を通じて音とのつきあいが長いのだが、このごろはビデオやパフォーマンスもやりだしたので、音と映像と身体の三題噺など気楽にでっちあげられそうな気がする。そう思って筆を執ったら、これが意外に重い。なぜだろうか。
一つにはこうしたテーマが時流に乗り、あちこちから似たような話となって押し寄せてくるのに、食傷しているためかもしれない。ただその中でいくらか気が利いていると思ったのは、昨秋来日したスーザン・ソンタグが宇波彰とのインタヴューで語ったことばだ(音楽芸術1月号)。
ソンタグは、20世紀のすぐれた音楽がほかのジャンルの芸術と結びついている、とし、ストラヴィンスキーのバレエ音楽を例にあげている。またケージやシュトックハウゼンも長い作品では演劇的な形式に引かれている、と続ける。これは別に卓見でもなく、危機にある現代音楽がその回避策に他ジャンルを取り込む傾向を強めているのは確かだろう。けれども、こうした音楽以外の形式との結びつきをソンタグがさらにヴァグナーにまでさかのぼって指摘しているところが、おもしろいと思ったのだ。
ヴァグナーの『ラインの黄金』。この開始部は変ホ長調の主和音が延々と何分間も続く。もちろんオーケストラの扱いは、その間にだんだん厚みを増していくわけだが、これは今でいうミニマル・ミュージックの原形だろう。ライン河を泳ぎまわる乙女たちの舞台がなかったら、その長さはやはり退屈なものとならざるをえない。ヴァグナーの音楽は総じて演劇的な枠組みと、それを支える身体を必要としている。
ところで私の場合も、音を定立させる時空間に演劇的な磁場を求めてきた。作曲家の友人、谷中優と共同で何回か続けた「音のイヴェント展」、いわさきちひろ絵本美術館で行った個展「音の絵本」、昨夏、つくば写真美術館’85でしたパフォーマンス「丸山亮『見える音』展」など、みな演劇的な継起と身ぶりを伴っているのだ。
昨秋の東京アート・セレブレーション(江東区文化センター)で、私はヒグマ春夫と「二人の男」を共演した。「二人の男がいる。それぞれは相手の分身と思いこんでいる。精神の暗部に傷を負った男は、現実世界の虚実を判別することができない。ただひたすら自己の解放をうながすものへの欲望だけが生のあかしとなっているのだ。その欲望は、音と映像によって、外部へ放射される」。これはそのときの案内ちらしに記したうたい文句だ。私は主に音と、ヒグマは主に映像と係るように役割は分担してあったが、それを二人の演技的な身ぶりによって運んでいこうというのである。
私の音とヒグマの映像をはっきり区別し、時間枠の中で勝手に進めていく共同パフォーマンスは、それ以前すでに何回か、様々な場所でくり返してきた。そこでは明確なコンセプトから出発することをあえて避け、己れたちの瞬発的な反応力だけを頼りに行為してきたのだった。拘束のない自由な場で、音や映像を思うまま遊ばせてやりたいという気持ちが強かったのである。しかし数回続けているうちに、野合めいたジャンルの交錯には、いくら気取ってみてもどこか後ろめたさがついてまわるのを感じだした。そこでヒグマとも話し合い、「二人の男」では思いきって両者をドラマのくびきで縛ろうということになったのだ。もちろんそうだからといって細かいプロットを用意するわけではなく、二人のからみが自然に生れるようなゆるい筋立てにしておいた。音の場合は録音を、映像は録画を背景にし、その入りはプログラムに従う。そして、二人のパフォーマンスはその空隙を埋めるように演じていくのである。
音の場合、素材は3種類に限る。ハーモニカ・声・そして波の音だ。映像も二人の仮面や包帯を巻いた身体とハーモニカ、それに波が録画の素材。そしてパフォーマンスは同じ素材を現場で重ね合わせ、イメージの増殖をはかるように進めていく。これが我々の戦略だった。
私は仮面を、ヒグマは包帯を顔中に巻きつけて闇の場内に入ってくる。多重録音のハーモニカがオルガンのように鳴り出す。やがてビデオのモニターが点り、その微光で二人が照らされる。モニターはしばらくすると仮面と包帯の男を録画で映し始め*1る。無言のまま、二人はお互いを意識しながらゆっくりと、モニターが数台積み重ねられた位置に移動。仮面の男はモニターの画面に映ったハーモニカに口ずけする。そこで仮面がはがされ、また包帯の男の包帯がほどけて、二人の仮面と包帯が入れかわる。包帯に変わった男はハーモニカを口にあて、それを吹き始める。生の音が初めて鳴る瞬間だ。また仮面の男はハーモニカを吹く男をビデオ・カメラで追う。映像もこのとき初めて実写が混じるようになる。仮面の男は長いビニールパイプを口にし、吹くとその先は水の入ったビンにつながっていく、水が泡立つ。その音はコンタクト・マイクで拾われ、やがて波音をさそう。波は間もなく、声明のような合唱に変わっていく。包帯の男がそれに自らの声で和し、仮面の男は実写と録画の混じる映像に、色彩変化を加えていく。再び波の音がもどってきたとき、映像はそれに洗われるようにだんだんと消え、声明もいつか止んでしまう。二人の男が場外に去り、暗転した室内に波だけが聞こえている。
これがあら筋だが、約60分の持続を二人の男の身体が関与しないまま持たせることはむずかしい。生身の体が支える劇構造こそが、見る者聞く者との間に接点を与えてくれた。身体と共通項とする音と映像のパフォーマンスは、ドラマの共時体験を通じて受け手の視覚と聴覚に働きかける場合、より強い力を発揮するようだ。それはドラマの象徴作用が、受け手の想像力を強く刺激するからであろう。
(採録者註:*1 原文では「初め」)