パフォーマンス・自由の幻想
大島洋
アーヴィング・ゴフマンのいう≪仕事の演劇化≫ということから、私がいま即座に思ううかべることができるのは、荒木経惟の虚実の間を往復する仕事である。しかし、この荒木経惟の仕事をパフォーマンスであると呼ぶことは不可能ではないとしても、≪仕事の演劇化≫あるいは≪生活の演劇化≫が、当面ここで問題とされなければならない“パフォーマンス”について、最も直接的でかつ問題の核心をついていることとは思えないのである。私たちの仕事や生活は、どんなに普通の生活であることが装われ、強調されても、多かれ*1少なかれその生活が演劇化されているということは、よく知られたことである。つい先頃スキャンダルを撒いたばかりの藤間紫が主演する昼ドラマのタイトルが『不倫の妻』であるというのも、悪い冗談とばかりはいえない。だが、演劇化された日常が、すなわちパフォーマンスなのではない。あるいは、演劇化された日常を自覚的に生きることがパフォーマンスなのでもない。そして、演劇化されているだろう日常を、周到に用意された“パフォーマンス”の場に持ち込んで演じなおすことさえも、必ずしもパフォーマンスであるとはいえないのである。
告白しなければならない。こうして書きながらも、パフォーマンスということばの意味がよくわからないのだ。とりとめもなく考えを巡らせる。たとえば、辻潤が「天狗」になって階上から飛び降りた行為*2は、パフォーマンスということばが包括するものであるのだろうか、と考える。「行者」になって街道を徘徊したのは、いわゆる“ダダ*3をこねた”のであったのだろうか。それともやはり世人のいうように、それはただの発狂であったとみるべきなのだろうか。脳病院を退院してまもなくの昭和7年に書かれた「天狗になった頃の話」には、気が狂ったのだと本人自身がはっきりといっているのだから、精神に異常をきたしていたとみるのがあたっているのかもしれない。しかし、退院の翌月には放浪のような旅に出て、虚無僧姿となって尺八の門付けをして歩いたということや、あやしげで魅力ある夥しい行為が、静止したシーンによる(それを写真といいかえてもよい)、不連続の線となって今私たちの前にあるような印象を与える、この辻潤の≪不連続な発端の持続としての生≫は、パフォーマンスということばを用いるならば、そのようによぶこともできると思うのだ。思う、と勢いで書いた。が、昭和7年に“パフォーマンス”は現に存在しなかったし、いま思った、という程の弱腰にすぎないのであるが、それでも幾分の根拠がないわけではない。『癡人の独語』という彼の著書には、「芸術はおもちゃ*4」であると記され、ダダはおもちゃ*4の異名に過ぎないのだとも語っている。辻潤は芸術をおもちゃ*4であると言いきることで、つまり芸術をこれまでの芸術とはちがう別の何かにしてしまうことで、はっきりと行為*2に力点を移行させている。彼によって書かれる、酒気をおぼた不連続なエッセーも、不連続そのものである行動とつきまぜられて、エッセーというジャンルだけには閉ざしきれない別のものになっているようである。しかし行為*2のすべてがパフォーマンスになるのでもないのだ。
パフォーマンスということばの意味がよくわからない。さっきもそう書いた。だが、わからないといっても、それは、よくはわからないのであって、全くわからないというものでもない。英語の辞書に説明されている語義も知っているし、どのような行為*2がいま私たちの周囲でパフォーマンスとよばれ、どういった人たちがパフォーマーと名付けられたり、自らをそう名乗っているのかといったことのおおよその見当もついている。パフォーマーであると思われる友人さえいる。彼はパフォーマーである前は、彫刻でもない、絵画でもない、だからといって行為だけに意味の集中作用があるのでもない、要するに名付けようのな表現の領域にあって、それがために美術家とかアーティストとよばれていた。それでは、これらの名づけようのない美術家たちが、パフォーマーと呼称されるようになったのだろうか。名称しがたい行為の内実がそれほど変わったのではないが、彼はいまパフォーマーといわれ、そう名づけられていることにさしたる不自然を感じさせない。しかし、名づけられない行為をする人のすべてがパフォーマーであるのではないことも明白である。舞踏的行為をする美術家、演劇的行為をする美術家、何事かを模した行為をする美術家がパフォーマーであり、その行為がパフォーマンスであるのだろうか。もしそうであるとすると、美術家ではない者による一定の行為はパフォーマンスではないということになってしまうという問題には、どう解答を与えればよいのか。
パフォーマンスについて書かれた文章や雑誌の特集などを読むことがあっても、それは“パフォーマンス”の現場での詳細な再録であり、あるいはその評価をめぐって語られていて、パフォーマンスおいうことばの諒解は、当然の前提とされているのである。それらの文章は、不定形な識閾のパフォーマンスの枠組を拡大縮小させたり、消してしまったり、さらに変形させることを試みたりしているのであるが、キーワードは依然、不鮮明なままである。むしろ、枠組が鮮明になることを拒んでいるようでさえある。拒みつづけることで、つまりことばによって枠組が定まることからの逃走に、パフォーマンスが成立できる拠りどころがあるようにさえみうけられるのである。だが一方で、パフォーマンスということばの意味を囲いこむ枠の組成を拒んでいるのとは反対に、ある行為*2をパフォーマンスと名づけることに対してはとても積極的であるようなのだ。
前述のことも含めて、パフォーマンスと、かってのハプニングとその間には、よく似ているところ*5があると思う。ことに、ハイレッド・センターの「東京ミキサー計画」など初期の街頭でのハプニングであるよりは、予め知らされた観衆を前に行われる、草月ホールなどでのハプニングと似ている。似ているだけではなく、呼称が変わっただけではないのだろうかという気さえする。しかしいいかげんなもので、テレビのチャンネルをまわしていると、唐突に、タモリはパフォーマンスでたけしはハプニングだな、と1人で合点したりするのだが、もとより根拠はないし、深追いする気もおこらない。漠然とではあっても、あるいはハプニングとパフォーマンスとの間に、ネーミングだけではない違いを認めているのかもしれない。そしてその両者を比較してみると、決定的に異なるいくつかの性格も思いつくのである。だがもしもパフォーマーにこのことを問い質して、ハプニングとパフォーマンスは大いに重なりあうという答えと、全く異なるものだという答えのどちらが返ってきても、同じであるようにも思うのだ。あれでもあり、これでもある。そして別の何かでもある。つまりパフォーマンスということばは、栗本慎一郎が経済人類学について語った「あってなきが如しの、単なる音、言葉の響きみたいなもの」であり、実体のないその曖昧さが、時代の“新しい”表現への「自由の幻想」に駆りたてているのかもしれない。ルイス・ブニュエルの『自由の幻想』が結論に到達することのない映画であったように、パフォーマンスは、結論を急ぐことの無意味さ、あるいはその断念を前提としているようでもある。その一点の理由によってのみ、こうしてメモでもしてゆかないかぎり、すぐにも忘れてしまうような脳の一隅をとりとめもなく流れてゆく一時の思いを書きとめたこの小文も、「自由の幻想」であったのかもしれない。
採録者註
*1 原文では「大かれ」
*2 原文では「行為」に傍点
*3 原文では「ダダ」に傍点
*4 原文では「おもちゃ」に傍点
*5 原文では「ことろ」