対談「パフォーマンスとイメージの時代」
伊藤俊治+浜田剛爾
司会=鴻英良
司会 ビデオ的映像の爆発的な普及に象徴的に現われているように、私たちの映像環境は大きな変貌に見舞われています。そうしたなかで、パフォーマンスは、身体表現を中心にしたものであれ、映像とのかかわりにおいて、従来とは違った形で語られるようになってきたと思われるものです。一方、写真という映像もパフォーマンスと深い関係を切り結ぶようになったということも現実の事態として起っています。この同時代的な二つの現象は、何か暗示的なように思われるのですが、写真とパフォーマンスということで、映像の時代と言われる現代の表現が何を目ざしているのか、呈示しているのか、というようなことを探っていただきたいのです・・・。
浜田 映像論とパフォーマンス論というのは、いつも相互に関係を持っていることは確かだけれども、実際は、分けて考えたほうがいいと思う。たとえば、パフォーマンスと映像という関係で言うと、テクニカル・イメージというものが、まず強くあると思う。テクニカルなイメージというものは、従来から割合と使われているものでね、ただ、そのことと、メディアという関係性、あるいは、パフォーマンスのなかに、メディアとして、写真などの映像を使うこととは違うことなんだとぼくは思う。
そこで、パフォーマンスの現場を自分でやっていていつも考えるのは、結局二つのことをやらざるを得ないだろうという感覚ですね。ひとつは、テクニカル・イメージとしての写真なり、映像なりを、パフォーマンスとの同一性のなかで考えるようにしたいということ、もうひとつは、パフォーマンスという非常に現場的なものと、写真に置きかえたいという問題性のふたつに分けて考えようとする。なぜそうするかというと、非常に少数の人間を相手にしている表現形態を、二次的なメディアに擦り替えることで、この表現形態に、もう少し広がりをもたせることができるからなんだね。だから、写真にしても、もともとの本体としてのあり様みたいなものではなくて、むしろ、パフォーマンスの流れのなかから、逆に照射されてくる部分があるような気がするのね。
そこで、伊藤さんに聞きたいのは、映像を切り離して考え、映像そのものの意味という方から、写真のもつある種の行為性について聞きたいんだけれど。
伊藤 たとえば、新しく出てきた女流写真家に、バーバラ・キャステインという写真家がいるんですけど、彼女の場合、ずーっと彫刻家だったわけです。これは、三次元と二次元の問題になっちゃうんだけれど、彼女の場合、ずーっと彫刻だとか、コンストラクションだとか作ってきて、それをある時期から、自分で写真にしはじめたんですね。それが、何年かにわたって、コンストラクションN0.1からNo.100くらいまで続けていくうちに、彼女の過程、行為自体を画像化すること、二次元化することが、最終的に意味を持ちだしてきた。コンストラクションするんじゃなくて、コンストラクションしたものを最終的に写真で撮って、それを作品として呈示することが、いつのまにか逆転してしまったというか、目ざされるわけですね。これは、70年代の後半に出てきた傾向ですね。
80年代のいま、彼女の写真は、ひじょうに注目されていて、その場合、彼女はもう、彫刻家でも、オブジェ・コンストラクターでもなくて、最終的には、自分のものはみな、写真となった次元で作品として呈示するわけですけれど、図示的な言い方だけれど、そういう人が沢山いるんですね。映像を最終的なものにするという逆転が、70年代、80年代以降になって、大きい傾向として出てきた。
これは、ビデオが浸透してきたり、いろんな他のメディアが出てきたりしたことと深い関係があると思うんだけど、いまは、インスタレーションやるひとでも、サンディ・スコグランドとか、シンディ・シャーマンなんか特にそうなんだけれど、みな、ある種パフォーマーでもあるわけなんですよね。写真化される前段階では。でも、最終的には、やっぱり、映像化したものを自分の作品として、プレゼンテーションするみたいな、そういう傾向というのが、いまの写真家の場合、非常に強いっていう気がする。それは、写真家だけじゃないとも思うけれど・・・。
浜田 たしかに、それは写真家だけじゃないね。というのは、ビデオ・アーティストちか、パフォーマンス・アート作家というのは、ずっと、パフォーマンスをやり続けてきたんだけれども、それが、あるとき、メディアとしてビデオを使いはじめる。それはたまたまテクニックとして使いはじめたのかもしれないんですよね。それから写真というものにも興味を示す。シンディ・シャーマン、ギルバート&ジョージなんか典型的な例だね。マイク・パーとか、ジル・スコット、テリー・フォックスなんかもそうだけど。
つまり、自分のポジションというものをフォトグラフィという第二次的表現に切り換えていく。これは、パフォーマンスを写真に移しかえて、それを大きく引き伸ばしたというのじゃなくて、そこでは、写真そのものがもう作品化されてきている。写真が新しいメッセージとして出てくるわけ。だから、そのあと、たとえば、写真のある様が、写真をうつしとったものとしてのペインティングに切りかわってくるとか、少なくとも、自分の移し変えてくるもののなかに、写真というファクターをどう取り入れるかということは、この7、8年に始まったアートのなかのきわめて強い動きなんじゃないかという気がする。
ただ、これには、そういう状況みたいなものとは別に、もうひとつ下世話な話があってね、それは、マーケットの問題なんですね。
パフォーマンス・アートは、演劇とちがって、マーケットを持っていないという宿命を背負っているんじゃないか。そこで、アーティストは、絶えずぎりぎりのところで、マーケットとどう接触するか、しないか、あるいは、オリジナルなマーケットをどう作るかという模索にかられる。そのとき、メディアの手段として、写真とかビデオとかを持とうとするんですよね。パフォーマンスは、本当に消えてしまうものだから、パッと。
伊藤 浜田さんなんかも、ビデオを撮っていらっしゃるんですか。
浜田 つくります。でも、やり方が変わってきたと思う。パフォーマンスの記録をしはじめたときは、単なるモノローグだったような気がする。そのうち、記録だけじゃもの足りなくなってきた。それは、少し遅いけどメディアとして何か違うんだなあって気づきはじめたからでしょうね。パフォーマンスというメディアと写真というメディアとペインティングというメディアは、それぞれ似ているけれども違うんですよね。記録をするということが、単なるドキュメンタリィじゃなくて、もっと記憶のなかに入り込ませるような表現性みたいなものに向かおうとする。そういうクリエイティブな力が、それぞれのメディア自身のなかに潜んでいて・・・。だから、必ずしも、肉体のなかにあるものが、うつしとられてクリエイティブな要素になるのじゃなく、このもののなかに、クリエイティブな発展性があると思うんです。もの自体のもつ進化論みたいなかたちで・・・。
伊藤 写真ができあがって実は150年なんですけど、ここ10年くらいの間に、それと同じくらい大きい映像の進化、人間の視覚の新kの段階みたいなものが起ってきたと僕は思っているんです。そのとき、一番根本的なのは、ビデオというより、コンピューター・グラフィックス(CG)で、これは、いままでの人間の画像概念を排除していくようなところがあって、それは、今、浜田さんがおっしゃった、そのもの自体のもつ発展性というものと関係があるんですよね。
(採録途上)