どんな色にも塗れる白い劇場
及川廣信
<アチチュード(態度)>ということばがある。ジェスチュア(からだの一部の動き)とムーブメント(からだ全体の空間移動)といっしょに身体の動きの分類用語である。簡単にいうとポーズなのだが、ただ意味のない形としてのポーズではなく、内部の心理的なものと外部状況によって決められたかたちなのである。
このような形態的な観点からとはべつに、もうひとつ重要なことは、現在時の固定したフォルムとしてのこのアチチュードのなかには、過去の動きと未来の動きが含まれているということである。瞬間的に固定したフォルムとしてとらえられてはいるが、前後の動きの流れをそのなかに包みこんでいる。
哲学でよく使うたとえ話に、「飛んでいる矢は、瞬間瞬間止まっている」というのがあるが、その逆として、瞬間瞬間に止まっている矢は前後の時間の流れを含んでいる。
<アチチュード>はサイボーグのようなものである。固定したままでなく、多様化しうるものである。身体のテクノロジーとしての部分が、状況に応じて即座に対応できるようにコーディネートされている。システム化されている。
この瞬間のかたちとしてのアチチュードを、時間を延ばして考えると、生活態度となる。心の問題としてだけではなく、からだのその人なりの、習い性としての態度ともなる。さらに時間を延ばして考えると、環境と生活様式に合ったそれぞれの動物のかたちともなる。
過去をのみ語ることも、未来をのみ気にすることも馬鹿げている。しかし、現在時をたいせつに見つめよといっても、過去から未来にかけての中間地点として現在をとらえない限り、意味するものを見い出すことはできないだろう。
人間は移動する時間の中にいる。テクノロジーは進化し、人体にも侵入しつつある。しかし、人間はいぜんとして動物でありつづけるだろう。人体内部に踏み入ってゆくと、へびもとかげも、鳥も魚も生存している。胎児の発育過程を考えるまでもなく、生物のフォルムと行動形態は、それぞれの内部で連結しているし、人体は意識のうえで、生理的なものをたどって、一挙に生物の原点に戻る可能性がある。
人体、フォルム、意志的な表現、これらのものは現象として存在するものである。時間そのものは前に進んでいるかのように思われるが、人間の内部の願望は、つねに肉体を越えて元の精神に戻ろうとしている。
話を「モア・リポート」に移そう。
これは女性雑誌の「モア」に連載された性に関する質問レポートである。マスターベーションとか性交について、それぞれの質問事項に応じて女性の読者が具体的に自分の経験を赤裸々に語っている、たいへん貴重な書物である。
その数多くの質問事項のひとつに次のようなものがある。
「あなたはオーガズムのふりをすることがありますか?それはいつもですか。ふりをする場合、どんな時に、なぜするのですか。そういう自分をどう思いますか。あなたがふりをすることを、パートナーは知っていると思いますか。」
この質問に応じた一部の回答者と同じように、社会的に有能な人物に対して好き嫌いはべつとして、可能性を信じてにこやかに接してゆく。嘘とだましではなく、自分の感情を伏せたうえでの可能性としての演技である。自然らしさとかナチュラルとは、いったい何なのだろう。もしそれが自分を越えて本質的なものが湧出するのではなく、また功利的な直接目的をめざしたものでない、トータルな可能性を信じての自然な行為でなかったなら、そのことはなんの意味もなさないだろう。
イマジネーションのない人間の行為などありえないだろうし、演技のない人生などありえない。そして演劇はアリストテレスやブレヒトがカタルシスとか異化作用などと定義せずとも、演劇はトータルに人生そのものなのである。
演劇は法則をもったゲームのようにみえるが、ほんとうは法則を忘れて遊んでいる時にその本来の姿をみせる。旧世代の文化と制度が解体し、多様化しつつある現在においては、方式や形式を必要とはしない。人によって異なった感じ方、考え方があるので、一方的な主義、主張やおしつけも受け入れない。
ただ自然に、今まで気付かなかった方式のスキマをとらえるほかない。このスキマの何もないところに、無限の動きと、可能がある。そのためにあえて古典的な形式をとることすらある。
ヤン・ファーブルの「演劇的狂気の力」をビデオで観る。と同時に何回かにわたって、この作品を観た人の反応を知った。素晴らしいという人が多いが、人それぞれによって感激の度合いと、感想が異なる。
実際の舞台は延々4時間半で、イゾルデ、サロメ、エレクトラなどの各断片から成っているのだが、演出家のヤン・ファーブルが美術とパフォーマンスの出身者だけに従来の演劇のワク組とは趣きがちがう。
簡単には判断しにくく、また一方ではシンボルの解読作業をせまられているので、結果としての反応が違って出てくるのだろうが、好みと気質も左右しているのだろう。
人によって見方がちがうというのはどういうことなのだろう。じっさい、いろんなタイプの人間がいて、べつべつの思考と感情を持ち、またその人なりの経験と教養の地盤を持ってのことだろうが、こう目前でいろいろな反応をみせられると戸惑ってしまう。
よくコンクールなどで、審査員の点数の付け方の差に驚くことがあるが、ヤン・ファーブルの場合は、基本的には西洋と東洋の文化構造のちがいが*1ある。つぎにそれを土台にした演劇のワク組、さらに現在時の社会の変換期を背にしたパフォーマンスの浸透がある。
具体的にいうと、ヤン・ファーブルの場合、オペラとかバレエの形式に慣れている人か、逆に現在の演劇状況に入りすぎていない人の方が素直に受け入れやすいようである。
ここで19世紀の社会学の創始者ともみられるエマヌエル・コントの説が関連して思い出される。コントは、ギリシャ・ローマと中世は宇宙的な世界、17・18世紀は形而上学の世界、19世紀はリアリズムの世界に生きていると定義している。
ギリシャ・ローマ劇や中世のミステリー劇の演劇空間は、ステージの空間の幅を越えた宇宙的空間であるし、バレエとオペラは舞台のスペースを点と線、角度、構図で布石した形而上学的空間である。それに比較すると、19世紀に発生したリアリズム演劇は、生身の身体と物、現実空間を基準にして舞台空間をあしらっている。
日本の古典芸能をみると、能の場合は、近世の式能になって中世の古能とはちがって、現在に伝わるような線と角度をもった構造を持つようになった。歌舞伎の場合も、時代物の演技は急激にフォルムの角度を変えてみせたり、ご注進の出やひっこみの線の動きに形而上学的な使い方があらわれている。
日本の土壌から幾何学が生まれなかったように、バレエやオペラのような徹底した幾何学的空間構図と演技形式は日本の舞台芸術には存在しない。
結局、日本の芸能の場合は、このような観点からよりも神秘、感覚、官能の分類法則でとらえた方がよりその特徴をつかむことができる。
つまり、能は神秘的な世界を表出しているし、九鬼周造も"いきの構造"で指摘しているように、歌舞伎の場合は、女形の泣くときの手のジェスチュアと声の引きのばしに感覚的な表現を、また女形の頚すじから肩にかけての色気とその動作に官能性を多分に表出している。
民俗学はながい間、村の生態にとどまっていた。都市はいぜんとして社会学の対象だった。だが都市も民俗学の立場から祝祭都市としての性格が浮き彫りされるようになった。いっぽう建築の側から生活空間としての芸術空間が問われつつある。
そのような観点から劇場空間というものを考える必要があるだろう。劇場の成立段階の構造とスタイルも、たとえば歌舞伎の劇場にしても、そのような江戸市民の祝祭性と、江戸という都市構造とに深くかかわりを持っている。
シアターということばを、たんに既成の劇場という建物としてでなく、このようなかかわり*2としての劇場空間としてとらえたい。
いままでの劇場は閉ざされた密室の空間だった。また第4の壁を境にしてステージと観客が2分され、安易なのぞき窓を通して、安楽な客席に向かって送られてきた。
われわれの生活空間は、マスメディアの力によって肉眼でみる世界からとび抜けて大きくなっている。情報空間は古代と中世の宇宙空間に匹敵する現代の生活空間である。
この宇宙的な情報空間に生活しているわれわれが、とつぜん閉ざされた空間としての劇場に閉じ込められた場合息苦しさを感じる。
ビデオ、スライド、通信を通してこの劇場の壁をとりはらってみせたのは、アメリカのマブ・マインズである。
折角の「風の旅団」の"東京アート・セレブレーション"参加がテント講演の場所を決められず、実現不可能になってしまった。最初、都に当たったがダメで、区に交渉したが、これもダメ。最後の頼みの私有地も捜し出すことができなかった。
3ヶ月にわたっての交渉相手との感触は、演劇に対する不信ということだった。なかには考えてみましょうと好意をみせてくれた人もいたが、返事を訊きに行くと冷たくお断りしますということだった。
考えてみると、最初の物件だけが可能性があったのである。それは江東区の埋め立て地で、埋め立てて2年経つと土地として使用可能な状態になり、はじめて都の土地名簿に登録され、仮契約していた向上などに売却される。
この埋め立てを依頼されていた親分が貸してやるよ、と言っていたのは登録以前のものであって、それを予定してプログラムを作り交渉したときは、すでに物件は登録され工場に渡ってしまっていたのである。
私は演劇に対する世間一般の無理解と、文化の不在を痛切に感じると同時に、自由がすべて失われてしまっているのを覚えた。
コネを頼って政治家の力で許可を得る方法もあるだろうが、それもいやらしく、あえてまともに当たっての結果である。天皇制反対の「風の旅団」の名を伏せてもこうなのである。直接「風の旅団」に対しては、警察から圧力が加わったことも確かである。
それにしても官も民間もずいぶんツブが小さくなったものである。社会そのものが組織化されすぎ、組織の駒としての人間がすっかり人間性を失ってしまっている。
テントは、自然のなかにも町中にも、自分の望むところに即座に演劇の場を作れるところに魅力がある。テントは場合によっては、「風の旅団」がやっているように、側面または舞台後方のテント幕をとり払って周囲の自然を見せることができる。その意味で劇場ほど閉ざされた空間ではない。
「風の旅団」はどちらかというと、仕掛けを主体とした歌舞伎的な手法をとっているので、"ヒノエマタ・パフォーマンス・フェスティバル"での「解体社」のように、テントを捨てて自然のなかに素手で踏みこむわけにはいかない。
しかし「風の旅団」は、戦略的に公演を打ち続けてゆくうちに、公的に認められ、一般の人気を得た場合、面白い結果が出るだろうと思う。
その意味でも、一年がかりのこんどの法政大学校内での公演実現は立派な成果である。
劇空間としてのシアターとは、新しい劇場を作るだけではない。既成*3の劇場構造を解体するやり方、何もないスペースに自分に合った劇空間を作るやり方、町中にテント公演を実現させるやり方、自然の中で芝居を演じるやり方である。
シアターの図面は脳裏に浮き出、劇場に、町中に自然のうえに実現されてゆく。それはアートであるだけでなく、われわれのトータルな自由を守るためのものでもある。(1985.11.28発行Theater Book Yellow Vol.001に掲載)
*1 原文では「〜ちがいある。」
*2 原文では「かわかり」
*3 原文では「規制」