シンポジウム I「パフォーマンスの現在」

シンポジウム I「パフォーマンスの現在」/パフォーマンス・フェスティバル '84 IN HINOEMATA

司会 星野共

基調講演 粉川哲夫

パネラー 池田一 浜田剛爾

ディスカッサント 鈴木志郎康

フロアー 川仁宏

司会 それでは主催者側を代表致しまして、一言御挨拶させて頂きたいと思います。私は、肉体言語を編集しております星野と申します。先程、檜枝岐の映画を観て頂いたわけですけども、何故、檜枝岐でやるのかというのを、マスコミ関係の方からも再三聞かれて、まあ、それなりに理屈はつけておいたんですけれども、実は、そんな、勿体ぶった理由はあまりありません。私が、生まれ育った所が、ここから二時間位先の、会津若松市という所で、生まれ育ちまして、高校時代や学生時代などよく、こちらに来て先程ちょっと映っていましたけれど、至仏とか燧ヶ岳とかに山登りに来たことがあったわけです。その時にいつも檜枝岐を通るわけですが、会津若松からも、その当時、五時間位かかっていました。列車で山合を通り抜け、それからバスに乗り換えて入って来るわけですけれども、東京よりも遠い、一番関連の深い近い市でありながら東京よりも遠い村があるということで、ここに来る度によくこういう所に人が住んでるなと。おそらく隠れ住んだんじゃないかという印象を強くしていました。名前も、橘と星と平野という3つの姓しかないという村でして、学生時代にいろいろそういう謎めいたところに魅かれて印象を強くしていたわけです。その後暫くこちらに来ないでいて、いい所があるからということで肉体言語の編集会議をこちらでやったんです。その時にたまたま飲んだ酒がおいしかったということもあって、何かフェスティバルのようなものをやるんだったら、檜枝岐でやりましょうという話になったわけです。それが丁度二年前のことです。でそれ以来檜枝岐で何か、是非企画をしたいというふうに思っていまして、今日ようやくパフォーマンスフェスティバルということで、この会議を持たせて頂いたという経過になっております。ですからあんまり勿体つけてマスコミの方に何故檜枝岐かという説明ができないんですけれど、敢えてこじつけますと、マスコミの方にも答えたんですけども、やはりここは自然、それから生活というのが眺め渡せるというところがあるからなんです。都市の中ですと、特に東京ですと、個人個人の生活というものがひと目でよくわからない。みんな機能分担して、各々分化した中で生活していますんで、個人個人の生活のスタイルとか、よくわからないわけです。けれども、こちらに来るとどういう生活しているかということがちょっと話すと皆わかるんです。村の方と接していますと、その意味で自然と生活というような事がよく見えている場所で、特にパフォーマンスというものは、表現と生活というような垣根を、ある意味でとり払っていったり、もう一回その関係を考え直すというようなことがパフォーマンスの中に入っているというようなこともありまして、そういう意味では、檜枝岐でパフォーマンスをやるということも大変いい事ではないかということで企画させて頂きました。今回、ちょっと忙しい企画でありましたので、不行き届きの点や御迷惑をおかけすることが多いかと思いますけれど、主催者の方では八月の終り位に檜枝岐でこういう企画を続けていきたいというふうに思っております。そう意味でもこれから今晩と、明日と、繰り広げられますパフォーマンス、是非皆様方の御協力を頂きたいというふうに思います。それでは、早速、シンポジウムⅠ、「パフォーマンスの現在」に入らせて頂きたいと思います。これからの進め方としましては、基調講演といたしまして、評論家の粉川哲夫さんになぜ今パフォーマンスか、あるいはパフォーマンスがどういうふうに展開されているのか、あるいは何を可能にするかとそういったあたりについて、約三十分程お話し頂いて、その後、パネラーとして浜田剛爾さん、それから池田一さん、それぞれパネラーの方に自分のやっているパフォーマンス、あるいは自分の考えるパフォーマンスについて約十分位各々お話しして頂く。その後でディスカッサントの鈴木志郎康さんに意見を述べて頂く。このディスカッサントというのが何をやるかというふうに皆さんから質問があると思いますけれども、パフォーマンスという話に小さくかたまらないように、できるだけ大所高所から述べて頂こうというわけです。鈴木さんはどちらかというと極私的なことにずっと、詩の方で考えを深められてきておりますが、今日はグローバルな立場で、勿論、それでも私ということがやっぱり中心になると思いますけれども、パフォーマンスという話題をできるだけ拡げて頂こうというわけです。で、どういうパフォーマンスの議論を進めたらいいかという、ディスカッションの方向について、鈴木さんの方からいくつか差挟んで頂くというような形にしていきたいと思います。それでは早速ですけれども、粉川さんの方からパフォーマンスの現状、それからパフォーマンスについての粉川さんの考えということを述べて頂きたいと思います。

粉川 はじめまして、粉川です。急に基調報告をやらされることになって、大変困っているんです。中原佑介さんはローズリー・ゴールドバーグの「パフォーマンス」という基本的な本をお訳しになっており、僕は今日中原さんのお話に若干コメントを付けたせればいいと思って来たら、基調報告というんで、困っているわけです。僕がパフォーマンスと名の付くものを初めて観たのはニューヨークで、七十年代なんです。それで、八十年に日本に帰ってきてしばらくしたらパフォーマンスという言葉が日本でも使われ出し、そのうちにそれが原語のパフォーマンス・アートという文脈をはずれて非常に広い意味になってきたんです。だから僕はパフォーマンスという言葉は日本的な現象としてとらえた方がいいのじゃないかっていうふうに考えているんです。原語の文脈からいうと、パフォーマンスは、一九五○年代にアメリカで始まったわけですね。例えばジョン・ケージはパフォーマンスを考えるうえで非常に重要な人だし、アラン・カプローのハップニングやフルクサスの仕事もパフォーマンスですね。しかし、パフォーマンスという言葉自体はもっとあいまいで、パフォーミングアーツという意味でのパフォーマンスがあるし、パフォーマンスっていっても所謂、今、我々が考えているパフォーマンスだけじゃなくて、演劇もダンスも音楽も含まれる。僕の知る限りでは、パフォーマンスがパフォーマンスとして、ハップニングがパフォーマンスとしてとらえなおされ、パフォーマンスという言葉が特定の意味を持ってくるのは七十年代になってからじゃないかと思うんです、で、その場合、何故パフォーミングアーツっていう言葉があるにもかかわらず何故パフォーマンスなのかということなんですけれども、大雑把に言って、それは、演劇がだめになってからじゃないかと僕は考えます。まあ、演劇については既に一九一○年代くらいからメイエルホリドの演劇批判というか、演劇終焉説みたいなものもあったわけだし、ゴードン・クレーグなんかも、演劇は解体しなければいけないと言っていたわけなんです。ブレヒトも、西欧演劇はアリストテレス的演劇であって、それは、叙事詩的演劇によってのり超えなければならないということを、言ったわけですね。だけれども、そうした演劇内的な批判ではなくて、もう少し、一般的意識のレベルまで含み込んで演劇がやはり終わったんじゃないかっていうことがはっきりしてくるっていうのは、七十年代じゃないかと思うんです。ローズリー・ゴールドバーグの「パフォーマンス」が出たのが七九年なんですけれども、そのなかで彼女は演劇のジャンルのなかからはメイエルホリドの演劇を特にとりあげてそれをパフォーマンスとして捉えなおしているんですね。これは新しいメイエルホリド観だし、演劇史をこういう角度からとらえなおし、再評価することはできると思うんです。ただ、彼女にとって、七十年代までの西洋演劇史のなかでメイエルホリドしか残らなかったというのは象徴的なことで、それだけ演劇は、パフォーマンスから見ればだめになっていたということではないか。で、その場合、演劇の終焉はどこから起こったかと言うと、かつて演劇が持っていたはずの即興的な要素とか、ハプニング的な要素っていうものが、だんだん枯渇していったからです。そして、だからこそ、まさに演劇の持っていたハプニング的な要素だけを抽出するパフォーマンスというものに関心が持たれるようになってきた。もう一つ、今、何故パフォーマンスのことが日本で話題になっているかということですが、確かにパフォーマンスには演劇が捉えることのできない現代演劇が落としてきてしまった即興的な部分を抽出しようとする傾向があることは確かなんだけれども、それと同時にそういう傾向が出てくるっていうことはいかに、今、我々の生活の中で即興的な部分が非常に乏しくなってるかっていうことを意味しているんじゃないかと思うんです。アメリカの社会学者のポール・ピッコーネが「人工的否定性」ということを言ったことがあります。それはシステムはある種の復元力があって、今迄の社会システムが硬直化してきた時に、今度はシステム自身が自分に対するような否定性を作り出すというテーゼなんですけれども、まさに今の日本の社会は、今迄非常に強い上からの管理を浸透させてきた中で、逆にそれを少し外してシステムの中に柔軟なフリースペースや「ゆらぎ」みたいなものを作っていかないとシステムがうまく機能しないところがでてきているんじゃないかと思うんです。そういう意味において、パフォーマンスへの願望は一面で、体制システムが、ある種の活力を今のシステムの中に持ち込もうとしている一つのあらわれとして考えられるような気もするんですね。演劇の社会的機能ということを考えていくとわかると思うんですが、演劇っていうのは常に、支配や権力というものと背中合わせになって存在してきたと思うんです。いわば一方に権力があって、民衆をコントロールしており、そういうものを民衆の側から外すリアクションとして演劇が機能していた部分はあったと思うんです。ところが政治的な管理や支配の方法はこのニ十世紀の後半になって、どんどんソフィスティケイトされていった、そして今迄は、支配や権力は上から圧迫していく、民衆をある法律なら法律に従わせる場合に恫喝を加えるとか、暴力的に強制するというようなやり方を取る傾向が強かったけれども、それに対して、ニ十世紀後半の権力というものはもう少しソフィスティケートされている、つまりある一つのシチュケーションというものを作り出して、そこに人が入って行くと、なにかその、自然にそれに従わなきゃならなくなっちゃうような、そういう、非常に手の込んだ管理っていうものをやるようになっていると思うんです。この管理の装置としてマス・メディアとかそれから様々な文化産業のイベントとか----、たとえば祭りや選挙ということを考えれば一番簡単にわかると思うんですが----、があるわけです。祭りや選挙もいまや広告宣伝企業の仕事になってきているわけですが、管理というのが今迄みたいな上からの強制じゃなくて、ある種の合意をとりつける文化管理になってきた。それは、マスメディアの浸透と関連しており、都市から家庭へ、そしてついには個人の「内面」にまで及んできた。で、その時に一番管理の要になってくるのは我々の体です。体は一つの記憶装置だし、同時に一人一人、個人個人の自発性の場でもあるわけですね。何か一つの場であると同時に、その場に流れこむものの流れを変える転換点、メディアでもあるわけですね。そういう意味において、体の記憶っていうのはすごく重要だと思うんだけれども、ところがその体に変えてしまう管理・操作が二十世紀後半になってすごく巧妙になってきた。例えば、テレビを管理装置として観る場合、画面のリズムだというものがある。テレビで何を放映しているかということじゃなくて、本番組の次にコマーシャルがあってっていう時間のリズムですね、このリズムが与える影響はすごく大きいんじゃないか。漠然と無意識にテレビを観ていても、我々の意識の中に蓄積されるリズムがあり、それによって我々の体はすごく影響を受けるんじゃないか、そういうリズムが蓄積されてしまうと、それに合った音楽とかそのリズムに合った街の景観をより身近なものとして選ぶようになっていく。例えば街を歩く場合、一つのリズム、遊歩のリズムがあるわけだけれど、そのリズムを意図的に操作できるならばそのリズムに合った街のデザインを考えることが可能になってくるわけです。そういうふうにメディアが僕達の身体のリズムまで作っちゃうようなことを、意識的にやっていく場合、文化的に我々の体の反応を自由に規定できるようなところまで行くだろう。そうすると、当人は全く無意識に自分の意志で自分の欲するままに自分の欲望で何かをやっているように思っても、それが実はそうじゃなくて、あらかじめプログラムされたコードに従って、動いているということがあり得るんじゃないかと思うんです。進んだ権力というのは常にそういうところを考えてきたわけだし、それをかなり大規模にやろうとしたのがナチスだったわけですね。ナチス以後、広告や心理操作の研究は飛躍的に進み、広告関係の企業は、その辺のことを徹底的に研究している。無意識、我々の無意識をいかに「植民地化」していくかという技術は非常に高度化している。そういうことを考えていくと、我々の体の自発性とか自由とかは、非常に限られてくるんじゃないかと思うんです。そしてそういう状況の中で今暗黙にパフォーマンスに対する強い期待と要求が出ているようなところがある気がするわけです。只、問題は今、あらゆる文化的なものが操作されている。そして、我々の身体的無意識までも「植民地化」するような様々な手段が整ってきている中で、残されている「本当の自発性」みたいなものを引き出そうとしても、その可能性は非常に少ないような気がするんですね。すでに我々の身の回りには我々の身体をアンドロイド化する装置が充満しています。僕は今日テープレコーダーを持って来たんですけれど、このテープレコーダーだけでも僕のアンドロイドを、三分間あればアンドロイドを作れるわけです。ちょっとやってみますと(以下、実演をまじえながら喋る)ここに入っているのは、三分間のエンドレステープなんですけれど、この三分間のエンドレステープに向って、僕が何かを喋る。で、この三分間喋ったテープを再生する、その場合、このテープレコーダーは電池がなくなるまで永遠に喋り続けるだろう。これは、一種のアンドロイドです。こういう装置が我々の身近にいくらでもころがっているということは、それだけ僕らがアンドロイドかされているということです。それから例えば、私の自我を拡大する装置もいくらでもある。この、今、僕が喋っているマイクロホンは、僕の自我及び身体を、僕自身がつまり、僕が素手の領域において持っている物と比べたら比較にならない程、拡げているわけです。これはFMの、「ミニFM」で使われているトランスミッターですけれども、これをマイクに繋いでみる、そして、FMの聞こえるラジオでトランスミッターの電波を受けてやると、僕の言っている声がラジオから聞こえてしまうわけですね。で、これを例えばどこかその辺に置いて・・・・・僕がここで喋っているだけで僕の自我がここに移っちゃうわけです。また、さっきのエンドレステープの付いたテープレコーダーをトランスミッターに繋いでやると、まさに僕が二人できちゃうわけ。またこの一式を例えば犬の背中に縛りつけて走り回させれば、カフカのオドラデクが出現してしまうわけです。こういうことが我々の身近かにあるもので出来てしまう。これは、僕は、非常に恐ろしいことじゃないかと思うんです。普通のラジオ屋に売っている物を使って僕等の身体性を操作できてしまう。むろん、この可能性は両義的で、今迄我々が置かれていた条件とは非常に違った、つまり、一人一人の個人が特に権力者でなくても電波を自分で操作することが出来る、そして、自分の身体性というものを拡大することが出来るということが可能になる面はあるわけです。いまのはあくまでも単純な実験だけれども、もっと、複雑な装置を使えば予想外のことも可能でしょう。エレクトロニクスかハイテクノロジーの過剰な発達の中にはこういう逆説が含まれており、一方で偶然性の要素を我々が実現していくことが非常に難しいと同時に僕はそういったテクノロジーを使うことによって我々の身体を今迄と違った条件の中におけるような可能性もあるわけです。そしておそらくこの点が今のパフォーマンスに懸けられている最大の問題じゃないかと思うんです。しかし、それはテクノロジーを使いこなせばいいということでは決してない。僕は、このやっかいな問題を考えるときにフェリックス・ガタリとジル・ドゥルーズが言っている「器官なき身体」(CSO)という考え方が非常に重要なんじゃないかと思います。これからのパフォーマンスを考える場合、パフォーマンスの可能性というものを考えていく場合に、「器官なき身体」という考えが非常に重要なんじゃないかっていうふうに思うわけです。「器官なき身体」の「器官」には、二重の意味があって、器官という意味と組織という意味との両方かけられているわけです。そうするとCSOは器官なき身体であると同時に、組織なき身体でもあるわけです。私が自分の器官を持っている、その身体器官を持っているっていうことがまさに一つの従属であり、不自由でありということになっているわけだし、つまり、我々の手の動かし方とか、呼吸の仕方とか言葉のリズムとか皮膚感覚とか、そういうものがマス・メディアを通じてコントロールされているわけです。しかし、それにもかかわらず、その器官を外した組織化されない身体性というものが可能であり、ガタリとドゥルーズは、舞踏の身体とか精神分裂病やSMの身体などを例に挙げながらこのことを考えています。それから、集団ということを考えた場合でも、例えば今、こういう形で、我々が集まっている場合どうしても既成の集団の組み合い方っていうのがどこかで作用してきている。つまり、集団性っていうものは、常にある種の組織や組織体----つまりオルガンですね----なしには存在しないようなところがあるわけです。ところが祭りとか革命とか暴動とかにおいては、集団は今迄の既成の組織体から外れてしまう、つまり組織なき身体を実現するわけです。ですから個人的レベルからみて「器官なき身体」、集団的なレベルからみて「組織なき身体」をどう実現するかということがパフォーマンスに一つの方向を与えるような気がするんです。最近ガタリとトニー・ネグリは九十ページばかりの論文の中でこのCSOをもっと広い文脈の中で定義しなおしています。これが非常に面白いんですけれどね、ドゥルーズとガタリにとって身体とは要するにさまざまな「線」なのですが、その論文の題名が「新しき連帯の線」なんです。ここでは、もちろん、そういう「線」と「路線」とが掛けられているわけですけれど、その第一章が「我々はコミュニズムを呼び求める」というタイトルになっています。今迄コミュニズムっていうのは、共産主義と訳され、集団を拘束するイデオロギーとして悪名高きものになってきたわけですが、コミュニズムという概念が持っている方向はそういうものではなくてむしろ「器官なき身体」を可能にする事なんじゃないかということを言っているわけです。そこで、ガタリとネグりは、コミュニズムっていうのは「個人的な、それから集団的なサンギュラリテを解放する方法である」と言っている。「サンギュラリテ」とは、英語で言う「スィンギュラリティー」、要するに一回性とか唯一性とか、唯この限りとか、そういうことなんですね。つまり、唯一性を集団的かつ個人的に実現していく解放の方法、これがコミュニズムなんじゃないかっていうことなんです。そうだとすると、これはまさにパフォーマンスがやろうとしていることと同じじゃないか。むしろ、ドゥルーズとガタリのCSOは、パフォーマンスによって、はじめてコミュニズムという方向を得るのではないか。

司会 どうもありがとうございました。それでは、今の粉川さんの話を受けて、まあ会場にいろいろとご質問もおありかと思いますけれど、また後でフロアの皆様方からご質問なりを受ける時間を用意しますのでとりあえず、パネラーの方にひき続いて話してもらいたいと思います。今の粉川さんの話を土台に致しまして、できたらそれにある意味で関連を持たせて頂いて、特にパフォーマンスをやられているおふたりのパネラーの方からパフォーマンス論を簡潔に、十分位でお話し頂けたらということに致したいと思います。では、浜田さんの方から・・・・・

浜田 こんばんは、浜田です。今、粉川さんの方から基調報告がありましたが、ちょっと話をはぐらかすようで申し訳ないんですが、実は、朝、新宿の西口に来ましてそれから暫くそこで待っていて、バスに乗って、まあ約六時間位ですか、檜枝岐に来ました。その間に考えたのは、実は、パフォーマンスのことじゃなくて、パフォーマンスの気分ということについて少し考えていました。というのはこれは全く僕の個人的な想いですが車中段々天気はよくなるし、山は深くなるしで、どうやらこれはパフォーマンスをやるという様な条件よりもピクニックに行くような気分の方が強くなって来ました。それで、その感じた事の一番大きな事というのは実は夕方境内で石井満隆さんとか、徳田ガンさんのアクションを観ていました時に感じたんですが、それは、パフォーマンスの場合の野外というものと、室内というものの、まあ非常に単純な区分けをしますけれどそういう時における、演ずる側のあるいはパフォーマンスする側の気分というものは一体どういう形でもってそれに対応するのだろうということです。自然の状態であるとか人工に造られた都市であるとかそういた場の問題、つまり一種の制度的な区分ではなく、それこそ身体性に感ずるあるいは対応していく自然な肉体というのがどこかあるんじゃないかということです。勿論この身体性というものと場の獲得については個人的な想像力というものが基本的にあるんですが、それについてはあくまで身体のレベルだけじゃなくて、場のレベルというものとの関わり合い方というものがいつも問われていると言いたかったわけです。観念的な問いというよりは、むしろ即興的にその場に問われている身体の制度について考えていたわけです。檜枝岐のような特殊な技術下ではそれが大きく作用するのではないかと思うからです。又、もう一つの意味では、反応においてもあるいは、対応するオーディアンスとパフォーマーという関係でもそうなんですが、その意味合いがこうした特殊な条件の場合は多少ずれてきて、一種の共同体的なイメージをどっかでもってくる。つまり、演者と場、その上場に於ける演者と観客という関係が、一種の擬似共同体の上で仕組まれたのが、この檜枝岐パフォーマンスの特徴だと考えるわけです。それがどこで発酵してきたかと言えば、私にとっては、ゆらゆらとゆられて来たバスの中と決して無関係ではないわけです。又、今日のテーマであるパフォーマンスとは何かということについては、これは、もうパフォーマンスを実際やる人間にとっては多分大変難しい問題であって、もし言語化しようとすると、まさにその今、粉川さんが言われたような状況的な面、あるいは引用された面から攻めてくるしかないだろうと思っています。しかし心理的にあるいは構造的にあくまでもパフォーマンスにこだわろうとすれば、これはもう個人言語とか個人空間にオーディアンスとしての見方を見い出すより他に方法がないのであって、それが作家としての一般的な立場じゃないかと思います。それから、もう一つこれはさき程粉川さんからの問題提起にありましたパフォーマンスの出発点の中について、演劇の危機感、あるいは崩壊後の問題つまり、方法論としてのポスト演劇的展開といいますか、それがパフォーマンスの出発点という形で基調的に言ったと思われるんですが、その辺の詳しい歴史的経過は別としてよくわかりませんが実は、その自分自身の問題としては美術史としての扱いだと認識しているわけです。私自身、パフォーマンスはまあ、この十二・三年位断続的にやっているわけなんですが、明らかにパフォーマンスというものを明確に意識し行い始めたのは一九七二年あたりでです。所謂なんていいますか言語的に言えば、ハプニングとかイベントといわれることと多少違うと、多少どころじゃなくて全く意識的には違う立場を取りたいという意志決定のような形でスタートしたわけです。それらが明快になるまでは大変時間が経って、勿論、今、明快になったとは言いませんけれど。・・・・・少なくとも、脱出したんじゃないかというふうに今では自分は思っています。ただそれが今後は側面から見た場合パフォーマンスとして規定できるだろうかということは別問題でありまして、ここでは、パフォーマンスという言語性と自己の表現性の間にギャップを生む結果となります。というのは私自身それを対外的に呼称としてパフォーマンスと呼んでいる時はいいんですが、ではパフォーマンスの中心性は何かということと実は自分が認識していることの差というものは、感覚的な問題と、それから一つの論理的な背景、それから、状況論的なものとがうまく噛み合わないというところでいつもある種の行為を演ずる場に立ってという矛盾に悩まされるわけです。ですから、これは無責任な言い方になりますが、パフォーマンスというものはあくまでもこれは私達の生きられる背景を記号化したりあるいは、我々自身がどのように、存在して、どのように今日様々の問題、問題っていうのは、つまり社会的な存在としての自分自身ですね、そういうものに関わっているかということを認識する為の言語質の獲得のため関わって、演じているのかも知れないという仮説もたてられるであろうと思うわけです。今日ではダンス、あるいは音楽、演劇ですね、それから、美術も勿論含めてなんですが、あらゆる表現が今日ほどミックスした状況はない、そして、その差といいますか、消化不良の部分が実は総体的にパフォーマンスという現象そのものを生み出しているんじゃないかというふうな気がします。それから、少しくどくなりますけど、もう一つ感じているのは、この檜枝岐で、自分自身が個人的に感じていたつまりピクニック的感覚を基にして喋りますと、このパフォーマンスフェスティバルは、実はパフォーマンスというよりは、私にとってアースワークに近いような一つの仕事じゃないだろうかと受けとめるところがあります。というのは否応なしに来た数少ない人間とそれから山とか川とかいった自然条件、そういったものの中にあって、そういう関係を考えた時にはどうしても僕等自身が対応してきた、いわゆるパフォーマンスという都市文化の中の突出性といいますか人間関係の問題ではなくて、ワークショップ的、つまり学習的な意味をも含めた自然対応性、つまりアースワークじゃないだろうかと考えています。ですからあくまでもここでは僕自身としては、パフォーマンスという言語にこだわりながらワークショップ、あるいはアースワークのような個人的営為と同時に多くの人々との関わり合い方みたいなもので、ここで何か見つけたら面白いんじゃないだろうかとは考えています。で、何か質問とかそういうこと? まあまさしく私としては一日中酩酊しているような状態なものですから、それも結構ですがそういう気分の中ではこうして喋るというよりは気楽に楽しみたい気分です。難しい話は粉川さんにお願いするとして、粉川さん宜しく・・・・・。

司会 どうもありがとうございました。続けて、池田一さんの方から。

池田 パフォーマンスについて話をするというのは、その周辺に広汎な問題を含んでいるので、そう容易に進展するたぐいのことではなくて、まだ数日間顔を付き合わせて、相互の営為を睨み合ってた方がよく見えてくるんじゃないかと思うわけでね。で、今日のところは、その相互観察の端初として、パフォーマーとしての私なりの展開を少しでも投げ出せればいいのではないか、と考えています。まず、一番初めに「パフォーマンスとは何か?」という問が恐らく日本人の精神風土の中にはないんじゃないかと思うのね。それはどうしてかというと、大体日本人というのは言語的に分節化してとらえるのが不得手な性格で、美術・舞踊・マイム・演劇などと区分けしているわけだけど、実際はその境界が堅固なものじゃなくて、大胆に言えば我々の文化は常に分節化の成立以前にあったんじゃないかという気がするのです。現実に神棚と仏壇と十字架を一緒くたに置いて、その混沌さに平然と対していられるというか、矛盾を矛盾そのものとして受容するところがあるでしょう。どこか我々の身体性の中に。だから、分節化され制度化された今日の文化の仕組みは、そのような身体性を封じ込めた仮構の姿ではないか、と思うわけです。私自身の体験に即していうと、美術と演劇の間を行き来していたわけだけど、私という表現主体は演劇とか美術とかいう言葉のフレームにはおさまりきれない、その枠組ではすくいとってくれない自分の中の何かを常に感じていたわけです。例えば演劇という言葉の制約を越えるために、超演劇とか多相演劇とか呼んで新しい試みを繰り返してきたわけだけど、なかなか演劇という制度から外れることはない。どうも不自由で居心地が良くない。演劇という制度が私という自由さを封じ込めてしまうというのかな、確実に何かが逆転しえいるという感じがずっとつきまとっていたわけです。何か実体のない拡がりのある、でもそこに身を置くと明日から未来へとつながる時間も展望しえるという、全てが自分から発しているような実感が、全ての表現者の本来は求めているものなわけでしょう。その本来の欲望にそって身体を開こうとしていったことが、まあ私にとっての、パフォーマンスへのとっかかりだったと言えるのではないかな。実際、この拡がりの中に身を置くと、演劇という概念をこわそうと思って、超演劇とか多相演劇とか呼んでやってきたことが、パフォーマンスという筋道で貫かれて、その時々の表現の根源的な方向性というか欲望の露わな形が非常にはっきりとらえられるようになってきたのです。それぞれの表現ジャンルのフレームが厖大な情報に絡めとられて肥大化していくことは、表現者の手に負えない部分が増々増えていくことなので、これはもう表現者であることの危機なわけだ。この漠然と抱いている危機感というか、いま作家が何を表現しなきゃならないかという問に対して背負わざるを得ない重さというか、それらを、もはや舞踊という言葉の枠組みでは救ってくれないだろう、演劇という言葉じゃ救ってくれないだろう、美術という制度じゃ救ってくれないだろう、と思っている人たちは結構いる筈です。これが最も今日的な問題と直面している表現の感性というか、可能性のある感性であって、それをどのようにレールにのせて押し拡げていくのか。残された問は多分この点に尽きるように思うわけです。その意味では、この感性を受けとめる拡がりをもったパフォーマンスというレールを、積極的に意識し押し拡げていく作業は非常に今日重要なことであり、おもしろいことだろうと思うのです。ここで、初めに話したことを思い出してください。我々は容易には分節化されていかない身体風土を根底的には持っているのではないかという点ですが、これは先程から言われている器官なき身体にも相通じていくわけだと思うわけですね。器官なき身体とは、言語への分節化をはねつける身体ともいえるのではないか。そのように今日の問題を絞っていくと、いま立ち戻らなければならない身体の問題と、脱フレームで非分節的なパフォーマンスの問題とは妙に符号しているところがあることに、気付かざるをえないわけだ。言い換えれば、パフォーマンスという行為の志向性は、日本人の持っている身体の感性とピタッと合っているのではないか、ということです。私が、自分のアクションの積み重ねを、「日本人のためのエネルギー計画」と呼ぶことがあるのは、この身体的直感に根差しているわけです。アメリカなんかでは、パフォーマンスは既にブームが終ったなどといわれているらしいけど、そこでのパフォーマンスと、いま私が身体性にそって展開しているパフォーマンスとは、その出所も、それを受けとめる身体風土も全く異なるわけで、いやそのように主張する身体の差異性にこそ我々のパフォーマンスの独自な可能性がある筈だと思うのね。この固有の身体風土に根差した表現という観点に立てば、分節化された言語的なフレームの中での可能性を追ってきた従来の文化の在り方とは全く異なるわけで、その違いをしっかりと認識していれば、パフォーマンスという言葉の枠組からも常に自由でありつづけられるわけです。私の語り口には耳馴れない向きもあると思うので、ここでナム・ジュン・パイクの書いた「Messages to Japanese」の中の一節を引用します。ええっと、日本の文化にはとあって、「”見立て”という日本独特のイマジネーションに、マイクロエレクトロニクスのテクノロジーが不思議にジョイントしている。コンクリート・ポエム(具体詩)というのがあるけど、これを作品ということではなくて実際の必要から生活にしていくのは日本人が最初になるだろう」、と。細かい意味内容はいまはさておき、これは今まで述べてきた我々の身体風土を鋭く看破した言葉ではないか、と。その意味では、パフォーマンスがひとつの表現ジャンルとして制度化されPerformance ad a Post-performance などという言葉で再構築をつづけ、結局はTVアートやショーなどの文化の表面に回収されていく米国などの文化事情とは明確に異なるわけです。なぜ、この点を強調するかというと、さまざまな概念を統合し、一つの価値体系を形成していくといった、今までの文化へのアプローチとは、起源を異にする表現営為であることを、まずはこの場の共有の問題にしたかったからです。更に突きつめれば、身体風土の差異に根差した表現営為であることは、個々人の内にある身体風土の差異にまで言及する必要があるってことになる。パフォーマンスを、制度の枠組から個を解放する、いわば個の復権行為でもあるというのは、この点です。私という身体性と、あなたという身体性の差異がどのような新たな時間を生みだしえるか、この問が息づくパフォーマンスの場には全ての人が同量の自由さを保障されてなければならない。当然、見る・見られる関係というか、二元的に分極化された場の関係は成立しなくなる。これは、観客という概念の否定であると同時に、作者という特権性の否定にもつながっていくわけです。これは、新しい他者観の呈示であるといってもいいのではないかなあ。それは、パフォーマンスは、ナム・ジュン・パイクの言葉ではないが、芸術と生活の境界をも越えてしまう営為なので、文化レベルだけにおさまらない、もっと広義な他者観を展開していく契機になると思うわけです。実際他者がいるあらゆる場はパフォーマンスの場になりえるのであって、その意味では生活・労働・環境・文化といった生きることの周辺を、言語レベルではなく具体的な営為を通じて問い直すことにもなるわけだ、パフォーマンスというのは。パフォーマンスを即興表現ととらえる人がいるけど、これは非常に曖昧な文化言語的な言い方で、いま述べてきた新しい他者観とか日常時間との関わりという中でこそ鋭く身体的に追及する問題だと思うのね。私は、かつてよく、その人の表現を見ると糞する格好までわかるとか、欲望の図式がわかるとか言ってたんですが、まさに即興であるということはそのあたりのことまで筒抜けにさらしちゃうことになる。これは、もはや特権的時間ではない、誰もが横切ることのできる時間のうちにあるということの身体的表明なわけだ。だから、その即興的な場からどのような時間がひもとかれていくのか、という肝心要の問が透けて見えているというか、全ての人の手元に引き寄せられてるというか----。その意味では、即興というよりは、場での自生表現といった方がピッタリするのではないかと、思います。だから、パフォーマンスの非完結的な性格を考えると、ドラマのもつ完結的な構造とはむしろ対極にあるわけだ。場への感情移入、カタルシス、見る側の言語的構築といった視線の制度から、いかに遠去かるか、このドラマへの反逆的な部分が、本来的なパフォーマーには常につきまとっている。その意味では、たとえパフォーマンスと題した表現であっても、制度的なドラマの構造に自己完結してしまうものは、この際パフォーマンスと呼ばない方が誤解が生じなくていいと思うのです。だから、当然、パフォーマンスにはドラマのような終りがないわけだ。それは、単に、クライマックス、終幕、拍手といった終り方の制度からも切り離されている必要があるといったことではなくてね。営為する側にも、見る側にも、ひとつのパフォーマンスの終りは次なるパフォーマンスの始まりであるという場での了解事項が成立したかどうかってことなのだ。だから、場に自生した可能性への予感は、その場で途切れることなく、個々の中へと持続していく。その時、場にパフォーマンスは存在したと、営為者も観察者もいえるんじゃないかな。だんだんと場の話になってきたようなので、最後にそのことを少し----。先程、組織なき身体という言葉を借りて場の問題が提示されたわけだけど、場というと直ぐ祭儀空間的な高揚感や、演る側と見る側とが渾然一体となった場を想定されるきらいがあるのだけども、どうも短絡的すぎて、いまある身体実感にはそぐわないところがあると思うね。祭には、多分、俗から脱俗をし再び還俗するというプロセスがあって、そのトリップ幻想を共同体幻想に置換しているところがあると思うのだけれど、これはもう60年代に終ったという感じがするわけです。そういう共同体性が、日常的なレベルで裏切られつづけて、今日あるというか、そういう意味ではずっと言い続けてるように固有の身体性に還元した営為の線上で浮上してくる新たな共同体性を構築している時だといまは思うわけです。そこで、新しい他者観を呈示しているパフォーマンスの場は、演ずる他者にとっても見る他者にとっても、これからの協働的な営為の契機と可能性を探りあてる場として積極的に位置づけられるべきじゃないか、と。この話の突っぱしに、「パフォーマンスとは何か?」を論ずるよりも、数日間、それぞれの営為を睨み合ってた方がいいと述べたのは、まさにその点で、演ずるとか描くとか語るとか見るとかといった、それぞれの個別の身体性を踏まえた上で、個々の営為の延長として、いま、ここからでもシラフでワッショイやろうという提案であったわけです。また、何かあったら話します。

司会 どうもありがとうございます。いろいろな意見が出まして、これはもう整理が大変だと思うんですけれど、本来なら司会者がやる役目なんですがディスカッサントといううまい役割を作りましたので、司会者の方は少し逃げることができます。大変恐縮なんですが今、いろいろ出た意見を、どんなふうに柱を立ててまとめていったらいいかというようなことで鈴木さんからご意見を頂きたいと思います。

鈴木 なにか、話されるのがみんな違うような気がして、どういうふうにまとめるかって、今、考えていたんですが、先程極私的な考え方をすると紹介されましたが、大体、僕は自分の身に話をひきつけて考えるくせがありまして非常に、経験的に話すことしかできないんです。今の話を聞いていて、柱を立てるっていったら、まず身体の問題が出てますよね。だから身体ということが一つはあるんじゃないかと思うんです。それから、もう一つ、パフォーマンスっていうことでいうと、やっぱりメディアが問題になってると思うんです。それで粉川さんが出されたメディアの問題と、実際にパフォーマンスやってこられた池田さんと浜田さんが出された問題とはちょっと違うかも知れないんですけど、いずれにしろそういうメディアの問題があるんじゃないかと、で、もう一つ、なにか、それをひっくるめたところでなにかあるかっていうのは、実は一番困るところなんですね。で、今、池田さんが話された最後に祭りの話が出たんで、特に最近僕は詩集を出しまして、その詩集の題名が”身だち魂だち”っていう非常に古くさい題名をつけたんですね。身だちは身が立つ、魂だちは魂が立つっていう題で、で、魂って言葉は、魂っていうとなんとなく、オドロオドロしいかんじがしてくるんですけれども、魂っていうのはもっとあっさり使った方がいいんじゃないかなっていう気が若干するんですけれど、祭りの話しが出たんで、実はその魂っていうようなことを言ってしまいたいなという感じがいましたんです。この一つ一つについて、ちょっと僕なりに感じていることを話して、そういう柱でやったらば、わりあいと話が拡がっていくし、しかも、バラバラにならないですむんじゃないかと思うんです。先程、池田さんと、おそば屋さんで話したのですけど、パフォーマンスという言葉を言っちゃうと、今迄やってきたところがみんな入っちゃうんで非常にこう、楽なかんじがして、で、パフォーマンスという言葉自体がそういうものを持っているところを頭においた上で、今の三つの柱を考えていくと面白いんじゃないかなという気がしています。メディアの問題はちょっと僕の感じていることから始めますと、僕自身もメディアっていった場合に詩を書いている人間としては、一番身近かなのは活字なんですけれど、で、活字でもって、詩を書く場合には大体、本、あるいは雑誌にして発表するわけですね。それは、まあ、詩のメディアなんです。只、それを、おととしから昨年にかけて僕は何人かの人と、毎月二回というすごいハイペースで同人誌を出しまして、二年間で四十八冊の同人誌を出したわけなんですが、それに必らず全部参加した人が作品を書くということでやって、で、何故そういうスピードを出したかっていうと、実際に今、僕等が詩を書いたりあるいは文章を書いたりする時に出版物というのはたいがい皆、定期刊行物なんです。定期刊行物っていうのは完全に、リズムを持ってまして、月に一回とか、大体最低単位がまあ週刊誌は別ですけれども、詩の場合ですと大体月一回連載していれば月に一回書きますけど、それにそうでなければ非常に間をおいた感じになってくる、で、そういう活字メディアがオンリーだっていう考え方を持ってくると、非常に受け身な態勢になってくるんですよね、で、受け身の態勢になった上に、そういう制度化されたある一つのリズムの中に身を置かなきゃならないっていうことが、で、詩を書くのにそんなところでやり取りしているっていうのはバカげた事だっていう考え方から、それを越えるのは、とにかく一番最低の月に一回を越えてしまう為に月に二回やろうということになって、だんだん参加してくる人の中には、月に三回の方がいいんじゃないかなんていうことを言い出す人がいたんですけれどもでも実際に、月に二回発行の同人誌、つまり月に二回ずつかなり長い五十行以上の詩を書いて、発表していくと、だんだんだんだんと書いている詩が今迄書いていたような詩ではなくて、形にこだわってくるわけですね。しかも、時間をかけて、ぐずぐず考えてたんじゃ、とてもじゃないけど進まないからサーッと書くというようなことを自分でもやるとサーッと書くというのは、最初から始まって、ある一つの時間の中で完了してしまうわけですから、まあ、誰もみないけれど言葉のパフォーマンス、パフォーマンスをやっているんじゃないかという気にもならないこともないわけです。で、そういうふうにしていくと、だんだんだんだんと、作品という物がどうして作品という形態をとっているのかっていうのが、問われてくるんですよね。で、詩の場合ですと、題名がありまして、その次に作者の名前があって、それから本編があるわけですね。これは、不思議なくらいにくずれていないわけです。で、その一つでも欠けるとわりと皆あわてるわけです。おさまりが悪いというような感じ方から非常に倫理的な問題にまでも拡がっていくわけでして、で、そういうのは何かっていうと、ある一つの制度の中で作られた問題、で、売り買いする時に非常にその三つのことがなきゃならないんじゃないか、ただ、それを一年に二十四回、二年で四十八回っていうのを続けていくと、そういう形態自体がある程度ナンセンス化してくるんですよね自分の中で。で、勿論発表する段階ではそれは逃れられないからそういう形を取ってますけれど、ただ本文の方の詩の形態あるいは言葉の出し方が全然変わってきて、まあ、おそらく収拾がつかないという感じになっていくってことがあります。で、書いている言葉にもスピードが出て来て、一年間で二十四回出した後、そのスピードを身体の中に抱えて、今度は詩人ひとりひとりが舞台の上に立ってみようということになり、「空飛ぶ橇」という朗読会をやったのです。そこに参加した者全員が出たわけですが、で、一回やったんじゃ顔見せにしかすぎない、顔見せというのは、メディアが形成した顔をそこに並べるだけであって、まあ、活字メディアがですね、で、形成した顔をそこに並べるだけであって、それじゃ、しょうがないからということで、二回目をやって、二回目は、今度は、延々と七時間にわたる朗読会をやったわけですね。七時間の朗読会をやってもなんか満足にいかなくて、まだ、足りないんじゃないかっていうかんじになって、で、今度は三回目をやろうっていう話しになっているんですけれども、で、それがさっき言ったちょっとお祭のことと関係してくるのは、七時間っていうのをやった時に、わりと、個々が単位で並列的にならざるを得ないんです。もう七時間っていうと顔見せはちょっと、七時間の顔見せっていうと、ちょっとあまりにも長すぎて、聞いている方は、顔見せ的なかんじではなくなってくるんですけど、でもやっぱり、並列的なかんじから逃れられない。それは個が単位だっていうことがあって、で、それをどういうふうにやって解体して、解消して一つの物にするのには、どうしたらいいかっていうことが一つあるっていう、そういうメディアとの対応関係あるいは、それは、表現の発表する一つの道筋としての代わり目が一つどうしても感じられるんじゃないかとそれはメディアのことですね。それから、身体の問題について僕がもうちょっと具体的に感じていることは、今は、まあ、さっき粉川さんが、自我の拡大として、マイクロフォンの拡声装置とかあるいは電波をとばすやり方とかということを実演なさいましたけど、実際には、僕等、飛行機に乗ったり、それから新幹線に乗ったりあるいは、ラジオで電波をとばしたりするんですけれど、それは、もう、慣れてしまってるから納得しているわけですよね。でも納得しているけども実際に僕等、科学技術がどんどんどんどん発達していくもんだからそういう事が可能になったんだっていうようなことを頭の中で知っていますけども、こちらの、体の感覚の方はどうかというと、科学の技術の発達と共に発達するということはないんじゃないかと思うんです。そうすると、実際に空を飛んでいるっていう自分がいるわけですよね。でもそれは、昔、空を飛ばなかった古い時代の人達からいうと、実は神話の世界ですね、空を飛ぶっていうのは。で、あるいは新幹線のように、時速ニ○○kmとかそんなんで走るっていったら、これは明らかに神話の世界っていっても、出てくるのか出てこないかだし、全部、もう神話的な世界に僕等、生きているんじゃないかっていうふうに思うんです。で、その時のその神話的な世界に、昔の人だったら正直にそういうのは感覚が対応できないから神話の世界として作り上げたのを、僕等はわりと納得したような感じになって、只、その納得している、けれども実は納得していないんじゃないかというのが一つあるんじゃないかと思うんですよね。そのことは、まあ僕にはよくわからないんですけれども、何となく非常にこう個々の人間を、それは個々の人間として、社会的にではなく個々の人間として一種、非常に退行した状態に人を連れ去っているんじゃないかと、つまりアニミスティックな感じになっていたりあるいは要するに僕等が文化人類学的にいま未開の民族達が持っているあるひ一つの心の特性っていうようなところに個々ばらばらに、引き戻されているんじゃないかっていう気がするんです。実際にフェティッシュあるいはまあアニミズムっていうのは非常にもう僕達の身の回りに沢山ありますよね、まあ、冷蔵庫に名前を付けるのはどうかなと思うんですけれど、それでもやっぱりそういう名前を付けていきますよね。機械に全部名前を付けていく、それから、ここにいる人達もそうですけれども、もう、僕は年を取っているかも知れないんですけれども若い人達が電気器具とかそういう物について、数字の番号を非常によく覚えていて、ああいうのは生きているんですよね。で、ああいう数字が生きているっていう世界っていううのはやっぱり一種そういうアニミスティックな心性の世界じゃないあかなと思うんです。そういうところになにか持っていくんじゃなないかと思うんですね。で、それは、なにか、その次の問題に繋がるかどうかわからないんですけど、さっき言った魂の問題、これはちょっと飛躍しすぎるかも知れないんですけれど、でも実は池田さんも粉川さんもお祭りということを言いましたけれど、お祭りはワッショイというふうに言いますがあれば、行列とかお輿の方がワッショイなんですよね。で、実際にお祭りの中核は何といったらやったり神事にあるわけです。神社の中で拝んで、で、実際神事をやって、その次のまあ、せいぜい芸能関係、芸能のところでは、その次のお神楽の奉納までが、大体そこまであたりが、あれば、その次の行列になるとこれはもう俗の方にずっと近寄ってくるわけなんですけれども、そこのところだけで捉えてたんじゃいけないと思うんです。僕は、最近、自分のことばっかり言っちゃうんですけれど、まあお祭りを観に行くんですよね。で、お祭りを観に行くっていっても要するに有名なお祭りじゃなくて、例えば奥三河の花祭りとか冬祭りとか、そこに伝えられている田楽を観に行ったり、最近は、早池峰神社の早池峰神楽というのを観に行ったんですけれども、それらは全て伝承なわけですね。で、伝承って何かていうと活字をもたないっていうことですね。まあオラル、口から口へ伝わっていくわけで、で、この活字をもたないで、一種作品的な形態をとって、まあ文学的な営為といえると思うんですけれども、それが、活字を持たない形態でもって行われているっていうのを、日本語は抱えているんだっていうことを改めて最近考えているんですけども、僕等が何か言葉でもって作品化して発表しようとすると活字に頼らざるを得ないという、まあ特に詩を書いてなんかそう思いがちなんですけれど、それからみるとそれを現在、同時的に口承を行っているところがあるというそのことをちょっと考えてみた時に、この伝承するっていうことの中の言葉は考えてみると全部本当は発音ですよね、で、発音するっていうことは、どういうこかっていうと、口にするそばから消えていくことですよね。こう、言ってしまったら、そこで、まあ録音したりなんかすれば再生されるわけですけれど、で、実はそこで再生の問題が出て来ますね。で、活字っていうのは、再生の問題があるんですよね。何回でも読めるとかありは、一度書いたやつを多数の人に読ませるとかいう問題が起こってくるわけなんですけれど、そういうふうに活字あるいは文字ですね、文字化した時にきっと伝承するあるいは口から口へ伝えているっていう時にあったものが失われたに違いないんですよね。で、その失われた物の代わりに何かを得たわけですね。で、実際に文字が発明されて最初に何をやっているかというと、大体は国の歴史を書いたりなんかするわけですけれども、で、一番庶民っていうか権力のない一番末端の方は文字に触れる機会はありませんよね、絶対にね。で、そうすると文字っていうのはそういう一つの権力構造と非常に関係があるんじゃないか、で、その中にそれがずっと伝わってきた中で、勿論、それオンリーじゃありませんけどもそういうことがあるって、そうすると言葉っていうのは実際に発せられて、すぐに消えていってしまうただ発せられて消えるけれどもそこに何か立ち上がって起こっているわけですよね。そういうことはあるんじゃないかと。で、それを伝承という時にはそっくりそのまま伝えているんじゃないかということですよね。で、実際に人間から人間にですし伝承芸能の場合には身体の問題もありますけど身体的記憶として伝えていかなければならないことが沢山ある。で、そういう全体的なものの伝え方っていうのはわりあいとある。で、それが実は神事、神楽っていううかお祭りね、神事と非常に密接したところに行われている。というのは非常にこれ面白いことじゃないかと思ったんです。で、その事をもうちょっと話しますと、あの、これは偶然だったんですけれど、早池峰神社のあそこの資料館がありまして、中で観ていたらば早池峰神社っていうのは明治までお寺なんですよね。実は、妙泉寺っていう。で早池峰神社っていうのもあったわけです。で、早池峰山は、山伏の霊場なんですよね、修験道の。で、日本の宗教ていうのは、この三本立てなんですよね。実は、ここも山深い所で紀州から来たっていってますけれども、紀州は本当は山伏の産地っていうとおかしいんですけども、大元の大峰山があるわけで、で、山伏の話を聞くと日本全国街道を通らないで、どこへでも行けるっていう道筋を山伏っていうのはもっていたっていうようなことですが、それはまあ宗教なんですけれども、実際に民間信仰の中で山伏の力はものすごく強くて、いろんな、霊的、霊に関することね、たたりがあるとか、いろんなそういうような事に関しては全部山伏が処理していくっていう事をやっているわけでして、で、そうすると民間信仰的な割合と生活の中にある魂のより所みたいなのは山伏がつかんでいたんじゃないかと思うんで、その時に実は明治までお寺だったのが明治になって廃仏毀釈運動が起った時にそこの住職はさっと神主になり代っちゃうんですよね。で、為り代わってですね、神主として登録して、で早池峰神社は神社として認められ、それでその中で神楽は続けられているわけです。でその早池峰神楽っていうのは実は山伏が伝えたんだっていうふうに言われて、でまあ法印神楽っていうふうにも言われているんですけれど、そういう事を考えると、お祭りはワッショイっていうエネルギーの問題を含んでいるんじゃないかということが、僕は感じたわけです。で、実際にその早池峰神楽っていうのをまあ、ちょっとくどくなっちゃいますけれど、演目を見ると古事記あるいは日本書紀から取ったという天孫後輪の話しとかあるいは天照大神の話しとかそういうことが演目の中にずっと入っている。で、昔、学校で古事記とかを学ぶことがない時代に日本の歴史にそういう神代の時代の歴史に触れられるのは神楽によってだったっていうことを考えると、意外に何か神楽っていうものが担っていた政治性みたいなものもその中にはあるんじゃないかということが考えられたり、いろいろな事がそこで問題になって起って来たんですが、で、ちょっと話しがそれちゃったんですけれど、魂の問題その、言葉が現在であるということですよね。現在であるっていう常にこの場で消えていってしまうという、その時に言葉、神、神事と結びついた時にどういう事が起こるかというとやっぱり呼び寄せるわけですよね。で、呼び寄せるという事が何かを呼び寄せる為に言葉を使うという言葉の使い方があって、つまり言葉は伝達ばかりじゃなくて、そういう、何かこの世に何かをあらしめる力を持っているという、そういうところがある。で、それは、そこに手品のようにポッと現われるわけじゃなくて、あるいは、迷信的に信じることじゃなくて、現実に僕等のそういう言葉の持っている力の働きの中にそういう物が必ずあるわけで、で、言葉でいわれてしまうと、それがもう、何だかやっぱりパフォーマンスというわれてしまうと、パフォーマンスなんだということになってしまって、そのうちにやっぱりパフォーマンスというのはやっちゃうに限るんだということになるとパフォーマンスが生まれて来るという、なにかそういう何か、そういう不思議な関係があるんじゃないか、で、そういうことも関係して考えられるんですね。で、今日、まあ、観せて頂いたのも、そういうなにか、こう、先月の末に神楽観てきた僕の目から観ると、石井さんなんか、なにかこう風のように山から現われてくる一つの神様、軽やかな神様みたいな感じがするし、徳田さんなんか、地を這う神様みたいな感じがするし。日本に八百万の神がいるっていうんですけれど、そういうなにか神様の形態あるいは神様といって悪ければいろいろと自然の物ですね。地を這う神様といわないで地を這う昆虫といってもいいんですけども、で実際、今子供の中で昆虫がすごく人気がありまして、子供のおもちゃのロボットは全部昆虫の形態になっているといいますか、すごく昆虫の方にぐっと寄せられているんですよね。で、これは、実はさっきいったアニミズムの問題と非常に関係があるんじゃないかと思うんですね。ある時期では非常に機械的なものだったのがその次には今後はゴジラとかなんとかという怪獣がああいう爬虫類的な動物の方に変わっていって、その次には昆虫になってということがあって、そういう一つの子供の世界の中のある種の何か、退行現象というふうにいっていいのか知れませんがそういうのも何か一つの時代の関係付けで感じているっていえば感じているわけですね。で、何か、そういうところまでひっくるめてですね、ちょっとわけのわからないところまで、飛んじゃったかも知れませんけど、そのメディアと身体と魂の問題はともかく、魂といわないでスピリチュアリティとか、なんか聖霊といってもいいかとも思うんですけれど、で、実はそのこと、その三つの問題を通して、何か、考えていったら、先程浜田さんがアースワークっていうようなことを言われたんです。アースワークっていうふうに魂の問題を置き換えて考えていいんじゃないかと思えていますkれど、まあ、そういう形で話を進めていったらいかがでしょうか。

司会 どうもありがとうございました。それではそろそろフロアの方に話を拡げていきたいと思います。身体とメディアと祭りというような、三本の柱が出されましたので、まずこの身体ということから始めたいと思います。ただ身体というだけでは話もなかなか出にくいとは思いますので、私なりにパフォーマンスで身体といった時に、まあ、やはり突出した現象として、別の何ものかになるのではなく生の身体といいますが、演劇ですと自分と異なる役割を演じないでそのまま生であるといいますか、そういう身体の置き方、そういうことはやっぱりパフォーマンスの中で一つの特徴としてあるんじゃないかと思うんです。そんなところで例えば私も、どちらかというと、パフォーマンスというよりは、パフォーミングアーツの方で舞踏の劇とか、そういうものに関心をずっと持ってきた観点からいいますと、舞台を作っていくような過程をわざわざ観せたりするあるいはブラックボックスといったらいいんですか、出来た結果としての作品をそのまま観せるというのではなくて、作っていくボックスの中の過程をわざわざ解体して観せるというようなことを考えたりするんです。そういうような生の身体といいますか、フィクションに対する取り組み方の違いといいますか、そういうものの共通性があるんじゃないかと思います。で、それは、ある意味では、観客との関係、やる側と観る側との関係の変質、あるいはリアリティの軸の変質、そういったものにも関わっているのではないかと思うんですけれども。その辺の話も含めて一つの話題提供なんですけれども・・・。身体論についてパフォーマンスとの関わりで、フロアの方から御意見がありましたらお願いしたいと思います。それから、勿論パネラーの方でも、言い足りないことがありましたら付け足して頂くとうことでいかがですか。

フロアーの質問 粉川さんは演劇の衰弱ってことをおっしゃったけれど身体ということと比べて、具体的には・・・。

粉川 演劇の衰弱は、時代時代にあると思います。僕が言いたかったのは、演劇が歴史的に権力の対抗物としての方向から、権力の補完物になる傾向が、今世紀の後半までに極度に強まったんじゃないかと、演劇の面白い部分は騙し騙される部分から逃れてしまうような即興的な部分にあると思うんです。ところが騙し騙されるそういう一つの関係が、徹底的に精密になっていって、演劇の舞台が非常に精巧な管理装置になったというところがある。むろん、そういう傾向が強まる中での抵抗はあった。例えば、メイエル・ホリドがビオ・メハヒカの方法を出したとき、身体を徹底的にオブジェ化していくことによって体を、コントロールされる物としてじゃなくて徹底的にコントロールされ、物として提供することによって逆にハップニングを生じさせ、人間の体が他者によってコントロールされる物ではないというところをパロディー化して見せたようなところがあると思うんですよね。そういうことはいろんな人がやってきたと思うんです。ブレヒトもグロトフスキーもそうだろうと思うんだけれどしかし、ベケットあたりまででいくところまで行っちゃったような気がするんです。それで、そこからなお演劇を続けていこうとする、演劇自体を解体していくような演劇とか何かそういうふうなものになってきたと思うんです。その辺の二重構造を提示したような形での演劇じゃないと、リアリティーを持たなくなってきているんじゃないかと思うんです。ですからパフォーマンスは演劇にとってはありがたいわけで、七十年代になって、アメリカでは演劇の方がパフォーマンスの要素を取り込んでいくという方向が出てきたわけです。例えばロバート・ウィルソンの芝居は徹底的にパフォーマンスのおいしい所を頂いて、パフォーマンスの要素を舞台の中に持ち込むということをやってきたわけですね。ただ、図示的に言って演劇とパフォーマンスとを区別するもう一つの要素として、観客の問題があると思うんです。今日観せて頂いたものでも、演劇として提示されてもいい場面はかなりあったわけですね。でも、全体として、やっぱりあれらがパフォーマンスだったと思うのは、観客が観客でいることができないような、まあ、場合によっては例えば退屈であるとか、そういう観客性をたえずこわしていくシチュエーションを、場を作っていった点だと思うんです。で、パフォーマンスって、僕は、「つまらない」ものがいいと思うんです。パフォーマンスを観て、すごくなにか、心躍るような面白い物っていうのは、これはパフォーマンスじゃないんじゃないかっていうふうに僕は思うんです。こっちがのっちゃう、観ている方がのってしまうっていうことは、それだけ意識がコントロールされているということですね、そうじゃなくて、そこをむしろ外しちゃうようなものが、パフォーマンス的なものだっていうふうに僕自身は思っているんです。パフォーマンスというのは、一つには、観客が受動的にその場を見ている、覗いている、眺めているっていうことを許さなくする場を作っていくことじゃないかと思うんです。

池田 演劇の話が多いんですが、シンポジウムⅢの方でも演劇のことは存分に語られると思うので、パフォーマンスの話の方に戻した方がいいと思うのですが———。いま演劇の衰退現象の後にパフォーマンスが現われるという風な話がありましたが、それは多分あらゆる表現ジャンルにもいえることだ、と私は思うわけです。膨大な作品量と、それに伴う膨大な情報の中で、すべての表現ジャンルは当然洗練化され形態化されてくるわけでしょう。そうすると、表現の回路というのは、新しい展開を促す自由な余地がどんどん埋め尽くされて、頑なに閉ざされた回路として硬化してしまう。その硬化した回路の上でどう自らは機能していくのか、どう展開していくのか、と普通は考えるわけだけど、その問自身が非常に危ういわけですね。制度としての文化の表面をますます硬化させる部分というか、機能部品というものかに、表現行為は必然的に回収されてしまうことになる。これを、まあ文化の悪循環と呼ぶのか、表現の自滅と呼ぶのが適切かはわからないけど、とにかくそのような隘路に踏み込んでしまう。今日のあらゆる表現行為は、その危険さに常にさらされているわけです。そういう点で、パフォーマンスを、開かれた表現回路だととらえるのは、非常に明確なとっかかりになると思いますね。そこで、先程とは話の切り口を変えて、開かれた表現回路という点から、パフォーマンスを見てみたいと思います。当然、それぞれの表現者の中には、経験とか技術とか所有した形態等によって、どうしようもなく自己完結しちゃう閉ざされた回路があるわけでしょう。その内なる檻から開かれた地平に出るためには、閉ざされた回路に否応なく回収されてしまう自己を、常にその回路のうちの開かれた端子の方へ、自己放出してなければならない。求心的ではなく、遠心的にね。この自らの内に眠る開かれた端子とは何なのか、その端子をどこへ押し広げていくのか——、それがパフォーマーがパフォーマーたとえる力点というべきものではないか、と思うわけです。これは、閉ざされた回路を頑迷に自己正当化している、制度的な表現者には非常な困難さに映るのではないかな。とかく、パフォーマンスはアマチュアイズムの範疇で解釈されて、誰でも簡単にできるととらえられがちだけど、実際は、この今日的な困難さの真唯中を裸身で突き進んでいるようなところがあるわけです。先程、シラフでワッショイなどといったものだから、ワッショイやればみんなパーフォーマンスだなどという文脈で勝手に合点されては困るので、この点は強調しておきたいと思います。で、話を開かれた表現回路という点に戻さねばならないわけで、その点を明らかにするために一回性という問題を次に取りあげたいと思います。閉ざされた表現というのはそこに当然完結した形が伴うわけで、要するにいつどこでも再現できる。いわゆる一回性の表現ではないわけです。それに対して、ハプニング、イベントからパフォーマンスにいたる一回性の表現と呼ばれる流れがあるように見られていて、しばしば「パフォーマンスはハプニング等とはどのように違うのか?」と質問されます。その時、パフォーマンスは、ハプニングのような一回性の出来事ではなくて、連続する一回性だとか、非連続な連続性などと説明するわけです。一回限りが無数に連続していて、いま呈示しているアクションはその線分のひとつでしかない、と。言い換えれば、いま呈示されたパフォーマンスには、必ずpre-パフォーマンスと post-パフォーマンスとが内包されている、要するにそのパフォーマンスが成立する起源と、そこから志向される将来とが露わになっている。開かれた表現回路というのは、その時間の露わさでもあるわけです。余りいい例ではないのですが、今朝バスが一時間以上遅れてきたとき、これもパフォーマンスだって冗談が出てたけど、遅れるという営為が成長していく将来を共有するというか、遅れることによって豊かな時間性が開示されるとかいうことがない限り、バスは、バスの運転手はハプニングはしたけれど、パフォーマンスはしてないわけでね。同じことは、観客に対する挑発的で暴力的な表現行為は、単に閉ざされた回路の読み替えでしかないわけであって、やはりハプニング的なんだな。その意味では、ハプニングは死滅するというか、生へ向う一回性といえると思うね。パフォーマンスがサバイバルの問題や、エコロジーの問題へと通低していくのは、生へ向う連続営為であるからなんだ。観る側の立場に立つと、そういう連続した一回性の表現営為だから、今までのような良い作品・悪い作品を規定する批評尺度がもはや成立しないわけです。で、そこに何が見てとれるかどいうと、営為する人が状況のもついろんな側面にさし向けた身体性というか、向けざるをえない全体性というのか、その幅と強度が、その営為の向う消息が、見てとれるだけなわけでね。その身体にこめられた全体的な危機感みたいなものが場にボロボロとこぼれ落ちてくれば、退屈であっても俗にいう失敗があっても、一向に構わないわけでね。問題は、その営為が成長するのかどうかであって、将来性のあるパフォーマンスかどうかだけを観てとり批評すればいいと思うわけです。それから、パフォーマンスの特性として、“生である”というようなことがいわれます。これも、場に生起する開かれた時間の回路というのは決して操作・演出・計算できないものであって、営為する側も見る側もがその開かれた時間への予感を共有するためには、“生の時間”でなければならないということであって。例えば、何か表現行為を見た場合、演劇的であるとか、舞踊的であるとか、美術的であるとか、よく言うでしょう。たとえ営為する側が意識しなくても、そういうフレームの中に回収されてしまう。と、もうすこで、共有されるべき開かれた可能性の時間は停止してしまうわけで、結局はその表現行為が真向うから向かい合ってるのはたかだかフレーム内の出来事ではないかというところに落ち着いてしまう。これは、個という全体性の矮小化といってもいいもので、そういう制度的なところに自らを封じ込める時間に対しては、パフォーマーは本来非常に敏感であるべきです。だから、パフォーマーは、フレーム内に回収される誤解を呼ぶような身振りというか、短絡的に形態化してしまうということを出来るだけ避ける。と、必然的に、“生もの”を見せる他ないということになるのです。生ものと料理・味付けされたものとを比べれば、見る側の行為の自由さを受けとめるのはどちらかは明白です。要するに、一回性ということとか、生である、即興的である等ということは、必ずしもパフォーマンスにとっての不可欠な条件とはいえないわけだけど、開かれた表現回路を探し当てていく作業は非常に意識的で原則的に進むほかないという点では、多くのパフォーマンスに伴ってくる表情なのではないか。だから、時に非常にミニマムで、原理的で、回路の奥行きが透けて見えるほど単純明快な方が、好ましい徴候ではないか、と思います。そうすると、パフォーマンスを支えるキー・ワードとしては何が残るのか?どのようなキー・ワードを梃として、開かれた表現回路を掘り進んでいくのか?と、まあ、そんな疑問が出てくるわけでね。先程から、身体・メディア・祭りという三つのテーマに絞られてきているわけだけど、私としてはもっと原理的なエレメントを営為の目安にしたいというのかな。行為(アクション)、道具(ツール)、場(フィールド)という三つの要素で構築される時空間を、パフォーマンスの生起するところととらえているわけだ。とかく、身体表現というと、個々の身体のもつ表現性、他者との差別化、それに伴う独自な形態化などというニュアンスを含み込んでしまうでしょう。これでは、パフォーマンスの新しい形の身体表現という現象的な目新しさしか浮かび上がってこないわけでね。もちろん身体に戻るというか、身体を起源とするというのには異論はないけれど、そこからの展開はもっと膨大な可能性を孕んでいかなければならないわけで、その意味では、身体と言っても、身体の行為化、場化、道具化という延長コードがあるといいたいわけです。場化とは、身体を起点としての交換性、協働性などを指すのであって、道具化とは、身体を発端の道具として、ビデオなどのメディアを通じてより拡張した機能を獲得していくというのかな。いづれにしても、そのどれかが欠けると、従来の表現ジャンルのなにかの様相を帯びてしまうのは確かです。このようにとらえると、少なくとも「見せる身体」「演ずる身体」という限定された枠からは解放されるわけで、とりたてて大仰なことをしなくても、この身体の三つの延長コードを踏まえていえれば、自らを縛っている閉ざされた表現回路を突破する糸口を極めて自然な形でひきあげることが出来ると思うわけです。この身体性を踏まえれば、パフォーマンスが開かれた表現回路として伸びていく方向は多岐にわたり膨大であって、演劇・舞踊・美術などの既成の表現ジャンルに見直しを迫る、あらゆる表現の基盤であると、いわるわけです。パフォーマンスは、これからの文化基準となる、そのことを特に協調して、一応話を終えます。

川仁 時間がないようだから・・・もうないんですね。パフォーマンスというのはね、僕自身パフォーマーという、呼ばれもし、自分でもパフォーマーと自認しているといってもいいんですけれど、敢えて、絞りまして、問題がパフォーマンスっていうのは、大変ある意味でどでかい問題だとも思い、且つ、僕自身にとって敢えて池田さんに異をたてるわけじゃないんですけれど、池田さんは先程確かえーと・・・、それは忘れました、すみません・・・。一つだけ言葉を粉川さんから頂いて、つまらないものが、パフォーマンスはいいとおっしゃったそのことに絞って、みたいんですけど、というのは、実にパフォーマンスについては、いろいろと想いが、想いとか考えとか、沢山ありすぎるものですから、敢えて、時間もないことだし一つに絞る、で、つまらないパフォーマンスがいいと、言葉尻を決してとらえるわけじゃなくて、そうおっしゃった点なんですけど、暫く前、いつになるかわからないがボーリングアーツという言い方もあった。で、粉川さんの勿論、今、短い時間でつまらないということを一言おっしゃっただけですけれど、さっき観ていましてね、石井君の最初、終わった時僕は思わず、出来るだけ今簡単に喋るから、少し乱暴になるのはかんべんして下さい。舞踏を・・・現われた時はね、彼、昔から、僕、彼のことわりと好きで随分彼の踊りも、外国から帰って来て変わったわけだけども、ずっと観ている者としても、最初、現われた時、あ、石井満隆、久し振りで観るなって感じで、踊りを観はじめた気分がなにか途中から、パフォーマンスになったって、いう、これ、非常に曖昧な言い方です。敢えて、で、そこのところに実際、今の、たった今の経験でそこのところを思い出すんですけれど、パフォーマンスというのは、つまり敢えて粉川さんの言葉をとっていえばつまらないものが良しというよりも、より言えば、つまらないとか、つまらなくないかと、いいとか悪いとかという従来の軸そのものが、そこで動いてきている、ということが含まれている。そこが重要じゃないかと僕自身は思っているわけです。で、決して粉川さんが今、簡単におっしゃったから、そういう事を否定なさったというふうには思いませんけど、僕が今、言ったことをね、ただ、ちょっと、言葉を、実は明日僕がパネラーなわけです、で、明日につなげるなんてそんな器用な人間じゃないんですけど敢えて、その一言を今、頂いて、で、さっきの、ごく今しがたの、たった今しがたの石井満隆君のパフォーマンス、踊り、つまり、パフォーマンスという輪郭がはっきりしない、その林学がはっきりしないことこそパフォーマンスであり、と同時にそれは、価値というか、いい悪い、よし、あしつまらない、面白いというのも、従来の軸では、どうもスケールでは持ってこれないという、そういう、で、尚且つ、今、池田さんが最後におっしゃった、その、切実なとおっしゃったかな、いう、僕自身にとって、そういうものであるから明日になんか、つなげる役目みたいなことですけど、最後にちょっと、まとまらなくてわるいですければ言いたいことはいっぱいあるんですけど、ちょっと、言い出すと大変ですね、僕も粉川さんと違う経路から、粉川さんは現象学的マルクス主義というか、の、方からいろいろ粉川さんが最近書かれたパイク論、も、大変刺激的だったんだけれど、あそこに出ている時間の問題も、含めて、新しい、その辺も、非常に興味あるところだけど、全部省いた上で、一番細かい言葉としてはつまらないというところに敢えてそれをつかまえさせてもらって、明日また・・・。その巾でパフォーマンスということが呼ばれているパフォーマンス現象とむしろいった方がいいのかも知れないけれど、パラドックスというのはまさに言葉ですね、言語上の問題で、鈴木さんがおっしゃったことと、かなり同感なんだけど、いちいち今はあげる暇はないからすっとばしますけど、只、パラドックスというのはパラドックスというのは言語上の問題で本来逆説ですから、で、あるにもかかわらず、パフォーマンスというのは行為の領域の問題であるというのがこれははっきりおさえています。であるからして、切実であるし、という、つまり言葉の自己探求性の中に終わらないということが、やはりパフォーマンスの重要な点だと思うわけです。で、僕自身がパフォーマンスの入口というか接近というか入り方っていうのはいろんな入口が、ハプニングがかつてそうであった様にあるし、それで池田さんは美術っておっしゃったけど僕自身はいわば言葉からといえばいえるもんですから、そういうパフォーマンスへのアプローチというか入り方もいろいろ入口がある、で、敢えて僕の場合、言葉といいますけれど、これは、もっと説明しなければいけないわけですが、一言、言葉であるというのが、僕にとって問題でパフォーマンスがそこからこう、パフォーマンスに入っていって、ごく簡略にそういって、いま、粉川さんのおっしゃったことは、よくわかりますけど、でも、あくまでも行為の、行為の問題としてで、切実さということ、を言いたいということです。

鈴木 パフォーマンスというのは、やっぱりやる事だと、で、パフォーマンスはやればいいんで、語るっていうのはあんまり意味がないっていうのは、川仁さんがそう言ったんじゃなくて、やっぱり、なんとなくそういうふうな方向で、そのこういう議論って進んできちゃうと思うんですね、だから、それは僕は意味はないんで、やっぱり語ることの中のパフォーマンスっていうこともあるわけで思考のパフォーマンスもあるわけですよね。

川仁 鈴木さんがおっしゃったように、まさに言葉はまさに言葉本来ありきだと思うし、で、鈴木さんの詩は、そういう意味でも僕は非常にかっている。僕、みんな半端になっちゃって、困るんですけれどもいろいろありますけど、尽きないんですね、言葉の事でも、伝達分野にあらずということも思いますし・・・。

フロアーの質問 イレブンPMなど昔はフュージョン、フュージョンって言っていたんだけれど、最近、愛川欽也がパフォーマンス、パフォーマンスって言っているから、これはもうパフォーマンスだめなんじゃないかなって思っちゃったんですけど。(笑)そんな気がしちゃって、ちょっと質問してみたんですけど、どうお考えですか、先生方は・・・。(笑)でも、何か観ていると、パフォーマンスってわけがわからないと思うんですよね。観ているとちょっと、こわくなるというか、頭で判断できないんですよね、何か、よく絵だったら、セザンヌの絵画理論なんか持ち出してきて、こうこう、ああ、ああ、っていうんだけれど、この場合は、方法論って全然ないわけでしょ、パフォーマンス観ていると、もしか、あるんですか、方法論っていうのが。特定の方法論ってないと思うんです。

鈴木 あの、今、フュージョンとひっかけて言いますと、フュージョンっていうのは、要するに、やる方のから、本源に出てきたっていうよりは、むしろ音楽の形の商売の問題として、出てくる部分がすごく多かったと思うんですよ、だから、あれは、そういう商売の問題として出てきているのと、パフォーマンスの問題とはちょっと違うような感じがするんですけどね。だから、さっき、自分の事で話しましたけれど、詩を書いていって、それで、ある一つの制度の中におかれている、っていう自覚が生まれてきて、言葉がね、そういうのを乗り越えようとするような意識から出てくるというのは、僕は、パフォーマンスの要するにどのジャンルにいた人であっても言えるんじゃないかと思うんです。ところが、フュージョンっていうのは、要するに寄せ集めで、そこから新しい形の実体のような商品が生まれてくるんじゃないかっていう、そういうところがすごく強かったんじゃないかなと思うんです。勿論だから音楽家の中には、各ジャンルっていうか、各々のその、分けられているのを越えようというアレはあったと思いますけどね。但し、音楽家の場合でも、それはまた別の形でもって、拡散していって、尚且、今、生きているんじゃないかと思うんです。

フロアーの質問 ところで自動車か何かのコマーシャルで、何か、自動車のパフォーマンスとか、言い方しているし、だから、箸のパフォーマンスって、出てくるんじゃないかなって、思う・・・。そういう形で拡がっていくわけですね、じゃあ、意識としては・・・。

鈴木 日常行為じゃなくて、あくまで、表現意識の方から出てくるということですよね。だから、箸は、それで表現するって人がいれば、当然そういう事も起りますけれども、ご飯食べる箸からパフォーマンスが出てくるとか、あるいは自動車を売るっていうところからパフォーマンスが出て来たとしても、それはパフォーマンスという現象の上に商業主義が乗っているっていうだけの事であって、決して本来的なパフォーマンスとは関係がないと僕は思いますね。

粉川 すみません、ちょっといいですか。「自動車のパフォーマンス」っていうのね、あれは、性能っていう意味です。そういう意味のパフォーマンスは昔から使われているわけですね。それから経済学で「コストパフォーマンス」というと、単位価格に対する処理能力っていう意味になるわけですね。コンピューターというと、コンピューターの情報処理能力をいうわけですね。だから、考えようによっては、日本でパフォーマンスという言葉が七十年代になって、ある意味を持ってきた背景は、コンピューターの分野で既に使われていたパフォーマンスという言葉の流れがあったかも知れないという気もします。人間が情報処理能力で測られる状況になっちゃっているところでパフォーマンスが問題になっているわけですからね。

フロアー わかりましたが、最後に付け加えさせてもらうと、パフォーマンスって言葉なんかじゃ、説明つかないような感じがするんですよね、それだけです。

司会 まだ大分残っている問題があったんですがメディアについては、また、明日、ビデオ関係のヒグマさんも入って頂きますし、それから、演劇関係の方の話題も、第三番目のセッションに入ります。したがって、メディアの問題は明日とりあげて深めて頂けると思いますし、パフォーマンスにおける身体の問題は、まだ不充分ですが、いくつか重要なポイントは出てきたようにも思いますので、それも第三セッションに回したいと思います。そこで先程、鈴木志郎康さんから出された祭りということに関わってですが、言葉の現在っていいますか、消えていくっていうことですね、これはやっぱりまあ、ハプニングといいますか、そういった事とも繋がっているところがありますね。その点で、酩酊状態の浜田さんがまだあんまり喋ってませんので、先程、ちらっと言われていたハプニングやイベントと違うような形でパフォーマンスを考える、とそういう発言がちょっとあったと思うんですけど、その辺をもう少し詳しく聞けたらと思うんです。

浜田 時間はいいんですか・・・、いや実は最初から酩酊はしておりませんで、皆さんの話をよく聞いておったんですが・・・。今、コストパフォーマンスの話とか、まあ、メディアであるとか、いろんな話が出ましたが、只、私自身が一つ考えるのはパフォーマンスを言語化する上でかなり重要な点であり、且つ我々自身が一種の観客論であることを含めて考えますと、一つは七十年以降の状況というテーマがあると思うわけです。その意味は現在の私達というのはかなりいろんなジャンルに侵されてきたという認識です。別の見方をすれば現象的にはサブカルチャーによって、いままで一般的にカルチャーと呼ばれたものが、どんどんとおかされてゆく状況を示しているわけです。例えば音楽によって、美術家が侵されていく、あるいは、舞踏家によって、演劇家が侵されていく、そしてその逆の現象もまた、どんどんと起きてくる。そのうち、つまり我々は侵された状態というもの自体を一つのアクションとして捉えてくる、で、アクションとして捉えてきた地平の中に、実は、特定のジャンルではないある種の非常に僕ら自身が切実に求めている構造的なものの模索の系譜が見え始めているんじゃないかと思っているわけです。それが私にとってはパフォーマンスという言語に代表される状態の具体化でもあったわけです。それは、鈴木志郎康さんも、ちょっとおっしゃったと思うんですが、例えば、文化人類学的な視点であるとか、あるいは、僕等自身が持たなければいけない、社会的な問題や、日常性の俯瞰というものが否応なく今日の文化性というものの絶対の基盤になりつつあることと無縁ではないわけです。で、これは何も、強いメッセージ性、政治言語を伴った音楽であり、あるいは、美術行為であり、そういうものだけを指すわけじゃなくて、つまり、そのちょっとしたアイディアでありあるいはヒントとしての哲学というものでさえも、現在では大きな迂回路つまり再現性を持って僕等の中に入り込んできているということです。その微細な沢山の要素というものを私達は今や受け入れようとしている。例えばハプニングやイベントというふうに言われてきた行為の芸術より、さらに私達は、複雑な諸手続きを経て今日に至っているわけで、その微細な要素というものが、ある意味で私達の時代の一つの特徴だったと思うわけです。そのことは、粉川さんが最初の基調報告の中で言ったと思うんですが、体制的な管理という問題がパフォーマンスにもやはりある、つまり体制的な管理というものを僕等はどういうふうに自覚しているかということにかかっているわけですが、まず私達が最初にやることは現象に於ける私という存在の分解と自己分析からスタートすると思うんです。これは一種の距離の問題ですね。そのような状態の認識が、七十年以降の政治であり、あるいは、その社会的な現象や美術的な現象、あるいは文化的な現象というものが、実は非常に串刺しにされた状態として見えるのではないかという気がするわけです。この七十年代の串刺しにされた状態というものを、自覚しながら見つめながらきたのが今の時代ではないかと思われるわけです。そうしますと、さっき誰かが言いましたフュージョンの問題提起もあったわけですが、言葉というものが時代のリアリティによって、かつてより、どんどん失ってくる、しかし、その代わり現象だけが非常に早く繰り返し現われてくるように見えるわけです。そしてその現象自体の中に私達が非常に管理された社会であるといううことを発見してゆくわけです。しかし、そうした管理が認識されればされる程反抗的にはねのけていきたいという気分がある。しかしそれは逆に今日のような全面体制時代というものの中のコントロール化された自分を見い出すことにもなるわけです。このパラドックスの中に僕等自身が在るということが僕等自身の表現行為に繋がっている一面が現在ではあるわけで、その点が六十年代から七十年以降と今日との大きな違いでもあると思うわけです。そして、その自己疑問のようなつまり得体の知れない化物のような精神の軌跡が、私をしてパフォーマンスというものの、ある種の注進に至る形成を持っているんじゃないかと僕は思っているわけです。ですから、言葉つまり現象への名づけ方というものがパフォーマンスの中心を形成するのではなく、やはり、絶えざる身体的、つまり身体的メディアの実験性が求められているように考えられます。粉川さんではありませんが、サブカルチャー現象あるいは、そういう言い方に関しては、ちょっと言葉自体にとらわれちゃうみたいなのが申し訳ないんですが、サブカルチャー現象自体もはや、何者かによって常にとらわれて侵されてしまう、という言い方をしてもいいと思います。

司会 それでは、時間がもう迫っていますが、あと、どうしても発言したいという方がありましたら・・・。

フロアーの質問 何か抽象的な話をされているような苛ら立たしさを非常にずっと感じて、今、ここに座っているわけなんですけれど、先程のあそこの舞台でやったパフォーマンスを観てましても、座っている自分というものの苛ら立たしさみたいなものが、なにか、ものすごく救い難くて非常に苛ら立たしい感じでずっと居たわけですけれども、それは、何っていうんですかね、観る者といいますか、あるいは表現する者とそうでない者というかそういうような所をもっと具体的にどうするのかみたいなところですね。だから例えば、やっているのを観ている僕が、じゃあその立ち上がって、出ざるを得ないようなものを全然感じずに、非常にこう拗くれた感じで座らざるを得ないというような関係みたいなところをですね、もうちょっと具体的にパフォーマンスっていうのは、やっている方々がもうちょっと具体的に言葉が出てこないかなという気がしてくるんですけれども、どうでしょうか。

司会 池田さん一番その辺の観客についての意識といいますか。

池田 あのう、まず、観客という概念がパフォーマンスという見方においては、果して成立するのか成立しないのか、そこから話を始めないと非常に混乱するのではないかと思うわけでね。例えば、私なんかが意識的に取り組もうとしていることに、協働的なパフォーマンス、collaboration という概念が確実にわるわけなんです。まあ、collaboration といっても、異なった個性をぶつけ合うジョイント・ワークといった単純な意味ではなく、先程から話してる新しい他者観という方向に向う営為として見ているわけです。全ての人は、観客である以前に他者である。それぞれにふさわしい能動性をもった他者である。フレーム意識を外せば、当然でしょう、この原則は。そこに立てば、行為するとは、他者に波及する、どのような問を全身的に発しえるかということであって、この点が最も関心のあるところなわけです。他者とは、所有した価値を一方通行的に押しつける、自らの価値観への従属を強いる対象ではない。まして、いわゆる観客のように、入場料を媒介として価値を売り買いする相手でもない。自分にはない部分を、営為の構造を持った、決して一方的に規定しえない存在なのだ、他者ってのは。だから、全身的に問を発する発信源だ、などといわれれば、パフォーマーにとっては最大の成果じゃないかな。パフォーマンスは、観客も能動的な営為者となる場というようなことが、よくいわれるわけだけど、この語り方にはないものねだり的に現象願望しているだけであってね。そのためには、他者とのcollaboration とはどのようにして可能なのかを、全身的に問うていく他ない。その余地を見い出しえるように、場に取りついた制度化された関係性をくつがえし耕してるのがパフォーマーだともいえるわけでね。関係を遊耕している、というのが私にはピタッときます。これは、私有財産制の、見直し行為、その場での否定行為ともいえるわけです。私有した価値の競合といった風な、排他的で差別的な、既存の文化構造に対する挑戦でもあるわけだ。問を発し共有しえれば、それに答えるのはその場に居合わせた全ての人の自由な中にある。そこでは、見る営為も同等の重さを持つわけで、行為の成否は場にあって、作家という個人には帰せられない。先程、共産制という言葉があたけど、そういう面が確かにあるわけでね。だから、パフォーマンスの場と、ショーの場とは、本来相容れないもんなんだなあ。正直いって、パフォーマンスをショーとして見せることには私自身非常に否定的だね。見る・見られる関係が制度化された場においては、パフォーマンスのもつ可能性は当初から封じ込められてるわけだ。そこに無理矢理パフォーマンスの志向性を押し込むならば、非常に言語的でメッセージ色の濃いものになっていかざるをえないわけだ。だから、余りショー的なものにこだわってると、パフォーマンスの原理とか可能性が掻きくもって見えなくなってしまうと思うよ。むしろショー的なものから逸脱する営為こそを、パフォーマンスと呼んでもいいぐらいです。だから、当然のことだけど、この場にいる私は答えを独占した解答者ではないわけでね。私自身がいま明確にわかることは、この重要な問題に対して問を発しつづけているあなたが他者として目前にいるということであってね。あなたのこだわりがよく見えるというのかな。だから相互に問いかけが生まれるわけだ。あなたと明日何ができるのか、どういう作業性を見出していけるのか、という問を今度は私のほうから呈示できるわけでね。このやりとりが、観客のいる場というか、制度化された空間に、開かれた関係を押し広げていくかもわからない。まあ、いま確信をもって言えるのは、そのことです。

浜田 えーと、ちょっとあなたの・・・、それには、全く同感なんですが、実は、パフォーマンスシンポジウムの場合往々にしてこうした内容になりますが、開き直るわけではありませんがこのような外部的話で多分これが僕は正解なんじゃないかと思います。というのは、今、池田さんも言ったように、僕等が自分自身ある表現性を決定するとしても状況というものがパーフェクトな状態であるとは限らないわけです。で、ましてやパフォーマンス性というものが絡んでいる以上、このアクティブな事柄というものが僕等にどういう影響を与えるか、ほとんど不確定なことに属するわけです。例えば石井さんの動きを僕等が何時間か観ていて、その間から感じ取ったものと、あるいは、今、記憶の残像として言語化していく状態と、これは、もう大きなギャップを背負わざるを得ない。というのは、それは、感想文と一種の記号論を区分けしなければいけないのと同じだと思うんです。それからもう一つ、僕は自分の文脈で言いますとこの、こういうディスカッションを通じてもしも、僕等が苛立たしさを感じないで済むようなものがあるとすれば、それは、かなり個人的な意味も含めて技術的な展開を解明する以外にないだろうと思うわけです。それもかなり分類的な話に近い形です。例えば、パフォーマンスの分類でいいますと、大きな意味では五つ位に分かれると思います。例えばレイチェルなもの(儀式性)、サスペンション、それから非常に残虐なもの、それから非常にコンセプチュアルなもの、それは多分粉川さんがおっしゃったつまらないものというものに属するものだと思うんですが、そういうものですね。そういう分類をかなり具体的に定義した上で、その中で現在行われているのは、どういう状態が最も興味あるとか、あるいは現在にとって意味があるとか、かつてはこうだったという議論です。しかし、個人的に言いますと、個人の門だというのはまさにコンフューズしているわけです。コンフューズというのは、混沌としているわけなんですが、その混沌さというものの解明さに接近する、つまり技術的なことですが、それが最もディスカッションとして観客、つまり同時の参加者に対して解りやすいことだと思うわけです。しかし、池田さんも言ったように、あらかじめそうであることが望ましいとばかりは言えないわけです。つまり、今まで私が言った逆説的な部分、わかりやすさですね、これはアイディアであって、アイディアというのはそれを基軸にしながらかなり綿密な計画によって成り立っている。ですから、アイディアつまりイデアだと思うんですが、そういうものを展開していった時、それはパフォーマンスという総体自体から逃げてゆくというパラドックスも又生み出すわけです。ですから、言葉、つまりディスカッションの場合、こうした二重の構造をまず最初に頭に入れておかねば成立しないと僕は思っているわけです。ですからこうして話す場合にも僕自身、自分の中でいつも苛立たしさを感じるんですけれどたぶん、こういう形でしか納得できていない。ある意味でそれは私自身が反面観客の一員ということで、皆さんの話を聞きながら、同時性というか、二義性、特に観客と演者の共通した心理を持っているわけです。パフォーマンスについての大きな問題としていつも、オーディエンスとパフォーマーという関係が問題になりますが、アービン・ゴフマンによらず、実際、私達はいつもこの二つの心理の共有者であること、つまり共同正犯的関係にあることはおわかりになっていただけると思います。以上です。

司会 時間がもう迫りましたので、これで一応第一のシンポジウムの方のセッションは終わりにしたいと思います。明日は、今日、充分話せなかった点も引き継いで頂きまして、もう少し具体的な方法論のレベルでパフォーマンスを議論していきたいということで終わりにしたいと思います。

(初出「肉体言語」第12号/1985)