俳優は〈生理〉などと言わずに、〈関係〉と言うべきである。ここでの〈関係〉の対象は、いうまでもなく、ひとまず、〈テクノロジー〉である。
鴻英良
演劇は、いま、ほとんど無自覚に保守的である。保守的というのは、現代の諸現象から擦り抜けてしまっているということだ。流行現象でしかない、現代文化の一断面から、巧妙に擦り抜けているのだというのなら、演劇は、現代にたいして特殊な批評性を獲得できる表現としての姿をあらわすだろう。
事実、これまで、われわれが魅せられてきた芝居というのは、とりわけ、身体性の領域を中心にして、薄っぺらな、観念論的、思弁的思想と趣味にたいする批評者たりえていたのである。〈西洋言語〉中心主義という名の近代を批判するという意味での、反—近代主義、それが、少なくとも最近までは、演劇が、現代の文化現象の重要な位置を獲得していた根拠になっていた。その意味で演劇は、ポスト・モダン的な表現であった、と言えないこともない。
しかし、その当時、つまり、60年代以降の、反—近代的身体は、ポスト・モダン的ではなく、あからさまに、プレ・モダン的であったのだ。こうした身体をわれわれに呈示してきた演出家は、いまだ健在であるが、その系譜の末裔たちは、いま刺激的な舞台を作ることに完全に失敗している。それは当然のことである。そして、そのような芝居に出会うたびに私は、表現の悲しみを味わうのだ。
しかし、いま、この領域にたいして新しい変化が起こっている。つまり、身体性の発見が、惰性と内面化の危機にさらされているということだ。つまり、自己中心化が身体表現を蝕みつつあるのである。そして、もうひとつの変化は、身体への批評的まなざしを欠いた演劇が氾濫しはじめたということである。
われわれの身体感覚そのものは、いまや、すぐれて現代的である。彼らが現代のなかで生きていれば、俳優であろうと、舞台での俳優の身体には、現代の身体知覚に見合ったなにかが感じられるはずだ。しかし、そうして出てきたものはまだ、表現のレベルにあるとは言いがたく、いまのところ単なる展示である。その展示も意識的なものでも、ある戦略に基づいたものでもない。それは、偶然の展示であり、偶然の結果でしかないのである。つまり、昔ながらの演劇の形式がそこにあり、クリシェと化した形態に沿って、現代社会のなかで育った人が演じている。それが現代の演劇の大勢である。だから現在、ファッショナブルで、軽佻浮薄な舞台が、余興か、寄席芸のように演じられていくのだ。
要するに、ぼくはいま、演劇がこの〈身体〉に淫しはじめてから随分経ったように思えると言いたいのである。つまり、〈身体〉がいつしか、外部性を欠いた、純粋に内的のもの、あるいは逆に実体のない虚構であるかのように信じられて来はじめたのだ。前者については、徹底的に批判されなければならないが、この後者の、〈空虚としての身体〉については、それをどう語るべきか、われわれはまだ完全に模索中である。それゆえ、ポスト・モダンとの係わりを射程に、このことをこのシンポジウムのひとつのテーマにしたいと思っている。
(初出:「メイ—プロジェクトPART-2」/1987)