星野共
第2回目のパフォーマンス・フェスティバル・イン・ヒノエマタを迎えようとしている。第1回目のフェスティバルでは3回にわたるシンポジウムを行い、その後東京において2回のフリー・シンポジウムを開催した。また、檜枝岐での数多くのパフォーマンスの現場に立合った後、TACなどの企画を通じて多くのパフォーマンスを観てきた。肉体言語誌でもパフォーマンスを特集したから、この間パフォーマンスについてはあれこれ考えてきたことになる。現場に密着したパフォーマンス観をある程度展開し得た、という自負はあるものの、主催する者がいっては可笑しいことだが未だ“パフォーマンス”がしっくり私の中に根を下したわけではなく、いろいろ考えてみたいことが出てきたり無いものねだりをしたくなったりもしてきた。
もちろん私たちのフェスティバル活動の前提として、パフォーマンス論を展開することそのものに主目的を置いているわけではなく、お互いがパフォーマーとしてそれぞれの現場に結びつくような方向の議論を組立てていこうと考えていたわけである。あくまで主目的は、尖鋭で濃密なパフォーマンスを提示すること・参加的に観ることにある。今回も、私たちは先ず広い意味での創作主体としてフェスティバルに関わっていることを確認しておきたい。
考えてみたいことのひとつは、現場を少し離れてしまうが、もしパフォーマンスを思い切り広義に解釈してアートの概念枠組(パラダイム)や芸術に関わる精神のあり方とみなすなら、60年代の反芸術活動に端を発したいくつかの流れを70年代の厳しい自己検証による試行錯誤を経て、ようやくポジティブな形での実を結び始めたのではないか、という歴史的な仮説についてである。アンチとしてではなく、今ほどポジティブな意味でのオリジナルが問われている時期はないだろうし、単なる流行や一表現ジャンルとしてではなく、歴史的な流れの中で正しい一を与えてみたいと思う。
もうひとつ考えてみたいのは、今後ますます重要な課題となるであろうハイテク・メディアと身体と表現の関わりについてである。それは、存在としての身体とメディアとしての身体のあり方の違いを、より明確化する方向で問い詰めるであろうし、必然的に新たな身体論の登場を要請するであろう。
無いものねだりの例としては、実際のパフォーマンスがこの間のシンポジウムの議論をあるところで引継ぎながらも、ある面では全く別の観点を突きつけるというような、両者の緊張関係が持続的に成立することなどである。