「芸術」から“パフォーマンス”へ
世界という名の行為のエネルギー計画書
池田一
いま最も汚染されてしまったものは、いわゆる<文化>と呼ばれるものかも知れない。
作品と呼ばれる無数のオブジェ、それらを取り巻く文化的情報群といった今日の構図は、辺り構わず吸引してしまう巨大なバキューム装置だ。そして、文化の表面に吸い取られた<表現>という名の記号たちは、状況を牛耳る言葉の制度にまみれて、差異なく汚染されてしまう。この<表現>のもつ神話作用の地崩れ傾向は、もはや<表現>とか<作品>という言葉からは何も始まらないことを痛切に物語っている。
美術館やギャラリーや劇場などに去来する<作品>という枠組みのもつ胡散臭さは、この不透明な汚染構造に起因する。そこにあるのは、文化というフレームの中での覇権をめぐっての差別・競合という、成長期に見られる傾向ではない。むしろ、無批判な制作はものの氾濫=文化の汚染といった後退現象を加速させるといった構造だ。この構造に無自覚な作品化は、いまや害悪ですらある。文化の公害化は、メディアの開発・普及に伴って、ますます不可避的に差し迫ってくる“身辺の問題”とならざるをえないだろう。
今日の文化が露呈している、このパラドキシカルな構造に、自らの身辺意識として、どのように対峙してみせるのか?表現のもつ罪悪性と困難さを看破した者たちの、共通感覚の起点がここにある。このことは、身辺意識としての把握が強ければ強いほど、もはや表現という言語レベルの問題ではなく、あらゆる日常性をも串射しにする営為レベルの問題であることを示唆している。このような身体感覚から起源し、個々の営為の見直し、再構築化へと向う共通感覚が、パフォーマンスという言葉の内に包まれてある。その発端から、パフォーマンスは、<脱表現>なのだ。換言すれば、表現という言葉の屍の上に、パフォーマンスは育つのである。
脱表現から営為の自由化へと向う身体感覚は、<文化><差別><作品>などといった仄暗い領域を、もっと広範な身辺事象との関わりの中で相対化する。あらゆる表現物は、演劇・美術・舞踊などといったフレームに庇護された、闇の中の輪郭をはぎとられて、社会生活、日常性などという言葉と地続きな、白日のもとにさらけ出される。すなわち、脱表現的に見るならば、作品という概念は、周囲への破綻を巧妙に押し隠す演出欲望の、ひとつの表れでしかないことがわかる。むしろ、フレームからこぼれ落ちた破綻さにおいてのみ、いま必要な営為レベルの問題が浮き上がってくる、といっていい。パフォーマンスは、もの(原文はものに傍点)公害を支配してきた特権的なフレーム内の記号化をも告発し、その記号の破れ目に光をあてた“白昼的営為”ともいえる。
あらゆるものは、身辺的な営為の問題として立ち現われるまで、延引される。変化・変質への兆しが垣間見えるまで、延引される。そのためには、主題の構築化、他者への感情移入、因襲的なドラマ、その形態化といった、非変化的な要素は、文化の表面を流動させるチャンスから目を逸らす硬化剤にすぎないのではないか、と厳しく問われることになる。この問に、パフォーマンスは真向うから直面している。もはや、パフォーマーは私有価値の一方的な提供者という表現者像からは余りにもかけ隔たった存在だ。いま公然と投げ出されてある営為の時間から、自らも可変のチャンスを待ち受ける存在として位置づけられる。そこから、営為者であると同時に観察者であるという、双方向的な存在としてのパフォーマーが浮上してくる。
ここでは、批判の不在は当初から宣告されている。何故なら、変化・変質に向けて延引されたフィールドの中では、見る行為も凝縮点を見失って延引されてしまうからだ。換言すれば、闇の中の点として意味化してしまう表現営為を、場の感覚でとらえ直すことを可能にする。場とは、当然一義的に制度化された意味的空間ではなく、両義的に流動しているリアルタイムな拡がりのうちにある。それ故、いかなる変化・変質への予感を内包しているのか、と見る側も問うことができる。完結=死==私有状態(objective) へと傾倒していくものか、流動=生=共有状態(performative)へと向うものか、と。延引された“場としての表現”は、この原理的な両極へと向う志向性を必ず露呈している。その露呈された営為の将来を見てとることが、パフォーマンスにおける“見る営為”である。即ち、見る営為は、単に観客としての視線ではなく、全身的な問いかけの端初としてあるという本来的な機能を回復させることになる。本来のパフォーマンスは、パフォーマーも観客も相互発見的な営為者であり、境界なく地つづきな関係であることをあからさまにしている。
いま、批評の不在に取って替るのは、場に生起した「予感のパースペクティブ」である。営為者も観察者も営為レベルでは地続きであるということは、このパースペクティブの構築化を協働的なものにする。この営為者と観察者との協働性をフレームなしのまま持続しえた時、文化公害の加担者という烙印を反転させることが出来るだろう。変化=自生=生長する営為として、社会生活の基礎に迫る広義な展開へと発展していくだろう。
パフォーマンスは、不明瞭なものではない、膨大なのである。社会の混沌さに見合う分だけ、膨大なのである。この全ての個の中に埋没している膨大さを延引して、その破綻目から開かれたコードを抽き出し、それがどのような予感のパースペクティブを呈示しているのか——従来の言語構造から逸脱せんとするパフォーマンスにとって、この点は多いに語るべきところだ。いまは、その展開を具現化するものとして、もっとも身近かな他者である「池田一」というフレームから延引されたパフォーマンスの将来について語ることにしたい。
ポスト・オブジェ・アートとしてのパフォーマンス
絵画や彫刻的なオブジェは三文画かきやインテリア・デコレーター、投機的なコレクターの手にゆだね、前衛はポスト・オブジェ・アートの千年王国に向かってのりだしてゆく。というテレンス・マルーン(豪)の言葉を受けて、次のように書いたことがある。
「いま全ゆる表現営為はどこに起源し、そこで生まれたものたちはどのように交換され、更にどこへと消息していくのか・・・この根本的な三つの問に取り組まない限り、今日の逆転した『ものと人』の関係を捉え直し、極度に肥大化した『もの文化』から、人間の自由な営為を回復させることはない」、と。
日々文化の表面に吐き出されてくる無数のオブジェたち、それらが表現の自由な余地を喰いつぶす制度的産物でしかないとしたら、もはや無批判な生産はありえない。このポスト・オブジェへの志向が、パフォーマンスをうんだ大きな要因のひとつである。
なぜ本来はもっと流動的で欲望的な営為が、その生々しさを剥ぎ取られて、記号化されたオブジェに回収されてしまうのか?この頑迷な仕組みに対して、時に告発的なパフォーマンスがあってもいい。この二月に雪上で行われた「Pickle−Picture(漬もの絵画)」というパフォーマンスは、制度としてのオブジェ・システムに唾棄してみせた好例である。絵画とは表面という概念の制圧法であるという原則に立って、一晩にして100枚の絵画を作成してみせた。参加者によって持ち寄られた20種類ほどの調味料らを、100枚の紙の問に思いのままに投げいれていき、その後包装し、上に重い石をのせて、酷寒の雪上に一晩放置しておく。一夜漬けと呼んでもいい形でカラフルに自然変色した紙は、表面を形成する営為の成り立ちとその成果において、充分に絵画の条件を満たしている。
この「Pickle−Picture」は、完全に西洋化してしまった表面概念に対して、我が国に根深くある身体作法が謀叛してみせた営為といえないこともない。ここには、かってのダダ的なものの破壊運動といった側面はない。止まることを知らないものの氾濫の中で、硬化した「ものと人」との相関システムに対する見直しを迫るものだ。この種のポスト・オブジェ的なパフォーマンスは、記号の組み替えといった概念操作の域を出ないならば、かっての概念芸術の枠組みに回収されてしまう。あくまでも「身体呈示による痕跡として、ものは残る」という前提が一貫していなければならない。この前提からの展開に、概念芸術以降の、ポスト・オブジェ・アートとしてのパフォーマンスの可能性が見い出されるだろう。
第一義メディアとしての身体パフォーマンス
付加する情報内容が多いほど、それを見てとる自由さが減少するという、情報反比例の法則がいまや顕著になってきた。付加的な装飾性が強いほど、核心に直面するチャンスから疎外されるという認識は、さまざまな表現ジャンルにおいて、より原理的なところへと遡行しようという欲求に根づいてきた。単なる、バラエティか、ミニマリズムか、という選択ではない。本来の豊饒なバラエティに出会うために、身についた余計物をそぎ落としてみせる営為といえばいいか?混沌とした状況の中から、いま全身的に向わざるをえない何かに直面するめの、必然的な手続きなのである。
パフォーマンスの中で、ヴォーカリゼーションがしばしば用いられるのは、身体のうちで未だ形骸化されない部分として、身体原理を開示する第一義のメディアとしてとらえられるからである。俳優や歌手のように、セリフを語るとか歌を歌うといった機能的に分節化された口筋運動ではない。踊りのように、饒舌を噛み殺す沈黙の身ぶりとしての口唇ではない。まさに非文節な肉声なのだ。
パフォーマンスを成立させるひとつの起因として、私自身もしばしばヴォーカリゼーションを通じて身体を開示する。私は、これを「G−Pole(G極)」と呼んでいる。なぜ“極”なのか、これは重要な呈示である。パフォーマーには、フレーム(檻)内の表現者であることから逸脱した、路傍の表現者としての像がある。即ち、形態的模倣による伝達や言語による意味伝達や記号的オブジェの提示といった、文化の意味形成作用に依拠しえない、開かれた地平に立っている。身にとりついた取引きのための手続きが一切通用しない、吹きっさらしの路傍である。そこでは、自らを取り巻く周囲との相関関係(肩書き、社会的地位、そこでの技術論など)が自らを救う武器とはならない。パフォーマーは、概念の代弁者でも何かの化身者でもだ誰かの代行者でもない、自分そのものであること、そして何処まで行っても自ら以外ではないことをのみ呈示する。即ち、相対価値としての点ではなく、“極”であることを示すのだ。パフォーマンスが、個の自立を促す作用を持つのは、この“極”化さえた営為性に依るといってもいい。
表面の時間とは、なぜ寸断され抽出された時間としてあるのか?この問に、“極”的な営為としてのパフォーマンスは直面する。極として現前するためには、周囲に左右されない“膨大なる持続”が必要であるからだ。自らは自らも知らない奥深さをもた書物だ、それを見知らぬ他者が往来する路傍でひもとくのに時間の制約などあってたまるか、この持続する身体意識がパフォーマティヴなヴォーカリゼーションをうむ。
「G−Pole」には、自らが“極”として立ち現われるためには、一日でも二日でも持続しなければいけないという前提があった。そのためには、誘惑的なリズムへの傾斜、自然と定着してしまうテンポ、言葉的なものへの帰結などといった、限りない持続を差し止める要素を意識的に遠去けつづけねばならない。即ち、何がうまれるかわからない時間に自らをつなぎとめるのでない限り、身体は終末がわかってしまった書物のようだ。すぐに、その限界と行き着く先を露呈してしまう。身体のうちで、多分唯一残されたメディアとしての肉声までもが、形態化され言語的に汚染されてしまうことになる。
この“極”的なパフォーマンスは、形態化された身体性を撃つだけではない。個々人の内に沈潜した固有の身体原理を発掘し拡張することの必要性を教えてくれる。これを、パフォーマンスにおける身体論と読みかえてもいい。
「日本人のためのエネルギー計画」としてのパフォーマンス
自然なる身体というか、身体における自然と呼ぶか——自然と身体の結びつきはパフォーマンスにとって重要な課題である。パフォーマンスが、演ずるのではなく、自らそのものであり続けることは、自らにとっての自然なる身体を発見していく作業と同義である。
身体は、既に多くの形態を学習してしまっている。例えば舞踊の経験など全くないのに、当人も驚くほど巧妙に舞踊の形態を真似てみせることが出来たりする。これは、収斂とか経験とかに無関係に、その文化の周辺にいるだけで、多くの形態を身体は学習、記憶してしまっている証拠だ。この不用意にも身体に取りついてしまった人工性、合理性から、自分そのものの自然なる身体をいかに取り出すか?この問が、パフォーマーの、非形態的で生な営為を生み出す。
生とは、不様なことだ。身体的コンプレックスを修練された技術で被い隠すのが人工的な身体表現だとしたら、生な身体表現はその不様さを加工せずにさらけ出す。「身体はコンプレックスの集合体である」という強迫意識から、ここでは解放されている。むしろ、自らの身体を形成している構造因子を、積極的に他にはない個別性としてとらえるのである。
私が、一連のパフォーマンスを「日本人のためのエネルギー計画」と呼ぶことがあるのは、この個別性を積極的に自覚したいが故にである。このテーマに沿ったシンポジウムを何度となく展開していく中で、我々の身体性を形成してきた土壌(それを、日本と呼ぶ)の中に、独特のイマジネーションがあることを見い出してきた。例えば、“見立て”というイマジネーションがある。枯山水の庭園を造る際に、山を表わす石を、身近かにある(当然、山らしくない)石で見立ててしまうといったものだ。そこには、絵画的イメージが先行詞、プラン通りの山型の石を探し出すとか彫刻するとかいったヨーロッパ的な展開はみられない。
私は、幾つかのパフォーマンス原基を発掘し持っている。その時々の状況に見合って、即座に自らを開示し呈示してみせる契機となる、身体内メディアといってもいい。そのパフォーマンス原基のひとつに「Water−Piano(水ピアノ)」がある。文字通り水面をピアノに見立てた演奏行為ではあるのだが、手の動きが曲に直結する道具的発送や、行為を言語で正当化する演劇的手法などからは全く外れている。そのような形態化から自由な分だけ、身体は開かれて持続しえるのである。その展開のひとつとして制作したビデオ版では、水面下を「自然社会から物質文明へ」と移行した歴史の時間に見立てた。即ち、自然物の上に、生活用品、工業品、文化的オブジェが積層されていく、いわゆる「ものの掃き溜め」の上を、演奏してみせたというものである。この「Water−Piano」は、日本人独自の営為のエネルギー計画を考える上での格好な契機を提供するだろう。
パフォーマンスは、これからあるべき交換関係を求めて、「いま自らは何を呈示しえるか?」という問を個のレベルにまで還元しようという営為だ、といってもいい。即ち、個々の差異性を交換基盤として呈示する。その意味で、この「日本人のためのエネルギー計画」は、固有の身体性が成立するひとつのエリアを認識させるとともに、世界に向けて放つ「自らの営為」の拡がりを身体把握させるだろう。パフォーマンスは、ユニバーサルな営為の体系である。
コラボレイティヴ・パフォーマンス
パフォーマンスは、我々を取り巻くあらゆる関係の見直しを迫る。作者と読者、演者と観客・聴衆といった、一方向的な受け渡しの関係だけではない。共通の目的意識を大義名分化し排他的に共同している関係性や、一時の組み合わせをジョイント・ワークとして正当化してみせる動きにさえ、その見直しの矛先を向けるものだ。
パフォーマーにとって、<作品>という概念は必要悪な社会的身振り、社交性の一表情でしかない。作品の出来、不出来の判断は、受け手の「見る道楽」の領域内のことであり、営為者にとっては預り知らぬところである。<作品>という形での受け渡しは連続する営為のほんの一線分でしかないことを、本来のパフォーマーは熟知しているからである。
その代わり、生長する表現として、場に問うことになる。果して協働性の可能性と拡がりをどこに見出していけるのか、と。
G−day PLANというパフォーマンス・ユニオンは、これからの協働性を探るワークショップとして、2年有余続いてきた。現在、多摩川の上流から下流までの全長を、都市を横切る一本の幹線と見立て、全域をパフォーマンスの場ととらえ「River−Plan」という企画が進行している。数年は要するだろうという、この長期的な展開は、これからの協働性の在り方を実践的に追求する格好の場を提供してくれる。例えば、8人程のパフォーマーで「集落化」というパフォーマンスが行われたことがあった。河原に散在した自然物(石、木、草など)を使った各自のインスタレーション的な作品を、順に他の人が手を加え発展させていく。最終的には、それぞれのインスタレーションには8人の手が加わることになる。
このパフォーマー間のローテーション作業は、青写真に描かれた統一イメージの実現へと向う共同作業ではない。自らの呈示した基幹としての表現がどのように成長していくかわからない、即ち作家の私有意識を放出することでしか得られない匿名性の持つ拡がりを現前させようという試みである。実際、当初は個々に独立した8つの部分が、次第に相互連関し、それぞれの自由な営為を受けとめた大きな状況を自生させた。この「点」から「系」への移行は、自然発生的な集落化と呼ぶにふさわしいものである。
本来の協働性は、まず<私>の消滅を前提としなければならない。差別と競合を強いる私有表現という、私有財産の一形態への頑迷な固執を放出してかからねばならない。この放出と引き替えに、より大きな表現のチャンスを手にする。これは、私有性を放出することで、協働的な関係の中での<個>の役割と作用への自覚を促すものである。差別・競合の関係ではない、協働性へと向う<個>の表現がいま問われているのである。
私が主張する延引的な視点に従えば、他者という集合名詞的な言葉も、<近い他者>と<遠い他者>に延引された階層的存在となる。協働性とは、その意味では近い他者に向けられた視線であり、営為である。だが、大半の文化の現場は、遠い他者との私有表現の取り引き市場といった様相から脱け出せないでいる。そのような制度が支配した場に、観客参加論、空間論などといった技術論を導入しようとも、近い他者への変質は不可能に近い。むしろ、重要なのは普段な協働性への努力である。パフォーマー間の、批評家との間の、作品化以前の協働性を何処に根づかせていくか?この問に普段に応えていく営為が、コラボレイティヴ・パフォーマンスの土壌である。そして、その拡がりが、制度化された場に取って替る、新しい場を自然と想起させることになるだろう。
エコロジカルなパフォーマンス
パフォーマンスは、場における人間の営為の可能性を再発見させる。即ち、あらゆる表現行為は、場への作用性、環境への関わりを抜きにしては、その社会における必要性を語れなくなりつつある。この問題に最も真向うから対しているのがパフォーマンスである限り、環境における生態学=エコロジーに通低していくのは、当然の成り行きである。
私は、このパフォーマンスの成長する側面を、「Earth−Up」というメタファーで受けとめている。ここには、「土をぶっかけろ」という時代告発的な部分と、「地球を救おう」という全世界的なメッセージの部分とが含まれている。その両義性によって、環境への関わりを、単なる言語レベルとしてではなく、両義的な身体性の問題として把握することができるのだ。
「Earth−Up」ムーヴメントは、豊富な拡がりを予感させるが、その中に「for BLUE」と名づけたエコリジカル・パフォーマンスがある。環境問題といえば直ぐ緑の問題に直結するのだが、東京という環境にはそれを営為に結びつく身体感覚としてとらえる余地が見い出しにくい。この希薄な実感を埋め合わせるのは、極めて経済的な行為である。では、普段な身体感覚として周辺に引き寄せられるエコロジカルなイメージとは何か?それを空や水の無公害な状態を連想させる「BLUE」に求めることにした。しかし、実際の空や川や海は決してBLUEではないことを思うと、極めて抽象的な概念で、むしろBLUEを喪失していった汚染の度合を測定する尺度といった方がいい。この抽象的で非実在な環境イメージを、どのような実在物として構築し、自らの身体の周辺に引き寄せられるか?この作業は、場の中での営為の在り方を喚起させる、極めて身体表現的なものである。
「Sew up BLUE」「Put on BLUE」と名づけられた一連のパフォーマンスは、このエコロジカルな身体感覚を公然化したものである。会場一面に敷きつめられたBLUE(青色のシート)を、採集され数珠つなぎにされた青の破片(青色のゴミ)や青い水の入ったチューブを縫糸として、私自身の身体が針となって縫いあげていく。ミシンのように声を発しながらの縫製作業のあと、その縫われたBLUEを着衣する。そして、最後に、丁度ヨーゼフ・ボイスが来日している折でもあり、彼の主唱する緑のイメージに対して、私はそれぞれを取り巻く環境の差異に基づいたメッセージとして、BLUEを我々のエコロジカル・イメージにすることを宣告した。
もちろん、BLUEの問題は、大気汚染、水質汚染などの社会問題へと通底していくこともあるだろう。ただ、大半の社会問題はその根底では経済的な問題であるという実感に照らし合わせれば、これは多くの展開の中のひとつと見た方が賢明であろう。むしろ、個々が環境との関わりにおいてエコロジカルな存在としてありえるのか、私風に言えば、今日の汚染具合を認識・測定する尺度としてのBLUEを身体化しえたか、と問う方が開かれた営為の可能性を予感させる。
その意味では、パフォーマーは原則的にはエコロジカルな存在である。このことは、パフォーマンスが、社会の中の役割・機能を記号論的に展開してきたオブジェクティヴな表現とは違って、深く生存の問題と関わっていることを示している。これからのパフォーマンスは、このような環境の問題、生存の問題をとば口として、社会の懐に鋭く斬り込んでいくことになるだろう。
「池田一」という閉ざされたフレームを突き破って、他者へと開かれていく、5つの「予感のコード」について触れてみた。その他に、その時々のリアルタイムな時間に沿って自らの営為を対置させる、今日の歳時記といってもいいパフォーマンス・ダイアリー的な展開がある。1983年に、毎日行った365日間アクションなどは、その例である。また、100年後の人たちに向けて何がなせるか、という問から生れた「2082年のために」という未来予測的なパフォーマンスや、東京という状況を世界に向けて放つべき独自な記号としてとらえた「de−TOKYO−PLAN」ともいっていいパフォーマンスなどには、それらがいま必要な営為を伴って膨大に生長していく可能性を予感させる。もちろん、これらの開かれた営為回路は個々に独立して生長していくのではなく、相互に関連し活性化しあってパフォーマンスの将来をより確固なものとして消息させることになるだろう。
私というものを「延引された(自由化された)記号」として見るならば、このように膨大な開かれた回路を持っている。そして、この延引されたコードの端末は、もはや私という領域を超えてしまっている。脱私、即ち他者というもうひとつの延引されたコードの中に包み込まれている。実際、他者というものが、個々の膨大さにおいて「延引された記号」として立ち現われるならば、私と他者を隔てる境界は朧げになり、逆にその部分が共有・協働性の余地として立ち現われる。その時、身体営為のレベルから、文化を、社会を、未来を、物語ることになる。このような膨大さのうちにパフォーマンスを身体化していく者は、ポスト・オブジェ・カルチュア以後の、これからの物語の語り手の位置に立つだろう。
(初出「肉体言語」第12号/1985)