<非>言語の<非>パフォーマンス
高橋康也
いかにもネコらしい行動をやっているネコを見て、「ああ、ネコのパフォーマンスだ」と言うことはできる。いや、そのネコが、およそネコらしくなく、ニヤニヤ笑いはじめたとしても、「なかなかユニークなパフォーマンスじゃないか」と余裕をもって感心することはできよう。
しかし、ネコの身体のすべてが、顔から尻尾まで、すっかり消え失せ、ニヤニヤ笑いだけが残ったとしたら、どうか。
むろん、そんなことはあり得ない事態だ。「笑いぬきのネコ」から「ネコ抜きの笑い」へ—これは純粋の言語の次元でのみ可能な戯れ、つまり極めつきのノンセンスにほかならない。キャロルは挿絵画家テニエルに描出不可能な難題をつきつけたのであり、テニエルは辛うじて、ニヤニヤ笑いだけを残してネコの身体が消えてしまう直前の*1瞬間を描くことができたにすぎない。
ともあれ、この笑遁の術*2の達人チェシャ・ネコにおいて、キャロルは言語的パフォーマンスの妙技を見せ、テニエルは絵画的パフォーマンスの可能性を限界を味あわされ*3—そしてアリスとわれわれはおよそパフォーマンスなるもののぎりぎりのありように立ち会ったことになる。
暗闇のなかに、スポットライトを浴びて、唇だけが浮かんでいる。その位置は明らかに舞台の床に立つか座るかしている人間の唇よりは高く、しいて言えば、チェシャ・ネコが姿を消した、あおのアリスの頭上の木の枝の上くらいの見当だろうか。
作者の実験の第一の犠牲者は、唇を演ずる女優(女の唇なのだ)であろう。彼女はほぼ20分ほどひたすらしゃべり続けなければならないのだが、観客に唇しか見られないという状況—あるいは唇だけを見られるという状況(ラジオ・ドラマなら話は別だからだ)—で、俳優は(あるいは人間は)しゃべれるものだろうか。
クルト・ザックスの『音楽の起源』によれば、未開人は手足を固定されると歌えなくなるという。われわれが声を出すとき、現実には手足を動かさなくとも、身体全体が(内臓も含めて)環境との相互反応を生きている。環境とは、未開人の歌の場合のように、あるいはジェシー・ノーマンの歌のように、宇宙そのものを含むだろう。
演劇とはそのような環境=宇宙の感覚を凝縮したパフォーマンスのモデルであるはずだ。ハムレットでさえ、独白に含まれる自閉症的危険にもかかわらず、十分に演劇的パフォーマンスを生きている。いや、ハムレットこそは役者冥利に尽きる役だといわれる。
とすれば、ベケットは役者を殺して*4いることになる。さすがの名女優ビリー・ホワイトローも「死にそうだった、あれだけは二度とやりたくない」と述懐している。それもむべなるかな、あの唇はおそらく生者のものではなく、死者のものである。往生しきれず生の妄執を語りつづける亡者を、ベケットは(能におけるように)生身の役者体に演じさせる代りに「しゃべる機会」としての唇へと還元したのだ。
第二の犠牲者は観客である。唇しか見えぬとき、それに同化(アイデンティファイ)するのは、観客にとってきわめてむずかしい。まして聞こえてくる台詞も、低音で、切れぎれで、とりとめもなく、意味諒解の可能性は絶望的に剥奪されている。ふつう観客の内部感覚として起るはずの身体的・言語的パフォーマンスの可能性は、ここでは故意に抹殺されている。
だが、抹殺と剥奪の極限で、逆転が起る。ホワイトローmたはマドレーヌ・ルノー演ずる『わたしじゃない』を見た者の多くの、圧倒的感動の証言が示すように、パフォーマンスの不可能な地点でこそ、まことに呪縛的なパフォーマンスが顕現したのである。
ついでながら、BBCがテレビ化した同じ作品がある。カメラはいっさい動かず、クローズアップされたままのホワイトローの唇がしゃべるだけである。口腔の内部が口蓋垂*5にいたるまで照らし出され、それが死者の口にも見えると同時に、女陰そのままのような生々しいエロティックな映像ともなっているのに、私は驚嘆した。タナトスとエロスのこの直裁的な一致は、たぶんテレビにおいてのみ可能だった。ベケットも意外な効果に満足であったらしい。
*
『わたしじゃない』の対極に、太田省吾の作品を置くことができる。老婆の蜿ていたる独白を原稿用紙に書きつけながら、最終段階でこれをすべて抹殺し、無言とすることによって、『小町風伝』の作者はパフォーマンスのもう一つの不可能性の極点に挑んだ。『水の駅』は無言語(ノンセンス)ゆえの非伝達性を、豊饒な劇的多義性へと転化しおおせたといえる。
『地の駅』で、品川徹と鈴木理江子があんぐり口をあけたままでいる場面がある。テレビで見た二人のクローズアップはホワイトローの唇と口腔を強烈に思い出させるものだった。
*「唇」のトポスについては松浦寿輝『口唇論』を見よ。拙論も示唆を受けた。
採録者註
*1 原文では「直前の」に傍点
*2 原文では「笑遁の術」に傍点
*3 原文では「味わあされ」
*4 原文では「殺して」に傍点
*5 原文では「のどちんこ」とルビあり
*6 原文では「てい」は感じ。虫偏に延。