スコピオ・プロジェクトについて
スコピオ・プロジェクトとは、2008年今日から想えば「1983年頃から活動を開始した、及川廣信氏を中心としたゆるやかなアート・プロデュース・ユニットのようなもの」だったと言っていいでしょう。下の及川氏の回想にもあるように、シュウウエムラ化粧品および雑誌「肉体言語」を発行していた肉体言語舎(主幹:星野共氏)との関係から、檜枝岐フェスからはじまる「パフォーマンス」の流れをリードしていくことになり、さまざまなムーブメントに関与していくことになります。
及川廣信氏について
及川廣信氏は、八戸市出身のダンサー・演出家・プロデューサで、順天堂大学医学部を経てパリのエチエンヌ・ドゥクルー「エコール・ド・ムー ブマン」およびレオ・スターツ「コンセルヴァトワール・コレオグラフィック・ド・パリ」に留学されています。はじめ演劇およびバレエに触れ、パリでドゥクルーのマイムを学び、日本に「輸入」された後、さまざまな身体表現およびジャンルを超えた新しいアートの境域の模索を、いまなお続けられています。1960年代には「バレエ東京」「トーキョー・コメディ」「日本マイム研究所」などの結成に関わられた後、「アルトー館」および「ミモ・サビエンス」を設立されました。この流れが1983年頃の「スコピオ・プロジェクト」に繋がってくるわけです。シュウウエムラ(植村秀)氏との交遊やモレキュラーシアターや大野慶人、勅使河原三郎などのプロデュースに携わられたことはよく知られていますが、1960年代後半にとある有名な商品のコマーシャルやテレビドラマ(たとえば天地総子の歌う主題歌が記憶に残る「怪獣王子」など)に出演されていたことはあまり知られていません。
及川氏の1960年代までの主な活動には、たとえば以下のようなものがあります。
1957-1967年の及川廣信氏の主な活動
1957.01 バレエ東京 「白の組曲第1番」「バラの精」「森の歌」
1957.10 トーキョー・コメディ 「パントマイムの基本」「くさりを離れたプロメテ」「ピエロ」
1958.01 バレエ東京 「白の組曲第2」「エレクトラ」「ハンガリアの夜」
1958.05 バレエ東京 「スペイン交響曲」「異邦人」「森の歌」「エレクトラ」
1958.05 トーキョー・コメディ 「生田川」「ピエロ」
1959.06 トーキョー・コメディ 「ドン・ベルリン・プリンとベリサの恋」ほか
1959.11 バレエ東京 「血の婚礼」「背徳」ほか
1961.03 マイム・シリーズ・リサイタル[1] 「白い男と影」
1961.04 マイム・シリーズ・リサイタル{2] 「競馬のあと」
1961.05 マイム・シリーズ・リサイタル[3] 「病・苦悶・死」
1965.01 グループVAV 「傾斜の存在」
1966.03 アルトー館 「爆弾」「部屋」
1966.07 ミモ・サピエンス 「ハムレット」ほか
1967.04 アルトー館 「ゲスラー・テル群論」
(肉体言語9号収録の國吉和子編「舞踊・舞踏公演年譜」/1979による)
スコピオ・プロジェクトの成立について、2008年11月に及川氏は下記のように書かれています。
スコピオ・プロジェクトとは
スコピオ・プロジェクトという名称で出発した時期は、今になっては定かではないのです。
一つには、現在に至る仕事のつながりの端緒として、1983年春の(株)シュウ ウエムラ化粧品の原宿・表参道のシュウ ウエムラビューティブティック第1号店のオープニング時とします。
そしてもう一つは、それに継ぐ1984年夏のヒノエマタ・パフォーマンス・フェスティバルを、パフォーマンスに始まるスコピオ・プロジェクトの芸術活動の出発点とします。
この出発時から80年代の末まで、シュウ ウエムラのアートに密着した文化活動と、スコピオ・プロジェクトのアート活動とは、平行してすすむことになります。
また、それに随伴して、というより先行するかたちで「肉体言語」という同人雑誌が発行されていたのです。
それらが何故つながりを持ったのか。
理由は、スコピオ・プロジェクトの代表及川廣信が(株)シュウ ウエムラ化粧品の芸術顧問であり、また同社の企画・経営にも深く関っていたからです。現にウエムラのビューティブティック第1号店の開店ディレクターであり、また「肉体言語」の同人で、1983年の出版の『肉体言語アントナン・アルトー特集号』の編集人でもあったからです。
そして幸いにも、1984年春に前記のウエムラの原宿店の1周年記念行事が行なわれ、長崎から、東京を経て仙台に終わる、7都市を巡行するウエムラのメイクアップショーの演出を受け持ったのです。
ついでにアーティストとウエムラとの関わりの点から申しますと、この時のショーの台本を書いたのは、現在シアター Xディレクターの上田美佐子であり、音楽構成は現在女流作家の湯本香樹実です。舞台は勅使川原三郎が出演し、音声は上野陽一、舞台監督は徳田ガン、音響は弦間隆でした。
そして、終演パーティで及川の咄嗟の思いつきから、その演出料を投じて、かねて思い描いていたパフォーマンスフェスティバルを3ケ月後の夏にヒノエマタで行なうことを決意したのです。
福島県の檜枝岐という村は平家村で温泉も沸き、尾瀬沼の入り口に当たり、すでに肉体言語舎の星野共が候補地として探索済みでした。
このようにして主催:肉体言語舎、制作:スコピオ・プロジェクトで急遽、第一回ヒノエマタ・パフォーマンス・フェスティバルが開催されたのです。
このフェスティバルには思いがけず、各ジャンルの第一線のアーテイストたちが約100名ほど参加してくれました。そして、3回目から主催は「肉体言語」から離れて参加者のアーティスト集団、ISA(International Space of Artistic activities)になりました。その実行委員は粉川哲夫、浜田剛爾、池田一、ヒグマ春夫、鴻 英良、西堂行人、楠野裕司でした。及川廣信が制作ディレクター、星野共がマネージメントディレクターでした。技術監督は弦間隆。
これを起点に、パフォーマンスという一つのムーブメントがヒノエマタから東京へと広がって行きました。
この活動は、芸術家集団によるものでスポンサー無しの任意団体で、非営利の芸術活動を目的とした現在のNPOの先駆けのようなものでした。
一方、ウエムラの方では、東京で資金が必要な「東京アートセレブレーション1985」とか、海外からはヤン・ファーブルの『劇的狂気の力』『パリ オペラ座JRCOP』などを招聘しました。
また、パりの“プランタン”でのジャパン・フェスティバルとカルダンシアターでの公演には粉川哲夫、ヒグマ春夫、大串孝二、吉村弘、武井よしみちを派遣しました。
これがスコピオ・プロジェクトに関する1983年から80年代末までの第1期活動の企画、運営の概略です。
(採録者への私信より)
このほか、「及川廣信氏によるテキスト群」の中の「シュウ ウエムラのパトロナージュ」にも、当時のことが述懐されています。この「スコピオ・プロジェクト前史」については、徐々に記述を追加していきます。
スコピオ・プロジェクトの名は、何といっても「パフォーマンス・フェスティバル・イン・檜枝岐」「東京アートセレブレーション」で一躍知られることになるわけですが、その流れは1990年代も脈々と続き、2008年に及川氏はスコピオ・プロジェクトの後継となるアーティスト・ユニット「アフター・スコピオ」を設立されています。
この間の流れについての情報は未採録ですが、1990年代半ばまでの大きな動き(スコピオ・プロジェクトがプロデュースした/関与した大きなイベント)については、下の画像でその概要を伺い知ることができるでしょう(クリックすると2段階に拡大することができます)
ISAについて
上記の及川氏の「スコピオ・プロジェクトとは」の中に、ISAということばがでてきます。
公式には、以下のように書かれていました(当時)
ISA設立のお知らせ
ISA(International Space of Artistic activities)設立のお知らせ
私達、美術・音楽・舞踏・マイム・演劇などに関わる者たちは、互いの交換と国際交流の場をつくるために、ISA(International Space of Artistic activities)という機関を設けることになりました。
運営委員は、粉川哲夫・浜田剛爾・星野共・池田一・小林進・鴻英良・西堂行人・ヒグマ春夫・楠野裕司・三浦一壮・塩谷敬・及川廣信です。
この機関は、私達の今後の活動の中心的な場となり、来年の企画のAsian Pacific Space/Festival of Performance Arts及び、そのプレ・イベントとしてのMYA-PROJECT(美術・ビデオ)(1986.5)、OCT-PROJECT(ムービング&音楽)(1986.10)、Performance Festival in Hinoemata(1986.8、1987.8)を主催することになります。
制作は、ヒノエマタ・パフォーマンス・フェスティバル、東京アートセレブレーション(シュウ ウエムラ パトロナージュ)、ヤン・ファブル公演(シュウ ウエムラ アートシアター)などの企画・制作を行ってまいりました、スコピオ・プロジェクトが代行いたします。
今後の活動につきましては、ご協力のほどよろしくお願い申し上げます。
ISA会議室 東京都港区北青山3-8-4-201 Front House内
ISA制作室 東京都中野区中野3-34-3-511 Scorpio Project
※採録者註:上記の住所には当該組織は現存しません。これらはあくまで「1986年当時の記録」ですのでご注意ください。間違いを避けるために(当時の)電話番号については記さないことにします。
(初出:「1986 MAY-PROJECT」パンフレット/1986)
ISA以後、INPAおよびINPA-SCORPIOという機関も登場しましたが、公式記録が未発掘のため、現段階では触れないことにします。