フリッカーシュタイン伯爵のドラマトゥルギー*1
——映画意識と映画形式のステップス
西嶋憲生
現代映画が他ならぬ<現代>の映画である根拠を考えようとするときに、避けることのできない幾つかの重要なステップスがある。
映画というこの現実再現を目的化したメディアに<抽象>という指向が入りこんだ幾つかの諸相。1920年代にダダイストや構成主義者の連中が持ち込んだ絵画的な抽象。たとえば、ベルリンでハンス・リヒターやヴィキング・エゲリングが幾何学的な図形を平面的に連動させた<絶対映画>やパリでマン・レイが作った物体の影の映画(レイヨグラフ的手法による「理性に帰る」)。これらは<像>のフォトグラフィックなイリュージョニズム、その奥行をもった空間に背を向け、むしろスクリーンやフィルムと同等の<平面>であろうとした。
さらに50年代末には、オーストリアという中央とも辺境ともつかぬ文化圏で、ペーター・クーベルトとクルト・クレンという二人の実験映画作家が数コマ単位で像が交替するような特異な映画を手がけ始める。映画は1秒間に24コマ撮影されるので、1コマごとに映像を変えた場合、単にめまぐるしい視覚体験が生じるばかりでなく、そのすべてを知覚することが不可能になる。それは<見る>という行為を、従来の<見る>位相、すなわち見ることが理解であり納得であるような世界から、より直接的で肉体的な、知覚の位相へと変換した。それは「マン・レイ、レジェ、エゲリンク、リヒターらの初期の実験以来*2の、映画形式の概念における最大の変化」(マルコム・レグライス)とさえ評価される。
あるいは、アンディ・ウォーホルのフィックス・ムーヴィーと呼ばれる映画がある。固定したカメラで動かないものを延々と撮り続けた<ムーヴィング・ピクチャー(動く絵)>の逆説。ウォーホルは、63年の春から映画を作り始めるが、彼の映画は<劇=映画>というものの演劇的構造からきわめて遠く、しかも<記録=映画>のもつ物語構成(出来事の起承転結に基づいた映画断片の編集)からも遠い、特異な代物であった。たとえば、ナオミ・レヴィーンと何人かの男性とのキスのクローズ・アップのみをシリーズ化した「キス」や眠る男の姿を6時間半にわたってリアルタイムで撮り続けた「眠り」(16ミリ白黒サイレント)、45分間にわたってキノコを食べ続けるロバート・インディアナを撮り続けた「食べる」、フェラチオされているジュラルド・マランガの顔だけを30分間映し出す「ブロー・ジョブ」など、63年から65年までの2年間に40本以上のフィルムを量産する。そのなかでも記念碑的な大作が、64年の初夏の1日、ニューヨークのタイム・ライフ・ビル44階から固定カメラで捉えられたエンバイア・ステート・ビルを8時間のフィルムで見せる「エンパイヤ」だった。それらの映画ではしばしば24コマで撮影されたフィルムが16コマ(サイレント・スピード)で上映されるという作為が介在した。ほとんどのフィルムはいったんシャッターを押したらフィルムが終わるまで(1本の100フィート・フィルムは3分程度)止められず、そのフィルムを手を加えられずにつなぎ合わされた。
これらのフィルムの限定された対象の微妙な変化や差異の中に人はドラマや物語を見出すことは可能だが、それは劇場として仕切られた空間の中で作為的に創出される世界ではなく*3、むしろ劇場の外にころがっている現実の時間と空間を眺めることの(意味の)再確認にほかならなかった。そこで体験されるのは劇的なもの=操作された時空間ではなく、操作されずに放擲された<時間>そのもの、すべてのドラマが均質化した反構造の現実状態であった。
そして、このようにして切り取られた現実を並置するだけで十分なドラマトゥルギーを充足しうることを立証したのが、チェルシー・ホテルの奇異な住人たちを延々とポートレートする「チェルシー・ガールズ」(66年、二面マクチ、3時間15分)であり、そこから擬似劇映画へと後退したのがポール・モリセイによつウォーホル映画(たとえば「サンセット大通り」のようなウォーホル・スタイルの"ブランド"映画)である。
このような<劇=映画>の基底にあるイリュージョンを削りとっていく作業の究極に現われたのが、トニー・コンラッド「フリッカー」(66年、30分(ではあるまいか。このフィルムにはもはやイメージというものがない。通常の映画が無数の相異なる映像の連続で成立しているのに対して、この映画には白(透明のフィルム)と黒(真っ黒のフィルム)という2種類のコマしか存在しない。この2つの映像の組合せによって間欠的にプロジェクターの光を寸断し、それによって激しい光の明滅(フリッカー)を起こさせる。映画という一連の物理・科学・心理・文化的システムの基底にある<光>のみを素材とした映画である。一見、ストロボ効果によるライト・ショーのような印象を受けるが、これがフィルムによってコントロールされ、スクリーンに上映されることが重要である。これは、映画というものに対する一連の思考の積み上げなくしては出現しようがなかった。
このフィルムはさまざまな周期の明滅で成り立っているため、癇癪持ちの人は発作を起こす可能性があり、上映前に字幕でその旨が警告される。眼がチカチカし、ときには白いスクリーン上にさまざまな色が幻視され、その周期的な反復は部屋(上映室)そのものの収縮=膨張を感じさせる。これは先に引いたクーベルカらのコマ単位の知覚映画の発展上にある作品だが、はるかに直接的で暴力的である。トニー・コンラッドは「眼を閉じて見るというのは、眼を開くものに焦点を合わせて見るときの視覚印象とはきわめて異なる感覚体験だと私はずっと前から思っていた。そういう印象を意識的に得る唯一の方法は、それを生み出す仕掛けを使うことだ。それを投影するのでなく、実際に眼の中にそれが生じるようにするのだ。」と述べている。この言葉は、映画を<見る>ということの質的転換を象徴している。スクリーンを見るとは、映像のストーリーを理解することではなく、視覚純粋体験への扉を開くことなのである*4。すでにスタン・ブラッケイジは<見る>ということを、単に見開かれた眼が見るものだけでなく、心の眼が視覚的に記憶や夢の中で見るもの、そして閉じたまぶたやときには眼の表面で、形や色が戯れることまで含めて、自らの視覚的映画を創造した。
白と黒の映像が果てしなく*5交替するばかりの映画。映像を欠いた映画。しかしそこにはきわめて強度の視覚体験が存在した。この体験はスクリーンという場を無垢なる状態へ浄化する。この儀式的ともいえる決定的な通過儀礼を<現代>映画は通りすぎてきたのだ。そして、そのとき出来事が僕にとっては、映画それ自体が演じてみせる<ドラマ>とも思えるのだ。映画の中で、映画を通じて演じられるドラマではなく、映画というメディアそれ自体がその都度露呈し出現し生成するようなドラマ。それは、はるか20年代にスクリーンの平面性を強調してみせた抽象映画から幾つものステップを経て到達した、一種の<メタ>な次元である。スクリーンの中の劇的虚構からスクリーンそれ自体、フィルムそれ自体、メディアそれ自体へと向う映画意識——それを<「フリッカー」以降>の映画的現在と呼びうるだろう。なぜなら、「フリッカー:はそれ以降同じスクリーン上に上映されるすえbての映画のあり方を(少なくとも観客の映画意識)を決定づけたといえるのだから。
現代映画のメディア意識の中で<メタ・フィルム>(フィルムについてのフィルム)が浮上するのは、こうした事情によるものだ。僕らがいまスクリーン上の最もスリリングな出来事として、キートンの「カメラマン」(28年)やジガ・ヴェルトフの「カメラを持った男」(29年)からポール・シャリッツの「分析的研究」(71−76年)や森下明彦の「異形発生」(82年)に至るメタ・フィルミックな感性を享受している事実そのもののうちに、映画におけるドラマの基底的転換を見ずにはいられない。(1985.11.28発行Theater Book Yellow Vol.001に掲載)
*1 原文ではこの箇所だけ「ドラマトュルギー」
*2 原文では「いらい」
*3 原文では「ではく」
*4 原文では「なのであく。
*5 原文では「果しなく」