差異の感覚
—来日する3人のアーティスト達—
浜田剛爾
スチュアート・シャーマンにはまだ会ったことがないが<HIGH PERFORMANCE>誌などを通して名前だけは知っていた。シャーマンという名前が馴染みやすい響きがあったせいもある。よれよれのコートに傘をさし、足元に置かれたケースのなかには様々の日常品のようなものが入っている写真が印象的である。道具立てと周辺の素材から一種のボードビル的要素をもったパフォーマンスであることがうかがえる。今回<アウラ・ホール>に参加する外国人アーティストはこのスチュアート・シャーマンの他にオーストラリアの彫刻家ジョン・ディビスと現在ロスアンゼルスに住んでいる台湾出身の洪素珍の三人である。ジョン・ディビスの作品は一口に言ってオーストラリア・アボリジニ=原住民の生活や文化に深く影響を受けている。夢・呪術性・図像・物語性が色濃く反映している。木と布と紙を主に使いその上にタールで紋様を描く。軽量で柔らかな構成は、いはば(*1)記憶の風景の再現でもあろう。私はそれをアボリジニの透視図絵画の手法にならって透視彫刻と呼んでいる。彼のスタディの場はオーストラリアの野性である。時間のある限り彼は森を歩き砂漠に出かける。例えば、風が吹くとかすかな音をたてて壊れてゆく小さな作品を森の中に配置する。あるいは湖の近くに出向いたときはその辺りにある石で太古の図形を描いてみる。バーマーの森では木の切りかぶに小枝で編んだトーテム(私にはそれは木の枝で出来たガウディの塔のように見えるのだが)を毎年同じ場所に創る。こうした野性と暮らすジョン・ディビスだが今回日本での個展(INAXギャラリー)を機に来日するので、作品と共にこうした彼の考えを聞けるのは大変楽しみである。洪素珍に初めて(*2)会ったのは三年程前である。きっかけは今は思い出さないが、それ以来度々日本へ来るたびに会って彼女の作品の写真をみたり話をするようになった。彼女の作品の中で私が魅かれたものの一つに「WEST EAST」という短いビデオ作品がある。半分に切れた唇が左右に結ばれ一つの唇となっていて、左と右の唇がそれぞれ中国語=北京語と英語で何かを言っている。批評的にいえば<二つの国(台湾と米国)のアィディンティティにゆれ動く《私》という現象>であろうか。彼女は今後台湾でアート・フェスティバルが開かれるため一時帰国をするという。フェスティバルが終了したのち彼女は今回の企画に参加するわけだが、二つの国の間でゆれ動く魂をもつ彼女の存在は、とりわけパフォーマンスというどこかヨーロッパ的なコードをもつ方向性に対して一石を投じるに違いない。スチュアート・シャーマン、ジョン・ディビス、洪素珍。この三人の仕事は全く各々違った文化的背景をもち、表現手段も違うのだが、ある意味ではその差異こそが根本的に現代の私達の状況になげかけてくる問いであるという気がしている。今回の企画ではその他、日本人のアーティスト達による<セルフ・ポートレート・イン・ビデオ>が上演されるがそれも結局は彼等の差異性を自己の分析の手法とした(*3)メッセージではないかと思っている。今回の企画は決して一人一人が華やかでもなければ声高に大げさでもない。しかしいぶし銀のように輝いているアーティスト達のメッセージであることは確かであろう。(21/4186)(*4)
(初出:「1986 MAY-PROJECT」/1986)
採録者註
*1 原文ママ
*2 原文では「始めて」
*3 原文では「手法とてた」
*4 原文ママだが、原文には()はない。本イベントが1986年5月28日〜6月1日に行われたことを考えると、これは「21/4/1986」のことかも知れない。