現在という場所

現在という場所

西堂行人

80年代に入って、日本の経済・社会・文化は急激な変貌をみせている。高度消費社会、情報資本主義社会、後期市民社会などといった名称の多様さに見合って、社会構造の変容も著しい。そればかりでなく、〈大衆〉の位相も微妙に移り変ってきた。いま緊急のテーマ系は、この〈大衆社会〉のメカニズムを読み解くことに求められるだろう。

〈大衆〉の変貌は、二つの問題を連動させる。一つは、大衆と対象されることによって位置づけられてきた〈前衛〉のあり方であり、いまひとつは、新たな〈大衆〉像を出現させてきた近代社会の解体過程である。後者の方は、近代終焉後の、あるいは終わりなき終末形態を迎えた状況に正確に対応している。それをいま〈ポスト・モダン〉状況と称しておこう。

〈前衛〉と〈ポスト・モダン〉とは、80年代の文化史を読み解くうえで重要なアクシス(軸)だ。しかも両者は相互嵌入的であることによって、ひとつの時代の相を浮び上らせる。わたしたちは、高度大衆社会という得体の知れぬ時代を生きている。前衛的な突出部をも含みこんだ〈大衆〉と情報がすべてに先んじて浸透したメディア社会、システム化された管理空間とのはざまに、わたしたちは不態な生ま身のからだをたずさえながら身を横たえている。そのうえ、シミュラークルな社会へ演戯することを強いられるのだ。

演劇もまたそのことと無縁ではない。

〈前衛〉は同時代の支配的な価値意識に対して、つねに冒険的である。保守的な層に鋭く揺さぶりをかけ、価値の破れ目に着目する。これまで大衆とは、保守主義と同義のように扱われていたが、〈大衆社会〉の欲望はむしろ過激である。前衛=知識人という図式が葬り去られてから、知的エリートたちはすすんで大衆の欲望に与するようになり、〈前衛〉は存立基盤を失った。これは近代市民社会をリードしてきた時代の指南役ともいうべきオピニオン・リーダーがもはやどこにも存在しえないことの裏返しであり、普遍的な真理という近代イデオロギーが、その変質を余儀なくされていることの証左でもあろう。従来の〈前衛〉の失効がそのまま近代社会の終焉、すなわち〈ポスト・モダン〉状況に符号する所以である。

ここから、現代の演劇はいかなる方策を見い出すことになるだろうか。近代=世界を限りなくシミュレートしながら、そこに不断に生じるずれを明らかにすることで、近代の終焉を逆照射することだろうか。生ま身の神話性を崩壊させた後、身体のエレクトロニクス化、すなわち未来像を想定してみることだろうか。身体のあるいは物語の脱構築をつうじて、世界の模像を神話にまで遡行させることだろうか。

〈ポスト・モダン〉の状況は、未来形と過去形の全き共存のなかから、挟撃された現在という時間を摘出する。そしてこの〈現在〉とは、身体が〈身体〉であることに疑義をさし挟み、世界が〈世界〉であることを倒立させ、人間が〈人間〉であることに戸惑いと不安を覚醒させる、きわめて過渡的な〈場所〉を指し示すのである。

(初出:「メイ—プロジェクトPART-2」/1987)