桃山晴衣インタビュー
肉体言語誌「桃山晴衣インタビュー」(1985)
—— 桃山さんは、岐阜に長いこと住んでおられるんですか。以前、名古屋の大倉の方にもいらしてたとか、生まれは東京でしたね。向こうに行かれたのは?
桃山 父親が絵描きだったから、平均して二年に一度は引っ越しているのかな。物心ついてから二十回位引っ越している。
—— お父さんにとって、岐阜を選択する必然性があったんですか。
桃山 全部なりゆきなの。犬山——この頃は伊勢湾台風の前、まだ水を塞き止めてダムが出来ていないときで、景色が綺麗だったでしょ——に写生旅行に行ったとき、川岸に借家が空いていた。
—— お母さんというのは、どういう存在だったんですか、桃山さんにとっては。
桃山 私の革新的な部分は母親の方ね。あの人はどういうのかな、すごくおもしろい人で強烈でね。物心ついてからはほとんど対立していた。
—— ご両親とずっと同居していたんですか?
桃山 父親が自立できない人で、母はずっと父についているから、ついこの間まで、両方共が私にくっついていたのね。二年前に父が亡くなって、やっと私、今ひとりになっている。母はちょっと揺らいでいるけれど、ひとりでやっていかれる人だから。女としてなかなかの人で、若い頃タイピストになったのね。
—— その時代では、モダンでしたね。
桃山 そう、職業婦人でたいへんなものだった。ところが、〝これは何だ、機械に使われているだけじゃないか〟と思ったんですって。それでデザイン学校に入った。だいたい女学校も総代で、すごく負けん気が強くて頭がいいんですよね。洋裁も、松坂屋のものを縫ったりするぐらいの腕でね。
それで、デザインをやるんだったらちゃんと基本をやらなきゃいけないっていうんで、それにはいい絵描きとつき合った方がいいって、絵のモデルをしてたの。橋本明治なんかが描く絵は、いまだに母の顔なの、綺麗な人だから。そのうちに、なかの絵描きの一人となんとなく一緒になって、私ができちゃったの(笑)
—— 桃山さんの家系に、三味線をやっていらした人がいたんですか、どういう家系なんでしょうか。
桃山 うちは鹿島っていうんです。お祖父さんは木炭自動車を発明したり、発明で晩年は三井の重役をしていた。お祖父さんとそのお兄さんとで日本へ写真を入れたりして、目が世界に向いていたというか、やっていることがなかなかおもしろい。
大体カメラといっても、だんだんやっていくうちに鉱石に焼き付けたり、袱紗に焼き付けたり、等身大の写真を撮ったり、そのうちにとうとうレントゲンまで。魚のレントゲン写真なんかがありますよ。それ以上のことを進めたいけど、自分は事業をやっているので技師を五年ほどイギリスに派遣したりね。お祖父さん自身も、明治時代にフランスとイギリスへ、八年位行ってるんです。
—— 発想が源内のようですね。今のように細かく分かれた発明じゃなく、子供のように写真をやると、これも写してみようか、この背景を写したら何になるだろうとかね。そのへんの発想が奔放ですね。
桃山 徹底的にやるしね。もうお祖父さんの時代で西洋を取り入れるのはとことんやっちゃったから、私は日本からやったのね。お祖父さんはピアノもやっていたし、日本画もすごくうまかった。
父は父で、西洋、パリがすごくいいという人だった。暁星をでているから、フランス語と英語をしゃべるしね。絵描きの仕事のほかに、日本の歌謡の江戸初期のころのものの復元をしたり、作曲もしていたんです。
—— そうすると、桃山さんが三味線をやるようになったのは、お父さんがやってらしたから、そのまま自然に・・・?
桃山 そうね、おやじのやっていることにすごく反撥してたんだけど・・・。
—— 反撥っていうのは、どういう内容のものだったんですか。
桃山 あの人は、とにかく箸の上げ下ろしまで干渉するというタイプなのね。それに非常に頭でっかちで夢いっぱいの人だから、現実にはものすごく疎いわけ。そしてその夢を全部、私で実現しようとするわけ、だから私の中で生きちゃっているっていうことになるわけよね(笑)。で、それがどうもおかしいから、もう二十歳位のときはすごかった。
父が作曲したものにはいろんなものがあって、ポール・クローデルの「女と影」とかいろいろあったわけ(笑)。それがもうみんな、「お前のために、お前のために」って、一日中三味線弾いてるの。
父と私とは違うし、時代も違うのにね。父親のやったことをそのまま踏襲したってしょうがないわけなんだけれど、そこのところがわかんなかったんじゃないかな。
—— それで、最初に三味線を持ったのは、いくつぐらいのときですか。おやじさんが手取り足取りっていう感じで、幼な児に持たせたんですか?
桃山 五つくらいのときかな。父は絵描きでしょ、で、私が羽子板の裏なんかにびっしり絵なんか描いていると、「この子は天才だ」、母がデザイナーだったから洋服なんか縫ったりしていたでしょ、それで私も真似て一室に閉じ籠って、人形のパンツと上着を作ったのね、三つくらいのときに。そしたらまた両親で「この子は天才だ」って。そんな風にわりと何でもやっていたのね。三味線もそんな中の一つとして・・・。
うちは戦争中のときでも、近所の尺八吹ける人とか、バイオリン弾ける人とか、こっちは三味線でね、皆が集まっちゃ、ドンチャ、ドンチャやってたの。それがおもしろそうでなんとか中に入れて欲しいと思って、「やりたい、やりたい」って言って、やりだしたら止めさせてくれなくなっちゃったの(笑)。
—— その戦争中の暗闇に紛れての演奏会では曲はどういうものをやっていたんですか・・・?
桃山 おやじがね、小田原に住むと小田原の盆踊りをみんなでやるとか、そういう人だったから、各々ができるものを持ちよってやってたんでしょうね。なんとなくまとめちゃう人だったから。何をやっていたか覚えていないけど。
—— 三味線には楽譜みたいなのがあるんですか。それとも口伝えというか、手で伝えていくというか・・・。
桃山 あのね、口三味線っていうのがあってルールがあるんですよ、日本だけですけどね。
たとえば一の糸の解放絃がトンで、二の糸の解放絃がテンで、押さえるとチンになるんです。で、チチチンという風にいうと、チって、ンがつかないのは八分音符なんです。だから、チチチンっていえば、拍子が出てくる。ほとんど2/4拍子で、押さえる甲所には吟、とか言葉で書いてある。昔の物はとくに上しか使ってないから、完璧にでてきますね。
—— 見よう見まねで覚えるという風に聞いていたものですから・・・。
桃山 それが一番いいんです。楽譜は手段だから。
—— 桃山流っていうのは以前から続いているものなんですか。
桃山 私がおこしたの。かつては語り系の宮薗師(採録者註:おそらく宮薗節)という古典もやっていましたが、今は創作物を中心にひとりでやっています。
父のやった仕事の中で、江戸初期の復元曲や泥洹(ないおん)って曲は好きで、よく取り上げるけど父が作ったもので私がやるのはそれくらいかな・・・。
—— 後に残す場合、今だったらテープレコーダーとかありますが、そのときは・・・。
桃山 記録で残しても、生きてなきゃなんにもならないもの。
—— やっぱり、弾き語りをしながら覚えるという形で受け継いだわけですか。
桃山 父親は、とにかく西洋。だから西洋論理じゃなきゃいけなかったわけ・・・。
—— すると楽譜のような発想ですか。
桃山 そう、彼は五線です。それも即見でみられなきゃいけない。でも私はそれは絶対違うと思う。それだと発声から何から全部違ってしまう。たとえば五線にとった童歌を、西洋の論理で子供に歌わせると別なものになっちゃうのね。私はどうも動物的だから、そういうことは納得いかなくて。父はフランス語で西洋音楽理論なんかやったりして、「日本語に直すと、どうもまわりくどくなっていけねぇや」っていう調子でやっていた。私は、もし必要だったら、フランス語でやろうと思っていたの。日本語に直したのじゃなくてね。源をやらなきゃ意味ないからね、しかし、どう考えてもおかしいと思うのね。
それが邦楽のほうは、みんな洋楽理論でやるわけ。芸大がそうでしょ、それからNHKの邦楽育成会。ところが、その洋楽論理でやると語り物はのらないんですね。言語主体だから拍子にならない、五線にならないんです。
ところで、日本の音楽の八割以上が語り物なんだよね、だからすごく歪んだことになってしまう。私は語り系で、宮薗節なんて古典をやったから、なおさらね。
邦楽の、目をかけてくれる偉い人なんかでも〝洋楽の発声をやるといいよ〟みたいに、流行りになっている。でも絶対これは違うっていうふうに思っていた。作曲するのも、昔の人は洋楽理論でやってないわけだし。だから長い物をそうじゃなく作曲してみせなきゃっていうわけで、自分で創りました。
日本文化の取り組み方にしても、みながそうなんだよね。日本文化はダサイものだから嫌だとか、こういうものだから嫌だとか決めつけちゃっていて、じつは自分達が、そういうふうにしているのね。それでなきゃ、今度は国のせいにしてみたりとか(笑)。
—— それはありますね。
桃山 明治からこっちの日本文化が一番ひどい。それを江戸とかと、日本と混同してさ。
—— トラディッショナルなやつしかうけていないんですよね。その間を埋められない・・・。
桃山 伝統っていうのは、新しいものが出てきても、それが固定されてしまうとまた壊されて、という循環があってできている。明治からこっちは、守るだけの伝統ですものね。
—— ガラスケースに嵌め込んだような感じで飾っておく。
桃山 博物館の骨董品みたいなね、衰微してなくなっちゃうのは当たり前なんだよね。
—— そういった状況を打破するには、どうしたもんでしょうね。
桃山 今、大きな価値転換の時ですよね。ところが、一番問題なのは、たいして自分ってものをおさえないで、やたら第三世界、アジア、インドへ行ったり、いいとこへ行って取ってくるわけよね。
たとえば友達だったらさ、自分の意見を全然持っていないような人とつき合う気がしないじゃない。すぐ飽きてしまうし。ほんとうのつきあいになんないんだよね。向こうへ行って音楽を取ってくるんでもつき合いでしょ。つき合いというのは、五分五分じゃなきゃいけないのよ。へたすると、先進国だからね。一方的に取るだけじゃ、搾取ということになっちゃう。また一方で、へんに遜ったり、卑屈になったり、なんかもうだめなんだな。
ボーン(核)になるものないんだよね。今の日本民族は、ボーン作りの時代だと思うな。それがないと、表現してもインターナショナルなものにならないよね。明治人間はみんなインターナショナルなのね、まだ江戸の文化を継いでいるから。
—— そういう意味では、トラディッショナルなものを越えて、尚且つインターナショナルであることが問われるんでしょうね。難しいね、これからが・・・
桃山 うん、今、ほんとにフンドシを引き締め直さなきゃいけない時だと思う。
—— 縄文文化への興味をすごく持ってらっしゃるのは、楽器とのつながりからですか、それとも生活的な・・・。
桃山 文化とか表現っていうのはどういうもんだろうかっていうのを、今までずっとやってきたでしょ。私は、男の人みたいに難しいことを頭で考えてっていうのは、全然意味ないと、とくに生活と遊離しちゃってるっていうのが一番問題に思ってるのね。
結局、自分が表現者でいるにしても、いい在り様でいられなきゃ意味が無い、それでなきゃ、やってる必要ないものね。だから、いろいろ探してきたわけだし、ずっと探す旅なんだけれど。
一昨年、大阪の関西テレビの番組で、土取利之さんにも出て欲しいということになって、ディレクターが弥生時代の銅鐸を出してきたわけ。その一月前に洋楽の人が作曲して叩いたんだけど、土取さんだったらば全然違う音が出るだろうっていうんでね。最初は三味線に弓を使って、銅鐸と三味線でやったわけ。これがすごくおもしろかった。
でも、銅鐸っていうのは稲作の祭器でしょ、そうすると今みたいに、観客と分かれる以前の、村の共同体みんなの共有のものだったはず。で、ほんとにそういう風にやりたくなってさ(笑)。そんなことからどんどん興味が湧いてきた。
—— なるほどね、で、山で実際になさったけですね。そのへんの話を・・・。
桃山 で、どこか山の中で鳴らせるといいなって言っているうちに、槙原考古学の研究所のそばが縄文から続いている原生林だっていうんで行ってみたら、林そのものは戦後生えた林で、車の音が入っちゃっておもしろくないし、あんまり奥の方だと運ぶのがたいへんだっていうんで。すぐ側を車で通ったのね、そのとき、その山にパッと魅かれたの。〝すごい強い山ね、なんかあるの、あそこがいい〟って言ったら、畝傍山だって。
それで、畝傍山のてっぺんで観客を入れないでやることになったの、その代わりにレコードにすることにしてね。
—— 演奏は何時頃から始めたんですか?
桃山 夜中の2時45分から朝の6時まで。一番良い時間はいつか全部調べてね、方向から何から。
—— あそこの風景はわりと車さえなければ日常の時間を感じさせない瞬間っていうのがあるんですよね。耳成から畝傍をずっと歩いたことがあるんだけど、生活が出てくる音はまぁあるけど、しかし、夜だったらね・・・。
桃山 そう、夜中だから。2km半先の人が聞こえたっていうの。ふつう山の上から下へは伝わりにくい。音はこういう風に平面にいくから(身振り)だから3kmは、完全に聞こえたみたい。
—— 銅鐸はどういう風に鳴らしたんですか。
桃山 まず21個、一つは桜川六号鐸だったから、こんなりっぱなやつです。で、あとは小さいの、成分の融合比(銅、鉛、錫の)をいろいろ変えて復元したのが全部で21個。これを百日紅の銘木に、正倉院の大工が組んでくれてね。で、十角の屋形を作って、真ン中に大きいのを、周りに小さいのを吊して、それと銅鼓も使った。それから木をくり抜いたもの、これはあまりうまくできなかったけど。それとあと、ちょっと系統が違うけど、山口県の綾羅木の弥生笛と・・・。
—— 土笛ですか、こんもりとした形の?
桃山 そうです、陶器で、卵形の。穴がたくさんついていて・・・銅鼓も使ったのよ。
—— どこのものですか、古いものでしょうね
桃山 中国産のもので、緑青ふいてるけど。
銅鼓はね、すごいこう、振動が細かいの、近くで聞いても。部屋の中で聞いた場合、そんなに大きいガーンという音じゃないけど、壁にもたれると壁がみんな振動しているの。
銅鐸は、銅鼓にくらべると、ゆるい波形の振動ですね。銅鐸には穴があいてるんですが、その穴を一つずつ開けるたびに、波長が長くなるらしいんですね。銅鐸の場合も、近くで聞いてもマイクをつけたようなガンガン声じゃなくて、離れても同じ音量ですね。すごい科学性ですよ。
—— それが、3km四方くらいまで聞こえるわけですか。
桃山 弥生の集落は、だいたい3kmぐらい離れていたんだって。だから他の部落との交信にも使えたんじゃないですか。昔、ちょっと前までは半鐘でもいろいろ信号があったでしょ。もう忘れちゃっているけど、こういう時は火事だとか、こういう時は何々だとかって。
—— 葬式の知らせとかね。おぼろげながらに覚えていますね。
桃山 当時は、回覧板とか、文字がないわけだから、音がものを言っていたわけですよね。紐が下がっているからベルとしても使えるし、外側も摩滅した跡があるものもあるんですよね。
—— なるほど、そうすると叩いたということになりますね。
桃山 そう、で、これはすごく多様な音が出ます。
—— で、どういう曲をやったんですか?曲というか演奏を・・・
桃山 もちろん当時は、全く即興だったわけでしょ。で、シャーマン的な土取氏がやったから、今にあてはめれば、フリーインプロビゼーションでやったの。フリーインプロビゼーションといっても積み重ねてきた音の中からしか出てこないわけだけど・・・。
時間の経過っていうのが、非常におもしろかった。朝は変わるときでしょ、新しい生命が生まれる、やっぱり違うんです。こう、泉が噴き出すような感じで音が変わってしまうの。人間の生理もそうだし、そこにかかわったものが、みんな変わっている、大気全体が大きなサイクルで、宇宙ごと。もうすごいですよ、あの感じは。
それで、一番最初に鳥が鳴き出してね、鳥が呼応するんですよ。ポンと叩けば、ピーッと鳴く。間遠に叩くと、チーッって感じで。そのうちにジャーッとやり出したら、もう上を飛び交っちゃって、すごい大変だった。
—— そういうのも入ってるんですか。
桃山 入ってる。だから結局、木の葉の音から風のそよぐ感じから、動物から鳥まで含めたパフォーマンスっていうかな、私の一番やりたいのは、そういうものなのね。
それにそこに集まってる人も、みんな自由で開放してくれていないと(笑)、成り立たない世界なの。いつも演者だけに、全てを要求した時代が長かったんだけど、一方的でとてもおかしいと思うのね。
私、いつも最近の観客が気になってね。つまり、人間誰でも声も出せるし、体も動かせるし、トランス状態にもなれるんだよね。お百姓さんなんか、そういう風に一番なりやすい人達で、自分の手とか体を使って人間がものを創造していたことは、みんなそういうものを持っていて、そういう人達が一つのパフォーマンスをやったわけでしょ。それが今、観客の方にないから、すごくやりにくいのね。お客の方が、声も出せないんじゃあね。
—— パフォーマンスということが出たので、ちょっと伺いたいんですが・・・。
三味線の持っている世界というのは西洋の楽器と比べて、パブリックな世界より非常にプライベートな空間に合っているような木がするんですね。こちらの独断なのかもしれないんですけど・・・
桃山 それは明治からこっちの方ですよ。もともとは三味線は、まず男が弾いたものです。それが後に、いわゆる邦楽っていう風に(邦楽っていうのはマスコミ用語で、最近、マスコミができてからできた言葉だと思うけれども)呼ばれているものは、中央の音楽ですよね。これはほとんど劇場音楽です。舞踊とか芝居とくっついているもんです。部屋の中の楽しみになったのは明治からこっち。
じょんがらは違うでしょ、沖縄も違うでしょ、阿波踊りも違う。みんな外で使われているのに一般のイメージがそういう風になっている。
—— 観客とその交流という点では、むしろ拡がりの中でやるような、わりかし近い他人っていうか、私的な中でのコミュニケーションの道具としてかえっていいんじゃないかという気もするんですよね。
桃山 私的な中っていうのがまたね。
でも、音楽っていうことで云えば、共通の基盤を持った間にしか伝達されないですよね。
—— 質的にもう少し密度の高い観客を集めてその中で、いわゆる密度の高いコミュニケーションをするなんて場合に、かえって向いてるんじゃないかって気がするんですね。聞いていて、そんな感じがして・・・、場所もあんまり広い所じゃなくて。
桃山 それは何の場合にもいえるんじゃないかしら。素材がドラムなんかの場合でもそうです。
一つの部落というか、人間集団は、40軒なら多い方なんですよね。農耕社会っていうか、人間の営みは、日本の他でもほぼ同じだと思うんです。小さな所なら2軒くらいからあるわけだけど、海岸端の部落なんかでも12軒くらいとか、40軒っていうのは大きい方ですよね。で、そういう所の一つずつが、祭などをもっててその中でやってるわけだから。
大道芸にしてもそんなに広い所でやらないでしょ。拡声器は使わないし。みんなで取り囲んでできるのは、せいぜい100人ぐらいじゃない。盆踊りの輪なんか、そういう輪がいくつもできるっていうやり方でしょ。周辺の村々の人達が集合してくるような、今でいうと地方都市というところでやられる場合でも。
そういうことで云うと、コミュニケーションできる範囲はギリギリ100人まで。30人ぐらいが一番いいと思ったんです。この単位は変わらないね、どんなに時代が変わっても。何万人ものところでやったら拡散するだけです。それに一方的にならざるを得ない。
—— パフォーマンスということの中で、コミュニケーションの質を考えると、どうしてもそういうやり方になってくるんじゃないかという気がしますね。
桃山 人間社会は、農耕を始めてから定着ってことがおこってくるでしょ。どこまで遡ったら一番理想的かということがあって、で、銅鐸に興味を持ったりしたんだけども。銅鐸なんかだとまだ自由な感じがする。たとえば日本の太鼓、和太鼓は武道の型になっているそうです。だからそれでリズムが全部規制されてしまう。そうなったのは儒教が入って来てからとかいわれるけど、武士が天下を取って男社会になってから規制された。音も生活の仕方なんかも当然変わってきていると思うわけ。で、そういうものをやっぱり打ち壊していかなきゃいけない。いいものを作っていかなきゃいけないわけでしょう。表現者でありたいと思うと、そういうものから作っていかないとできないわけよね。
—— 祭りには、わわしさというか、猥雑さっていうか、そんなものが古式として残ってるんじゃないかと思うんですよ。
たとえば、ふる里の岡山県に吉備津武彦命っていう神社があって、古い石の鳥居には艮宮と書いてあるものがあるんですが、その艮宮の本体は、実は吉備津武彦命にやられた鬼なんだという俗説があったりして、その鬼が割と大事にされているんです。で、有名なあの御釜殿の伝承とかはその鬼を鎮魂するためとか、宥めるためであるんですが、私が子供の頃は青年団っていうのが頂度あのナマハゲみたいに、長い袖の女のベベを着るんです。で、その人は無礼講で長い棒を持って、鬼の面というか、般若みたいな面をつけて、女の子を追い巡してもいいというのだったんです。私は皆と一緒にああいうお祭りには参加したくないんだけれど、商事の端からその調べにひかれることには、大人の、男と女の世界であることもあったけど、昨日までくそ真面目な顔をしたお兄さん達が違う人になって変身したような社会である、という強烈な印象があるんですよね。裂け目っていうんですかね、それは確かに眺いたっていう記憶が・・・
桃山 結局、人間は誰でもね、その虚実両方の世界に行かれる(笑)。田舎の生活のいいところだけみれば両方あるでしょ、一年の中に。都会の人間はそういうことがわかんなくなってるのね。
だから、私が一人で三味線を弾いて唄を歌っていると「一人で大変ですね」って。そうじゃないんだよね。皆がもっと溶け込んでくれれば一人じゃなくなっちゃうのよね。すごいワーンという世界に転換しちゃうの。虚の世界に。ところがなかなかそうならないんだ。「梁塵秘抄」の時には、京都だと山の頂上の船岡公園音楽堂でやったり、嵯峨野の釈迦堂に櫓を組んでやったり、加茂川の川原でやったり、それからいつだったか有名なお寺の縁台の上でちょいとやったりとか。ずーっと歩いてどこでできる。京都はわりとお寺なんかも一般に開放してるでしょ。東京なんかは、全然やる所がないのね。
—— そうね、そういう意味ではちゃんと塀があって、門が閉まってるものね。
桃山 原宿の日曜天国で、一人で行って演ったらそこにワッと別空間ができる、っていう風であって欲しいのね。
ところが、まず違和感を持ってみるか、あるいは意図して作らないとみたいなことになっちゃったでしょ、日本人て。これは問題だと思う。新しいことはすごくやりにくいね。
—— パフォーマンスをやるっていうと、みんなそこを考えますよね。どういう風にしたらいいかって、ほんとうは何もしないでスッと入りたいんですけどね。考えざるを得ない状況になっている。
桃山 もう作ったら違っちゃうんだよ、一方的になっちゃう。自然と人とも感応し合ってみんなでつくりだす空間でしょ。
不思議なんだけど、みんなの気が解放されてワーッと、そういう無の状態になると三味線も鳴るの、カラッと転換するんだよ、不思議だね。そうなると、もう声が出ないとかそんなこと関係ないわけ、ボォンという空間になっちゃう。「すごかったですね」って言われる。私がすごかったんじゃないの、みんなで創ったんだけどね。ただ坐って歌っているだけでもそういう風になるんだけどもなぁ。
—— 語り物ですが、それはずーと長く演るんですか。
桃山 「婉という女」の最初が53分。
—— 大原富枝の原作ですね、それをちょっと聴いてみたいと思ったんですが・・・。
桃山 喋べりばっかりですね、ふつうの喋べりです。
—— どんな具合なんですか、文章を地のままやるんですか、それとも直して?
桃山 創ったんです。
—— 文章としての表現と、語りとしての表現とではかなり違ってくるでしょ、そこには当然、自分なりの選択があるわけでしょう?
桃山 IBMが出している雑誌「無限大」に<音の復権>という特集があるんですよね。これは私のやってきた〝お晴会〟で芯になってくれてた人が編集していて、ずっと討論してきたことが盛られている中身なんですが、何年もかかっています、ひと口には言えない。
日本語と音との関係、それから芸能とは何かとか、やっぱり随分とやり合ったな。それでNHKのドラマ作っている人に書いてもらった、全部仲間です。
「婉という女」に至るまで、その前に「雪女」を創っている。これは話芸と語りを意図して、桂小文枝っていう上方の落語家、彼はもう少し若い頃ってとっても良かったのね、その語りを耳にして作ったの。
「婉という女」では、全くふつうの喋りまで、語りを持ってきてしまったの。「婉という女」はとくに評判がよくってね、今はみんな良いって言ってくれるけど、最初はもうカンカンガクガク、ケンケンゴーゴーというか賛否両論真二つに割れるような感じだった。
—— すると、弾き語りですか、弾きながら物語っていくの、楽器を止めて物語ってということも含めて・・・。
桃山 構成は、喋りと詩と、喋りと詩とって順で、その喋りもいろんな実験をしたの。流れのある喋りもあるし、バックミュージックをやりながら喋るのもあるし、ほんとに当たり前の日常的な喋りに戻してやっちゃった。音はそんなに多くない。
—— そのほかに何か語りのようなものは。
桃山 演歌かな。自由民権思想を啓蒙する為の明治、大正演歌。これは歌謡曲のルーツになるわけですが、庶民層から起こった一番新しい音楽の流れです。
演歌の創始者・唖蟬坊の子息の添田知道さんと長岡へ遊びに行ったら急に公演をすることになって、彼が講演して私が演歌をやったの。その時、古いものやるとみんな知らないわけよ。いわゆるレコード産業とラジオができてからのものはみんな知っているの。あとで聞いたら演歌師は、あの土地には入ってなかったとかね。実際に演歌師が何処と何処に行っているかも調べたの。伝播の仕方というか、どういう風に歩いてるかっていうのを。
そこで自分が実際にやってみていくと、土地によって反応のしかたが違う、大阪など、バイオリンがついてからの演歌に親しんだ人が多いから、非常に情緒的なものが演歌だと思い込んでいて、そういうところで硬派なやつをやると、とてもやりにくかったしね。
荒畑寒村さんの生誕会なんかでやると、実際について歩いて演歌を生み出していた連中だからさ、彼らの中でやると「イイネエー、君のはいいよ」っていわれるわけよ。革命歌みたいなのをやるとね。ところが大阪なんかでやると、同じ物をやっても、お嬢さんがしりぱしり折りで雑巾がけしているみたいなことになるわけ(笑)。お客のイメージっていうものが固定されちゃってると、どうしようもないってことがあるんですよ。これは、さっきの共通基盤がなければっていうようなことと重なるんだけど。お客と私のやってることとが一体化しないんだよね。
—— 今後も語り物は手がけていかれますか?
桃山 語り系統では、近松をやろうと思っているの。近松は、シェークスピアに匹敵するでしょ、日本の中では。これは「ヒョッコリヒョータン島」をやったりした<人形劇団ひとみ座>の宇野さん——人形劇のほうで非常に造詣の深い人で、尊敬している人なんだけど——からの話でね。
第一段階として、信貴山縁起の絵巻物(絵巻物だったらくるくる変わるでしょ)を作ったんです。で、色のついた動く影絵でやったの。
そして、その後は、東北のオシラサマをやることになっているの。あれだと小さな〝でく〟だけだから、小さな所でもできるでしょ。そのために、オシラサマの口説きから、恐山の夏の巫女の口寄せの初日なんかに行ったり、東北を歩く時には、その土地によっての違いをみたりね。それから仙台に奥浄瑠璃があるというので、そのテープを集めてみたり、そうとう進めているんですよ。
これは「梁塵秘抄」をやるまえからの課題です。「梁塵秘抄」も、中身はもう語りみたいなもんです。
—— 「梁塵秘抄」を詳しくは知らないんですが、各々歌があるでしょ、その背後にはやっぱりストーリーがあったりするんですか、あるいは一つずつ単にピックアップしたものなんですか。
桃山 短い歌なんですよ、当時の流行歌ですから。私が一番気に入ってるのは、一般の庶民が歌ったと思われる七五じゃないもの。定型じゃないにもかかわらず、歌ってみるとすごく作り易い。これはもう、言葉として音と完全にくっついているものなんですね。たとえば、こんなの知ってる?
恋い恋いて
たまさかに逢いて寝たる夜の
夢は如何見る
さしさし きしと
抱くとこそすれ
セックスそのまんま。これ、古代社会の終わりだからね、その表現の仕方にしても、うんと自由で拡がりがある。
室町になってしまうと、もう私と貴方の二人の世界みたいになってくるわけ。普遍的な性そのものを、讃歌してる感じじゃなくなってしまう。
で、江戸になると、ヤツレサセタハワシユエニといった風に、ずっと屈折してきてしまう。
明治からこっち、最近の歌が、いいのがないね。歌謡曲にしても、貴方について行きたいというような歌ばっかり、貴方好みの女になりたい(笑)とかね。
時代に依って、同じ男と女の表現でもそれだけ違うのよね。表現の中身だけじゃなくて、言葉。「梁塵秘抄」あたりだと非常に直接的で、抱くっていうでしょ。それにオノマトペがとても綺麗ね、擬声音が。オノマトペの問題もこれからやりたいと思っている。言葉以前というか、一つの一音に、もう意味があるというものを。
—— 語り物の難しさっていうか、作るときはどんなことで苦労しますか
桃山 だいたい日本の音楽そのものが、全部物語性なのね。
外国の文化を入れた時には、外来の音に日本語をくっつけているから、イントネーションがめちゃくちゃになっちゃう。明治維新からこちらでもそうだけどね。日本という国は、ある時期に大きい転換をして、単一の巨大な国からの文化を入れるでしょ、それから数百年はコピーする時代が続く。明治からこちらは、百年で西洋をコピーしてしまったんだけど、それでコピーができてしまうと、今度は独自のものができてくるんだけれど、それがみんな物語りね。
言葉を使っていない楽器だけのものは少ないというか、ほとんどないわけ。ところが、自分で楽器だけで作ってみても、物語的な音楽構成になってくるんですよ。っていうのは場面、場面で転換していくっていうか、同じモチーフを繰り返さないで、一度流れ出したらずーっと交換していく。あの縄文の文様みたいなもの。表の模様を追っていくと裏までずっと流れになっていて、ずーっと変わっていくみたいな。私、これは特徴だと、日本の感性のいいとこだと思っている。いわゆる、統制されたリズムシステムとか、音楽論理っていうものじゃないの、ないんだけど探していくと、別の論理といったものがあるような気がして。そういうことで最近は、言葉のないものにも大分興味がでてきたから、楽器だけの曲も作っているし、それで即興も考えています。
語りでは、近松の持っているボーン(核)の大きさみたいなもの、あの前後も興味を持ってやろうと思っている。やっぱり言葉と語り物は、私がメインにしてきたものだから。
—— やっぱり語りをやっている人は少ないですからね。一つの価値もあるし、パフォーマンスとして意味あると思うんですよね。これから完成があると思うんです。
ところで瞽女唄っていうのは。
桃山 長岡でしょ、あれは。音楽としては、喋っちゃう間に手を入れていくからそんなに高度なもんじゃない。
—— あれも語りですよね
桃山 そう、鈴木主人とかね。
—— 近松の場合も、語り口というか、文体っていうか、それをもとにしてそのままやるわけですか。
桃山 わからないの、どういう風にするか。結局、今の自分が先へ進むためにやるんで、どうなるか全くわからない。ずっとその世界に入りこんでいって、発表する段階っていうのも過程ですよね。とりあえずの〝今〟でしかない。
たとえば銅鐸やって、いろいろおもしろい発見があったのね。あの雲南系の民族がみんあ三絃持ってるの。三味線って琉球からきていて、琉球は中国から。その前はチベットとかイランとか、古代エジプトのネッフェルまで辿れるって、これ田辺説なのよね、他にも説があるんだけど。
ところが、銅鐸をやってみて、日本へ稲を持って来た民族が三絃を持っているでしょ。発見だったわ。アシ族なんて歌垣も三絃なの、男が弾いてる。ボルネオなんか、シャーマンが三味線を弾いている。モンゴルのシャンズと雲南と(雲南は呼び方が土地によって違うみたいだけど)、中国の三絃と同じ系統だなんていうけど、実際に歩いて行ってみたわけじゃないから・・・。
—— 三絃っていうのは本質的なんですかね。
桃山 一番最初はまず、一絃弓を使ったの、弓に発音機をつけたりして。縄文でも多分、狩猟に行く前の儀式、祭りなんかはブンブン鳴らしてたと思う。それが二絃になって、是川には二絃の琴があるの。縄文ばっかりの資料庫で、そばでみたのね。はっきり絃の跡がついている。箆状木器ってことになっている。
ボルネオの三絃は、日本へ呼んだ人が言っていたけど、これは二絃から三絃になったものだって。
—— 一絃から二絃になる時は、革命的な何かがあったわけですか、武器としての弦、最初は武器でなければ、そういう鳴弦たり得ないんでしょ。
桃山 五感の話じゃないけど、生活と文化と全部、作動し合っているから、これは武器だというような考え方は近代の考え方でね・・・。
—— それに対して、ちょっと異論があるんですが、確かに五感だけれども、一種のメタファー性っていうか、空間なら空間に参加する場合、絶対に欠かせない資格というものがあると思う。かなり具体的な裏付けの意味があると思うんだけど、例えば中国にとって、銅鼓を使っていた人間は南方にいたわけでしょ。南っていうのは、憧景の地であると同時に、野蛮であるような。そういう南に対する一つのイメージなり、南方民族の存在なりが、銅鼓というものの中にないまぜにされていると思うんですね。弦の場合には武器であるというようなメタファー性が。
桃山 逆にいうと、音楽とかパフォーマンスっていうものは、もっと生活に密着しているからないわけですよ。
それでその移行の仕方ってことでいえば、アフリカの太鼓でいえば壷だったか、桶だったか、その上に濡れた皮を干しておいたらくっついちゃって、叩いたら音がしたから太鼓になったとか。縄文でいうと、八ヶ岳の有孔鍔付土器なんていってるあれば土地へ行ったら、完全に醸造器っていうんですけど、絶対太鼓だっていうんじゃなく、両方に使われたかもしれない。太鼓に水はつきものだから、わざわざ皮を濡らして叩いたりするでしょ。そしたら、酒を作った器で叩いて、それで蓋を取ってみんなに分配して。酒も神と交信する為の飲み物ですよね、今みたいに年中飲みわけじゃないから。それで跡またかぶせて叩いていたかも知れないし、どういう風にだって考えられるわけでしょ。それを今の学者は分離してしか考えられない。日常雑器みたいなんで、穴があいたのもあるわけですよね。その日常雑器みたいなものから、やっぱり移行して楽器になってきているし、そういうプロセスみたいなのは身近なところから、当り前にでてきているしね。
—— そうすると、楽器っていうのは本来あるんだっていうような考え方は間違いなんでしょうかね。
桃山 楽器って云い方をするとね、これが誤解のもとになるんだナ。音楽というのは、明治からこちらの用語だからね。古代はそうした音楽はなかった、鳴器だと思う。
—— で、楽器というか、鳴器ですね、それが、独立したものになってしまうというのは、文化の一つの堕落だとも思うんです。
一つの生活の具としての有用の中で、有用を果たしているが故に、もうひとつ違う背景を持ちながら、鳴器としてのみ機能するというのは、そういう連関したものを失って音だけ鳴るんだと、それだけが抽出された時というか、そういう文化は一つの堕落を経験するんではないかと思う。弓であると同時に鳴器であるという時代は、すごく豊かな時代だと思う。
桃山 堕落というか、それが日本だけではなく人間の、人間社会の構造の組織化が進むと変質してくる営みの過程でもあるわけでね。
—— だから、進化っていうか、豊かなものの存在を忘れて、次の段階へ移行してしまうようなところがある。
桃山 同じ縄文でも、土地によって全然違うからね、鳴器みたいなものがない所もある。だから、どれがどうっていう風に断定はできないし・・・。
たとえば、どこまで遡るのかっていうのは今はわからないけども、やっていくと旧石器のような、ほんとに石しかない時代にすごくひかれていく。土器もないような時代の方がピュアな感じがしてくるわけ。土器を作った時から、もう文化にある既成ができているってことになるわけでしょ。
ひかれていった過程というのは理屈以前なの。なんにもない石ばかりのところに、どうしてそんなにひかれるのか、全くわかんないんだけど。今、新しい価値基準っていうか、パフォームのやり方まで、根源から考え直して作っていかなきゃいけない時だからね。既成のある物に対立してってことじゃすまなくなっている。それで、そこまでいってしまうんだけども。
とにかく、銅鐸やるだけでも大変です。
—— そうですね、それは一緒のことかも知れない、関連してくるからね。
桃山 それが、三味線で新しい唄を作っているっていうだけで、すごいことらしいですね。なにしろNHKの古典芸能班からクレームがついたの(笑)。一番なんでもないと思われることがね、何か生み出そうとすると、日本人は宿命的っていえるくらいに、大変にいろいろやらなきゃならないでしょ。日本の音楽家は不幸だと思うけど(笑)。
—— でも、おもしろそうですね、そういうの。語りの方は、それと含めて続けていくわけですね。
桃山 そう、最近は語り、三味線、やることいっぱいあって困っちゃうのね。
三味線は、今年のスタジオ200はまだわかんないけど、三絃だけでやってみようかなとも思っています。雲南からチベット、ボルネオあのあたりだけでも相当なものでしょ、それに江戸初期のころなんかもあるしね。
—— 話が前後するんですが、さきほど言われたアシ族っていうのはどの辺の・・・?
桃山 雲南省のなんとかって言ったところのイ族の系統だと思う。ここは、リズム民族みたい。言語の方が主体になっているように感じてるんだけど、アシ族は大三味線をリズム楽器で使っている。
—— 日本人は、リズムは何で作っているんですか。
桃山 日本人は全部、言語で解釈してしまう。昔の三味線の解説書を読んでると、音って書いてなくて、声って書いてある。虫の声っていうでしょ。そういう好みの音ばかり残っているみたいね。
また、その言葉の世界が独特なのは、フランスで暮らしたりするとつくづく違うなと思うんだけど、日本向けの原稿が書けないんだよね。向こうの論理で暮らしていると、日本語が使えなくなっちゃうくらい、違うの。日本語は、イメージの積み重ねというのかしら、そのイメージをある程度積み重ねると、ポーンと飛躍する。飛躍の美しさみたいあな、向こうから、これを何かにはめようと思ったら、シュールとかになるんだろうけど。日本独特の構造だね。これは模様もそう、絵画なんかもそうかも知れない。全然違うものが同居している。だから向こうで凧をあげるっていうと、蝙蝠とか、鳥とかそんなのしかあげないの。日本だったら奴凧とかって、人間でも空を飛ぶじゃない。向こうは人間は空を飛ばない(笑)。
きちんと1プラス1は2っていうような論理があって構築されていく世界で、それを壊すとシュールとか前衛ができるらしい。
—— 本来はそういう意味でシュールレアリズムとかが出てくる。日本人の場合は、はじめから飛んでいるところなきにしもあらずで。
桃山 ところが日本文化の特徴って、目の醒めるような新しいものを創造するっていう民族じゃないよね、真似をするのはうまいけど、初めは真似から自分達独特のものにしていく、でもそこまでいくと非常に変化がなくなってくるということがあるよね。
そのために全然異質のものを受け入れる時代っていうのが必要なんじゃないかなって、これも一つの循環だと思うの。
それに構造そのものがやっぱり異質のものを受け入れるように出来ている。たとえば一枚目のレコードで、私、坂本龍一とシンセサイザーで弾くでしょ、あれも自分にとっては日本音楽っていうか、日本文化の文法に従ったまでだったんだけど。歌舞伎の幕合いにしてもそうだし、音楽も場面進行するみたいなやり方になっているから、その間をひとつ切ってね、たとえばロックを入れてもおかしくない、そういう構造になっているわけ。すごくポップなことができるような構造になってるわけよね。昔は同じ民族同士でも、そういうものを駆使してやっていたみたいね。
浄瑠璃っていうのは全部、人の名前が名称になっている。宮薗さん、ちょっと時代が変わっちゃうけど義太夫さん、一中さんとかがいるとするでしょ、そうすると同じ歌詞で、各々自分にいいように作る、自分の表現の仕方で作るじゃない、「桂川」なんて五人の人が作っているからね。場面場面を交換してやり合うの、舞台のこっちとあっちで。そうすると全然違う色になるから、同じ浄瑠璃がすごくおもしろいのね。宇崎竜童が、〝曾根崎心中〟をやった時にも、間の二場面くらいに私がはいったら随分立体的になるのになって思ったけど、そういう構造になっているの。それで、外国のものも入れられるのね。
—— そういう意味で成熟してきた時に、何かちょっと遊びが入ってくるときがあって、演歌とかもそうだと思うんですけど、行きつくところまで行った時に、並びの要素で交換とか、繋げてみるとかね。
桃山 明治以来、富国強兵から工業国日本までと大きな転換をしてきて、そしたら民族としての文化の基盤になるものを大方失ってしまったわけでしょ。そういうガチャガチャの世界に暮らすのは、何となく居心地悪くてそれが私にとってはすごくハングリーなのね。そのために、落ち穂ひろいのように文化の基をひろい集めている。そういうものを探そうとするパワーみたいなものも大きいみたい。一般がもう少し、そういうことを感じてくれたら素晴らしい、また新しい文化が出てくるんじゃないかと思うんだけど。もう少し認識してもらうとね、実は今薄氷の上に立っているような繁栄でしかないのだし。
—— でも、そういうハングリーさっていうのは、やがて態を成すんじゃないかな、そうでないと、もう何もないかも知れない。
桃山 わりと今、おもしろい時期ね。それと今までとはっきり違うところは、人間社会始まって以来の歴史を、全部見通せる地点にいることじゃないかと思う。観られるんだよね、明治の人は観ていないものね。鳥居龍蔵なんて、後の考古学、民族学に重要な仕事をした人だし、ヒューマニストなんだろうと思うけど、自分の祖先の地かも知れない雲南を調査して、「蛮族の棲息する地也」なんて書いてあるもんね(笑)。少くとも、私達、どんな人でもそういうイメージは持たなくなったものね。やっぱり時代の影響っておそろしいと思うの。アイヌに対しても、皇国史観にしばられているから、同じ民族かどうかっていう疑問も差しはさめないし、異民族だということで片付けてしまうみたいな流れがずっとあるわね。そうしたことも今、全てがあきらかになってきている。
(初出「肉体言語」Vol.12/1985)