特集 六十年代前後をふり返る(3)
私の新劇解体史
竹内敏晴
私にとって新劇運動が解体して、演劇の本質を問いつめてゆくうち「からだ」の問題にたどりついた内的な過程は—たとえばリアリズム演劇と呼ばれてきたものの構造的な誤りとか、ことばは話者でなく相手のからだの地点において成り立つことの発見とかを含めて—『ことばが劈かれるとき』(思想の科学社)にあらまし書いたので、ここでは外的な状況に則して語ってゆきたい。
私の場合は、やはり「ぶどうの会」の解散の意味について触れておくべきであろう。一九六四年の当時には、戦前のプロレタリア演劇運動以来の思想的伝統を継いで団結を誇っていた新劇団が解散するなんてことは考えられないことだった。新日本文学の編集部にいた津野梅太郎がかけつけてきていきなり、「ああぶとうの会に入っとけばよかった」と言うから「何故だ」ときくと、「劇団の解散に立ちあうなんてのは千載一遇のチャンスだからなぁ」と言ったのを覚えている。だがこれが戦後新劇の弔鐘だったことが間もなく明らかになる。一九六〇年に、訪中劇団として五劇団が行っている。文学座、俳優座、民芸、東京芸術座、そしてぶどうの会、という具合だったし、主導者は戦前から芝居をやってきた山本安英さん、民芸と掛け持ちであったが既に亡くなられた岡倉志朗さん、それから木下順二さん、木下さんは戦後の新劇界のある意味でホープだったから、ぶどうの会は一応大劇団なみにみられていたことになる。ところが実はスタニスラフスキー・システム、ひいてはリアリズム演劇の研究会で、最後まで劇団とは名乗らなかった。たとえば木下さんが「夕鶴」を書いて、それを岡倉さんが演出して、山本さんが主演するという形が経済的基盤になっていて、その廻りでいろいろ実験的なこともやっていた。その意味では、文学作品としての戯曲があって、演出家がいて、それに主演女優がいて、あとは廻りに有象無象の若者がいる、というヒエラルキーができていた。
プロレタリア演劇とリアリズム演劇とを意識的に区別すると、ぶどうの会は前者を戦前から正統に引継いでいたというより、むしろ後者の正統な嫡子であったといえよう。戦前の新劇の理想を非常に良心的に受け継ごうとし、また発展させようとしていた。若い連中もそのように思っていた。プロレタリア演劇にしろ、リアリズム演劇にしろ、戦前からの新劇団の理想として、民衆の演劇を創造しようという大きな目標があったが、その他にも経済的自立、つまり芝居だけで食っていけるようになりたい、という目標があった。単純にいえば、戦後もこの二つの目標を抱えていたのだと思う。後者の目標は、戦後しばらくしてラジオやがてテレビの発展で変則的ながらほぼ達成され、俳優座にしても民芸にしてもある程度の観客動員組織に支えられ、商業的にも成り立つようになった。
ところが前者の目標は、一九六〇年代にほぼ死滅したといっていい。新劇のテーマは戦前戦後一貫して変わらず、「近代的自我が、封建的社会関係といかに斗って成長し、それを越えていくか」であったといっていい。ぶどうの会もそれを正当に受け継いでいた。今の若い人達には信じ難いことだが、六〇年安保までは新劇団には共産党信仰があって、代々木の文化部があらかた取り仕切っていた。その状況に対して若い連中の間に不信感が生じてきて、芝居のテーマの持ち方にも影響してくるようになった。たとえば福田善之がその時期大きな意味をもったのは、そういうことに対する非常に尖鋭な感覚にあった。福田の「長い墓標の列」を私が五八年に演出したが、ぶどうの会の内部に厄介な亀裂を持ち込むことになったし、さらに六二年、宮本研の「明治の柩」を上演することになるが、これが結果的に「ぶどうの会」解散を準備したことになった。内容からいえば、田中正造をその弟子達が批判する、とにかく議論ばかりやっている芝居だった。ところが、師を弟子達が裏切るということがどういう意味をもつかということをあれこれ詮索され、物議をかもすことになった。たとえば、共産党内部における戦前の指導者達に対するアンチテーゼと捉え、ぶどうの会内部においては、木下さんとか山本さんに対する若手の批判という具合にそれがダブって捉えられることになった。そのころニューレフトという言葉が流行っていて、私自身の意識を超えて他人からはそのように見られ、回りでそういう状況がどんどん進行していって、ついにぶどうの会の解散というところまでいってしまったといっていい。
「ぶどう」をこわしたのは竹内だ、とそしる側からも、ほめる人からも一様にいわれたが、私としては非常に不本意というより縁遠いことばであった。というのは、自分はぶどうの会というものの内容を創ってきたひとりの人間である、俺がこわすわけはないじゃないか、という意識が強かったからだ。解散のしばらく前、宮本とか福田とか高山図南雄とか、当時の若手が集まって会議をしたとき、「竹内が先頭に立って、木下、山本を批判しなければだめだ」という意見が強く出てきたことがある。その時私は随分考えた末、「それを俺がやらなければいけないだろうし、他の人がそれをやることは多分できないだろうと思っている。けれども、自分はぶとうの会というものにただついてきたつもりはない。たとえばリアリズム演劇といっても木下さん、山本さん、岡倉さんが一生懸命考えてきたことに、私はただ理解してついてきたとは思っていない。自分も一緒に必死になって考え、演出部として働き、ぶどうの会を創り上げてきた。自分が木下、山本を批判するのはいい、だけどその竹内を誰ががまた強烈に批判する、という二重構造を作り出さなければ、俺の批判自体がにせものになると思う」、という趣旨の意見を述べた。皆、シーンとしてしまったという記憶がある。やがて定村忠士が「これはフルシチョフ批判の問題ですよ」と言い出したので私はキョトンとしたが。
私は自分もぶどうの会を創り上げてきたと思っていたし、そこで骨を埋めるつもりでいた。どうしても志が指導部に理解されぬと判った時、私は退会届けを出した。ところがそれに対して、総会で執行部は除名宣告をした。そこで「話が違う、竹内は退会するといっているのに、除名とはどういうことだ」と若手が一斉に反発して、すったもんだになってしまった。その半年前位に除名に関する規約が出来ていて、私は以前の苦い経験から、「正会員野場合、ひとりでも反対者があれば除名は成立しない」という一項も設けて承認されていた。つまり、執行部が規約違反を犯していたことを指摘されて、さらに収拾がつかなくなってしまった。結局私が退席していない間に、山本さんが会さんを宣言した。反対側の人達も驚いたらしいが、山本さんの立場からすればつぎのようなことであったのだろうと想像する。ぶどうの会というのは正式にいうと、「山本安英とぶどうの会」という名称で、山本安英を中心にした一研究集団という形態をとっており、したがってある意味では山本さんに代表権というか、所有権のようなものがあるということにもなってくる。そこまで話がもつれると、もう泥沼でなにがなんだか判らぬ内に終わりと、これが大まかな経過である。私にとっては私自身の崩壊に他ならなかった。
当時は政治的な混乱が拡がっていた。たとえば、訪中新劇団が向こうで共産党に迎えられ、どんな困難があっても共産党を中心に闘い抜いてもらいたい、などと言われる。一方中国もスタニスラフスキー・システムを学んでいたことも調べて知っていたので、それが今どのように発展しているか伺おうとすると「いや、それは関係ない」という話になる。帰って少し経ってみると、ソビエト共産党と中国共産党がけんかしている真最中に私達は行っていたことが判ってくる。戦前からの新劇人たちは手痛いショックを受けて右往左往するといった具合で、共産党の文化政策は間違うはずがない、という戦前からの信仰のようなものがグラグラと崩れ始めていた。それを若い連中が鋭敏に探知してつっ走った、ということがいえよう。そのことの意味が、六〇年代の中頃になってはっきりしてくる。たとえば、木下順二は本をほとんど書けなくなってくるし、民芸も俳優座もその頃には、戦前からの名作の再演ばかりを上演しているということになる。新劇がずっと闘いながら培ってきたテーマが、高度成長を遂げる資本主義の発展に追い越されてしまい、それに代わる新しいテーマを見つけることが新劇の方法ではできなかった、ということだろうと思う。その意味では、商業ベースで劇団は生き延びているけれども、戦前からの新劇というものは、内容的にはそこで死んでいることになる。その後悪戦苦闘していたのはいわゆる前衛劇とかアングラとかいわれている連中であって、それがどんなに泡沫のごとくであろうが、まとまった作品を生まなかったであろうが、私の目から見ると六〇年代以後の演劇というものは前衛劇でしかなかったと考える。
他の劇団の人達が、若い連中は竹内の回りに集まって新しい劇団をつくるだろう、という言い方をしていたのを知っていた。しかし私自身が劇団をつくるということは、先で述べたようにあり得ないことであった。私としては必死になって何かを創ろうとして、しかも岡倉先生が亡くなられた後でぶどうの会は二回も分裂するのだが、その後を引き受けて演出部をとりまとめながら、なんとかして新しい集団にもっていきたいと思っていた。そしてやっと「明治の柩」によってその可能性が見えてきたところで解散になってしまった。自分としては新しく動き出すというよりは、もう自分は一旦そこで終わったという感じが強かった。事実、私はぶどうの会解散直後は何も考えていなかったので、収入は一文もなく、しばらく苦労が続いた。
回りの連中は早く芝居をやろうといってきたが、私は全然動けなかった。高山の演出による紀伊國屋ホールでの三本立、次の和泉二郎の演出による「物理学者」、これも私がぶどうの会時代から目をつけていたものだったが、人に譲るという形になった。その時、ぶどうの会の養成所の生徒たちのグループ、たとえば麿赤児とか谷川俊之とかさきえつや、堀内博という連中も加わって、一つの集団を作ろうという話になった。竹内はどうするか、ということになって、私は大分考えた末、何ができるか見当もつかない状態であったが、とにかく参加することにした。というより正確には皆について行った。
ぶどうの会の解散は、他の人にとっては次へのステップになり得たが、私にとっては全くそうはなり得ず、したがって自分が歩き出すとすれば、どうしても今までの自分を捨てるか、壊すしかない、というところへ来ていた。この時の仲間に坂本長利や伊藤惣一がおり、美術・朝倉摂、照明・立木宣彦の二人がとことん一緒にやってくれた。そのうち、椎名輝彦の「僕たちはベトナム戦争のことを話しているんだ」というかなり破壊的な芝居を和泉が演出した。これは今まであまり話題になっていないが、作品としていいとか悪いとかの問題ではなく、それまでの芝居を徹底的に壊しているという意味で私にはひとつの刺激になった。秋浜悟史もこれを観て、怖いものを感じたと言っていた。とにかく毎月一日から一〇日まで公演。あとが稽古。それを一年間休みなしにぶっつづけるという凄まじいスケジュールをやりぬいたのだから無我夢中というところだったが、年が明けて、秋浜の「冬眠まんざい」を演出するというところから、私が自分で初めて動き出したことを実感した。「冬眠まんざい」は今でこそ秋浜の代表的傑作になっているが、発表された時には何の反響もなかった。演劇時評にしても、一緒に載った他の作品は取り上げても、これについては一言も言及されてなかったことを覚えている。私が提案した時、男は大体みんな何だかよく分からないと言い、女はあらかた全部面白いと言った。女は感覚的に追っていって、男は理屈で追っていっているからであろうか。その割れ方が私には面白く思えた。秋浜に電話を入れたら、意外だという口調で、「あれは上演不可能ですよ」みたいなことを言ったが、とにかくやってみようということになった。結果的にはこの「冬眠まんざい」が、私にとっても、また変身にとっても芸術的には新しい出発点となったのである。
この作品は途中までいって、どうやってみても稽古が進展しなくなってしまった。それまでやってきた考えられる限りのことを尽くして稽古してみても、これ以上先へ踏み込まなければ本当にやりたい芝居にならない、という壁に突当ってしまった。台詞はできているし、動きもできているし、まとまっているといえばまとまっているけれども、これがやりたい芝居ではないという感じだった。それで秋浜に来てもらって、一緒に観てもらった。場面の転換が多く、かなり単純化してはみたけれども、どうしても道具などの片付けに時間がとられてしまう。道具を残したんでしは格好がつかないし、残しっぱなしにしないと転換がスムーズにいかなし、どうしようか迷って「このままじゃ駄目ですか」と言ってみた。そうしたら「いや、このまま行っていいんじゃないですか」と秋浜が言った。それを聞いたときに私の中で、今までの思考形態がどこかでピーッと破れ、「そうか」という感じがした。ずうっと理屈が通っている必要はなく、その瞬間瞬間に成り立っていくことで縫っていけばいい、男が分からなく女が面白いというのはそういういことだ、ということが全部ひっくるめて問題が解けてきた。それから稽古が激しくなった。今から思うと実に単純なことだが・・・。
この時の坂本長利の演技が評判をとったが、劇場空間というものも変質したように思う。幕開きに着物を着た女が男にまたがって縄に首を吊る。肩が外れて女が縄にぶら下がったままぐうんと振れる。観客席の真中くらいまで、白い女の股が客の頭をかすめるように往復運動をした。観客はびっくりした。「これはゴダールの空間だ」、と一生懸命になって書いてくれた映画監督がいた。それまではプロセニアムの向こうで芝居しているのを、こっちの安全なところで客が観ていた関係がそこで壊れたという感じがした。もちろんそれまでも客席と舞台が犯し合う関係を取り込んではいたが、観客の方はあまり近過ぎて役者の顔をまともに見れず下を向いていたり、役者の方も観客の顔を見るのが怖くて上ばかり向いている、という有様だった。これは私たちのあとからスタートした小劇場の途中も同じだったようだ。この舞台で、そういう風に犯し合っていながら何かうまくふっ切れなかったものが、一挙に崩れて前進できたような気がする。それから後、代々木小劇場ではほとんど緞帳を使わなくなるし、少し後には、鉄パイプを壁に組んで客を下に入れて芝居をその上でやってみたり、客を上に乗せて地の底のような所で芝居をしてみたり、ブランコの上で芝居をするとか、とにかくタッパが高かったので、いろいろな空間を創ってみた。森秀雄さんが一年位後に総括してくれた中に「冬眠まんざい」「椅子」と「ザ・パイロット」の三つが最高の成果であると記されている。この「冬眠まんざい」で、代々木小劇場というものが名実ともに成り立ったのだと思う。
「ザ・パイロット」についても若干触れておきたい。これは原爆を投下した飛行士の話で、ぶどうの会時代に私が演出するために宮本研が書いた台本だったが、解散になってしまい、しばらく私は何もできなかったこともあって、結局俳優座でやることになった。私は招待されて観に行ったが、リアリスティックにびっしり飾り込んだ重い芝居で、これが宿屋に一緒に泊まり込みながら苦労を重ねて書いてもらったあの芝居だったんだろうか、と思えた。ぶどうの会時代からの皆の執念があって、代々木小劇場で上演しようということになったとき、朝倉摂が「あんな小さな所じゃできない」と言った。私は能舞台風な裸の舞台を組み、プロローグ風に役者を登場させて、ト書を全部語らせた。「こちらでは竹林が風にそよいでいて、あちらでは・・・」と全部情景を語ってゆく。舞台には花道の附け根に一本だけ真赤な曼珠沙華の花を置いた。この裸舞台に最后の幕になると、上に吊っておいた精霊送りの舟を一杯に吊り下ろす。観客の眼前というより頭上に一気に派手な空間が現出する。こんなこともそれまでの舞台空間にはなかったことなので観客を随分驚かせた。せまいということを逆手にとった空間処理が、新しい美をつぎつぎに生んでいったことはまたくわしく語りたいことの一つである。
代々木小劇場は、客席わずか六〇人の小屋であるということで当初いろいろ話題を集めた。べつに小劇場運動を始めようなどという気持はなかった。何しろお金がなかったから、いい小屋など借りられるわけはない。ここでやるしかない、というのが実情だった。それでも、ぶどうの会の稽古場で研究生公演のようなものを二、三回やったことがあったので、ぶどうの会にいた若い連中は、狭い所で芝居をやることにそう抵抗感を持っていなかった。もう一つは、観たこともないが、フランスのパリにユシュット座という小さい、便所の臭いのするような小屋があって、そこでいろいろ実験している、ということも聞いてはいた。
そういう状態で出発していたので、「冬眠まんざい」などをきっかけにして、私達の関心が舞台空間という考え方から劇場空間というべきものに変わっていった。つまり、演技をどういう風にそこで成り立たせるかという意味での空間でなく、俳優の演ずることが観客といかに触れ合うか、という場として劇場を考える、ということになっていった。
その頃、新宿のアートシアターの地下に「蠍座」という小さな小屋があって、そこで当時大劇団にいた年配の俳優が一人芝居をしたことがある。形からいえば完全にアングラ調で、あの小屋は細長いものだから彼は客席の中に入ってきて、観客の一人一人に手を掛けんばかりに話している。ところがこっちから観ているとプラスチック製のプロセニアムが彼の体の回りを全部とりまいたままずうっと客席まで伸びてきていて、彼が手を出そうが何しようが、プロセニアムの中に手が納まっているという風に見えて仕方がない。ジカに観客に話しかけている感じがしない。要するに舞台の上に乗って演技しているのを、ただ客席の通路までもってきているにすぎない。これをやっている限りは駄目だと鋭く思った。こういう演技だったらどんなに形が前衛劇であろうが、不条理演劇であろうが、結局いままでの描写的なリアリズムと何も変わらない。プロセニアムを背負って歩いていることになる。その殻を破って観客と直接触れ合うことはどうしたら可能か、ということが私の中でのはっきりした課題になり始めた。
客席側からいえば、向こう側に額縁のようなものがあって、そのキャンバスの中に俳優が立っていることになる。そういう関係をぶち破るにはどうするか、ということだ。その頃は大学斗争の働き手たちが随分流れ込んできていたし、とにかく今までの芝居を根底からこわそう、ぶっこわすことなら何でもやるといった気合いが溢れていた。万引きで暮らしてるやつだの、女のヒモだの、毎晩ケンカしてはもらい下げに走りまわされるやつだの、メチャクチャといえばいえるがごついエネルギーだった。男三人客の目の前でパンツを脱いでフリチンでふざけぬいたこともあったし、女の子が舞台にハナに素裸で立ったこともあった。マスコミなど回りの人々はいろいろ騒いでいたようだったが、やる側は他人の驚きを予想したり計算したりする余裕などさらさらなく、今から思えば信じられぬくらい真剣そのものだった。
観客に直接話しかけること、演技する人間がそのまま直後に観客と触れ合うという鮮烈さはどうしたら成り立つか、自分を賭けてゆくと、今までやってきた芝居が全部化けの皮を被っているような感じがした。追求していくうちに、演技というよりその根底にある人間の存在の仕方の問題であることに気づいてゆく。フィクションとは何であるか、舞台に立つということは何であるか、人が人に働きかけること、行動するということはどういうことか。メルロ・ポンティの現象学との出会いによる野口三千三氏の体操の見直しから、私は「からだ」の問題に気づいてゆき、新しいからだとことばのレッスンを始めた。そのへんを一生懸命論理的に考えたのが『演技者は詩人(ディヒター)たり得るか』であり、この中で、今までのリアリズム演劇をどう超えるかを論理付けることになった。
代々木小劇場を初めて七、八年経った頃、とくに文芸スタッフ—というのは「ぶどうの会」解散のころの「若い連中」にあたるが—の方から、「われわれは一体どんな風に芝居を壊してきたんだ、これからどうなるんだ、竹内の考えを聞いてみたい」という意見が出てきた。変身の出発当初、私はイニシャティブをとっていなかったし、芝居を創っていく中で様々な試みをしていくことにはなったが、その間ほとんど表向きの発言はしていなかった。それから、私が身体の問題に気が付いて少しずついろいろな実験をしていたことが、文芸関係のスタッフの方からはよく分からないということもあった。多分、私などが演出した舞台を観て、自分達の感覚とどこかで随分違っている、と感じていたのではないかと想像する。
話が前後するがこの代々木小劇場にはもともと俳優の問題というか、演技の問題を中心的に取り上げようという姿勢がメンバー全員に強く働いていた。作家—演出家—俳優というヒエラルヒーをひっくり返して、演技者が一個独立の創造者として自立しようという志向である。作者の多い文芸スタッフにはその感覚がよくわからなかったのでもあろう。それらの事情も絡み合って、とにかく私に一遍論文を書かせて、それによって問題点をはっきりさせようということになった。私も丁度、考えをまとめなくてはならない時期にきていると感じていたので書き始めた。
その当時、代々木小劇場には演出する人間が五人ほどちてローテーションを組みながらやっていたので、二ヶ月位は準備期間として体を空けることができた。この期間を利用してほとんど閉じ籠もりきりで書いたのが、『演技者は詩人たり得るか』である。これは全部で百八十枚位になるが、最初百枚位書いたところで、それをプリントして文芸関係のスタッフに回してみた。建設的な討論を期待していたが、私のところへはいつまで経っても何も言ってこなかった。この論文は、それまで文芸関係のスタッフが考えていたこととあまりにも共通点がなさすぎて、どういう風に議論を進めたものか見当がつかないという状態のまま放置されていたのであった。それを書く二、三年前から、私はメルロ・ポンティの著書を読み続けていて、それまでの社会科学的なものの考え方とは違う、人間存在の現象学的な見方、とくに身体の問題に気付き始めて、演技というものはいったい何なのか、という問題を少しずつ問いつめるようになっていた。ところが彼等としてみれば、現象学的な思考方法に初めて出会ったわけで、評価しようにも手掛かりがなかったということだった。
私の方へ反応が戻ってきたのは彼等達からではなく、もっとずっと若い人達からであった。これは後で『ことばが劈かれるとき』を書いた時も全く同じで、同世代からの素早い反応といえば林光くらいだったろう。佐藤信とか、菅孝行とか、私からは二世代以下になるかなり若い演劇人達が一種の熱烈な反応をしてくれたことに、正直私にはその理由が分からず少なからず驚いたことを覚えている。しかし後から冷静に振り返ってみると、やはり六〇年代から七〇年へかけての思想状況の大きな変化がそこにくっきりと現れているので、その事態の大きさを私は身をもって知ったことになる。
文学としての戯曲が先にあって、それを舞台に翻訳するのが芝居である、という常識が揺らいでくる。一方演技の面では、単なる舞台上のフィクションの世界に自己完結してしまうのでなく、身動きもことばも最終的には観客の身体の地点で成り立つような働きかけであることが要請されてくる。そういう問題意識を持って、自分達のやろうとすることの意味を方法的に自覚する目的で、この『詩人たり得るか』は書かれている。ただ、この本を作るときに少し失敗したのは、「詩人」ということについてのコメントがどこにも一つも書いてないことであった。この「詩人」というのは、ドイツ語で言えばディヒターに相当し、ディヒテンという言葉は別に「詩を書く」とは限らない。構築するとか、何かを創っていくという意味がある。つまりこの「詩人」、ディヒターというのは、本源的な創造者という意味で使ったのであった。どころがそのコメントが落ちていたので、ある一部の人には「詩を書く人」という風にとられて不必要な誤解を招いたりもしたが、当時多くの若いグループがバイブルのように持ち歩いていたと聞かされたことがある。
いずれにしても、演技者というのはそれまで、舞台を構成する部品であるという考え方が支配的であった。それに対しこの論文では演技者こぞが創造者である、とはっきり逆転の必要性を述べた。当時、たとえば唐十郎なども別の形で同じ主張をしていたとも思うし、今の若い演劇人にとってみればそれは当たり前のことになっているかも知れないが、その当時においては、それをどういう言葉で表現し、どう宣言するか、ということ自体容易なことでなかった。
やはり六〇年代という時代は、これからも大きな意味をもって振り返られることになるだろう。新劇はテーマを喪失し、死んでしまったと前述したが、実は新劇側の問題というより、社会的な意味での人間の在り方とか思想的な変化ということが外側で進行し、近代というものの内容が崩壊し始めたということであろう。たとえが大学斗争をある人は「人間的自然の反乱」と言い、またある人には「肉体の反乱」、私の場合は「からだの反乱」と呼ぶが、それまで知識人の根底を支えていたヨーロッパ的思考というか、より正確にはヨーロッパ近代合理主義精神ということになるだろうが、そういうものに対する異議を唱えることが広く噴出してくる。社会的現象としては大学斗争があり、文学や思想の面でも身心二元論の克服を中心としてさまざまな動きがあったが、それよりも私は演劇の方が先にそういうものの崩壊の感覚を鋭敏に受けとめていたような気がしている。そういういわばホットな状況の中で、私達は自分達のしていることを客観的に分析する余裕など持ち合わせなかったけれども、確実にその中の一つの動きを生きてきたのだと思っている。私などは社会的に目配りをしながら動いてきたわけではないし、小劇場運動という言葉でさえ拒否していた。「俺達は運動なんてしていない、第一運動なんてものを信用してはいない」という気分が代々木劇場では支配的だった。今までの自分でさえ信用できないのだから、建設的な運動などというウサンくさいものより、一人一人勝手なことをやりたいようにやって、とにかく徹底的に壊してみるんだ、という気合いであった。
たとえばその後の自由劇場の連中を外側から見ていると、ある種のスタイルなりカラーがあったし、状況劇場の方は明らかに唐十郎の個性で見事に統一されていた。それに比べると代々木小劇場には全く統一性はなく、参加者個人がかなりバラバラな関係のままあったように思う。坂本長利にしても伊藤惣一にしても、あるいは麿や谷川やその他の参加者にしても、それぞれ個性的であると同時に独立した考え方を持っていた。その当時のせいぜい共通する考え方としては、一人一人が舞台に立ったときの存在感をどう創り出せるか、一瞬一瞬の爆発的燃焼はどう可能か、というようなことではなかったかと思う。一つの舞台作品を完成に導くために、役者全体の流れをある方向にもっていこうというよりは、それぞれの役者の火花の散らし方、ぶつかりあい方に主たる関心が払われ、そのためには台本もしばしば変えられた。
当然組織論も非常にユニークなところがあった。劇団組織の悪い面を互いに身をもって知っていたので、その反動としてかまず第一に、ヒエラルキックな集まり方は絶対しまいということ、したがってかなりアナーキィスティックな集まり方をした。全員一票、公演もやりたい人間がやる。やりたくない人間は参加しない。別にやりたくないことをひとつのマイナスとは考えない、という原則をうち立てた。変身の構成メンバーは一年経ったら自動的に解散して、その時点でもう一度集まりたい奴は集まる、という方法で運営委員会は選出されたが、毎年毎年変えていた。一、二年休んでいて、また入ってくるということも全く自由であった。各人が相当のエネルギーを持込んできてたし、ある暗黙の了解の深さというか、強さというものがあった。
貧乏だったから舞台にはかけられなかったが、朝倉、立木、それに藤浪、小道具の松本氏などが献身的な協力をしてくれてなんとか成り立っていた。何しろ若いエネルギーが溢れていたから、今から思うと好きなことを自由にやれたという感じはする。とにかく他にそういう活動がなかったから、「何か一生懸命、ぶっ壊しぶっ壊しして今までにないものをやろうとしているんだ」、ということで通っていた。芸術的な意味でいい演劇であったと言えるかどうかは分からないが、とにかく観客には恵まれていて、観客の中にも変革の予感のようなものが確実にあって、私達の活動を支えてくれていた。
※質問に応えて気ままにしゃべったのをうまくまとめて下さった星野共氏に感謝します。私なりに文章に手を入れてみましたが、今六十年代について語らねばならないことの重責を充分果たし得なかったのではないか、という気持が残ります。責任は私の散漫な語り口にありますが、文体も含めて文責は竹内・星野両者ということになるでしょう。
(初出「肉体言語」第11号/1983.10.10)