<楽天と悲観の間で>
池田一
この5月に行ったTOKYO-ART-CELEBRATIONでのパフォーマンスに、楽天と悲観の間のダイナミックな転移を見た、という批評を得た。私の中の言語化されない力学をついた言葉として、刺激的である。多分、悲観とは、表現営為の自由な余地を開拓せんとするパフォーマンスをも、流行的な作品群として文化カタログの一項目に区分・盛り付けてしまう時代への、深い落胆の表われでもあろう。そして、楽天とは、そのような文化の暴力装置に組しない「自由で厖大な個」を開示しひもといてみせるという意志のことなのだろう。この楽天と悲観の間の個有の震幅が露わであればあるほど、よりパフォーマティヴなのだ、と私は確信している。その意味で、余りにも操作・演出・仕掛けという文化的身振りに従順に訓練されすぎてしまった個をいかに破綻さしえるか?そして、その破綻目から覗く震幅がどれほど露わであるのか?それが、檜枝岐という白昼の場への、もっとも切実なる期待である。