パフォーマンスはムーブメントたりうるか —— ポスト・シンポジウムから
星野 共
ここでは、<パフォーマンス・フェスティバル in Hinoemata>の報告会に引続いて企画された11/13・12/18の両日にわたるフリー・シンポジウム(表題に基づくパネラーなしの連続ディスカッション)のエッセンスと、私なりのパフォーマンス観を述べてみようと思う。今回のテーマが選ばれた理由は、檜枝岐でのパフォーマンスの展開やシンポジウムの実体験を踏まえて、そこから逆に今後の東京での活動のあり方を探ろうとするところにあった。個別のパフォーマンスの優位性や差異性といった、いわばアートとしてのパフォーマンスの深さを照らし出すこととは趣を異にして、パフォーマンスの外部への拡がり方あるいは進むべき方向といった、どちらかといえばアーティスト個人のレベルでは避けて通り勝ちな問題に商店を合わせようとしたものである。
フリー・ディスカッションであったため、話題は多岐にわたりレベルもまちまちであったが、大枠としては次の四つのカテゴリーに集約できる。提起された第一の話題は、パフォーマンスのムーブメントを問題にする場合に、パフォーマンス現象一般としてのスモールpと、作家・作品に対応するレベルでの個有性としてのラージPとを、意識的に区別して議論しなければならない、というものである。この種の発言の背景には、ラージPを希薄化してしまう、現象一般とし語られるスモールpの横行に対する危機意識が存在しているだろう。第二の話題は、パフォーマンスのムーブメントと歴史上の芸術運動との関わりの問題である。この話題は檜枝岐のシンポジウム以来引摺っていたものであるが、過去の芸術上のムーブメントにわれわれはいったい学ぶ必要があるのか、もし学ぶとすれば何をどのように学ぶのか、という問題に置き替えることができる。第三の話題は、身体とメディアの問題である。これも檜枝岐のシンポジウムで提起された話題の一つであるが、特に都市としての東京でのムーブメントを考えていく上では、避けて通れない、意識的に関わらざるを得ない大きな問題である。最後の第四の話題では、観る・観られるという関係性において、檜枝岐フェスティバルにおけるそれと東京におけるそれとでは大きく異なっていることが指摘される。ムーブメントのあり方を探ろうとすると、一方で都市論・東京論といった問題へ、他方でパフォーマンスの成立を可能にする<場>の設定の問題へとつながる。
以下では、これら四つのキーとなった話題のエッセンスを、コメントを交えて紹介しておこう。
1.Pとpの区別について
いま、Pとpを次のように定めておこう。
P:特定の個人にとっての、個有性、必然性としてのパフォーマンス
p:状況論としての、現象一般としてのパフォーマンス
シンポジウムの冒頭、浜田剛爾は「Pはその性質上、ムーブメントという形に直接には結びつき難い。むしろpの方がムーブメントという形になじむが、しかしもはやそれはパフォーマンスというレベルをどこかで越えてしまって、つまらない状況的・社会的ムーブメントに転化してしまうのではないか。ここで議論するムーブメントは、Pなのかpなのか、はっきりさせておいた方がいい」と指摘する。たしかにここに至って、流行としてのパフォーマンス現象が隆盛となり、マス・メディアの中でpが無批判に増殖を繰返し、いわゆる個有性としてのPを毒のない形で包み込んで封殺してしまう傾向がみられる。こうした指摘を受けて、池田一は「Pに関しては、個々の営為の出自を明確化していくことが大切なのではないか」と発言する。また、及川廣信も別の話題に関連したところで、「各自の個有性の違い、差異性を、柔らかな認識の下で観ていくことに意義があるのではないか」と述べている。池田の発言とニュアンスは少し異なるが、Pの出自も差異性も、パフォーマーの個有性を問題視するということでは同じであろう。これはシンポジウムに参加した人々に共通する、原則的な立場の確認でもあったような気がする。
さらに浜田からは、東京でのムーブメントを意識した、Pに関わってのより具体的な問題が提起される。浜田によれば現在の東京はメディア・ウォーズの只中にあって、「一方ではPとしてのコミュニケーションの質を、方法論も含めてどのように高めていくかという問題と、もう一方では受け手側における情報の選択能力が問われてくるという問題が、同時的に存在する」ということになる。要は、現代の都市文明の突出した姿を見せる東京、そこでのメディア・ウォーズというものを背景にして、Pとしてのコミュニケーションの問題も考えなければならないし、情報の受け手側の問題も考えなければならない、ということである。
また、「本来の理想的な形態としては、Pとpが同一レベル・同一次元で掴まえられたときにムーブメントが成立する」と池田は述べる。それは敷衍すれば、自分が個でありながら社会的状況の中でも力を発揮し得る、ということであり、ある意味で幸運な状態をさしているだろう。しかし池田は続けて、「生活そのものがフィクション化してしまう現況の下では、やはりpのあり方そのものに問題があって、現在はむしろPとpとを意識的に分けて考えていかなければならない」と述べる。さらに池田はムーブメントの具体的な一つの展開として、Pの出自がより検証できるような、観る側・やる側の今日作業やワークショップの必要性を説いている。
2.歴史に何をどう学ぶか
ムーブメントという言葉には、一種の芸術運動的な響きがある。根本寿幸は「運動としてのムーブメントであるなら、過去のハプニングなどを辿ってみるのも一考で、少し先が見えて展望できるのではないか」と述べる。それに対して浜田は、パフォーマンスに関連する過去の歴史を遡るなら、やはりローズリー・ゴールドバーグが指摘するように未来派前後につながることを述べた後で、「むしろそうした近代芸術の概念でからめとられた状況を組立て直す方が面白いわけで、歴史の文脈を辿ることはあまり意味がない」と主張する。根本には、過去のハプニングやイベントと、いま問題にしているパフォーマンスとでは、周囲の状況は変化しているが、本質的なところは不変である、とする見方が背景に流れている。浜田には、社会的状況と芸術運動という関係は本来エポック的色彩の強いものであって、心理的な関係として一通り説明はできるが、それを果たしてムーブメントと呼んでいいか、という疑問が根強くある。
鴻英良は「パフォーマンスの主たる特徴を物語りに還元されない瞬間性あるいは瞬間の持続というところにみていたが、仮にメディアの多重性やメディアの混在ということに関連づけて、境界領域の崩壊・横断という現象、または生活・日常に対する芸術の位置関係の反転という現象としてパフォーマンスを捉えるなら、こうした現象はロシア・アヴァンギャルドの時代に酷似している」と指摘する。また、舟木日夫も別の話題の中で、「世紀末のいろいろな芸術運動、たとえばユーゲントステールやサンボリズムなどの運動も、時代状況の把握の仕方とか身体の置き方とかいう点で、やはりパフォーマンスの現況と非常に似ている」と指摘する。現在のパフォーマンスの状況をどう捉えるかにもよるが、おそらく1800年代末から1900年代初めにかけての幾つかの芸術運動に類似性を見出そうとすることには多くの同意が得られそうである。私個人は過去の歴史の中に学ぶべきものがあると原則的に考えるが、そうした歴史の解釈が、直接的に個人の創作内容のレベルに跳返る関係にはなっていないことも一方で押さえておかなければならないと考える。それは丁度、Pとpとの間に近くて遠い隔りが存在するように、創作者としての個人の営為と時代状況の間にも同じような隔りが存在するからである。そういう意味では、根本も鴻も舟木も、先ず取掛りとしての隔りの一方に着目してみようということであるし、浜田はもう一方から、すなわち創作者個人の立場から隔りの埋め難さを強調しているということになろう。問題は、類似性を指摘するだけではその隔りは埋まらないわけで、あくまでも創作者の現時点での主体的な展開の中に血となり肉となっていくものでなければ、それら双方の実質的な回路が通じないということであろう。その点に関して池田は、「引用文化に対するアンチテーゼがあって、たとえば言語的な引用と身体的な引用があるとすると、身体というのはいったいどこから何を引用できるのか」と疑問を投げかけた上で、「何か個的にものすごいこだわりがあって、それをこちら側に投げ返し、活性化させるような新しい記号として提示されれば別だ」と述べている。
3.環境となったメディアとアイデンティティの構築
鴻は現在と未来派やロシア・アヴァンギャルドの時代を対比させながら、「今世紀の初頭に自動車・飛行機などが登場してきて、時空間に対する身体感覚の変質という現象が起こるが、メディア時代といわれる現代も一種の身体感覚の変質を引き起こしており、芸術変革の共通した徴候が見出せるのではないか」と指摘する。たしかにハイテク技術の組合せによるメディアの多重化や、オンライン・リアルタイム処理の日常化という時空間に対するメディアのあり様は、私たちの身体感覚の変質を迫りつつある。もともと身体レベルの限界を補完すべく技術にその夢を託したわけであるから、技術の実現は一方で身体機能の拡張化をもたらしているといえよう。しかしながら他方では、それがあくまで機械的なものによる補完という意味において、相対的に身体意識の希薄化という現象を引き起こすであろう。
そうしたメディアと身体の二項関係は、むしろ次で述べるようなトライアングル構造としての三項関係へ移項してバランスするだろう、と浜田は予見する。それは広い意味で一種の記号的な存在で、浜田は具体的に「説話的なもの、寓話的なもの、神秘学的なもの、未開文明におけるさまざまな表現物や音楽的なもの」などをあげている。私も浜田のように具体的内容までは詰めていないが、身体とメディアの関係を論ずるにあたって、第三項の介入の余地が存在するように思う。それは、一面で、本質的には身体は保守的であり続けるであろうし、反面で、身体は表層的なところで激しい変化の波を受けとめていく、という関係にあり、そうした極端な軋轢の中間に、何らかの第三項の介入が予想される。
ところで、ビデオ作家のヒグマ春夫は、パフォーマンスがその個人の生活の背景や生活的な土壌に深くかかわったものでなければならないと規定した上で、「そういう事をいくら言葉にしていっても通じないので、むしろメディアという素材を介して、逆に自分自身の背景を確かめることも含めて呈示している」と述懐している。池田はこの発言を受けて、「メディアの氾濫自体が既に一つの自然さである」としながら、「ビデオをメディアの有効性という意味で使っていくというのではなく、彼自身が生い立ってきた背景や個人史の中において、自然さの一つとしてビデオがあったと理解したい」と述べている。特に東京では、錯綜し、多重化したメディアが既成の環境となっており、パフォーマー達はその中で先程のトライアングル構造も含んだ形で、自己のアイデンティティを模索していくことになろう。
4.檜枝岐から東京を照らす
「パフォーマンスを共通に語る基盤として、共通体験としての檜枝岐の空間がある。したがってそれを原点にムーブメントを考えてみてはどうか」というのが多くの参加者の意見である。また、檜枝岐でのパフォーマンス空間と東京でのパフォーマンス空間とが対比され、その差異性が強調される。たとえば、鴻は「檜枝岐には特殊な空間が創られて、観る側と観られる側との間に一種の相互交換が成立するような形でパフォーマンスが展開されていたが、東京に戻って同じ人のものを観ても全く空間が違って感じられるのは何故か」と問題を投げかける。それに関連して、池田は東京における生活・日常の特殊性を指摘した上で、「東京においては、敢えて作品という枠組をかぶせ、それでしか観せられない状況の困難さがある」と述べている。また石井満隆は、「檜枝岐に行った瞬間に、”舞台”が既にできていると直感したが、今の東京にはこの”舞台”を創ることに、創れるかどうかに絶望感のようなものさえ感じる」、と東京における本来の意味でのコミュニケーションの成立の難しさを強調する。
檜枝岐の空間はフェスティバルという、ある意味でフィクショナルに創られた空間であり、擬似共同体の上に、観る・観られるという理想的関係が幸運な形で成立している。そこから照射すれば、相対的に東京でのパフォーマンス空間をどう成立させるかということが、より現実的で深刻な問題として浮かび上がってくる。事実、浜田は「檜枝岐はアンチ東京としての象徴であり、われわれのパフォーマンス運動論は、むしろ都市論であり、詰まるところは東京論に行き着くのではないか」と述べている。
一方、林英樹は「擬似共同体的関係における観る・観られるというあり方は、むしろ問題を含んでおり、公演という二時間の出会いで充分ではないか」と述べる。林の意見は正論であろう。しかし未確立でマイナーなパフォーマンスの展開として、しかもスモールpに解消されてしまいかねない状況の中で、少なくとも認知されるまでの過渡的なムーブメントのあり方としては、池田の主張する党派化、パーティ化といった戦術も、出発当初において有効な方法ではなかろうか。西堂行人は60年代の演劇の活力の一つが”場”の設定にあったことを指摘し、「東京でのパフォーマンスの展開にあたっては、”場”による空間の開き方が重要ではないか」と述べる。及川はそうした”場”の設定の問題も含めて、東京における密度の高い継続的なパフォーマンスの企画の必要性、そしてムーブメントとしてはラージPを形あるものにしていかなければならないと主張する。
5.パフォーマンスの三つの特徴
実際の順序とは逆になるが、シンポジウムの冒頭で、未整理ではあったが話のきっかけを作る目的から、私はパフォーマンスを特徴づけている三つのレベルの話題を提示した。第一は、パフォーマンスを一種のパラダイムとして理解したいということ。すなわちパフォーマンスは、アーティストとしての精神のあり方や態度の表明に、場合によっては基本的な方法に関わるものであって、その進む方向が決して特定のアートのジャンルを確立しようとするものではないということである。むしろいろいろなジャンルの縦割の壁に囚われずに、各ジャンルに浸透し、そこでの出自に関わる極めて重要な要素を形成するものと考えられる。そのように、各ジャンルのアートの概念枠組に関わるという意味において、先ずはパラダイムという性格づけが相応しい。したがってパフォーマンスは、もともと広がりのある、また広がりを求めていくという特質を有している。
パフォーマンスの第二の特徴としては、従来の芸術のコンテクストに何がしかの変質をもたらそうとする意図がその中に働いていること。それは、私たちの生活と芸術の関わり方、作品の呈示の仕方や見方に一定の変質を迫ることを、作品の内容として同時に含めて呈示するということである。すなわち換言すれば、私たちの芸術の概念を網の目状に規定しているコンテクストを、一方でそれに従いながら一方でそれを同時に変質させていくという、双方のベクトルを睨みながらの継続的選択が課せられていることになる。パフォーマンスが<開かれた表現>といわれる理由の一つは、既成の固定したコンテクストにだけ依存するのではなく、同時に網の目状の網目を掻いくぐって新しい回路を組替え、作品を開かれたものとして呈示していくことを意図しているからである。
パフォーマンスの第三の特徴は、そこでのコミュニケーションの質のあり方に深く関わっている
基本的には、演劇や舞踊のようにパフォーマーが何かフィクショナルな役割分担や特殊に設定された状況の時空を生きるのではなく、その個人の生活の時空間と連続した生な部分を残しながら、つまりパフォーマー個人の全体的な在り様とパフォーマンスで創られる時空間を重複させながら、表現なり呈示がなされることである。むしろより直截にパフォーマー個人の生き方の証を呈示しようとするために、本質を見え難くするテクニックや仮構性を排除しようとする傾向にあり、一見素人芸的な様相を呈することさえある。しかしそこでは、個人史も含めたパフォーマー自身の背景に重層的にパフォーマンスの内容が重なるので、ある意味では二重に厚みのあるコミュニケーションが意図されていることにもなる。こうしたコミュニケーションの質を保つことは、マス・メディアには明らかになじまないであろう。池田一が述べるように<近くの他人>との密度の濃いコミュニケーションを追及する方が、そして次第に輪を広げていくことが、現在のパフォーマンスのあり方には相応しいといえるかもしれない。
6.ムーブメントのベクトル
上で述べたパフォーマンスの特徴の第一のものと第三のものとの間には、一見して明らかな矛盾がある。第一のものは広がりを求めているのに対し、第三のものは質や密度を求めている。しかしながら、第一から第三のものについては、それぞれレベルが異なることに注意しなければならない。浜田剛爾が提起したラージPとスモールpとを関連づけて、それらの三つの特徴を正しく位置づけてみると、レベル間に一連の関係が見出せることが分かる。
たとえばパフォーマンスをパラダイムと受けとめる第一の特徴は、主に一般的現象に関わってのものであるから、pのレベルにあるといえよう。パフォーマンスが密度の高いコミュニケーションをめざすという第三の特徴は、個別的な展開に関わってのものであるから、Pのレベルにあるといえよう。パフォーマンスが同時にコンテクストの変質を迫るものであるという第二の特徴は、既存の網の目状のコンテクストに意図的に関わるというものであるから、Pとpの攻めぎ合いの狭間、すなわちPとpの中間レベルにあるといえよう。
そうした三つのレベルに関して、ムーブメントのベクトルを考えることができる。先ず私たちのムーブメントのあり方としては、檜枝岐で展開された、あるいはこれから展開されるであろうパフォーマンスの現場に基盤を置くものであること、すなわち第三の特徴のレベルに基本を置くものであることは、ほぼ確認済みであろう。またそれは同時に、新しい回路の接続という<開かれた表現>の成立に向けて、すなわち第二の特徴のレベルにおけるムーブメントへと向かうであろう。そして最終的に、第三のレベルから第二のレベルを経て、第一のレベルのパラダイムとして意味をもつのであれば理想である。しかし残念ながら今のところ、ムーブメントのベクトルは各レベルを一貫して流れてはいないように思える。
(初出「肉体言語」第12号/1985年)