粉川哲夫
昨年、福島県の檜枝岐村で開かれた“パフォーマンス・フェスティバル'84”にわたしはシンポジウムのパネリストの一人として参加した。メンバーの顔ぶれは、あらかじめ知らされてはいたが、一堂に会したことのないさまざまな分野からのパフォーマーや論客が40人も集まるというのだから、このフェスティヴァルがどんな結果になるか、わたしには全く予想がつかなかった。
鬼怒川から3時間もバスに乗って檜枝岐に着き、会場の歌舞伎小屋の前に駆けつけてみると、広場ではすでに石井満隆や徳田ガンのダンス・パフォーマンスが始まっており、知った顔ぶれが地面に腰を下ろしたり、木に登ったりして見物していた。わたしは、持っていたウィスキーを一口飲み、石に腰を下ろしてながめはじめたのだが、これはひょっとすると今後おもしろい運動になるかもしれないという思いが酔いのようにわたしの体のなかに広がってきた。
それから20時間以上にわたって、パフォーマンスやシンポジウム、そしてさまざまな個人的つきあいが、この村のあちこちで、いりくみあい、かさなりあいながら続くうちに、わたしは、このフェスティヴァルが一時のイベントに終わらずに、持続した運動としての広がりと強度をもつようになるだろうということを確信した。
一年たったいま、それは決して単なるわたしの思いこみではなかったことが明らかとなった。コノフェスティヴァルを機に、ジャンルをこえたいくつものネットワークが出来、個別的な実験とアド・ホックな共同作業やワークショップが連鎖状に広がっていった。わたし自身も、パフォーマンスについて論評することに甘んじることができなくなり、自分の危うくなった身体の使い方自体を——亢進するエレクトロニックス的環境のなかで——たてなおすためにパフォーマンス的な試みを実際に行わざるをえなくなった。
一年まえの“出会いの場”が、ふたたびどのような出会いと、新たな出発を動機づけてくれるか——これが、“'85パフォーマンス・フェスティバル”へのわたしの心躍る期待である。