パフォーマンスは拡大鏡
池田一(パフォーマー)
あらゆる表現行為は、イベント的な性格とムーヴメント的な性格を兼備している。その相反する両性が混濁し、表現の弾力を失っていく時、人は「文化の衰退」を感じる。そんな退潮気味の状況下にあって、パフォーマンスがその両性の振幅を拡大してみせた役割は大きい。多くの表現者が既成のジャンルを逸脱しようと試みたのは、パフォーマンスという拡大鏡を通して、可能性の領域が大きく拡がって映ったからだろう。
しかし、このパフォーマンスのレンズ機能も曇りつつある。イベント的な性格が強調され既成の発表形態に回収されていくと共に、肝心の拡大能力は減退していった。この構造を見据え、イベントからムーヴメントへの転換をなしえるかどうか——今回のフェスティバルのテーマは、この一点にあるように思う。
パフォーマンスが時代の拡大鏡でありつづけるためには、それに重ね合わせるもうひとつのレンズが必要である。その確信をえたのが、8月初め、大倉山一帯で開かれた大倉山アートムーヴであった。私は、建物の前庭に11m四方の水鏡を設置した。展覧会期中に、二つの水鏡を使ったパフォーマンスを発表したのだが、その場に出現したエネルギーに、当の私が驚いた。2000人程の観客が、私の誘導に従って、建物の中に移動した。私自身が観客の中に紛れこんでしまうほどだから、雪崩れ込んだといった方がいい。この未曾有の場のエネルギーに、芸術の可能性を自ら過小評価し自己封鎖してきたきらいのある、芸術関係者や文化人らも驚いた。芸術の可能性はまだ拡大しうる、という素朴な発見である。
この圧倒的で多様なエネルギーを場に吸引しえたのは、小さなムーヴメントの積み重ねがあったからに違いない。実際、3ヶ月程前から、水鏡プロジェクトの浸透化、行政側を相手に〝アーティストの権利獲得斗争〟、商店街ぐるみの〝青の物質〟回収キャンペーン、子どもたちとの公開制作など、多くのアクションを積層していった。このことは、パフォーマンスという拡大鏡が再び機能するためには、〝場〟(地域、町、村)というレンズを取り込む必要性を、物語っている。
今回の桧枝岐パフォーマンス フェスティバルには、村との関わりの中で、新たな〝場〟の出現が予想される。〝場〟というもうひとつのレンズを重ね合わせることで、どのような問題点と可能性が拡大しされてくるか——ひとつひとつの小さなアクションも、見逃したくない。それらを、ムーヴメントへの契機に押し上げる底力こそ、いま必要だと思うからである。
(初出:「'87 パフォーマンス フェスティバル イン 檜枝岐」パンフレットより/1987.09.04-06)