30年くらい前に買った観葉植物が、今も家で細々とだけれど育っている。サボテンとか小さなヤシとか。
このところまた、新たな観葉植物を育てることにちょっと凝り始めた。
一言で緑といっても色々な緑がある。濃くて堂々とした緑。淡い色のフワフワした葉っぱ。ツンツン尖っているけれど、天に向かって背を伸ばす緑。
どれも心を癒してくれるし、かわいい。
でも、育てるって簡単ではない。素人なりに調べて、「これにはお水がいっぱい必要」「こっちは日陰の方がよく育つ」など、種類によって関わり方も変わってくる。
グングンと目に見えて育つものもあれば、なかなか伸びない葉っぱもある(心配になって肥料をあげ過ぎたのがいけなかったのかなあ・・・)。伸びるための準備の時なのかな?
思い通りにはなかなかいかない。でも、水をやり、肥しをやり、関わり続け、待つことは、素敵なひと時だ。
自分を超えた見えない手が、きっと、その植物らしく育ててくださる。そう思っている。
H . T
先日、保護者の方に声をかけられました。実はその方はその数日前にうっかりある予定が抜けてしまい、深く反省されていたのです。そのことを知っていた私に、改めてお話ししてくださったのです。
「先生、私、気づいたんです。私にもこんなことがあるって。いつも子供にはそういうことを叱っているのに。周りからもそのことは言われていたのに。でも今回のことで、言いすぎも良くないなと思いました。」
そんな風に打ち明けてくださいました。
親であれば、つい叱りすぎたり、何度も言いすぎたり…そんな経験がある人も多いと思います。私も家庭ではそんなことは日常茶判事。「またやっちゃったなあ」「ごめんね」と後でこっそり心の中で思うこともしばしばです。「うん、うん」と頷きたくなるお話を聞けて、嬉しくなりました。
またその翌日、この方にこのエピソードを「ひとピース」に掲載しても良いか伺うと、更にこんなことをお話しくださいました。
「実際にあまり言わないでみたら、その方がスムーズに進むことやうまくできることも増えた気がします。」
それをキラキラした目でお話しくださって、私もさらにキュンとしました。子供もお母様も一緒にぐんと成長したんだなあと。そんな風に感じられたのが羨ましくも思いました。
子育てはいつだって手探りです。手探りしまくっても、正解なんてわかりません。私も3人の子供がおり、17年半も「お母さん」をしていますが、未だに目の前のことに追われて必死です。余裕なんてありません。
一人目の子供がまだ赤ちゃんの時に、私の母と一緒に母の友人と会った時に泣きそうなくらい嬉しかったことがあります。母の友人が「やっぱり孫はかわいくてしょうがないでしょ?」と母に聞いた時、私は母が当然「もちろん」と答えると思いました。ところが母は「孫はかわいいけど、やっぱり娘がずっと大事よ。」と言ったのです。何をしてもよく泣く我が子に疲弊していた私に、その言葉が光となりました。
親子の間柄には悲しくなることもたくさんあります。でもお互いに希望の光であることも間違いないことです。想い合いながら、手探りをしながら、一緒に成長していけば良いし、むしろそれだからこそ親子なのです。良い思いも嫌な思いも共有、共感しながら、それを積み重ねながら愛も深まっていくのですね。
「そんなこともあるよね。」「じゃあ、どうしようか。」と一緒に悩むことが、親も子も喜びにつながる。「親の心、子知らず」とはいうけれど、子の心を知ろうとできる親でありたい。それは理想かもしれませんが、それでもそこに向かってゆっくり、気づきながら歩いていきたいですね。そう思っていたら、いつの日かたどり着けるような気もします。
“愛は忍耐強い。愛は情け深い。妬まない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、怒らず、悪をたくらまない。不正を喜ばず、真理を共に喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。” (聖書協会共同訳;コリントの信徒への手紙一 13章4~7節)
A.K