最近畑を始めました。
近所に住んでいる農家の方と知り合いになり、畑を貸していただけることになったためです。
畑は、父親が一生懸命やっていて、それをたまに手伝っていたし、高校時代は園芸部といって野菜を作る部活があり、所属はしていなかったが週に1〜2度は作業をしていました。
そのため野菜を作ることと言うのは決して遠い存在ではなかったけれど、どれも断片的な体験で、畝を作ったりだとか、堆肥を作ったりだとか、いろいろ知っているしやったこともあります。ただ、自分で土から始め、収穫をするまで自分で手をかけるのは初めてでした。
自分が知っている限りのことや調べたことをもとに、畑をひとまず始めてみたが、まあまあ上出来、と感じています。農家の方に聞いてみると、クワで畝を立てるひとはもういないのだとか。
作ってみてわかったこととしては、とりあえず自分で畑をやってみて、畝を作ることはできるし、マルチシートを貼ることもできる。種を蒔くこともできるし、苗を植えることもできる。追肥のタイミングもまあ調べればわかる。
まあまあ、すべきことはできて、形になっているような気がしています。
ただ、農家の方の作る畑が隣にあって、その畑はやっぱり違うように見えます。
マルチではなく稲藁が敷いてあったり、支柱も普通の支柱ではなく三叉の2m以上ありそうな大きな支柱を使っていたり、なんだかかっこいいのです。
それに、一番不思議なのは、自分は正直言って植えたら水をやる、肥料をやる、草をとる、くらいしかすることがないのに、農家の方は毎日毎日せっせとやっています。
近くにまた別の趣味で野菜を作っている方は不思議なくらいずっといます。畑が居場所で、本当にずっといます。雨が降らない限りずっといるのではないかと思います。
それくらいずっといて、いったいなにをしているんだろうかと疑問になるくらい畑でずっと作業をしています。
何かをすることがあるんだろうと思います。
でもそれはなにかはわかりません。
畑をやってみて、子どもが育つのと畑の野菜が育つのは似ている。と、ありきたりなことを思います。ただ、今回土作りからやって、初めて思うのは、子どもが育つというよりクラス経営に似ているなと思います。
畑の野菜の育て方はさまざまな考え方があります。有機農法だとか、経営的な農法、自然農法。まるでそれこそ宗教みたいだとも思います。ただ、畑で作業する中身にはそれぞれ理由があり、方法があります。テンプレートのようなものもありますが、大切なのは目の前の野菜だと思います。
クラスでも、子どもが来る前の準備があり、それはまるで畑の土作りのようなものだと思います。また、育てる野菜の組み合わせを考えるのは、まるで席替えや、行事などでの組み合わせのようです。畑でいう収穫は、年度終わりか、はたまた卒業か。といった具合で、畑とクラス経営は似ていると思いながら、雑草をせっせと抜きました。
そして、思うこととしては、ベテランの人は手をかける方法や、理由をたくさん知っています。経験があり、知識があるからです。
雨が降らない限りずーっと畑で作業しているあの人も、手をかけるだけの方法と理由をたくさん知っているので、そういうことができるのではないかと思います。
でも、残念ながら僕は野菜について知らないから何をしたらいいのかわからないです。たくさん目をかけてあげるだけ。
子どもたちをそだてるうえで違うのは、保護者の方々と、子どもたちと、ともに歩めることです。
ともに歩めることに感謝しつつ、実った野菜に感謝しつつ、歩み続けたいです。
わたしは植え、アポロは水を注いだ。しかし、成長させてくださったのは神です。
コリントの信徒への手紙1 3:6
N,T
10日ほど前のことでしょうか。あるニュースに目が釘付けになりました。それは、北アイルランドの男子小学校で哲学教室を続けている校長先生のドキュメンタリー映画「ぼくたちの哲学教室」を紹介したものでした。このニュースに心ひかれて、この映画を見に行きました。
校長先生の名前は、ケヴィン先生。北アイルランドのベルファストという町の小学校が舞台です。この町は、プロテスタントとカトリックが対立して紛争をくり返してきた歴史を抱えています。大人たちは、子どもたちに「やられたらやり返せ!」と教えていますから、子どもたちはけんかをしたら、親の言葉を引用して、自分の暴力を正当化します。そんな環境の中でケヴィン校長は、「暴力からは暴力しか生まれない。」という信念をもって哲学教室を行います。1年生から最上級生まで、みんなケヴィン先生の授業を受けます。それは、子どもたちの抱えている厳しい現実と向き合い、対話を重ね、共に考えて、子どもたちに自分と他者の尊厳を発見させる授業です。哲学教室にはケヴィン先生の愛と信念が貫かれています。
神さまは、人間に「言葉」を与えてくださいました。私たちは、言葉で考えます。考えることができるというのは素晴らしい神さまからの賜物です。時には悩み、考えるのが苦しくなることもあるでしょう。それでも、考えて、考えて、考え抜いた先には希望と光があると信じています。
K.I
衣替えをするついでに、服の整理をしました。
皆さんは服をパッと捨てられる方でしょうか。
それともなかなか捨てられない方でしょうか。
私は後者です。
特に服を多く持っているわけではないのですが、何か思い出のある服や、記念の服はなかなか捨てられずタンスの肥やしになってしまいます。
今回、思い切って捨てよう!と心に決めて整理をしました。
整理しているうちに昔の部活のジャージなどがでてきました。
捨てずに取っておいたものでした。久しぶりに着てみたらなんと着られたのです。
サイズ感もバッチリ。体操服にしよう!と思って学校で使うことにしました。
でも、約30年前の服。
背番号や名前は熱転写したものなのでしょう。
一回洗濯したら全てボロボロになって取れてしまいました。
でも肝心の生地はしっかりとしています。今はスポーツウエアの生地もこんなに厚くてしっかりしたものはないのでしょう。
今は薄くて軽くて速乾性のあるものが多いですから。それにしてももはや古着のレベル。同じ服を持っている人もいないでしょう。
番号も名前も消えてなくなっていますが、しばらく使ってみようかと思います。
意外にもちがいいかもしれません。さらに大切なものになりました。
S.S