子どもたちと学校生活を送っていると、「何も無い日は無い」ということを日々思い知らされる。本当に様々な新たな出来事と遭遇する。大変で一気に緊張感いっぱいの状況へと変化することも多い。
そのような時に最近意識していることがある。それは『違和感』である。元々は自分自身が感じ取る『違和感』に対しての信頼度はあまり高くはなかった。
『自分の感覚は人と違っているから、こんな風に変に感じるのだろう』という風に考えていた。
しかし、学校で働くようになって後、徐々に自身が感じる違和感への信頼度が上がってくるようになった。何故かというと違和感を感じた時にはその理由を突き止めることは出来なかったけれども、後になってから(数分後、数時間後、数日後、・・・数年後のこともあった)自分が違和感を感じていた原因であろう物事や価値観が判明して『あ~、あの時の違和感の訳はそういうことだったのか!』と一人で納得する経験をいくつも積み重ねてきたからだ。
最近は、『違和感を感じ取る感覚』を維持し続けるためには『当たり前に大切なことを淡々と継続し続ける』ことが必要と思うようになってきた。これがなかなか難しい。ムクムクと自分の中にいる怠け虫が動くからだ。そのような中、ある一定の感覚を持ち続ける難しさを味わう日々を送っている。
自分の感じる『違和感』にある程度の信頼はおきつつ、しかし自分の不安定さを意識した上で生活していきたいと思うこの頃である。
N.S
クリスマスを待ち望むアドヴェント。私にとって、子ども達と共に過ごすアドヴェントは、自分を原点に立ち返らせていただく大切な時となっています。
私は、平和学園小学校でキリスト教と出会いました。小学校の先生になりたいという夢を持っていた私がたまたま勤めることになった(と当時は思っていた)学校が平和学園小学校だったのです。ですから最初は、聖書も礼拝も、お祈りも全てが驚きでした。傲慢にも自分で生きていると思っていた私には、「飼い主わが主よ」と賛美するのも最初は違和感がありました。それが不思議です。子ども達の賛美の声は心にすっと入ってきます。つたないけれど、神様にまっすぐに向けられたお祈りの言葉は、そのお祈りが向けられる神様の存在に思いを馳せさせてくれました。とは言え、キリスト教っていいなぁと、どこか客観的な自分がいました。
そんな私は仕事をしていく中で、うまくいかないことや自分のふがいなさに否応なしに向き合わされていきました。悩みの最中にあった1年目のアドヴェントの頃、当時の3年生がクリスマスのメッセンジャーとなるために、日々ページェントの練習に励んでいました。子ども達は使命感と喜びを持ち、練習にも熱が入ります。そんなある日の練習を通りがかった際、不意にその歌声が私の心に勢いよく流れ込んできたのです。「神様にとって不可能なことはひとつもひとつもありません」と歌う力強い歌声に涙が流れました。それは、固く閉ざした私の心に神様が介入してくださったようでした。イエス様はこの私のためにも生まれてくださったのだと、この時初めて自分事として感じることができたのです。
「見よ、わたしは戸口に立って、たたいている。だれか私の声を聞いて戸を開ける者があれば、わたしは中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、わたしと共に食事をするであろう。」(ヨハネの黙示録3章20節)
初めて教会を訪ねると「神様は、あなたのことをずっと待っていてくださったのですよ。戸をたたき続けてくださっていたのですよ。」と、牧師先生がこのみことばを教えてくださいました。消極的で頑なな私は自分から門をたたくことはできなかったかもしれません。それがすでにイエス様の方で私の心の扉をたたいてくださっていたということがどれほど嬉しかったかわかりません。そして、これまでの全ては神様のご計画の中にあって、神様が導いてくださっていたのだとじわじわと心が満たされていくのを感じました。
今年もまた、子ども達のページェントの歌声に包まれて、アドヴェントの幸せをかみしめています。
(Y・T)