いわゆるDIY(Do it yourself)つまり、日曜大工というのが好きです。
自宅は現在賃貸の一軒家に住んでいるのですが、リビングの本棚を作ったり、ベビーサークルを作ったり、洗濯機の上に棚を作ったり。
自分でサイズを測り、自分で高さを決めて、木材を切って組み立てるので、ピッタリ合うのがDIYの良さだと思います。
自分で何かを作ったり、工夫したりすることが大切だと思っています。
なんでも買うことが前提ではなく、故障したら直す、足りないものは工夫して他のもので代用したり、作ったり。
一つ一つのものを大切にすることで、自分自身の生活を、そして自分自身も大切にできるような気がします。
さて、DIYで棚を作る時に筋交いというものがあります。柱と柱の間に渡す、柱と比べて細い棒です。家には必ず入っているもので、その筋交いがあることで、倒れづらい、強い棚ができます。
人と人との間で筋交いのような存在はなんだろう、と考えます。仲間と過ごすクラス。筋交いの存在が何なのか、考えたいです。
一つの体、多くの部分
12体は一つでも、多くの部分から成り、体のすべての部分の数は多くても、体は一つであるように、キリストの場合も同様である。 13つまり、一つの霊によって、わたしたちは、ユダヤ人であろうとギリシア人であろうと、奴隷であろうと自由な身分の者であろうと、皆一つの体となるために洗礼を受け、皆一つの霊をのませてもらったのです。 14体は、一つの部分ではなく、多くの部分から成っています。 15足が、「わたしは手ではないから、体の一部ではない」と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか。 16耳が、「わたしは目ではないから、体の一部ではない」と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか。 17もし体全体が目だったら、どこで聞きますか。もし全体が耳だったら、どこでにおいをかぎますか。 18そこで神は、御自分の望みのままに、体に一つ一つの部分を置かれたのです。 19すべてが一つの部分になってしまったら、どこに体というものがあるでしょう。 20だから、多くの部分があっても、一つの体なのです。 21目が手に向かって「お前は要らない」とは言えず、また、頭が足に向かって「お前たちは要らない」とも言えません。 22それどころか、体の中でほかよりも弱く見える部分が、かえって必要なのです。 23わたしたちは、体の中でほかよりも恰好が悪いと思われる部分を覆って、もっと恰好よくしようとし、見苦しい部分をもっと見栄えよくしようとします。 24見栄えのよい部分には、そうする必要はありません。神は、見劣りのする部分をいっそう引き立たせて、体を組み立てられました。 25それで、体に分裂が起こらず、各部分が互いに配慮し合っています。 26一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです。
N.T
この6月で父が80才を迎えた。母はすでに何年も前に他界し、現在父は一人で生活をしている。時折お互いに連絡を取り合っている状態ではあるが、最近特にしみじみと実感してきたことがあるのでそのことを記したいと思う。
父は年齢の通り戦時中に生を受け、幼少期に終戦を迎えた世代だ。戦後の物資の乏しい時期に自然の中に遊びを見出して育った。本当に自然の他には物がなかったと聞いている。しかし、このことが父にとって後々とても豊かな財産になったと感じる。現在父は周囲に民家がほとんど無く森や林が続くような地域で生活している。以前、家族は都市部で生活していたが、ある時をもって現在の地に移り住み生活を営むようになった。父が生きた時代は戦後復興期、高度経済成長期、バブル経済期そしてその崩壊・・・と、戦後の日本の歩みの中で時代の恩恵を享受し非常にエネルギッシュに生き抜いてきたという印象がある。今は森の木々に囲まれた中で野鳥のさえずりを聞きながら冬に備えて薪を割るというような、とてもシンプルな生活を送っているが、若かりし頃は国政選挙の度に近所のオヤジ連中と酒を酌み交わしながら激論をたたかわせているような姿をよく目にした。そのような父がいる家庭だった。
思い返してみると私の育った家庭生活の中には全くと言ってよいほど宗教的な習慣や宗教色が無かった。私自身も宗教的経験や文化に触れる機会がほとんどなかったので、分らない事ばかりだった。そして、関心を持つようなきっかけも残念なことに無かった。
しかし高校生の頃だったか、飼い犬の散歩でよく訪れていたある丘陵地の林の中で不思議な体験をした。それはある晩秋の夕刻だった。紅葉が深まり雑木林は色とりどりの落葉で美しかった。散歩用の綱を外していたので犬は自由に周辺の匂いをかぎ、草むらの中でガサゴソと動きまわっていた。そんな愛犬の様子をどこかで感じ取りながらカサカサと音がする落葉の上に寝転び、だいぶ葉の少なくなった木々の先に広がる空を眺めていた。一日陽光を浴びていた枯葉のいい匂いがした。
突然、林の上を風が通りぬけ、残り少ない枯葉か枝を離れてひらりひらりとおりてくる様子を目にした。そして、これまた突然なのだが『自分には分からない、何か大いなる存在がこの世にはある。』と感じた。どうしてそう感じたのかは、わからない。ただ、風に揺れざわめく林の音や斜めから差し込む陽光、ひらりと舞う落葉のすべてがこの上なく美しかった。アニミズム的な不思議な体験だった。この時以来、『大いなる存在』への畏敬の念を意識して持つようになった。ある意味初めての宗教的原体験だったと今では考えている。
時を経て平和学園で子どもたちと共に生きるようになった。聖書に学び、祈るようになった。当初、このような私に父はあまり理解を示さなかった。無宗教的価値観念で長年生きてきた父に理解してもらうのは難しいだろうな・・・と私自身が閉ざしていたということも要因の一つかもしれない。
母が去ってから時がたち、自然の摂理を肌で感じとりながら生活をしている父。
非常に長い間宗教的な物事を頑なに除けてきたように感じる父が、この数年平和学園の取り組みについて耳を傾け、しっかりと賛同や疑問を表すようになってきた。80才を迎えた父と平和をつくり出すことへの夢を語り合う。聖書を礎とした成り立ちも含めて、不勉強な私ではあるがさらに父にも伝え、共に求めていけたらいいな・・・しみじみと実感しているこの頃である。
N.S
自分で読書に没頭する“朝読”の時間も、クラスみんなで一つの物語を共有する毎日の読み聞かせ、名付けて“みん読”の時間も大切にしています。“朝読”と同様にこの“みん読”も毎日5分と決め、クラスの子どもたちに合った本や伝えたい内容の本を選んで読ませてもらっています。毎日5分。タイマーが終了時間を知らせると、「あぁ、またいいところで・・・。」「ここで、終わっちゃうのかぁ・・・。」なんて子どもたちの声が聞こえてくると、ひっそりガッツポーズ。私にとっても嬉しいひとときとなっています。
さて最近、クラスで読み終えた本が『少女ポリアンナ』でした。かつて私が子どもだった頃、毎週家族で楽しみに見ていたアニメ、世界名作劇場の『愛少女ポリアンナ物語』の原作です。主人公のポリアンナは、両親を失うという不幸な身の上にありながら、どんな不幸せと思える状況の中でも、どんな苦難に遭っても、そこから良いものや喜び、幸せを見い出す“幸せゲーム(よかったさがし、うれしくなるゲーム)”の名人です。そんなポリアンナと出会った人々はポリアンナの生き方や愛に触れて幸せに生きる者へと変えられ、その温かなつながりはどんどん広がっていくのです。アニメでこの名作を楽しんでいた当時、父から「ポリアンナのようになりなさい。」と言われていたことが、なぜかはっきりと心に残っていて、私自身の生き方の大切な指針にもなっています。
今回、クラスの子どもたちに読んだものは、『少女ポリアンナ』の簡易版(10歳までに読みたい世界名作バージョン)でしたが、私が平和学園小学校で「聖書」に出会った頃、この原作を初めて読んだ時の感動を今も忘れられません。というのも、彼女の得意な“幸せゲーム”は牧師であったお父さんから教えてもらったもので、それが「聖書」のみことばに基づいているものだということを知ったからです。聖書には「主にありて喜べ」や「大いに喜べ」など喜び喜べの句が800も出てくるそうです。それほど神様は私たちを愛して、いつも、どんな時も「喜びなさい」と語りかけてくださっている。ポリアンナの生き方の原点は揺るぎない神様の信仰であったことを知れたことは、私自身の生き方の支えにもなっていきました。
神様から与えられている今日の日もまた、神様からのたくさんの恵み、「よかった!」が隠されているはず。そんな恵みを数える“幸せゲーム”をして今日を喜び、感謝して歩んでいかれたらと思います。(Y.T)
神に従う人よ、主によって 喜び踊れ。
すべて心の正しい人よ、喜びの声をあげよ。〈詩編32編11節〉
主に従う人よ、主によって喜び歌え。
主を賛美することは正しい人にふさわしい。〈詩編33編1節〉