平和郵便局がはじまりました。すると、子どもたちからお手紙が届きます。
「〇〇先生、いつも●●をしてくれてありがとうございます。」
手紙をもらった私は、この子は私にそんな風に感じてくれているんだなぁと嬉しさを感じるとともに新たな発見があります。
一緒に学校生活を送っているとあえて直接伝えることがないことを
平和郵便局があることで、普段伝えないことを伝える機会をもらうことができていると感じます。手紙の魅力の一つですよね。
スマートフォンやSNSなどの普及で手紙を送る文化は減ってしまっていますが、手紙のよさを子どもたちにたくさん知ってもらって、これからも手紙を書くこと、手紙をもらうことの喜びを味わっていってほしいと願います。
「小さな幸せって何?平和ってどんなとき?」と家族に聞いて考えた結果返ってきた言葉が「今かなぁ」って言われました。たしかに、幸せも平和もすでに自分の周りにたくさんたくさんあるのだと思います。そんな日常に感謝して、今日もまた一日小さな幸せと小さな平和を大事にしたいと思うのです。今ある日常を大切にするためにも、普段伝えない気持ちをあえて言葉にしてみませんか?
A・M
マタイによる福音書4章19節~20節(新約聖書5ページ)
イエスは、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われた。二人はすぐに網を捨てて従った。
私たちが住む世界では「師匠の門を自らたたいて弟子にしてもらう」ということが多い。例えば落語家になりたくて、師匠の門をたたき弟子となり、修行を積むとか。もっと身近なことでいうと、ピアノを習いたくて〇〇教室に申し込むとか。私もそうだ。あることをきっかけにボウリングが上手くなりたいと一念発起し、プロボウラーS先生の弟子となりもうすぐ2年が経とうとしている。
冒頭にある聖書の箇所には、それとは真逆の場面が描かれている。イエスは湖の畔を歩いておられ、二人の漁師と出会う。ペトロとその弟アンデレだ。突然イエスは二人に声をかける。「わたしについて来なさい」と。「弟子にしてください」と二人が頼んだのではない。イエスが二人の名を呼び、声をかけ、招いたのだ。それからイエスはこう言った。「人間をとる漁師にしよう」と。その言葉を聞いた二人はどうしたのか。生きる手段である網を捨て、すぐにイエスに従ったのだ。
この一週間、『はじめて』というキーワードが自分の中でグルグルしていた。それは、職員礼拝で皆と分ちあった「イエスのはじめての奇跡 ~カナの婚礼~」のお話によるグルグルだ。これは、婚礼の場で、ただの水を高級なブドウ酒に変え、ピンチを大逆転して皆をもてなすという、イエスがはじめておこなった奇跡のお話だ。ブドウ酒がなくなって困っていたとき、「水の入った水瓶を持って来なさい」とイエスに言われた召使はどんな思いでその瓶を運んだのだろうか。信じてはいなかったかもしれないが、運んだ水瓶の水はブドウ酒に変えられていたのだ。イエスがおこなったはじめての奇跡だ。
同じように、はじめての弟子となったペトロとアンデレは、イエスの招きをどのような思いで受け止め、なぜすぐにすべてを捨てて従えたのだろうか。すでにイエスに弟子がいたのなら、「安心だ。自分もイエスの弟子に加えてもらおう」と素直に思えたかもしれない。しかし、ペトロとアンデレがトップバッターなのだ。すぐに従うだなんて、自分にはできるのだろうか、いや無理だろう。だって、子どものころから「知らない人に声をかけられてもついて行ってはいけません」と教えられてきたし、安全上の理由から今も子どもにはそう伝えている。常識では考えにくい聖書の場面ではあるが、イエスさまの声で名前を呼ばれ、直接招かれたという奇跡のような出会いが描かれているのだと思う。すべてを捨てて従うからこそ生まれる、大きくて豊かな恵みがそこにはあるのだろう。水がブドウ酒に変えられたように、招かれた弟子たちは、自らが変わろうとしたというより、気がつけばイエスによって変えられていったのだろう。新しい生き方を得たということだ。
平和学園小学校に招かれた子どもたちにも、私たち大人にも、それぞれの家庭にも、イエスは声をかけてくださっている。一人ひとりの名を呼んで、招いてくださっている。「ついて来なさい」というイエスの言葉に、自分はどう応えよう。
もう一つ、考える。イエスは神の子なのだから、弟子をつくらなくても、今を生きる私たちに声をかけずとも、ご自身一人で神のための働きができたのではないか。しかし、イエスはそうはしなかった。共に働く「人」を招いてくださった。「一人で大丈夫!」ではなく、役割を人に与えてくださった。招くことで共に生きるイエスの姿を示してくださった。
イエスの声を聴ける人になりたいなあと思う。イエスについて行ける自分でいたいなあと思う。
H.T
先週末、土曜日は海に、日曜日は山に行きました。
海は小田原漁港。早朝からセリ見学ツアーに参加し、その日は「めったにないくらい魚が少ない」という日ではあったようですが、初めて見たまだ暗い中で始まった漁港の朝はとても活気がありました。寒さを我慢しながらの見学でしたが、人の活動の熱さと日の出の光のあたたかさとを感じた朝でした。ツアーの最後はもちろん、獲れたての魚のお刺身と味のしみた煮つけ、地元産にこだわったこだわりのはるみ米とみそ汁、そして珍しいアオリイカの塩辛という豪華な朝食で締めくくりました。その後は魚屋さんで買い物したり人懐こい猫と戯れたりして、海を満喫しました。
山は家から車で1時間半の近場スキー場。毎年来ているスキー場ながら、どんなに滑っても飽きません。我が家の子どもたちのペースに合わせて必然的にのんびり滑ることになり、初滑りにはちょうど良いくらいです。足が揃い始めている子どもたちに教えながら、私も重心を確かめ、ストックワークを確かめ…何十年も続けていても、もっと上達したいという気持ちがわいてきます。帰りには温泉に寄ることを決めています。初めて行った所でしたが、露天風呂から見える夜景がきらめいていて、テンションが上がりました。翌日の筋肉痛がちょっぴりうれしい初滑りでした。
二日間の標高差約1,000m。「海と山、どっちが好き?」という質問がよく聞かれます。私は迷わず「山!」と答えます。でも実はダイビングもドルフィンウォッチングも大好きです。月を見たり、飛行機に乗るのも大好きです。空の上から海の底まで魅力であふれています。海も山も、そして空も恵みで満ちています。
それをこの世界でこれからを生きる子どもたちにも伝えたい、子どもたちにも感じてほしいと思います。
昨日は海岸でのマラソン大会でした。折り返し地点で待っていると一生懸命走ってくる子どもたち。その向こうに大きな富士山と青い空、風で波猛る碧い海。すべての姿がとても美しかった。神様がつくられたありのままのこの世界が美しい、その中に私はいるのだと感じる時でした。
「神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった。夕べがあり、朝があった。第六の日である。」(創世記 1:31)
A.K
新しい年は始まったばかりですが、今の学年で子どもたちと過ごすのは残すところ3週間ほどとなりました。
誰もが同じ時を過ごしていますので、感じ方は変わらないと思いますがそれでも1年間本当に早かったと感じます。
良く時の流れが早く感じる時は密度の濃い日々を過ごしている、とか聞きますけれど多分そんな事は無いのではと思います。
もしそうであれば、出来ていない事や印象に残った事は鮮明に覚えているはずです。それがないという事は多分、日々を子どもたちと全力で過ごしていたからかもしれません。
振り返る事の大切さというのはとても大切です。
出来た事、出来なかった事を考え、どうするべきだったかと考える事で次に自分がすべき事が分かるのではないかと考えます。
また、振り返るばかりではなく未来の事に目を向ける事も必要なのかもしれません。
未来は誰にもわかりません、それでも進み続けるのは私たち人間が歩み続ける生き物だからかもしれません。
T.M