私は活字中毒で、電車やバスに乗った時は中吊り広告を、そして新聞があるとその面を端から端までをつい目で追ってしまいます。小さい頃から本がそばにあり、移動中や一人でいる時は本を読むことが多い子どもでした。でも最近は子育てや仕事でなかなか時間が取れず、読みたい本ばかりがたまっていました。そこで「冬休みにはこれを絶対読む!」と決めて、たまっている本の中からすぐに読める薄い本を選びました。帯には、こう書かれています。
『もう、夜明けは近い。だからこそ、いまが一番暗くつらいとき。変化を力にして、新たな未来へーーー。
私たちの新しい夜明け(チーズ)は「変化」の先にある。
自分の人生は、自分しか変えられない。』
このお話の登場人物はネズミ2匹と小人が二人。ある日ある迷路で、いつもチーズがあった場所にチーズが無くなっていたら…。それぞれの登場人物がそれぞれの行動に出ます。すぐに変化に気づき、すぐに次の行動に移るネズミたち。しばらくその変化を受け入れられない小人たち。小人たちもやがて気持ちが分かれ単独行動になります。変化への恐怖に対して、勇気を持って乗り越え先に進む者と身動きせずひたすらそこに留まる者。
私たちの生活も「新しい生活」となり、既に2年経とうとしています。この間に私はどの登場人物のように過ごしてきたのでしょう。大人になると「節目」が少なくなり大きな変化が無い生活の中、大きな変化が訪れると小人たちのように恐怖を抱くことも多いのではないでしょうか。その点、目の前の子ども達を見ていると、子ども達の方が変化を受け入れ、次の行動に進めるように感じます。何かできることは無いかと周りと自分を見つめ、一歩、また一歩と勇気を出して見えない先に向けて踏み出していくことが大切なのではないか、でもそれは世の中の状況のみならず、身の回りにあることに対しても…そんなことを考えさせられた本でした。
私たちは神様から、それまでの私がどんな私でも、新しくなることを許されています。
古い人をその行いと共に脱ぎ捨て、造り主の姿に倣う新しい人を身に着け、日々新たにされて、真の知識に達するのです。(コロサイの信徒への手紙 3:9~10)
「変化」というのは、新しい自分に出会わせ、アップデートしながらバージョンアップしていくチャンスでもあります。自分で自分に課している固定観念を捨てる勇気を持って! 物語の最後に小人が迷路の壁にチーズの絵と共にこんなことを書きました。
「チーズと一緒に前進し それを楽しもう!」
終わり(いや、ここから始まるのかもしれない)
ご紹介した本;『チーズはどこへ消えた?』 著…Spencer Johnson,M.D. 訳…門田 美鈴 発行…扶桑社
A.K
♪めぐみの神さま
今いただく たべものを
主イエスの 名によって
かんしゃします。
アーメン。 〈こどもさんびか136番〉
「いただきます!」
平和学園小学校では、食前のお祈りをします。その時々の言葉でお祈りすることもありますが、こどもさんびか136番の『めぐみのかみさま』がよく歌われます。楽しみにしているお弁当を前にして、です。お腹がぺこぺこですから早く食べたくて歌声がちょっと早めになる時も、ピアノ係さんのピアノの奏楽に合わせてゆったり歌う時も、合いの手が入ってにぎやかに歌う時もあります。私はこのお祈りする時、幸せを感じます。
さて、我が家でも同じように、この『めぐみのかみさま』を食前に歌ってお祈りしています。ある日、「ママのクラスでは、“ズッチャラー♪”と合いの手が入ったりするんだよ。」と話しましたら、下の子がそれをとても気に入ってしまいました。そして、食事も終わりの頃だったのですが、また『めぐみのかみさま』を歌い出したのです。「今は歌わないよ。」と言おうと思ったのですが、よくよく聞いてみると・・・。
♪めぐみの神さま(ズンズンズン:自己流合いの手)
今いただいた たべものを(ズンズンズン)
主イエスの 名によって(ズンズンズン)
かんしゃします。(ズンズンズン)
アーメン。
その歌詞を聞いて、なるほど!と思わず納得してしまいました。食前にこれからいただく食べ物に感謝してお祈りするのも、食後にまた、いただいた食べ物に感謝してお祈りするのも何て素敵でしょう!ふだん何気なく過ごしているところに、当たり前と思っているところに、実は神様からたくさんのお恵みをいただいている、その一つひとつの前にも後にも神様に感謝していられたらいいなぁと改めて思わされる出来事でした。
「どんなことにも感謝しなさい。
これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。」
~テサロニケの信徒への手紙 一 5章8節~
Y・T
国語の授業で『行間を読む』と言われたことがあります。
文と文との間の行間。そこになにがあったのか、描かれていない登場人物の表情の変化だったり、情景、空気感。
著者のバックボーンや、時代背景まで調べたりするとなお一層面白いです。そういったことを調べ、考え、想像することが面白いです。
また、『余白を大切にする』絵を見たこともあります。
ここで言いたい余白とは、なにも書いていないことではなく、絵の中での想像が可能な部分のことです。作者がどうやって書いたのかという方法を想像できるような余白だったり、この絵の登場人物の見る先には一体何があるのだろう?という絵の続きを想像できるような余白だったり、タイトルと絵のイメージとでどうしてこのような構図にしたのか想像する余白だったり。
つまり、絵を描いた人が、見る人によって異なるように見える絵だったり、見る人によって絵が完成する絵だったりを『余白を大切にする』絵だと思っています。
日によって違うように見える絵なんて、おもしろいと思います。
さて、文を読む時や絵だけではなく人と関わる時にも表情だけではなくその裏にあることだったり、言葉から滲み出る経験や思いを読み取ることがあります。
文を読む上での行間であったり、絵で言う余白のように、この人はどうしてこういう表情をしていて、どうしてこう言う言葉を使うのだろう。という思いを巡らします。
大抵、残念ながらそういう思いを巡らす時というのは、自分自身の経験上なかなか受け取り難い時です。
そう言う時は優しく受け止められるような心の余裕を持って、その表情や言葉の意味と自分の先を考えたいものです。
小学校の先生という仕事をしていて、人と関わり続ける仕事なんだなあと常々思います。
人と関わる時に必要となる心の余裕が日々求められるようなことが多々起こります。
瞬時に判断を求められること、ゆっくり寄り添い考えること。さまざまなことが起きる中で、『教員は自分の経験の幅でしか受け止められない』という恩師の言葉を思い出します。
説明的に、写実的に、機能的に。生産性があるか、価値があるか。
美しくデザインされたこの世界に住むのであるのだから、文の行間を読むような、絵の余白を想像するような余裕を持ちなから生きたいものです。
そんなことをパンを捏ねるという贅沢な時間をすごしながら考えました。
彼は答えた。「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、
また、隣人を自分のように愛しなさい』とあります。」 ルカによる福音書10章27節
N・T
パンをこねて
成型して
いい香りがだんだんと部屋に広がって
今日はシナモンロール。