素敵な絵本に出会いました。
『たくさんのドア』(文 アリスン・マギー / 絵 ユ・テウン / 訳 なかがわちひろ)です。
きょうも あしたも あなたは
たくさんの ドアを あけていく
そのむこうに
たくさんの あたらしいことがまっている
こんな風に始まるその絵本は、ドアを開けたその先のことが描かれています。
ドアとはいったい何でしょう?
それは新しいこと、初めてのこと、未知のこと・・・。
今日という新しい日そのものも、新しいドアと言えるでしょう。
また3月は、これからまさに新しい大きなドアを開けようとしている時でもあります。
何があるか分からないから怖い・・・。失敗してしまうかも知れないから心配・・・。
新しいドアを開けるのは勇気がいることです。
だけれど、開けたから見える景色があり、開けないと見えない景色があります。
それでも1人で開けるのは・・・と言う時、どうぞ思い出してください。
この絵本は、こうしめくくられています。
はるばるとした おおきなものに
あなたは まもられている
なにがあろうと
「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたくものには開かれる。」~マタイ7章7-8節~
Y・T
「貴方の『原点』と言える経験は何ですか?」
今から二十年以上前に、ある人から投げかけられた問いだ。
『原点』とは『その後、生きていく上での軸になっている事』というような話をされたように記憶している。
その時、自分自身の深いところで『これが原点だ』と断言できる経験や出来事と思えることに出遭ったとは感じられず、返答することができなかった。
その人とは年に1回お会いできるかどうかという感じで、その後この話題について深く話すことができないまま時が経ち、十数年前にその方は他界された。
そして、とうとう返答することが叶わぬ人生の宿題となってしまった。
あれから事ある毎にふっと思い出し、自分なりの解釈を積み重ねてきた。
最近、ある事に気が付いた。
それは、経験の時間軸を一点で捉えていたということだ。
「あの時の出来事は『原点』につながるな」とか「この経験は『原点』の一つとして考えられるな」等と、時間が停止したある時点の出来事限定で考えていたわけで、時間軸をもっと延ばして考えればよいではないかということに思い至った。
そう考えると、平和学園との出会いから今に至るまでの長い時間そのものが私にとっての『原点』といえるのではないかという捉え方が現時点で最もしっくりくる答えとなった。聖書との出あい、子どもたちから多くのことを学ばせていただいたこと、そしていろいろな方々との出会いや別れ等ものすごく大切なことがたくさん詰まっている。
現時点での私なりの答えを、今目の前でその人に伝えることはできないが、大きく重たい宿題を遺してくださったことに深く感謝している。
これから先歩んでいく中で、私の中の新たな『原点』につながる出来事に出会えるか分からないが、楽しみに感じている自分がいる。 N.S
寒の戻りが何度か訪れて、ようやく春の空気が感じられるようになってきましたね。
畑をしていて思うことは、先人の知恵の大切さです。野菜を育てていく上で、初心者の私は野菜の状態を見極めるための目も、そもそもの育てるための適した環境づくりに対する知識も、何もありません。そのため、先人の知恵に頼るのですが、それが面白いです。
私の先人の知恵の仕入れ先は畑を貸してくださる農家の方と、私の父です。言われた通りするともうそのまま野菜が育ってくれる・・・言われたことが本当にその野菜に起きる・・・毎回驚きと楽しさがあります。
冬から春に向けて、畑はだんだんと忙しくなってきます。初心者ながら畑をしていて非常にワクワクする時間を過ごしています。
年末年始にかけてできたのはかぶ、大根、春菊、ほうれんそう、小松菜、水菜、レタス・・・・。
特に大根とかぶはたくさん出来て、煮たり、焼いたり、サラダでも食べました。特に生のかぶをスティック状にしてマヨネーズとアンチョビを混ぜたディップにつけて食べるのが美味しかったです。
また、霜にあたったほうれん草は甘くなる・・と聞いていたのですが、本当でした。
ソテーにしても、おひたしにしても、それこそ生でパクッと食べても驚くほどの甘さ。
最近はさまざま種を蒔き、これから春に向けてできていく野菜の準備をしています。
じゃがいも、そらまめ、ほうれん草、小松菜、大根、かぶ、インゲン豆、レタス、にんじん・・・
夏野菜の準備もしており、トマト、きゅうり、なす、ズッキーニなどをタネを撒いてみました。果たして芽が出てくれるのか・・・。
←ほうれん草の芽って、初めて見ると、全然違うので驚きました。
かぶの芽はあっという間に→
ぴょこぴょこと芽を出す可愛いかぶは、葉っぱもかぶも、美味しい。
←にんじんは芽を出すのが難しいと言われていますが、出てくれました。大きなにんじんができますように。
春の野菜で楽しみにしているのは空豆です。スーパーで買うと結構な値段で、買っても皮を剥くと豆はほんのちょっと・・・。
たくさん食べたい!と思って作ってみた空豆は、タネから芽が出てくれて、元気に花をつけてくれています。このまま順調に育ってくれたら良いのですが、そこは自然相手ですので降りかかる災難・・・ならぬアブラムシが降って湧いてきました。
この空豆に対して先人の知恵をいくつかいただいていたのですが、その中にもこのアブラムシの件がありました。ただこれはどの先人の知恵に対しても思うことなのですが、実際にこの状況に遭遇するまではなんとなく信じがたいことがあります。
空豆につくアブラムシに対しての先人の知恵は、「アブラムシはそらまめの茎の先にだけ付き、そこから降りてくる。」ということでした。
そんなことって、あるんだろうか・・・。空豆の茎や葉はけっこうワサワサと茂っており、私の目から見て空豆の葉や茎は空豆の葉や茎でしかなく、変わりがありません。そのため、空豆の先っぽにだけアブラムシがつく・・ということは俄には信じがたいことでした。
とはいえ信じがたいことでしたが、事実でした。例に漏れず私の育てている空豆にもアブラムシがたくさんついてくれました。
アブラムシがついたのは空豆の花や、葉がこれから開くためにくるくるっと巻かれたところでした。空豆の先の、若く柔らかい葉がくるくる巻かれて居心地がいいのでしょうか、初めてアブラムシを見つけた時にはそのアブラムシの数にギョッとしました。
そのため私は先人の知恵に従い、クルクルっと巻かれたところをつまんで折り捨てました。先人の知恵によると、花は七段くらいで、その先にできるものは取ってしまったほうがいい。ということでしたが、まさにその通りでした。先に空豆のくるくる巻かれた葉を取った茎にはアブラムシはつかないのです。
私の目から見て空豆の葉や茎はどれも変わらず、先にしかつかないということに信じがたいものがありましたが、実際にそのようになり驚きました。
野菜を育てていると、先人の知恵に驚かされることが多々あります。おそらく、それは子育てでも同じことなのではないでしょうか。
これは教員としても人間としてもまだまだ未熟は私は直すべきことだなあと反省するのですが、時折先人の知恵をいただく際に、「自分のやり方だってあるんだい」とか、「自分の努力も認めてくれ」と思うことがあります。でも、これも野菜の時と同様、先人の知恵から学び取っていきたいですし、そこに驚きと楽しさがあるはずだと思います。
野菜のようにそれぞれ適した環境があり、親も教員もそれに対応していく。そこにはこれまで対応していた先人がいて、その先人が残してくれた知恵がたくさんある。だから、親として、教員として子どもを育てる為に学び続けたいと思います。
わたしは植え、アポロは水を注いだ。しかし、成長させてくださったのは神です。
コリント信徒への手紙1 3章6節
N.T