「体のともし火は目である。目が澄んでいれば、あなたの全身が明るいが、濁っていれば、全身が暗い。だから、あなたの中にある光が消えれば、その暗さはどれほどであろう。」マタイによる福音書 6章22・23節
ある朝、とても風が強かった。私が学校につくと、校舎内には沢山の落ち葉が強風によって運ばれ、校舎の外も落ち葉だらけになっていた。
「あぁ・・・どうしよう。私1人ではとても全て片付けられない。」
誰かに「手伝って」とお願いしようか・・・と思ったその時、
「先生!!校舎の中に落ち葉がすごいことになってるね。ほうきやろうか?」
と、ある子が言い出すと、「私もやるー!」「俺もやりたい!」と次々と平和学園小学校の子どもたちが、朝の学校の掃除をはじめた。
それが5・6人の話ではない。一瞬で20人くらいの子どもたちへと掃除の輪が連鎖した。
学年関係なく、「私こっち集めるから」「じゃー俺ゴミ袋もってくる」「チリトリもっててくれない?」と、掃除をする子どもたちの姿勢、関わり合い、声の掛け合いがとても感動的な朝だった。
子どもたちのおかげで、朝のうちに学校はきれいになった。子どもたちの力はすごい。
自ら、誰かのだれかのために行動する・奉仕する
その姿を見て、私は子どもたちの中に、光を感じた。
子どもたちの目はとても綺麗だった。
平和学園小学校の子どもたちは、それが自然と当たり前のようにできる子どもたちが大勢いる。
いつまでも、その心を大切にしてほしいし、後輩たちへその姿勢を受け継いでいってほしい。
そんな偉そうな言葉を書きながら、本当は、私自身が子どもからたくさんのことを学ばせてもらっている。
本当にいつもありがとう。 AM
6月の「ひとピース」で、『空を見上げよう』と題し、私は野鳥のことをつぶやいた。野鳥とのつきあいは小学生の時からだと。
実は、小学生の時から今もなお抱えている宝物が、ありがたいことに他にもたくさん私にはある。
そのひとつがリコーダーだ。小学6年の時に親に買ってもらったソプラノリコーダーを、私は今でも大切に吹いている。
私が通っていた小学校はリコーダーがとてもさかんだった。音楽のH先生が独自に設けた30ほどの課題曲が、希望する子には誰にでもプレゼントされた。受ける受けないは自由。でも私は毎日練習し、休み時間になるとH先生のところに足しげく通い、課題曲を夢中になって吹いた。笛のやさしい音色がとにかく好きだった。自分で言うのもなんだが、どんどん上達し、すべての課題をクリアできた。
その学校では、すべての課題曲をパスすると「木の笛を買ってもいいですよ」ということになっていた。買ってもよい・・・すなわち、買ってくれるわけではないのだ。木の笛に憧れていた小学生の私は、その思いを一生懸命親に話した。笛が大好きなんだとか、毎日がんばったとか、ずっと大事にしたいとか、だから買ってはくれないだろうかとか・・・ 自分の思いをそれほどまでに親に伝えたのは、その時が初めてだった気がする。
なんと、しばらくして私のところに木の笛がやってきたのだ。なんという喜び! その感動は今も忘れない。
次の日、私は図工のI先生のところにとんでいった。I先生はやさしく私にこう話してくれた。「ずっと大事にするんだよ。ぼくが名前を彫ってあげるね。」と。
H先生が熱心に教えてくれて、小学生にとって高価であったはずの木の笛を両親がプレゼントしてくれて、I先生が一週間かけて愛情たっぷりに彫ってくれたネーム入りの木の笛。
この笛でたくさんの曲を吹いた。賛美歌をいっぱい奏でた。音の美しさ、二人で音を重ねる気持ちよさを、いろいろ味わった。それは今でも続いている。平和に来て、先生達とも子ども達ともいっしょにたくさん笛を吹き、祈って賛美が出来ている。木の笛が今も賛美と私を繋げてくれている。目には見えない宝物をたくさんいただいている。心から「ありがとう」だ。
小学生の時からの宝物。これからも大事にしていこう。
イエス様は、この小学校に通う平和の子にも、それぞれに、その子だけの宝物をプレゼントしてくれている。
一人ひとりがその宝物を大事に育てていけますように。
「主の慈しみとまことはとこしえに わたしたちを超えて力強い。ハレルヤ。」 詩編117編2節
髙岸博康