27.裸で逃げた若者


 主イエスさまは十字架につけられる前の日すなはら木曜日の晩に、エルサレムの都で弟子たちとともに夕食をしたいとお考えになり、その準備を二人の弟子に命じて言われました。

 「都にはいると、水がめを持っている男に出会うであろう。その人について行って、その家の主人に、私たちが皆いっしよに食事ができるように、座敷のことをたのみなさい」

 弟子たらがエルサレムの都にはいって行くとまもなく、水がめを持った一人の若者に出会いました。

 ユダヤの地方では、水がめを持って水をくみにくるのは女の人であって、男の人はたいてい皮袋に水を入れ、かついで運ぶのでした。男の人が水がめを持って運ぶのは極めてまれなことでした。それで二人の弟子たちは、主イエスさまの言われた「水がめを持っている男」とはどの男の人だろう、などとまごつくことはなく、すぐにこの人だなと分りました。

 そこで彼らはその人について行き、その家の二階の広い座敷を借りて準備し、みんなで夕食をしました。これが主イエスさまと弟子だちとのお別れのいわゆる「最後の晩餐」でした。

 晩餐が終って、主イエスさまと弟子たちは、ゲッセマネの園に行き、そこでお祈りをしておられました。するとそのとき、イエスさまを捕えるために役人たちが、イスカリオテのユダの道案内でやって来ます。そしてイエスさまは捕えられました。弟子たらはみんな夢中で逃げました。

 そのときその場に一人の若者が麻布を体に巻きつけて弟子たちについてきていたのですが、その麻布を引っぱられ、危うくつかまりそうになったので、すばやくそれを脱ぎ捨て、裸になって逃げました。水がめを持っていた人と、あわてて裸で逃げたこの若者、これが多分同じ人で、マルコであっただろうと言われています。

 マルコは、もともとはヨハネという名であったようです。新約聖書使徒行伝には「マルコと呼ばれているヨハネ」と記してあります(12・12~25)。

 マルコのお母さんはマリヤという名で、エルサレムに住んでいて、主イエスさまや弟子たちと親しい交わりをしていました。その家は主イエスさまの最後の晩餐ができるほど大きかったので、のちにエルサレムの信者たちの祈りと集会の場所として使われました。

 それでマルコは自分の家に出入りする主イエスさまの弟子たちや多くの信者たちと早くから知り合い親しくなり、その人たちから「マルコと呼ばれるヨハネ」として親しまれていたのでしょう。

 そのころシリヤのアンテオケの教会が活発になり、バルナバとサウロ(のちにパウロと改名)を海外伝道に派遣することになりました。バルナバはアンテオケの教会の人びとの祈りにはげまされて、サウロと共にまず地中海の東部にあるクプロ島に渡りました。これは今サイプラス島とかキプロス島といわれている島で、バルナバはこの島の出身者でした。バルナバは伝道旅行の第一歩をまず自分のふるさと伝道から始めたというわけです、彼のはげしい伝道意欲がしのばれます。

 クプロ島伝道中に、バルナバは自分のいとこであるマルコをさそい、伝道の手助けをするために同行させます。またこのクプロ島でサウロはパウロと改名しました。それは、これからのちの伝道のためにひらけてくるであろうひろい世界を望み、意識しての改名であったかも知れません。

 クプロ島伝道がひとまず終ると、パウロ、バルナバ、マルコの三人は海を渡って小アジアへ向います。そしてパンプリヤのベルガという所に着き、さあ、これから小アジアの伝道を始めようというときに、マルコは彼らといっしょに行くことを断り、自分だけ一人でエルサレムへ帰ってしまいました。

 その後また、パウロとバルナバによって第二回伝道旅行が企てられました。そのとき、マルコをつれて行くかつれて行かないかが大きな問題になりました。バルナバは、自分のいとこのマルコをつれて行きたいのです。しかしパウロは、マルコがこの前の旅行のときに途中からやめて帰ったのがどうもかんにさわっているのです。それであんな者はつれて行かない、と大変にはげしい議論となり、パウロとバルナバとの意見が衝突し折り合わなくなって、とうとう二人は別れて行くことになり、バルナバはマルコをつれて再びクプロ島に渡り、パウロは新しい弟子ビフスと共に、陸路山々を越えてシリヤ、キリキヤの地方を通って小アジアの伝道に向いました。こういうことがあってしばらく、マルコはどうしていたのか分りませんが、多分いとこバルナバの指導の下で、伝道者として成長し活動していたことでしょう。

 それから十幾年かたってのちに書かれたバウロの手紙

 

P178

わたしと一緒に捕われの身となっているアリスタルコと、バルナバのいとこマルコとが、あなたがたによろしくと言っている。

このマルコについては、もし彼があなた方のもとに行くなら迎えてやるようにとのさしずを、あなたがたはすでに受けている。

 (コロサイ人への手紙4・10)

 

これによれば、パウロが捕われて獄中にあったときに、マルコはそばにいてその働きを助け、彼の力ともなり慰めともなっていたことが分ります。

 パウロはこのマルコを、「神の国のために働く同労者であって、わたしの慰めとなった者である」と言い、また「彼はわたしの務のために役に立つ」とも言っています(テモテヘの第二の手紙4.11)。前には役に立たない頼りにならない者としてパウロからきびしく非難され、第二伝道旅行に参加することを断わられた若者マルコは、大きく成長してパウロのために大切な同労者となりました。

 マルコはまたぺテロにとっても得がたき大切な同労者となりました。ペテロは彼を「わたしの子マルコ」と呼んでいます(ペテロの第一の手紙5.13)。いかに彼が有能な同労者として信頼され愛されていたかが分ります。

マルコはお母さんのマリヤやいとこバルナバを通してぺテロに会い親しく交わるようになり、やがてペテロの手伝をするようになったのでしょう。ガリラヤ湖畔の漁師であったペテロがギリシャローマの世界で伝道をするためにはどうしても通訳をしてくれる人が必要でした。マルコはペテロのためにこの大切な仕事をしました。

 こうしてペテロの働きを手伝っている間に、マルコはペテロから、主イエスさまについていろいろと直接の生の話を聞くことができました。イエスさまがあのときこんなことをおっしゃったとか、こんなことをなさったとか、ペテロは思い出を新たにしながら、折り折りにマルコに語り聞かせたことでしょう。それは断片的であったかも知れないが生き生きとした話で、強くマルコの心を打つものがあったでしょう。

 彼はペテロから聞いたことを忘れないように覚え書きにしておきました。後になって、このマルコの覚え書きをもとにし、それに他の資料を組み合わせて主イエスさまの生涯の物語がまとめられ書かれました。これがマルコ伝福音書であります。

P179

 もちろん現在のマルコ伝福音書がそのまま、マルコが書いた通りのものではありません。幾人かの手が加えられて編集されたものですが、しかしその中には、主イエスさまの直弟子ペテロが見証者としてマルコに語り聞かせた話もあり、またマルコ自身が直接に見たり、他の人たちから聞いたりしたことも記されてあって、史実を多くふくんでいる信頼性の高い福音書であります。

 ペテロから聞いた覚え書を整理し、それをもとにして福音の物語を書くとき、マルコは自分が若者であったあのころのことをまざまざと思いおこしたでしょう。水がめを持ってエルサレムの都の通りを歩いている時に、自分は主イエスさまの二人の弟子に出会った、そしてその二人を家につれてきた、それから「最後の晩餐に「終ってゲッセマネの園、何やら緊迫した空気の感じられたそのとき、月の明るい園の中で起った出来事、筆をここまで進めたとき、マルコは一気書きつけました。

 

ある若者が、身に亜麻布をまとって、イエスのあとについて行ったが、人々が彼をつかまえようとしたのでこの亜麻布を捨てて、裸で逃げて行った。

(マルコによる福音書14・51~52)

 

 これは、イエスの生涯の伝記の中に書き込む必要は何もないことです。何のために書くのか、キリスト教の信仰とか福音に何も関係のない出来事です。それにもかかわらず、それを書かずにおれなかったというのは、書きつづけているとき、あの晩のことが走馬燈のように目の前に浮かび、ふと「あゝあのとき私は裸で逃げたんだ」という思いがよみがえり、思わず筆が動いたのでしょう。

そういうところからみてもマルコ伝の史実性が信じられるでありましょう。

 ところでそのマルコの名をつけられているマルコ伝福音書とはどういうものでしょうか。これは多分ネロ皇帝の迫害でパウロやペテロが殺されたそのあと、西歴記元六十五年の頃から、エルサレムが滅亡する七十年までの間に書かれたものであろうと言われております。

 マルコ福音書は、そのはじめ第一章の一節に。

 「神の子イエスキリストの福音」

と書き出しております。ですからこれはただイエスという人の伝記、一生の物語を書いたものではありません。

「神の子イエスキリストの福音」を書こうとしたものです。ですから私たちはマルコ伝を読むとき、ここに神の子イエスキリストの福音を聞く、という姿勢で読むことが必要だと思います。

P180

 マルコ伝には、イエスさまがどこでどんなにして生れたか、イエスさまがどういうふうにお育ちになったか、という誕生物語あるいは少年時代のことはいっさい書いてありません。いきなりバプテスマのヨハネの活動を書き、それにつづいて主イエスさまの活動を書いています。しかも主イエスさまの活動では、マタイやルカの福音書のようにそのなさったお話や説教が中心ではなくて、動きが中心になっています。主イエスさまの活動、神の子キリストとしての動きを書こうとしています。ですからマルコ伝は非常に活動的な福音書です。イエスさまがはげしく動いていらっしゃることが、生き生きと書かれてあります。

 私たちはマルコ伝を読むときに、このイエスさまの激しい動きを見失ってはなりません。またその動きに添って私たちも、イエスさまが行くなら私たちも行く、イエスさまが走るなら私たちも走る、そういうしかたで、イエスさまの歩みのあと、動きのあとを見失わないでついて行くような気がまえで、このマルコの福音書を読めばよく分るのではないかと思います。

 その動きはどんな動きだったかと申しますと、それは苦しみの動き、苦難に向う動きなのです。ですから、十六章からなっておるマルコ伝の第一章から第十章までは、イエスさまがエルサレムを目ざして進む伝道のはたらき、第十一章から第十五章までは苦難の一週間の物語、そして第十六章は復活の話になっています。

 マルコ伝の始めの部分で度々使われておることばは、(すぐに、すぐ)ということばです。それは非常にしばしば使われております。学者の研究ではマルコ伝の中には、(すぐに、すぐ)という意味のことばが四十一回使われている

と教えられております。それは始めの部分に多く見られます。

たとえば、

 

水の中から上がれるとすぐ、天が裂けて……

 (1・10)

それからすぐに、御霊がイエスを荒野に追いやった

 (1・12)

すると彼らはすぐに綱を捨てて、イエスに従った……

 (1・18)

P181

そこですぐ彼らをお招きになると………

 (1・20)

安息日にすぐイエスは会堂にはいって教えられた

 (1・21)

それから会堂を出るとすぐ、ヤコブとヨハネをつれて………

 (1・29)

 

というように、(すぐに)とか(すぐ)という言葉が矢継ぎ早やに、つぎつぎに追っかけるように、たびたび使われています。はげしい動きが感じられます。

 第十一章から終りまでは、あのエルサレムの最後のお苦しみに集中されております。そしてそれが終ったときに、十字架の下に立って見張っていたロマの百卒長は、

 「まことにこの人は神の子であった」

と言ったと書いてあります。「神の子イエスキリストの福音のはじめ」として筆をおこしたマルコは、十字架が終ったときに、ロマの百卒長をして、「まことに、神の子であった」と言わせました。これはある意味でマルコ伝の結論ではないかと思います。

 マルコ伝は、神の子がどのように活動なさったか、苦しみなさったか、そして死になさったかに筆を集中して書いています。

 苦しみにあい、十字架にかかられたけれども、彼は神の子だったというのではなくて、十字架にかかられたからこそ、このように苦しみ、このように死にたもうたからこそ、あきらかにこの方は神の子だ、とマルコ伝は言っているのであります。

 マルコ伝はロマの都で書かれたと言われております。ネロ皇帝の迫害だけに終らず、さまざまな仕方でロマのクリスチヤンたちは迫害され大変な苦しみに会っておる、そのときに、彼らのために書かれたのがこの受難のキリスト、苦しみたもう神の子キリストの物語、マルコ伝福音書なのであります。

 いま大きな苦しみの中にある主にある兄弟たちよ、この福音書を読んで、主イエスさまの苦難の死を見上げて下さい。そして、あの激しい苦しみに向って突き進みたもうた主イエスさまのあとに従って、この今の苦しみの時を、みんな信仰を固くして乗り切って行って下さい、という励ましの祈りをこめて書かれたのがマルコ伝福音書なのであります。

 マルコは、その福音書の中に、体にまきつけていた麻布を脱ぎ捨てて逃げ去った若者、すなはち若き日の自分のぶざまな姿を書きつけました。こんなことは福音物語と何の関係もない、書く必要のないことだ、無用の書だと考える人もあるでしょう。しかし私はこれを書いたマルコの気持を思わずにはおられません。

P182

 最後の晩餐、ゲッセマネの園、そしてゴルゴタの丘の十字架、思い起すたびにおそれとおののきを覚えるあの一連の出来事を書き記そうとするとき、マルコはあの晩、裸で逃げた自分の姿が目の前にチラチラと動いているような気がしたでしょう。消そうとしても消えない、忘れようとしても忘れられないあの晩のこと、そうだ、逃げた自分の姿を書きつけておこう、忘れてはならない。自分は逃げた、ゲッセマネの園で逃げた、ゴルゴタの丘から逃げた、そして小アジアを目指した伝道の途中からも逃げた。このように自分で自分を責めたてるような気持で、もう逃げないぞ、逃げてはならないぞと、自分に言い聞かせるような思いをもって、「裸で逃げて行った」と書きつけたのではないでしょうか。

 マルコはまた思ったでしょう。そんな自分を主は召して伝道者として用いて下さる。伝道の旅で脱落者となった自分を、バルナバもパウロもペテロも見捨てないで(わが同労者)とか(わが慰め)と言ったり(わが子マルコ)とまで呼びかけて下さる。このように皆からあつい祈りと愛をもって、励まされ、ささえられておるのに、ここで座りこんではならない。今ローマの迫害が激しくなり、その炎が燃え立つとき、もう自分は後向いてはならない、途中からなげ出してはならない、逃げてはならない、そういう思いをこめて書いているのです。これを読む人はみんな、まっしぐらに信仰を固くして進んで下さい、という切々たる思いをこめて書いたのがマルコ伝福音書だと思います。

 聖マルコの日を迎えましてマルコを思い、マルコ伝を読んで信仰のあゆみに、さらに一層上よりのみちびきをいただきたいと思うのでございます。

 

1983年 4月25日

 聖マルコ日

 大口聖公会にて