13.神さまのお名前
(要旨)
教会の歌は人々に喜びや慰めを与えるが、最も短く立派な歌は「父と子と聖霊に栄光あれ」であり、結局すべての賛美は三位一体の神に帰せられるべきだと説かれる。三位一体とは父・子・聖霊が三つでありながら一つの神であるという不思議な真理で、アタナシオ信経に詳しく記されている。ただし「信仰箇条を守らねば滅ぶ」との文言には強い抵抗を覚え、教会は救いを示すべきだと批判する。その上で、父なる神は創造主、子なる神は十字架のイエス、聖霊なる神は力と励ましを与える存在として働かれることを示す。聖書には「三位一体」という語はないが、全体を通してその事実が現れている。桜島の異なる姿や電気の多様な働きに譬えられるように、一つでありながら多様に現れる神の働きを信じることが大切である。信仰とは理論を理解することではなく、命を委ねて信頼することであり、父・子・聖霊の御手に支えられて生きることを感謝し、栄光をささげるべきだと結ばれる。
1984年6月17日 三位一体主日
大口聖公会にて
(本文)
P163
教会には神さまを賛美する歌がいろいろあります。その歌はそれぞれ立派で、わたしたちに喜びを与えたり、励ましを与えたりまた慰めを与えます。歌っているとだんだんとそのうちに自分の歌になってくる楽しい歌が沢山あります。
そういう歌の中で一番短い、短いと言っても一番立派ではないかと思う歌があります。それはよく礼拝のときに詩編を読んだあとに付ける歌です。
父と子と聖霊に、
栄光あれ、
始めにあり、今あり、
代々限りなくあるなり。
アアメン
詩編を読んでその後に必ずこの歌を付けますが、これはおそらく一番短いけれども一番立派じゃないかと思います。教会の歌は、どんな歌でも結局は父と子と聖霊に栄光あれ、というそこに歌い上げられねばならないと思います。
今日は三位一体主日と言われている日でございますので、この父と子と聖霊ということをごいっしょに考えてみましょう。
三位一体ということは、神さまは、父と子と聖霊と三位ありますが、三方いらっしゃるのではなく、一つの神さまですよということです。
父なる神さま、子なる神さま、聖霊なる神さまと三通りですが、三つでなく一つだということ、何か妙なことですよね。三つで一つ、 一つで三つ、それはどういうことでしょうか。三位一体を、あゝだこうだといろいろ説明したり議論したりしますが、神さまのことですから、本当はわからないのでしょう。
しかし、まあわたしたちがわかり得る範囲内で、なるべく分かり易く、なるべく間違いのないように言いあらわしましょうとまとめられたものが、祈祷書八六ページにあるアタナシオ信経です。
このアタナシオ信経というのは、わたしどもがよくなれております、使徒信経とかニケヤ信経というような信経の一つで、聖公会ではこの三つの信経が保存されております。
P164
アタナシオ信経というのは、昔アタナシオという人が教え伝えたものだというように言われておりますが、これは伝説で、本当はアタナシオであったかなかったか確かなことはわからないのであります。そのようにわからない程古く、昔から教会で言い伝えられてきたところの大事な信仰箇条なのであります。このアタナシオ信経の中に、三位一体ということが非常に克明に書かれてありますので、今日の三位一体を考えますときに、先づこれを読んでみましょう。
一、救われんと願う者は、
聖公会の信仰箇条を奉ずること最も肝要なり。
二、 この信仰箇条を乱すことなく、
全く守る者にあらざれば、
必ず代々限りなく滅ぶべし。
と書いてその次に、聖公会の信仰箇条は次のようなものだと説明してございますが、わたしはいつもこのアタナンオ信経を読むときに一つの抵抗を覚えるのでございます。これはまだわたしの信仰が至らないで、本物の聖公会になっていないからかもしれませんが、今だに非常に抵抗を感じておるのです。
「救われんと思うものは、聖公会の信仰箇条を奉ずること最も肝要なり」
この聖公会というのは、神さまの教会のことで何も大口教会、日本聖公会、パブテスト教会、日本キリスト教団と、そういうふうに並ぶべき教派教団の意味ではありません。ここには何も抵抗は感じないのですが、その次の二節なのです。
「この信仰箇条を乱すことなく、全く守る者にあらざれば、世々限りなく滅ぶべし」
これはどうも‥…わたしはこれに対して、
「そうではないゾー」
と大きく声を上げたい気持が昔から今でもしておるのであります。こんなことを言ったら、昔、中世期に宗教裁判をして、教会の言うことを聞かないものは皆牢屋にぶちこみ殺した、あのいまわしいロマンカトリツクの宗教裁判時代を思いおこします。
P165
「必ず代々限りなく滅ぶべし」
とんでもない、誰がそんなことを言うのですか、神さまはそんなことを言っていない。教会が言っているのでしょう。教会がこんなことを言えば堕落します。教会は救いを示せばいいのです。
これをしないと救われない滅ぶべし。教会の言う通り信じないと滅びるなどと、そんなことを言うべきではない。わたしは、ここは明らかに間違っていると、怒りを覚えるといいますか納得できないところです。
教会は、この人は信じないと滅びる、とそんなことを言ってはいけない、これを信じて救われますよと言うべきでしょう。わたしはこの二節は削った方がよいと思います。
しかしその先は、非常に大事なことが書いてありますから読み進んでみましょう。
三、聖公会の信仰箇条は次のごとし、
唯一の神に三位あり、
三位は一体なり。
四、三位を乱さず、
一体を分かたずして拝むべきことなり。
五、父一位、子一位、
聖霊一位なり。
六、されど父も子も聖霊も神たることは一つなり。
その栄光ひとしく、みいつ限りなし。
三位一体ということは、その三位を乱さず、神として拝むことだと言っています。次は、
七、父のかくあるごとく、子もかくあり、
聖霊もかくあるなり。
これはちょっと分かりにくい言い方ですね、これは子も聖霊も父のとおりですということ。次、
八、父も造られず、子も造られず、
聖霊も造られず。
九、父も量(はか)りなく、子も量りなく、
聖霊も量りなし。
十、父も限りなく、子も限りなく、
聖霊も限りなし。
P166
これは永遠だということでしょう。
一一、されど限りなき者は三つにあらず、
ただ一つなり。
一二、また造られざるものは三つにあらず、
量りなきものは三つにあらず、
造られざるものも一つ、
量りなきものも一つなり。
表から裏から、右から左から、くりかえしくりかえし、言ってあります。
一三、父も全能、子も全能、
政令も全能なり。
一四、されど全能なる者は三つにあらず、
ただ一つなり。
全能なる神さまだということです。
一五、父も神、子も神、
聖霊も神なり。
一六、されど三つの神にあらず、
ただ一つの神なり。
これが三位一体ということですね、三つの神でなくただ
一つの神だと言うことです。
一七、父も主、子も主、
聖霊も主なり。
一人、されど三つの主にあらず、
ただ一つの主なり。
一九、 キリスト教の真理によれば、
三位をおのおの神と信認し、
主と信認せざるを得ず。
二〇、聖公会の教理には、
三つの主ありと言うことを禁ず。
二一、父は、たれよりも成りたるにあらず、
造られず、生まれざるなり。
二二、子はただ父よりの者にして、
成りたるにあらず、
造られず、生まれたるなり。
二三、聖霊は父と子よりの者にして、
成りたるにあらず、
造られず、生まれず、
ただいずるなり。
P167
二四、 一つの父あり、三つの父あらず、
一つの子あり、三つの子あらず、
一つの聖霊あり、三つの聖霊あらず。
二五、この三位は前後あることなく、
また大小あることなし。
どちらが大きいとか小さいということはないということです。
二六、三位は皆ともに限りなく、
ともにひとしきなり。
二七、さればすべてのことにおいて、
前に言えるごとく、 一体に三位あり、
三位は一体なりとして拝むべし。
二八、救われんと願うものは、
三位一体を、
かくのごとく思わざるべからず。
(祈祷書八六―八八)
これまでが、三位一体についてのアタナシオ信経でございます。
「三位一体とはどういうことですか」
とよく聞かれますけれども、その説明はこれで尽きているとわたしは思います。三位一体は、アタナシオ信経のここのところを皆さんがご自分でお読みになって考えていただくことが、一番よくおわかりになることだと思います。
しかし、この三位一体を嫌いな人があります。皆さんの所にもよく子供を連れて、聖書とかほかの本を売りに来る人たちがあるでしょう、あの人たちは三位一体というのを大変お嫌いです。
「神さまは三位一体じゃない、それはうそだ」
と言って歩きます。何とおっしゃるかと言いますと、
「聖書の中に三位一体ということは書いてない、聖書に出てくる神さまはエホバだ」
と、大変勇ましく議論をなさいます。確かに三位一体ということは聖書のどこにも書いてないのでこれは本当です。
三位一体という言葉が聖書にないから、神さまが三位一体じゃないとは言えないと思います。
三位一体というのは、教会がその長い間の信仰の歩みの中から到達した神さまの説明なのです。聖書の中には「神は三位一体なり」とは書いてありませんが、聖書の始めから終わりまでを忠実に読み親しんでゆくときに、「ああ神さまとはこんな方だなあ」ということになったのです。
P168
はじめは何と呼んでよいかわからなかった神さまを、ヤッホー(山などで呼ぶ)というようなところをたどりつてヤハウェと言うような言葉を言うようになり、それがいつか日本語でエホバと旧約聖書に訳されて、エホバの神さまと言われるようになった。しかしそれをだんだんと調べてみると、それはヘブル語の読み間違いであるということがわかったのです。
「神さまの名はエホバです。三位一体じゃない」
と大変勇ましくおっしゃるのでわたしは、
「そのエホバというのは日本語で書いてあるのでしょう、あなたはそれをヘブル語で見ましたか」
と言いました。このエホバと発音されている言葉は、ヘブル語ではヤハウェと読むのが正しいだろうと言われるようになっていますが、これもそれが確かにその通りだとは言いきれないのです。なにしろ昔の言葉で、子音ばかり並んだ母音の無い言葉、母音の打ち方で発音が違ってくるのです。この言葉は長い間読まれなかったので、だんだんと年が経つに従って読み方がわからなくなったのです。これはどうしてかと言うと、神さまの名をみだりに言ってはいけないと言われていたからです。(十戒の第三戒)
「汝の神エホバの名をみだりに口にあぐべからず」
(出エジプト20・7)
昔の人たちは、ヘブル語の聖書を読むときに神さまの名の所は読まないで、黙って頭を下げていたのです。それでこの言葉は何と読むのかわからなくなったというわけです。
そのうちに神さまの名のところをアドナーイと発音するようになりました。アドナーイとは主という意味で、これは神さまの名でないからよかろうと、神さまの名のところを主という言葉を使い出したのです。
これも長い時が経ってから、学者たちが、これは本当は何と発音するのだろうと研究するようになり、子音だけの言葉に、アドナーイにある母音記号を組み合わせてそれを読めばヤハウェとなるらしい、ということでいわば新しい神さまの名前ができた。これを英語に訳し、日本語に訳したときにエホバとなったのです。しかしこれを言語学的に調べればエホバではなくてヤハウェが一番
近い発音だろうというのです。それてエホバでなくてはいけないと言っている人に、
P169
「エホバと言うのは日本語に訳された言葉で、本当はヤハウェと言うのがヘブル語の発音に近いと言われているのです。エホバでなくてはいけないと頑張るのはおかしいのではないですか。ヤハウェでもいいでしょうし、ヤハウェが気に入らなければまたほかに考えてもいいことではないですか」
と言って帰したことがあります。
聖書を読んでみますと、昔の人が、ああだろうかこうだろうかと考えて、それに向かって呼びかけ祈ってきました。あるときはヤハウェと言い、あるときは言葉を忘れて黙って呼びかけ、あるときは主と呼びかけ、時にはとんでもない間違いをして、エルバールだとかバールだとか呼びかけました。そのように神さまには特別な名前が無くてボヤッとしているのです。これは大変良いこと
だと思います。
昔、モーセが神さまの名前がわからず、あなたの名は
何ですかとたずねたら、
「われは有りて在る者なり」
(出エジプト3・14)
とのお答えでした。何の何兵衛という名は無いというのです。有るもの、どこにでも有るもの、世界のどこにでも、あなたの中にもわたしの中にも、始めにあり今あり世々限りなく、永遠にどこにでもあるものが、神さまだと言うのです。
神さまの名前は付けようがないのです。付けられないのです。たとえわたしがいくら知恵をしぼってみても、神さまにふさわしい名前は付けられないでしょう。
神さまは、わたしの思いを越えたところでわたしを、おおっておられる方、わたしが支えているのではなく、わたしが支えられている方です。だから神さまの名はこれでないといけないと言えるものではないのです。
昔の人が、いろいろな呼びかけをして祈った神さまを聖書の中でたどるとき、その方は造り主だということ、それも時計を作るとかラジオを組み立てたというような作り方ではなくて、いわばわたしたちにとって命のつながった、父親というような関係の造り主であって、「父なる神さま」というのがピッタリということです。
P170
神さまがわたしたちをお造りになるとさに、神さまに似せてお造りになったと書いてあります。
「神そのかたちのごとくに人を造りたまえり」
(創世記1・27)
確かに人間の体以上に精密な機械は神さまでないと造れないだろうと考えられますが、今の自分を見るときに、これで神さまに似せてあるのかと、どうしても言えない自分のみじめさにぶっつかります。
自分はもっと善くありたい願いはあるが、どうしても望み通りゆかない、こうありたいができない矛盾をはらんでいる。
「わが欲するところの善はこれをなさず、かえって欲せぬところの悪はこれをなすなり」
(ロマ書7・19)
どうやって矛盾を乗り越えてゆくのか、矛盾が絶望にならず、乗り越える力を与えて下さるのが、主イエスキリストさまです。
主イエスさまを福音書を通してみるとき、その動き、そのなさり方、そのお苦しみ、そして十字架での息の引き取り方の中に、ただの人間ではないと認めないではおれないものがある。
十字架の下で番をしながら、イエスさまを見ていたロマの兵隊が、しみじみと言ったことは、
「実に彼は神の子なりき」
(マタイ27・54、マルコ15・39)
ナザレの田舎村から出て来たマリヤさんの子供イエスさまとつき合って、当時の人たちが神の子と言わないではおれなかつた。その方のことを、「子なる神さま」と呼ぶのが一番よいでしょう。
それから、いつもわたしたちと一緒にあって励まし支えて下さっている方、もっと大事なことは神さまを求めるエネルギーを与えるもの、これはまさしく神のお子さまだと信じられるように心を動かすもの、自分は天草の海岸ではりつけになってもかまわないと、心を燃やす不思議な力、これを自分の考えや理性の力でなく神さまの力と受け取るとき、それを、「聖霊なる神さま」とそれよりほか言えないでしょう。
P171
このように、わたしどもに向けられている神さまのお働きを見るとき、これは「父なる神さま」「子なる神さま」「聖霊なる神さま」と申し上げましょうと、教会の信仰は行きついたのです。
三位一体という言葉はそのまま聖書の中にはありませんが、聖書の中に三位一体の事実があるのです。その事実を説明するのに三位一体という言葉を使ったのです。
この三位一体という言葉をもっとくだいてみますと、山とか電気の事を考えてみて下さい。
山を例にしますと、先ず鹿児島の市内から桜島をパチリと写真をとります。次に重冨の海岸からパチリととります。また垂水からもパチリととってみます。この三枚の写真を並べて比べてみると同じ姿ではない、しかし、同じ山なのです。
電気では、電球のスイッチを入れると、パッと明かりがつきます。次にテレビのスイッチを入れると動く画像が現われます。今度は洗濯機のスイッチを入れるとモーターが動きだします。
同じものであっても違った姿で現われ、同じものであっても違った働きをする、三位一体をそのように考えてみたらどうでしょうか。
大変ややっこしいことを申し上げましたが、今日はその三位一体を考える日なのです。考えてどうするかというと、神さまが三位一体であると信ずるのではなく、神さまを三位一体として信ずるのです。
神さまを信ずるというのは、数学の公式や理論を信ずるという受け取り方でなく、そこにわたしの命を投げかけるのです。そこがなければ生きられません、というような信頼をおくということです。
わたしの思いも願いも、今日も明日もあなたのみ手にと、すべてをまかせきる。そのみ手をよく見れば、父なるみ手であり、子なるみ手であり、聖霊なるみ手である。神さまはその折り折りに、父として、子として、聖霊として受け止めて下さる。
P172
それが父と子と聖霊なる三位一体の神さまを信じまつるということです。
どうかこの三位一体主日を迎えましたこのとき、心を新たにして、神さまがそのようにしてわたしを支え励まして下さることを感謝しながら、父と子と聖霊に栄光あれと賛美をささげたいのでございます。
1984年6月17日 三位一体主日
大口聖公会にて