7月31日

投稿日: 2009/07/30 20:32:27

独りで街を歩いていると、時々自分は誰からも必要とされていないのではないかというような感覚を抱く。

高校の時までそんな事殆ど考えたことも無かったが、大学に入ってからというものそう感じる事が多くなった。

しかしこれはなにも都会に馴染めない田舎者の愚痴という訳ではない。

思うに問題は、自由になり過ぎてしまったという事なのではないだろうか。

自由というのはとどのつまり、何にも縛られないということだ。

一方で、社会集団というのは例外無く、同じルールや規範に縛られた集合体である。

だからこそ、そこに仲間意識や帰属意識が発生するのだ。

また、個人同士の関係においても、相手に自分を規定される(=縛られる)事によって、僕という人間は認識され、つながりが生まれる。

そしてつながりが深まるにつれて、相手の中で自分の大きさは膨張し、いつしかそこに森第二号が誕生する。

残念なのは、どういう訳か往々にしてその二号は一号とは微妙に、あるいは全く異なる人間となってしまうということだ。

すると森第一号はその関係において、場合によっては森第二号を演じなくてはならなくなり、そこで初めてあぁしもうた縛られたと気づく。

自由とはこういったしがらみやつながりを手放すこと、放棄することである。

つまり自由の裏にあるのは孤独だ。

自由とは常に孤独との抱き合わせ販売であり、ジャパネットで社長に乗せられてデジカメと手回しラジオのセットを買わされるようなものだ。

自由と責任は表裏一体だという事をよく耳にするが、そもそも責任というのは明らかに自由を侵害しており、完全に裏にある訳ではない。

責任というのは社会や人との繋がりの中で自由を確保していくための折衷案のことである。

究極的に自由な人間というのは、何にも属さず、誰の意識にも存在し得ない。

「自己を映す鏡」から完全に逃れた人間は、はたして存在していると言えるのか。

生きた痕跡を全く残さない人生、そんなものに魅力はあるのか。

例えるなら、みくしーに入っているのに、全くどこにもあしあとをつけないのと同じである。

大学生活とは無尽蔵に自由を引き出せる夢の期間だと思っていた。

しかし、そのせいで大量の手回しラジオを抱えてしまう羽目になってしまったのかもしれない。

別に自分は何かのため、誰かのために生きている訳では無いと考え、これまで自由にやってきたが、何のため、誰のためと全然思えないような人生は虚しい。

だからこそ、やっぱり生化実験のレポートはちゃんと出そうと思う。

そう、生きた証を残すために。