インタビュー 先達に聞く

川那部浩哉  KAWANABE, Hiroya

出典:魚類学雑誌 67(1): 138–2156, 2020

聞き手:前川光司 (北海道大学)・渡辺勝敏(京都大学大学院理学研究科)

記録:山本祥一朗(水産総合研究センター)

インタビュー:2017917日   於:湯の川温泉KKR函館

                            2018317   於:札幌・中村屋旅館

目次

はじめに






あとがき

引用文献

※長文のため、本文は折りたたんでいます。

章のタイトルまたは右側の「v」マークで展開してください。

はじめに

 川那部浩哉氏(1932–)は京都大学理学部の教授,同大学生態学研究センターの初代センター長,また滋賀県立琵琶湖博物館の初代館長として,日本の生態学,とりわけ魚類生態学の分野の発展に最も大きな影響を与えた先達の一人である.川那部氏らによって1950年代に開始されたアユの研究は,魚類の社会行動・個体群生態学のパイオニア的研究として位置付けられ,また氏は琵琶湖やアフリカ古代湖における生態・進化研究を牽引し,さらに公害問題や自然保護においても生態学者として大きな役割を果たした.魚類学会においても,長らく評議員として学会の多様な活動を支えてきた.

 川那部氏は多くのエッセイを著し(例えば,川那部,1987,1996,2007),座談会形式の回顧録(奥富ほか,2013),また伝記的書籍(高橋,2001)等を含め,川那部氏自身や氏と生態学,社会,周囲の研究者との関係に関する記録は比較的豊富である.しかし,特に魚類研究を中心に,川那部氏の直接の声をまとまった形で聴き,記録する価値はなお高いだろう.現に川那部氏の言説を同時代的に聴き,読み,少なからぬ影響を受けた我々インタビューワーでさえ,今回の聞き取りを通じて新たに多くの発見をし,感銘を受けた内容も多かった.

 本稿は,2017年9月と2018年3月に計10時間にわたって行われたインタビューを大きく編集し,その一部を取りまとめたものである.インタビューは,前川を主たるインタビューワーとし,食事を交えながら,終始リラックスした雰囲気で(ときに口調激しく)行われた.内容は多岐にわたりながらも,川那部氏のひととなり,魚類・生態学研究の発展やその背景にあった考えや時代性,また話題に上ることが必ずしも多くない研究者たちを含めた興味深いエピソードが,氏のユニークな視座で語られている.

 本稿では,あえて京都風の話しぶりを極力残し,川那部氏の語り口が伝わるよう編集した.また,切るには惜しい多くのエピソードを割愛したものの,いくぶん長めの記事とならざるを得なかった.しかし,5つに分けられた章は,それぞれ独立して読むこともできるはずである.

章のタイトルまたは右側の「v」マークで展開してください。

1.生態学との出会い〜「騙されただけなんや」

生い立ち,そして京都大学へ

 聞き手:今日はありがとうございます.できれば若者に向けてお話しいただくと助かります.ではまずは生い立ちから...

 川那部:京都の街のまずまず真ん中に生まれました.京都駅と烏丸四条との間,五条通りをちょっと入ったところでね.国民学校(小学校)6年生のとき,縁故疎開したけど,それは別として.大学は京大以外は考えたことがなかった.なんでか言うたら,母一人子一人なんですよ,うちは.父は2つ半で死にましたからね.要は貧乏なわけで.

 聞き手:お父さんは何をされていたんですか.

 川那部:父は国文学,江戸文学ですよ.当時の中学校の教諭.上田秋成さん(–1809,国学者,読本作者等)とかをやってた.それはともかくとして,家から通えるところに行かないかんわけね.それで私立の大学は高いに決まってる.行くとこ言うたら京大しかないわけ.

 私の家はお寺で,戦争が終わる年の3月に3日間の猶予で強制疎開になった.こっちで焼けたときに火が移らんように,広い道路を作らないかんていうわけや.それで3日で軍隊が潰すわけ.母と6年生の私だけやったから大変やった.母は華道と茶道に凝っていて,自宅のお御堂で多くの人に教えていたことをまざまざと覚えてます.

 聞き手:中学のときに,エリート教育を受けたとか.

 川那部:中学に入って直ぐの5月初めやったかな,試験受けえって言われたわけね.それで変な学級へ入った.「特別科学学級」っていうやつや.今から考えたらとんでもなく偏った授業でね.国語は文法だけ週2時間.歴史や地理なんてなんにもなし.英語は1週間に12時間ぐらい.数学が8時間かな.球面三角形とか,4次元空間ってなことを最初から平気な顔して教える.

 そうなるとね,文科系のことなんてないわけやわ.父親が江戸文学やったからか,そういうの好きでしょ.どうするかというと,中学の図書館やら,うち帰ったらそっちの本ばっかり探して読んでるわけね.文系の本やら音楽やら.

 大学で何しようかっていうのはいろいろあってね.うちの周りは医者と坊主が多いんですよ.一番目はお医者さんになりたいと思ったね.子供のときは細菌学って興味があるやん.パスツールさんとかコッホさんとか.そのうちに医学部に行くんやったら,精神病がやりたいと思って.特に社会的ないろんな問題と精神病との関係っていうのに興味があった.しかし一方では,人間の社会学もやりたかった.それからもう一つ,母親から聞いた父親の専門の影響もあるんやろけど,日本語学,「言葉」やろうかって.

 

生態学,宮地伝三郎氏との出会い

 川那部:当時はね,医学部へ行くのにはどこか別の学部に行って,2年経ってから医学部を受けるわけね.実習があるところやないと医学部が受けられへん.そうすると理学部かいなって,たまたま受けただけのこと.

 1回生の後期に,「自然科学II」っていう文科系学生向けの講義を,単位にはならんけど聴いたんです.宮地伝三郎さん(–1988,京大,動物生態学)っていう変な人がいっぺんだけ来てね,「食う食われるの関係は...」ってしゃべった.「食う食われるの関係」なんてあまりにも当たり前やと思ってるでしょ.食い意地も張ってたしね.そんなもんが学問の対象になるんかと思ったわけや.これは面白い,それを抽象代数学で解くっていうのが一番ええなと思った.だからボクはそのときに決めてしまったわけ,「生態学やろう」と.1951年,教養1回生の後半ね.だから医学部も受けず,文学部に転部もせず,理学部に残った.

 ボクらの頃はだいたい生物学やる人は生き物が好きなんですよ.たいてい植物採集してるとか,昆虫採集好きやとかね.ボク,なんにもあらへんわけや.だから生物学にはなんにも興味のうて,生態学だけ興味があったんや.

 聞き手:それまでに生態学の本を読むとかはなかったんですか.

 川那部:宮地さんの話を聞いたのが一番最初やと思う.その影響で生態学って面白いと思った当時にね,2冊の本が出ましたわ.一つは今西錦司さん(–1992,京大,自然学)の『生物社会の論理』(1948年,毎日新聞社).もう一つはね,『生態学概説』(1952年,養賢堂).編集は八木誠政さん(–1967,信州大,植物生態学)で,何人かで書いているわけ.その中にね,「生物の経済」というのがあって,書いたのは北沢右三さん(–1984,都立大,動物生態学)や.これは面白いと思ってね.

 3回生になって動物学教室に所属した頃に,宮地さんの部屋で,エルトンさん(Charles S. Elton,–1991,オクスフォード大,動物生態学)の『動物の生態学』を見たわけね.ちょうど渋谷寿夫さん(京都文教大,動物生態学)が翻訳をし始めてたから,それも読ませてもらった気がするね.エルトンさんと今西さんと北沢右三さん,それを超えたところに宮地さんっていうのがおるわけ.だから生態学やることになったのは,宮地さんにいわば「騙された」だけなんや.

 

大学院生時代:動物学教室第2講座

 川那部:宮地さんの研究室ってのは変った研究室でね.宮地さん自身は忙しくてほとんど来やへんわけ.ゼミに来ても,普段はニコニコ笑ってるだけで.ものすごく開放的やったんやね,きっと.だから,いろんな人が来てる.徳田御稔さん(–1975,京大,進化学)とか,渋谷さん,小野喜三郎さん(京都府立医大,動物生理学),そういう人はゼミの常連.それ以外にもいろんな人たちがしょっちゅう来てた.農学部やら医学部の大学院生やらも,どっちに所属するかわからんぐらいいっぱい来てた.ゼミは月曜の午後なんやけど,だいたい毎日昼休みには宮地さんの部屋にみんな集まって,食べながらワーワーワーワー言うて.よそから非常勤講師に来た先生がそれを見て,「宮地君は学生にバカにされている!」とか言って(笑).本当,宮地さんはすごい面白い人やった.

 「動物生態学」っていう講義をね,宮地さんは,ボクのときに半年15回の講義のうち4回やらはってん.それでも空前絶後に多い年やったらしい.だからボクは,宮地さんの退官のあとその動物生態学の講義をするようになったんやけど,「三尺下がって師の影を踏まず」って言うて,あの講義は5回以上したことないねん(笑).

 

「生き物好き」ではないこと

 川那部:原田英司さん(–2009,京大,海洋生物学)は,教養では違った組やったけど,3回生から一緒になった.彼は本物の生き物好きで,動物学教室の中の3講座のどこに所属するかなんてことは決めてへんから,全部行ってたね.発生から細胞のとこへも行って,で,生態へも来てた.原田さんなんてすごいですよ.高校のときにね,呉のイギリスの海兵隊のところに行って英語を勉強したんやけど,シェークスピアさんの劇のほとんど全部覚えてるのね.バイブルなんてもちろんのこと.ミルトンさんの『失楽園』も全部暗誦できるんや.

 最近は魚好きでもないのに魚の研究をする人が多いんやってね.ボクは,それはものすごく恥ずかしかったんやわ.生き物のことなんにも知らんのに,動物学教室に行ってね.魚の解剖ひとつわからへん.みんな原田さんが教えてくれた.それはね,ある意味でものすごくインフェリオリティ・コンプレックスなわけね,ボクにとっては.生態学やってる間にどうしても必要になったから,アユには胃袋はあるかないか,とかね,そんな感じでやっと勉強するわけですよ.

 当時助教授やった森 主一さん(–2007,京大,動物生態学)曰くね,「川那部は原田が横におらなんだら何にもできん.逆に原田は川那部なんか横におらんでもええ.あれは御神酒徳利やいうけど,嘘つき御神酒徳利や」って.そういう感じ.

写真1.川那部浩哉氏(1932–)(撮影:2017年9月17日,湯の川温泉KKR函館).

2.アユの研究,群集,進化生態学〜「ほんまの話をしようか」

アユの話

 川那部:それで宮地さんとこで,なんでアユをやったか,っていう話になるんやけど...どっちの方からしよう.まともな話からしようか,ほんまの話をしようか.

 聞き手:「ほんまの話」から(笑).

 川那部:ほんまの話は簡単なんです.4回生のときにね,宮地さんが原田さんとボクに言ってきた.1年先輩の水原洋城さん(–2017,東京農工大,動物生態学)に1年間アユの仕事をしてもらったんだけど,止めてサルをやると決っている.で,誰もアユをやる人がいない.だから君ら,アユをやってくれないか,と.両方ともものすごい貧乏な時期でしょ.交通費や宿泊費は出るし,採集用の網とかホルマリンとか,調査に必要な費用も全部出る.それで,原田さんとボクとは一も二もなく,引き受けたわけ.

 そこからあとが「悪い」ねん.そうなったらそうとして,アユをやるのが生態学として一番面白いっていう理屈を立てんといかん.自分を納得させないかんわけや.「食べられないブドウは酸っぱい」って狐が言うのと同じで,合理化ですわ.

 その頃宮地さんのグループでは,伊谷純一郎さん(–2001,京大,霊長類学)から始まってね,サルの研究がものすごく進んでいた.もう一つ海のグループいうのがあって,アマモ場を中心とする仕事をやってた.それから農学部には内田俊郎さん(–2005,京大,昆虫学)という,これまたすごい先生がいて,個体群生態学のメッカやった.さあ,何をしようかっていうことになるわけ.

 魚はサルよりは阿呆で昆虫よりも賢い,そんなこと言ったら叱られそうやけどね(笑).アユを扱えば,昆虫とおんなじで,水温やとかなんやとか無生物的な環境のことも全部やることになるやろう.ナワバリといった動物社会的なことはその前から先輩がやってたわけですから,サルと同じくそういう現象も調べられる.しかも藻を食うためのナワバリやから,「食う食われる」そのものやし,観察も簡単.つまり,「アユは非常によろしい」と,こういうことにして自分で納得したわけです.

 今までのアユの仕事はほとんどみんな,放流したときから瀬に付いている時期だけやったんで,それではあかん,一生の中で見ないかん.それからね,「川」っていうんやったら,やっぱり上流から下流まで調べて,なんであの場所だけにしかアユがおらんのかということもやるべきや.3つ目はね,食う食われるてなことを言うんなら,他の魚やらが何を食うとるかとか,虫やらは何がいるんやとか,そういうこともせないかん.生活史全体の中で,一本の川の中で,それから群集の中で,って3つのことを調べるようにしたい.アユを中心にしながら,周りのもん全部調べたい.そう2人で宮地さんに言うて,受け入れてもらったわけですよ.

 聞き手:ちゃんと自然を見ようとしたわけですね.

 川那部:しかしそれは後付けの合理化した理屈でね.本当は,ちゃんと研究費が付いて,タダで行けるからということやった.それでね,条件に当てはまる川を先輩と見て回ったんやけど,残念なことに京都府内でやろうと思うとね,丹後半島の宇川しかなかった.汽車とバスで片道8時間かかるとこやけどね.

 こうして河川生態研究グループが発足したわけね.その翌年,水野信彦さん(愛媛大,動物生態学)がそれに入ってくれた.彼は修士2回生のとき宇川へずっと下宿してね.それからアユ以外の川魚の調査も本格的に始まるんですよ.

 

アユのナワバリ氷期遺存習性説,あるいは「不進化」生態学

 聞き手:「アユのナワバリ氷期遺存習性説」(川那部,1972)について聞きたいと思います.なぜナワバリは1平方メーターと「広すぎる」のか,南の方ではなぜナワバリが弱いのか,琵琶湖のアユはなぜ「追い」が強いかが,藻類の生産速度が低い氷期の遺存習性として理解できるという...

 その後,この氷期遺存説はどう思ってるんですか?あの頃,すごい面白いな,と.だけどどこかおかしいところがあるぞ,と,みんながそういう目で見ていました.

 川那部:氷期遺存説か,ハッハッ!それはおかしいわ.でもボク,割合に合うてんのやないかと,一方では思ってるんです.これで進化生態学をちょっと考えることになったかなと思ったけど,あれは「不」進化生態学やね.それはともかくとして,だってラックさん(David L. Lack,–1973,オクスフォード大,動物生態学)のシジュウカラの最適一腹卵数と一緒やろ,氷期遺存かどうかは別として.今ある生き物についてね,盲腸やらの形態については誰でも当たり前に言うんやけども,あの頃,生態現象が過去のものの遺存や何やという考え方はなかったわね.だけど今やったら,そんなん当たり前やと思ってるんと違う?

 聞き手:ボクたち(前川)が院生のときは,なかなか面白いなって思ったけど,ひょっとしてアユの研究を始めたときにもう思い付いてたのと違いますか?

 川那部:ううん,そのときは思ってへん.でも確かにね,進化にはやっぱり興味があったんやね.それは徳田さんがいはったせいかも知らんけどね.『種の起源』の初版の輪読会などもやったし.

 聞き手:氷期遺存説はどこから思い付かれたのでしょうか.

 川那部:1962年やったかに,オダムさん(Eugene P. Odum,–2002,ジョージア大,生態系生態学)が来日したんやわ,森さんが招待して.それで翌年,オダムさんが招いてくれたんや.半年いた後,ヨーロッパに回ってね.それで最初にウインダーメア(イギリス).フロストさん(Winifred E. Frost,–1979,イギリス淡水生物学協会,陸水生物学)にまず会ったんや.続いてエルトンさんのとこを訪ねた.ボクらやと,進化っていうたら何でも大仰やない?向こうは,ありとあらゆる今起こってることは,すべて進化の現象やと思ってるらしい.やっぱりダーウィンさんの国やね.だから,当たり前のように進化,進化って気軽に話すわけや.それでついうかうかと,宮地さんにも言う前に,そのとき思い付いてた「氷期遺存習性説」を漏らしてしまった.そしたら2人ともに,「面白い.もうちょっと詰めたほうがよろしい」とか言ってくれたわけ.

 それで,帰ってきたんやけど,そんなんすぐ忘れてた.母が帰国直後に死んだりしたし.それからしばらく経ってね,鹿児島の生態学会で発表することになってたことがあった.全然別の話題ですよ.ところが,予稿集に書いた計算が完全に間違ってた.それで,「間違っておりましたので,すみません,降壇させてください」って降りようとしたんや.そしたら,そのときの座長が,「関係がない話題でもいいから,この頃何か面白いことを考えていたら話して下さい」と言うて下さったんやわ.そのときに,「実はイギリスでちょっとしゃべったりしたことやが...」って,氷期遺存の話をしたんや.

 そしたら,そらま,一番前に並んで座ってるみんなが,ブワーって...何を言うねん,そんなもん科学になるか,どういう証拠が,どうやったら反証可能性が...って,一生懸命言うわけや.一番強かったのは小野勇一さん(–2015,九州大,動物生態学)やったかな.「バカか,君は」って言いよったわ(笑).それで,「例えば,南の方,氷期でも今でも水温が高いようなとこ,つまり沖縄や台湾のアユがだらしないナワバリやったら認めるか」って訊いたんや.売り言葉に買い言葉やね.「そしたら,ちょっとぐらい認めたる」って言う人が多かったのでね.それでその年に台湾と沖縄へ行ったわけや.台湾のアユは絶滅してたけど,沖縄で,まあ幸か不幸か,だらしないナワバリを見つけたわけですよ.

 聞き手:北海道へも行かれたんですよね.

 川那部:北海道は京都あたりと同じやったんです.朝鮮半島も大韓民国側の38度線ギリギリまで行きましたけどね,これも同じ.考えてみたら,「100%以上追う」という強固なナワバリはありえないからね.入ってきた侵入者の半分しか追わないとかいうのは「だらしない」と言えるけど.

 その後,4回生の講義でなんかしゃべってたとき,突如として,琵琶湖のアユはどうなんやって思いあたったわけ.「ごめん,ちょっと今変なことを思いついたんで,もう今日は講義を続けられん」って,自分の部屋へ帰って,一生懸命考えた.そうしたら,琵琶湖のアユは海からのアユに比べてナワバリが強固に守られる,というだけの話やのうて,産卵期,光周期の問題やらも,氷期に琵琶湖が網走ぐらいの気温やったとしたら,全部うまく説明できるやん.平均温度が何度下がったからちょうど合うとかね.つまり,「琵琶湖のアユこそが一番北の集団の性質を示しているのやと,また「嘘」ついた(笑).この頃進化生態なんて言葉がいっぱい流行りだして,ボクもちょっとぐらい足突っ込んだかなあ,と思ってた.でもあとで考えたら,さっきも言うたように「不」進化やったんですよ.

 そんなんです.アユについて思い付いたのはボクやけど,フロストさんやエルトンさんは,ありとあらゆることは進化の産物として考えるのが当たり前やった.そういう考えに触れてなかったら,自分でも受け入れられなかった.もっと言えば,その直前に呼んでもらったオダムさんは,「まともな研究者になる人は少ないに決まってるから,大学院では,技術者を作るために我々は徹底して教育している」と,言うてはったからね.その後やから,なおなお反動があったんやと思うわ.宮地さんやらがボクらに伝えていたことと正反対やから.だから,オダムさんはすごくええ先生やったんや,ボクには.

 聞き手:いい先生だったというのは...

 川那部:反面教師やったわけや.だって教師っていうのは反面教師以外ありえないとボクは思うてるからね.

 聞き手:やはり氷期遺存説,というか生態進化のタイムラグについては,科学的に証明できたら嬉しいと思われますか.もちろん反証も含めてですけれど.

 川那部:それはそう思いますね.

 聞き手:その後の検証研究で示されたように,様々な条件でナワバリ面積が変わるということは,氷期のことなんか,もう(遺伝子が)「忘れて」るんじゃないかなと思うんですけれども.

 川那部:それはそうかもしれない.わからないっていう点でね.それを「覚えてる」かどうかっていうのは,ちょっと今の分子生物学でもまだ難しいかもしれんね.単純に温度が高いか低いかということで決まってないことは確かやね.まあ,あれで魚類学について貢献したとしたら,西田 睦さん(琉球大,魚類学)をそそのかして,あれは亜種やと言ってもらったことかもしれませんな.

 

エッセイを書き出したわけ

 聞き手:先ほど,最初,生態学を抽象代数学でやったらどうかと考えたという話がありましたが,数学というか,抽象化を好むような感覚があったのでしょうか.

 川那部:数学って,ある意味で言葉でしょう.数学で解くか,日本語でどう考えるかいうのは同じやと思ってる.

 聞き手:川那部さんの書く文章は結構抽象化されていて,それをみんなで読み解くというか...

 川那部:「関係の総体」(群集論)なんて言うて,みんなに評判悪かったのは,そんなところかもわからんね.

 聞き手き手:「関係の総体」は,もう若いときから言われていましたね.

 川那部:あれは博士論文を書いている最後ごろに,宮地さんがね,「川那部さん,学位論文の中に,一つエッセイを書きなさい」って言うわけ.それで,「川の動物群集をどうとらえるか」(川那部,1960)っていうのを書いたんや.あれの中で「関係の総体」と言うてしもうたわけや.

 聞き手:その後,いろんなエッセイを書き出すのは,大学院を終えたすぐの頃ですよね.

 川那部:そういうことを言い出されると,また変な話をせないかん.3月に学位をもらうわけやから,なんぼなんでも11月か12月ぐらいには学位論文を出すでしょ.そのときちょうど,『自然』っていう科学雑誌が,アユのナワバリについて書いてくれ言うてきた.それでボクは当然ながら宮地さんに相談した.そしたら,「書いたらいいじゃないですか.ただし,ちゃんと論文を書いた後ですからね」って,こう言われたわけや.

 5月か6月号に出てから,隣の発生の講座の教授に,「ちょっと川那部君,来たまえ」って言われて,「宮地君がいいって言ったのなら仕方ないけどね,一般的にはこう評価されるのは知っておきたまえ.雑文を1つ書いたということは,論文をマイナス1つ書いたのと同じだ」と,そう言われた.

 聞き手:じゃあ,今マイナス○百本ぐらいですね(笑).

 川那部:宮地さんは,書いてもいい,ただそれは明々白々にゼロやとしたわけですよ.ただ,先にそっちを書いたりすることはやめなさい,とね.エッセイを書いてもええと思ったのは,宮地さんのおかげか,いや,ひょっとすると「せい」かもわからんな.

 聞き手:でも,書いてよかったですよね.周りはよかったというように見てるんじゃないですか.

 川那部:それはわからん.それこそ伊藤嘉昭さん(–2015,名古屋大,進化生態学)によう叱られた(笑).

 

京大学派(?)の生態学

 聞き手:その頃から伊藤嘉昭さんが京大学派と称して,それこそ『自然』に強烈な批判を書いていました.京都の人たちもそれに応えてなんか書いて... 

 川那部:嘉昭さんっていうのは面白い人でね.『自然』なんかで悪口書くでしょ.あれは書く前に原稿を送ってくる,ちゃんと.彼,全部そうや.

 前から彼は,少なくともボクには面と向かって言うんです.ボクらのときは生態学会の大会があるとね,一番前に年寄りも若いのもみんな口の悪いのが3列ぐらい並ぶんやわ,ダァーとな.しゃべるとね,必ず,ハイ,ハイって言うて質問するねん.そらもうね,立ち往生させるなんてのは当たり前のことでね.泣く奴も毎日何人かいたわ.

 聞き手:それが当たり前でしたね.怖くて発表できない.かつての京大の動物生態は,動物生態の人が発表するときに動物生態の人らがそれをやっていたという...

 川那部:それもあります.宮地さんがなんかしゃべったときに,我々で「それは間違いです」って言うたことあるしね.そんなもん,なんでも平気でやってたね.

 そのハイ,ハイってしょっちゅう手挙げるのが何人かおるわけ.その筆頭の一人が伊藤嘉昭さんやったことは事実や.

 彼はメーデー事件のとき,休職にさせられたわな,気の毒に.けしからんていうんで,生態学会の若者がほとんど抗議の署名をした.ベトナム枯葉作戦に最初に反対したのも彼やしね.そして彼はいつも「理学部はけしからん」て言うわけ.農学部はえらいけど,理学部はけしからん.それを小野勇一さんの机の上で書いたっていうんやから,とくに面白い.理学部はいかん.特にけしからんのが京都や,って.

 彼はものすごくええ意味で「近代主義者」なんですよ.一番いい意味でね.何が生態学者のやるべきことか,というような,それが非常にはっきりしてるわね.例えば論文書くときはね,一流の雑誌に英語で論文を書くべきで,それも数が多くなければいけない.理学部の連中はそういうことがない.京都のごときは大抵のものを日本語でちょっと書く.川那部は学位論文のあと,英語で書いたのはたった2つしかない.けしからん,って言うわけ.しかもその英語の論文をやね,京大の紀要に書いたとはなにごとや.これがボクの理解する伊藤さんの中心的な考え方.

 でね,それがまた面白いねん.森下正明さん(–1997,京大,動物生態学)が,宮地さんの後任に九大からきたでしょ.森下さんは伊藤さんと正反対にすごいんやわ.どんなくだらない雑誌に書いたってね,立派な論文やったら必ず翻訳してくれますよ,って言うんやわ.森下さんはその点ほんまに実践してたし,ボクも日本語で書いた論文が他の雑誌に載ったこともあった,英語になってね.それからもう一つ,森下さんの九大時代の素晴らしい論文は,全部九大紀要に載せてる.一番ええと思った論文は国内の雑誌に書け,2番目ぐらいのはEcologyとかEcological Monographとかに書いたらええねやと,そううそぶいてたわ.

 ボクはもっとえげつないこと言うてね.「ボクの日本語での思考能力は,外国語での思考能力に比べればだいぶマシやないかと密かに思ってるから」て言うたんや.怒ってたけどね,伊藤さんはもちろん.

 聞き手:今の伊藤嘉昭さんの話は,ボクから言わせれば,徐々に生態学の中では浸透していくんですけど,今は川那部さんはどういう考えを...

 川那部:今の一般状況を認めたら,伊藤さんの絶対の勝ちやね.ボクはその点では「古典主義者」やね.歴史主義者やと思ってる.それは彼とは違うとこや.しかし,伊藤さんは本当にえらいよ.後輩の「指導」なども全部きちっとやってね.今の世の中では絶対に彼やね.文句なしに.

写真2.宇川にて(京都府).左から小野寺好之氏,宮地伝三郎氏,田中昌一氏,水野信彦氏,川那部氏(1956年5月31日,おそらく小野寺好之氏撮影;川那部氏提供).

3.魚類学,そしてタンガニイカ湖へ〜「周りに押し付けられただけ」

魚類研究者との交流,その1

 聞き手:川那部さんご自身はいわゆる「魚類学者」ではなくて,生態学者としていろんな生物群を対象とする人とお付き合いがあったと思いますが,アユをやっていたということもあって,やっぱり魚は特別ですか.

 川那部:そら材料としては,魚以外扱ったことないわけですからね.魚の餌っていうのはもちろんいろいろありますけど.そやから,いまだに魚類学会に入ってるやん.ほとんど全部やめたのに.生態学会は間違うて名誉会員にされたから今もおるけど,魚類学会はちゃんと金払うているものね(笑).

 聞き手:動物生態学研究室では周囲の魚類学者との交流も頻繁にあったということですが.

 川那部:宮地さんはね,非常に早い時期に「満州産淡水魚類」っていう論文を書いてるのね(宮地傳三郞 in 川村多実二編,1930:関東州及満洲国陸水生物調査書).だから彼自身としてはね,魚は割合本職のつもりなわけね.それとシナイモツゴ(Pseudorasbora pumila)の記載は,宮地さんですからね.

 宮地さんと松原喜代松さん(–1968,京大,魚類分類学)は仲がよかったこともあって,動物生態の研究室と農学部の水産生物の研究室は,1年に1ぺん,合同談話会いうのをやってた.ある年は舞鶴へ行って,ある年は京都に来てやる.だから岩井 保さん(–2014,京大,魚類学)とか尼岡邦夫さん(北大,魚類学)とか,あの辺全部,学生のときから知ってるわけ.

 その頃はうちの連中みんな厚かましいからね,向こうの大先生に対しても,宮地さんにしゃべるのと同じように話すわけよ.ボクもすごいこと言うた覚えがあるわ.『魚類の形態と検索』っていう本が出たでしょ(松原喜代松,1955:魚類の形態と検索,全3巻.石崎書店).

 聞き手:すごいいい本ですね,あれは.

 川那部:あれが出た直後,確か舞鶴に行ったときやと思うけどね,「悪口」言うたんや.この本の硬骨上目については,オーダー(目)より下の検索表しか付いてない.「我々素人は,オーダーの検索表が絶対に欲しかったのですが」とね.お答えはね,「川那部さん,そんな人がいるとは思いませんでした」って(笑).だいぶん後になってきて,「いやあ,目の検索が一番難しいんだ」と言うて下さってたけどね.

 それから,あの人のもっと本職のところでも悪口つけた.カジカ目の検索の一番最初のところです.向こうの連中はハラハラしてたと思うけどね.しかしあの人,ものすごく素直な方で,一生懸命答えて,そして最後に,「指摘してくれてありがとう」って言われたからね.素晴らしいでしょ.松原さんにはものすごいことお世話になりました.その後では岩井さんやね.

 いわゆる魚類学者で初めに会うたのはその辺やね.大学院に入ってアユの仕事したから,水産学会にも入った.だから,そこで全部,東京の先生にもご挨拶にまいりましたよ.中村守純さん(–1998,資源科学研究所,水産学)はよく覚えてるね.「宮地さんのところですか」って言って,コイ科の生活史の論文やら,霞ヶ浦のダム計画の報告書などをいただきました.

 それから水産庁淡水区水産研究所ですよ.アユの仕事の総括機関ですからね.淡水研には面白い人がたくさんおられた.所長は黒沼勝造さん(淡水研,水産学).島津忠夫さん(淡水研,水産学),白石芳一さん(淡水研,水産学),小野寺好之さん(淡水研,水産学),田中昌一さん(東京水産大,水産学).最後の2人はアユの調査の大元締めで,宇川へも来てもらった.田中さんはその頃,東海区水産研究所やったね.それから,加福竹一郎さん(–1997,淡水研,水産学).加福さんって知ってはる?

 聞き手:はい,何度かお話しする機会を持ちました(渡辺).加福さんは京都とどういう接点があったんですか.

 川那部:宮地さんのとこに学位論文を出した1人です.そうそう,伊藤嘉昭さんも宮地さんのとこで学位取った人です.宮地さんはそういう人で,いろんな人を引き受けた.

 加福さんの腸型の仕事っていうのはやっぱり面白くてね.あれ,腹面から見た形や.それまで側面からが普通やったから.加福さんはね,むちゃくちゃ言う人ですけど,本当はものすごく気の弱い人でね.アルコールを飲んでなければ,ボクとでもしゃべれない.「川那部,お前は魚の形態のことをまったくわかっていないから,絶対に一人前の魚類学者にはなれない」って断言されて...確かにいまだになっとらんけどね.「私は生態学をやっているのであって,“魚類”をやってるわけではありません」って言うたって,「材料に使っているのに,バカか」と(笑).ありとあらゆるところでものすごいこと言うわけだけどね,それは全部飲んだ後なんや.

 また権威の大っ嫌いな人でね.生態学会大会の懇親会で挨拶したとき,マイク持って,「ボクは嫌いなものがいくつかある」って言って...「まず第一に分類学者!次に...」って言うて.全部権威主義やっていうわけや.

 加福さんが副座長かなんかで,外来魚問題の議論を水産庁でしたことがあってね.輸入すれば大変なことになる魚のリストってのを作る会ですよ.議論の最後に加福さんが,「入れてはいけない種ではなくて,入れても構わない魚のリスト(ホワイトリスト)を作るべきだ」と言った.通らんかったよ,もちろん.それでもあとがきにはそういう趣旨が書いてありますよ.非常に正しいでしょ.あれはなかなかえらい人や.

 聞き手:京大での淡水魚の生態学について...名越 誠さん(–2017,奈良女子大学,動物生態学)のインタビュー(渡辺・佐藤,2018)を見ると,種内の社会関係がサイズや個体群密度とか,分布に影響するというのが京大動物生態の魚の研究の大きな柱みたいなのかなと思ったんですけど...

 川那部:それを言い出すとね,もう一つの系列を考えないといかん.それはね,三浦泰蔵さん(–1993,京大,生態学)や.宮地さんのとこでの2年先輩やけど,淡水研の非常勤を経て,ブリティッシュ・コロンビア大のリンゼイさん(Cas Lindsey,水産学)のとこで学位とって,帰ってきてすぐに大津臨湖実験所(京大理)の助手になってくれた.「びわ湖総合開発事業に伴う調査」が宮地さんを代表に始まってしばらく経ったときやけど,三浦さんは臨湖へきて,個体群の仕事を始めたわけ.

 その線で一番初めに,ゲンゴロウブナの早崎内湖の仕事をやってくれたのが名越さんですよ,川の仕事の終わったあとね.ボクは入れ替わりにアメリカ行ったりして遊んでたから.そのあとイサザの仕事をやったでしょ.つまり,それまでは動物社会学的なものが強かったけど,そこへ個体群生態学的なものがええかたちで入ってきたのね.須永哲雄さん(香川大)とか牧 岩男さん(和歌山大)とか...東 幹夫さん(長崎大)はどちらかといえば種分化みたいなことやけど,その次の田中 晋さん(富山大)も平井賢一さん(金沢大)も,いっそう広い視野になったわけ.三浦さんの役割っていうのはものすごく大きかったのよ.

 聞き手:ほかに京大動物生態で印象に残る人はおられましたか.

 川那部:片野 修さん(水産総合研究センター)かな.ボクがずっと前に,根拠もなしに「魚には個性はない」などと書いたのを,すごく実証的に,全面的に反論してくれた.

 それから丸山 隆さん(東京海洋大)は,ボクをサケ・マスに引きずりこんだ人やね.それに大津臨湖の大学院生だった古川(田中)哲夫さん(兵庫県立大).あのへんがいなかったら,イワナの話なんかボクがするはずなかったもんね.「イワナ熱狂者協会」の会員になったのはもちろん,札幌で国際イワナ・サクラマスシンポジウムを開くなんてするはずなかった.丸山さんと一緒に書いた報告やらなんやらが3つほどあったから,ジム・ジョンソンさん(Lionel Johnson,カナダ水産研究機構,魚類学)が間違えて,川那部はイワナもやってるんじゃないかと思ったいうのが,あれの始まりやし.

 

魚類研究者との交流,その2

 川那部:国内は別にして,ボクが仰天した魚類学者っていうのは,ロゥ・マッコーネルさん(Rosemary Lowe-McConnell,–2014,魚類学)や.ロンドンの自然史博物館にずうっと長いことおったんやけどね,途中でやめて,リンネ学会の副会長などをしながら何をしたかというと,「悉皆屋さん」にならはったおばさまや.悉皆屋さんって知らん?呉服ものを作るのに相談に乗ったり,あっちこっち持ってまわって斡旋したり,そういうことしてくれる人.この人はアフリカの生態研究で有名で,著書もたくさんある人なんやけどね.

 アフリカへ行く話になったから,ボクも取りあえずはヨーロッパ各地へいろいろ話を訊きに行くやん.一番最初はまあただのご挨拶で,向こうもだいたい「慇懃無礼」やわね.続けていろいろ訊きに行くとね,ひょっとして盗まれるんやないかと思うているような人も何人かおるわけや.なんかあんまり教えてくれんようになることが多い.ところがこのロゥさんだけはまったく違っていてね,自分の知っていることは何でも教えてくれる.ありとあらゆる人に対してそうらしい.

 だからヨーロッパでのアフリカ魚類研究の情報の集積場所になるわけや.みんなそこに行っては,訊いて帰るのね.年寄りも若い人も,どこの所属かなどもまったく関係なし.「この前のとき誰々さんが来てこんなことを言うてたよ」って.つまりリンネ協会と自分の家とがね,サロンになるわけよ.人と人との間の関係を全部,学閥やとか民族とか何やとかっていうの,まったく関係なしにね,もうほんまに素直に情報交換の場所になってはるねん.全部,虚心坦懐に.もう亡くなったけどね.あれは面白い人でね...

 聞き手:魚類学者に限らず,これまでのおつきあいの中で,日本にそれによく似た人はいませんでしたか.あるいはご自分がそれに一番近いってことでも結構ですけど.

 川那部:それはなりたいとは思ったよ.ああいうことをやりたいなって.とてもできないけど,そう思ったことはあるし,今も思ってる.


タンガニイカ湖へ

 聞き手:話が変わりますけど,行動生態学はどう思ってるんですか.というのは,以前,科研費のプロジェクトのときにずいぶんいじめられましたから(前川).

 川那部:そうやったかな.ひょっとしたらそうかもしれませんね.面白いとは思うよ,特に初めの頃の仕事は.ただある程度時期が経ってからはね,「こういうデータが出ました.これは誰やらさんの何とかいう説で解釈できます」なんて言うのが多くてね.しかし本当のところは,その説を何も補強してへんねん.せいぜいが「それでもなんとか説明できる」と言うだけや.ほかの説では説明できなくて,その説でだけ説明できるって言うてくれないと,まともな科学業績ではないでしょ.これは今もそう思ってるけど.社会生物学もね,いろいろな議論はあったし,全面的には賛成していなかったけど,一番初めできたときは面白かった.どんな説でも一番初めに出した人は,なかなかえらいんですよ.ボクはそう思うてる.ただ,後の人がね,「あの有名な人の説で私のものは説明できます」っていうのは,ボクは価値がほとんどゼロやと思う.

 聞き手:まあ今日は川那部さんの話を聞く日なので,ボク(前川)は意見を言いませんけど(笑).その続きで,タンガニイカ湖.あれを始めた経緯と成果っていうか...みんなすごい大きな成果やと思ってると思うから.

 川那部:ボクね,自分で「これやりたい」ってことでやったことはね,たった一つ.宮地さんのとこに行った,それだけや.あとは全部,ありとあらゆることについて,自分がやりたいと思ってやったことないねん.最初に話したアユもそうでしょ.中海を始めたのも違うし,琵琶湖をやったのも違うでしょ.もちろん生態学研究センターも琵琶湖博物館の館長もみんなボクがやりたいと思ったのと違うもんね.やらされただけや,どれもこれも.タンガニイカ湖の研究を始めたのも完全にやらされですよ,そもそもは.全部,周りに押し付けられただけ.

 ただ,アユをやるときに,やっぱり理屈を立てたくて,合理化したって言うたでしょ.それはしましたよ,全部.タンガニイカ湖なんて徹底してそうやもんね.

 聞き手:タンガニイカ湖の調査の始まりは古いですよね.

 川那部:一番初めは1963年,伊谷さんに呼ばれたからですよ.オダムさんのところからの帰りにヨーロッパへ回ったとき,ついでにアフリカへ来やへんかと,誘われたわけ.キリマンジャロの麓のとこで,今西さん,梅棹忠夫さん(–2010,国立民族学博物館,民族学),もちろん伊谷さん,それに富川盛道さん(–1997,東京外大,人類学)ね,その人たちが集まって研究会やるから覗きに来い,と.その帰りにタンガニイカ湖に行く.この湖の国立公園計画を,タンザニア,当時のタンガニイカ政府から相談されて進めてる.その国立公園計画の中に湖なんかも入れたい.見に行かへんか,とね.

 それが1番目ね.湖の東側の中央あたり,リヴィングストンさんとスタンレーさんがマンゴーの木の下で出会ったキゴマの少し南です.ここで,ちょっと潜って見てたり,網でいくつかの魚やらが採れたから,非常に面白くて.伊谷さんに,「湖も国立公園に絶対入れてください」って頼んだのを覚えてます.

 聞き手:1963年.えらい早いですね.

 川那部:それから後ね,河端政一さん(信州大,動物生態学)という当時静岡女子大学にいた先輩で,アユ調査の1年目をやった人.アフリカに行きたいって科研費をずうっと出していて,不幸にも落ち続けてはったんや.それが1977年になってね,本人の言い方では,「間違うて」通った.なんでか,ボクが行ってもよいと言うたらしい.それで高村健二さん(国立環境研,動物生態学)と3人で,北端のザイール側にあるウヴィラへ行ってね.ここには,ベルギー植民地時代に建てた中央アフリカ研究所の支所がある.そのときは軍隊が占領してて,ボクは2ヶ月ザイールに滞在しているうち,タンガニイカ湖畔にいたのは2泊,潜ったのは全部で3時間.それでお終い.

 その次に1979年に科研費に申請する話のときに,河端さんがやね,自分が出すより,お前が出した方が通りがええからって,代表にならされた.何人かでチーム組んで申請したら,それこそ間違って通ってしまったんや.このとき行ったのは,河端さんと高村さん,堀 道雄さん(京大,動物生態学),山岡耕作さん(高知大,魚類学),それに安渓遊地さん(山口大,文化人類学)やな.そうなると,さっきも言うた合理化が必要になるわけや.1回目は遊びに行くのでええんやわ,そら面白いもん.そやけど2へん目になるとね,やっぱり理屈がないと困るんやわ.

 どこかの学会でやったと思うけど,魚類学の先生に叱られたわ.「なぜタンガニイカ湖みたいなとこへ行くんですか」って.ほかの大先生からはね,「あなたもとうとう頭が枯渇したんですね」って言われたよ.「日本では新しいことを調べる能力がなくなってしまったから,アフリカくんだりへ行って,あそこならなんかあるかもしれないと思っているんですね」などと言った人が,覚えているだけで3人いるわ.こう言うて下さるのはボクらにとっては嬉しい人ね.こっちはカッとなるやない.「日本にいたらわからないこと,我々のグループがあそこへ行かなければわからなかったことを,絶対に見つけて論議してやる」と思うじゃない.だから,ものすごく感謝してる.

 今度の「合理化」の理屈はね...「食い分け」をやるときに参考にした論文の1つに,ラーキンさん(Peter A. Larkin,–1996,ブリテイッシュ・コロンビア大,魚類学)の書いた淡水魚に関する論文がある.淡水というのは1年とか数年というのから地質的な長さにわたって極めて不安定な水域である.だから,淡水魚っていうのは,絶対に性質の幅を狭くすることができない.何が起こっても対応できるように広い幅の性質をもたなければならない.海はそれに対して安定的な生息場やから,もっと狭くなることが可能で,実際にそうなっている,と,そう言うわけや.種の性質が重ならなければ「食い分け」や「棲み分け」が起こるはずはない.どうも草食性の昆虫はそうらしい.ギフチョウはカンアオイだけを食草にして,ヒメギフチョウはウスバサイシンだけを食うから,彼ら同士は直接には絶対競争関係にはならない.

 ラーキンさんが言ってることはほんとらしいし,そしたら,淡水の中で安定な水域が例外的にあったら,ギフチョウやらみたいな狭い狭い性質を魚がみんな持っててね,「棲み分け」,「食い分け」みたいなことをせんでもええような「静謐なる世界」があるかもしれん.あるんならどこや,というたら,バイカル湖とかタンガニイカ湖やろう.バイカルは寒いところや.深いところで種分化が起こってることが知られてる.タンガニイカ湖は浅いところで起こっているかも.そこで調べてみたら,ベルギーの人が書いてる分類の本の中に,いろいろけったいな魚が記載してある.鱗を引っぺがして食うだけの魚とかね.そういう非常に狭い性質を持っているものがかなりいるらしい.もしそうやったら,「静謐な淡水魚の社会」があるんやないかって,とにかく理屈つけて行ったんや.

 

食い分け,襲い分け,そしてエコロジカル・ニーシュ

 川那部:みんなから少し遅れて行ったらね,先に着いてた連中がケラケラ笑いながら,「川那部さん,静謐ってなもんとちゃいますよ」って言いよる.それで,シュノーケル付けて岸から覗いて見たら,あっちでもこっちでも喧嘩ばっかり起こってる.「あかんなあ」って言ったら,もうそのとき,ちゃんと新しいことを見つけとったわけ.「なんかおかしいんですわ.相手がいた方がええっていうのがありそうなんですわ」って言い出してね.

 聞き手:つまり「競争的共同」の発見は最初のときから?

 川那部:ボクが行く前に見つかってたんよ.で,高村さんは草食魚で,石の表面から藻をすき取って食う種の食った場所を,藻をつまんで食う種がわざわざ選んで食ってる.すき取り種を取り外してみたら,つまんで食う種もその場所から消えてしもうた.こういうことを見つけてたんです.それから堀さんは,泳いでいる魚の鱗を引っぺがして食う2種について,異なる種が一緒に行きよるときのほうが,成功率が高そうだって.「エエッ?!」て.ボクが思うてたものより,もっとはるかに面白いことやからね.

 ボクはナワバリをやることにしてね.各々の藻食いの魚がいっぱいナワバリを作る.種内はもとより種間でも作るんやけど,互いに大いに重なることも,全面的に重なることもある.それぞれの個体のナワバリの境界はどうなっているのか,とね.そして,前から思っていたことやけど,繁殖ナワバリと摂食ナワバリとはどうもまったく違うものではないか,などと...

 変なことで面白いのはね.動物生態研究室に関係する人が行くとね,みんな食うことが好きらしくて,食物をめぐる関係ばっかり調べだす.原田さんのとこの瀬戸臨海実験所,海洋生物研究室の人はね,みんな繁殖に関係することが好きなんやわ.柳澤康信さん(愛媛大,動物生態学),桑村哲生さん(中京大,行動生態学)とかね.よう考えたら,人間性としてもそういうところがあるみたいね.食い意地が張ってる人と子供育てるのが上手な人と.

 聞き手:人間性との関係は同じ方向ですか,それとも反対方向ですか.

 川那部:おんなじです(笑).食物関係と繁殖関係の両方をやったのがね,幸田正典さん(大阪市大,動物生態学)かな.彼は霊長類学から動物生態研究室へ来た人やけど.

 聞き手:川那部さんの本を読んでると,種間関係,あるいは群集自体,要するに「関係の総体」はいつも動いている.動きながら関係も強くなったり弱くなったり,あるいはなくなったり,それが群集だと.その上に歴史性を見なければならないと,そういうように読めるのですが...

 川那部:あるとき,こんなことを言うた覚えがあるの.エルトンさんのエコロジカル・ニーシュ(ecological niche)の概念...ニッチェとかニッチとか発音するのは間違いやけど,それはええとして...もともと「ニーシュ」っていうのは,暖炉のへっこみや穴ぼこのことをいうわけね.あそこに人形やらを置くねんけど,どんな人形を置いてもよろしいものやん.だからある考え方の人は,ニーシュっていったらどの群集にも決まって存在していて,例えば,オーストラリアの哺乳類のニーシュは全部旧世界のそれとおんなじに対応していて,オーストラリアにないのはコウモリとなんとかだけや,とか.そういう,先にニーシュありき,とでもいう考え方が多かった.でもニーシュは生物同士が関係することによって作り上げられたもので,それがある程度まで確立されたら,それ潰すの大変やから,あとで来た種はそこへとりあえずのところ入り込もうとするんや,てなことを本の中で言うた.そしたら,本の帯に書かれたやない,「全面革命しかありえない」とかいって(笑). 

 聞き手:古本だったから帯がなかったんですが,面白いですね.で,アフリカに話を戻すと...

 川那部:一番残念なんはね,ザイール国に内戦があったでしょ.あの辺でもドンパチがあって.標本なんかが全部潰れたらしい.

 あそこで山岡さんがまず新種を記載してね.そのタイプ標本をどこに置くかっていう議論をした.今と違って,持ち出すのに何の躊躇もない時代ですからね.それでもやっぱりね,基本的には現地にないっていうのはものすごくおかしいと思ったわけね.

 でもやっぱり心配やから,ホロタイプは日本に持って帰ろうということにしたんや.それでパラタイプをきちっと作ってね,現地の研究所,つまりザイール国立科学研究所へ置いたわけね.そしたら,向こうの内戦で全部...でしょ.そのときに,ものすごくボク困ったわ.植民地主義っていうのはけしからんと思ってるからね.日本の生き物のタイプ標本がレイデンにあり,サンクト・ペテルブルグにあり,スクリプスにあるなんていうのは,やっぱりおかしいと思ってるからね.

 一番初め山岡さんに,ホロタイプは現地に置いたほうがええのやないかと言うたんです.山岡さんは頑として,「ホロタイプは絶対に日本に持って帰ります」って.結果として,残念ながら,それが明らかに正しかったんです.

写真3.英サセックスのE. Barton Worthington(生態学)の家の前にて.右がRosemary Lowe-McConnell(1996年7月21日,嘉田由紀子撮影;川那部氏提供).

4.図鑑,生態学研究センター,そして琵琶湖博物館〜「自分しかやれないものをやる」

2つの淡水魚図鑑

 聞き手:最初の図鑑(宮地・川那部・水野,1963:原色日本淡水魚図鑑.保育社),あれのきっかけはなんだったんですか.

 川那部:保育社が言うてきただけや.

 聞き手:宮地さんに?

 川那部:3人集めて言われたんやないかな.山崎嘉一さんという人が編集者やった.保育社っていうところはね,名前どおり,元来,幼児向けの本やらを作ってた会社なんですね.小さい図鑑やら子供向けの図鑑やらも一式作ってたのが,まともなもの,つまり東京の北隆館に匹敵するような図鑑を作りたいって考えたわけ.

 でね,最初の10巻ぐらい作るのに,基本的には関西の人に声をかけてきたと思う.そういう点でいうと,関西で淡水魚をやってたのは我々ぐらいかもしれなかったし.

 宮地さんはああいう人やから,自分の名前を外してくださいって言ったけど,外したらいけません,て言うて.後ろの解説のところを読んで,ちょっと直してくれたかな.

 それで水野さんと2人で相談したわけや.まず,分類学者には昔からランパー(一括主義者)とスプリッター(細分主義者)があるけど,みんなあれは「種」についてや.しかし,属でも科でも全部についてランパーでやるのがええと思うた.そういうわけで,日本特有のジーナス(属)になっているのはほとんど潰した.例えばBiwia zezera(ゼゼラ)っているでしょ.Biwiaなんてのは,世界中にこの種しかいなかったわけね.だからできるだけ属名は中国のもの,大陸のものとおんなじにしようと決めた.なんでや言うたらね,属が違っていたらみんな誰も大陸のものとちゃんと比較せんわけや.岩井さんに相談したら,「淡水魚は知らん」って言うしね.

 2つ目はね,今わかってないことは「わからない」って書こうって.生態やらなにやら知られてないことがいっぱいあると.だからあの本の説明には,1種について,たった数行のものから何ページに渡るものまであるわけですよ.ものすごく評判悪くてね.分類学者に叱られましたよ.ああいう図鑑はけしからん.だいたい各種について,おんなじぐらいの行数だけ書くのが当たり前である,とね.

 聞き手:水野さんは本当に同意してたんですか?

 川那部:もちろん!中村守純さんに連絡してくれたのも全部彼でね.あの仔稚魚の図を,全部あのままあそこに入れてよろしいというのをちゃんと彼がやってくれて.

 聞き手:分類については,普通は「わからなかったら放っとく」とやりますが,「わからないから変える」っていう図鑑でしたね.

 川那部:一番の狙いはね,今わかってる「生態」に関するモノグラフにしたいっていうことや.でもね,後で成功したかなと思ったのは,山と渓谷社の図鑑(川那部・水野編,1989:日本の淡水魚)のときですよ.あれ,ものすごいたくさんの著者でしょ.各々の種についての専門家にみんなお願いしたんですよ.大学の先生だけやなくて,高校の先生とかなんとかいろんな人がいっぱいいはるわけね.聞いてみたらね,保育社の淡水魚図鑑を見て,「こんだけしかわかっていないのか.そうなら俺が調べたる」って思うた人がいっぱいいた.それはね,著者冥利に尽きるわけ.

 聞き手:本当にそう正当化されていますか(笑).以前,宮地図鑑と中村図鑑(中村,1963:原色淡水魚検索図鑑)のどっちが好きかという「どっち派」かというのがありました.

 川那部:いや,一般の人に対する著者としてはね,今となっては悪いと思う.ただね,あれは分類については完全に素人である人間が勝手なことを書いたわけね.ただし生態に関しては事実を全部書いて,わからないことはどこやと書いたという,そういう立場なわけですね.普通の考え方からすれば,ああいうことをめちゃくちゃにやるんだったら,それはいったん論文に書いて,そうだって言わなければならない.あれはそういう点ではまったくの違反ものやった.みなさんどうぞ本職の方,調べてくださいね,っていう,ええかげんな,そういう考えで書いたもんなんや.

 聞き手:確信犯ということで.

 川那部:ある意味で確信犯.ただやっぱり叱られるとは思ってたし,まあ実際すぐ怒った人もいるわけやけど,そこがよかったかどうかはよくわからない.

 

生態学研究センター

 聞き手:川那部さんは京大の最後の方,生態学研究センターの初代センター長になりましたが,生態研センターは,生態学会が(国立遺伝学研究所や環境研究所のような)全国組織を作りたいという話から盛り上がったのでしたか.

 川那部:その通りや,あれは.「国立生態学研究所」を作る予定やったけどね,すぐには作れないから,京大にとりあえずお預けいたしますというのが,少なくとも文部省の考え方だったし,それなら我慢する,と生態学会も言うたわけや.

 しかし,まずそれより前にね,生態学会が作りたいって言い出したときに,ボクは反対やったんやわ.ほとんど完全に逃げてたんや.歴代の会長に叱られながらね.なんで嫌やったって言うたらね,国立遺伝学研究所ってのがあるでしょ.あれができて非常によかったんやけどね,「遺伝研できて,遺伝学滅びた」って,当時言われていたんやわ.各大学から,そのときにええ先生を全部あそこに集めて,京大からも木原 均さん(–1986,遺伝研,遺伝学)やら動いてしまったし,九大も動いて...もう遺伝学の研究室がなくなってしまったとこもある.その代わり遺伝研はすごいことになったわけね.生態学はやっぱり基本的には野外の学問やろうし,各地に研究室が散在している必要性は極めて大きいと,ボクやらはそう思った. 

 それから科学研究費補助金や総合研究などもあるから,集まってなんかしようっていう場合でも,バラバラでも構わへんわけでしょ.なんで一所に集めなならんのかっていうのが,ボクらの考えやったわけね.そのうちに,ときどき科研費で集まるようなんではあかん,いつもいつも議論することによって,本当にみんなで進められるようなものだけやる中核的な機関が必要やという,そういう考え方が出てきたわけや.京大のセンターとして取りあえず発足してもね,その最初の人事はほとんど生態学会がやったぐらいのものやからね.

 聞き手:1991年に生態研センターはできてますよね.

 川那部:初めの2年は,ボクは理学部教授でセンター長兼任ね.それからやっぱり移ってくれませんかって文部省が言うてきて,席を純増してくれた.いやって言うたんやけど,結局3年目は理学部の教授とセンター教授の併任で,最後は理学部から出て,完全にセンターへ移った.センター長としては5年いた.

 それはともかくとして,生態学会が本当に作ったんですよ.だからね,面白いことしましたよ.諮問機関として運営委員会があるの.それには,他の大学の人やらを入れられる.比率などは決まってなかったので,センターの人が3分の1以下,京大の他学部などから3分の1,そして京大以外が3分の1以上にした.重要事項で,3分の2超えなあかん場合には,2つ以上がちゃんと組まんとでけんようにしてあんねん.それで,学会からはうるさいのばっかり来てもらって.だからみんな一生懸命やってくださったですよ.

 それこそ伊藤嘉昭さんなんてのは,運営委員会で必ず手を挙げてね,「ボクがここにいるのは,川那部に反対するためだと思うから,言うけれども」って,「君が今提案したのには反対だ」って必ずやってくれた.人事なんかでも,それは何とかや,とか,いや,とか言うてくれると,ほんとに楽なんやわ.だってちゃんと説明せんならんでしょ,こういう理由でこの人がええと思う,というふうに.ほかの人がまた,そうやとか,いや,そうやないとか言うてくれるからね.だからほんまに得したよ.

 

滋賀県立琵琶湖博物館へ

 聞き手:その後すぐに琵琶湖博物館に?

 川那部:停年退官の次の日にね.ひどい話や.これも思ってもいないことやったんやけどね.

 聞き手:確か,三浦泰蔵さんが本当は...というとあれですけど,準備室からやられていたわけですよね.でも亡くなられて...

 川那部:いや本当にそうですよ.亡くなったのは,開設の3年ほど前ですわ.まあしかし,悪いのは梅棹忠夫さんと吉良竜夫さん(–2011, 琵琶湖研究所,植物生態学)の2人でね.「川那部さん,君が推薦した人やから...」って.違うのよ,本当はね,2人が「三浦さんでええか」って言うから,ええどころでない,彼しかないやないですか,って言うといた.そしたらね,あとで,「君が推薦した人が死んだんやから,責任とれ」っていう...

 聞き手:(笑)変な押し付けられ方ですね.

 川那部:最初だけでもやれっていうわけや.またいろんな人が言うてきてね.一番うるさかったのは嘉田由紀子さん(滋賀県知事,環境社会学)やったな.川那部は前から生物間の「関係の総体」を研究するんやと言うとる,と.我々の博物館は琵琶湖とその周りに住む人間の関係の総体をやる...総体という言葉は使ってきませんでしたけど,そういうふうにしようと思うので,あなたは今まで人間を入れて考えたことがないから,それも入れて本当の「総体」をやったらええやないですか,って言ってさ.それで騙された.最初の間は,「三浦さんやったらどうやったんやろうな」って,ずうっと思い続けていました.

 聞き手:琵琶湖博物館へは,開館間近ぐらいですか.

 川那部:開館というか開設がね,大学を辞めた次の日,96年の4月1日.一般公開は10月でしたけどね.だからボクは準備室のときにも時々呼び出されて,布谷和夫さん(三重県立博物館,博物館学),嘉田さん,中島経夫さん(岡山理科大学,魚類形態学)とかいうようなのにね,付き合いました.

 聞き手:準備室は長かったですね.

 川那部:そうです.8年ぐらいかな.あれはすごいことやと知事にも言うた.

 琵琶湖博物館でボクがやった仕事なんて,ほとんどないんですよ.全部できあがってるわけでしょ.博物館では学芸会議で全部物事決めるわけね.意見が割れても8:2やったら絶対訊きに来ないで,こうなったって言うだけや.6:4やったりするとね,やっぱり気になるのね.6,4の両方が現れてね.川那部さん,これは考えて,どっちかに決めてください,って言う.意見が拮抗したときに,理屈を聞いたりして,そんなら今こっちにしたほうがええんやない,って言うだけ,ボクは.

 それから,彼らがいつも言うてた言葉や内容を,標語にしたのはボクやな.

 聞き手:例えば?

 川那部:琵琶湖博物館は必要悪みたいなもんやから,出口に「ここからが本当の博物館」と看板ぶら下げようとかね.今,自分たちのやってる生活が本当の博物館や,と言うわけ.普通はそう思わないし,ボク自身もそれまで思うてなかったから,いっぺんそれをパッとお見せして,考えたり感じたりしてほしい,それが博物館やと.それから,「多色の色眼鏡をかけて自然を見よう」とかね.学芸員がいろいろ言うてたのを言葉にしたのはボクですけど,あと何にもしてない.

 聞き手:琵琶博の館長でおられたのは何年ぐらい...10何年かぐらいですね.

 川那部:あれはひどいんや.96年の4月から,2010年3月末までいましたからね.14年いたかな.だいたい,1ヶ月か6ヶ月で喧嘩してやめるってみんな言ってたもん.ひょっとしたら吉良さんやら梅棹さん,そう思って呼んだのかも知らんのやけどね.

 聞き手:なぜ期待に反して(?)14年も保ってしまったんですか.

 川那部:いや,それはね...副館長の田口宇一郎さん(滋賀県副知事,地方行政学)に「騙された」のかも知らんけどね.とにかく知事がね,全部言うこと聞いてくれたんや.これだけの研究費は追加で出してくださいって言ったら,必ずハイって言うて出してくれたしね.こちらで辞める...喧嘩するアレがなかったんやわ.

 聞き手:館長も相談コーナーに順番で座っておられましたね.(渡辺が)子供と行ったときに一緒に写真を撮ってもらったことがあります.

 川那部:図書室に質問コーナーってのがあってね.「コーナー」ってカタカナ語は嫌いやから,自分では「質問席」言うてたけど,それに一月にいっぺんぐらい座ってた.

 聞き手:博物館に入ってから,学芸員の資格を取られたと自慢されていたことが...(笑)

 川那部:2001年ですよ.5年ぐらい経ったときやな.学芸員資格取ってない人に意地悪言うてたさかい.やっぱり学芸員の資格ぐらいはね,なんとかして取ってくれ,と.いま思たらパワハラと言われそうやな.大学の教師には資格は何にもいらんから,ほんとは博物館にもいらんのやけども,やっぱり今は取った方がええから,と言うたけど,言うこと聞いてくれん人が多くてね.それで癪に触ったから自分が取ったんや(笑).

 

競争とオリジナリティ

 川那部:例えばね,オリンピックでボクが面白いと思うのはね,陸上競技と水泳ぐらいなんですよ.そのオリンピックで1位か2位かってことはどうでもええ話.そうではなくて,自分の過去の最高記録を自分がどれだけ超えたかですよ.で,ずらっと並べたら,結果としてこの人が1番であの人が2番やったっていうだけのことでね.だから逆にいうとね,ボクがどうしても理解できないのはね,どっちが勝った,どっちが負けるかって,そういう競技.つまり,相手と競争して勝つ,っていうのがね,ボクにとってはね...

 聞き手:ご自身に関しては,その走りとか水泳とかいうのは何なんですか.

 川那部:基本的に何の研究でも,まあせいぜい1年か2年の間に誰かがやってくれる可能性があったらね,そんなん任せたらええやんっていう...誰か別の人がやってくれるんやから.そやから,誰もそれを当分の間やってくれそうもないことを探して,自分しかやれないものをやるというふうするべきやと思ってるとこがある.

 聞き手:それ,世界的にしのぎを削ってる大きい科研費プロジェクトをやってる人たちの報告会でも言われてましたよね.みんな一生懸命に,どこよりも先に出さなければってがんばってるのに(笑).

 川那部:そんなん,誰かがやってくれるんやったら,自分はやらんでもええのに.科学はそれで進むんやから.

 まあ,ボクはやれてないんやけど,他人があんまりやってない,面白いとそのときは思われていなかったようなことについて,何かあることをして,論文を書いて,それが何年か後になって,「あれ面白かったなあ」と言うてくれる人があってね,それが少しずつ拡がっていったあとで,その考え方を一番初めに出したのが誰で,それがどういうふうにこう変わってきて今ある理論になってきたかということがわかる,その「一番最初」のようになりたいと思てる.もちろん無理やけどね.

 「食い分け」でもなんでも,「新しく考えたな」と思ったんやけどね.だいたい同じ頃に同じようなことを考えている人がたいていおるわけやんか.そのとき思うたボクの反応はね,「あ,これはもうせんでもええなあ」って.同じ頃に同じようなことを一生懸命にやってる人があるんならね,なにも自分は,せんでもええやん,生態学はそれで進むやん.だから絶対にしてないようなものを次には選ぶねん.いや,選びたいねん,必ず.

 聞き手:「食い分け」を同じ頃に他の研究者も?

 川那部:互いに無関係に,新しく,同時ぐらいにおんなじようなこと考えた人がいたわけや.ニルソンさん(Nils-Arvid Nilsson,スウェーデン国立淡水研究所,魚類生態学)とイヴレフさん(Viktor S. Ivlev,魚類生態学)ですけど.

 ボクはあのとき,“forced food segregation(強制された食い分け)”って言うた.ニルソンさんが作った言葉は,“interactive food segregation(相互的食い分け)”やったんや.その方がよっぽど広くって,どっちかがforcedやったら一つがこうなるけど,両方ともで起こってもええでしょ.だから,彼があの言葉を作った途端に,ボクはすぐにinteractive food segregationに変えたんや.理屈上もね,ええでしょ.しかし,彼とは無関係に見つけたから,それはそれでええ.それからものすごい厳密さで実証したのがイヴレフさんですよ.彼は実験室の中でそいつをやった.

 聞き手:それも川那部さんが「食い分け」を言ったのと同じ時期で?

 川那部:ほとんど同じ時期ですよ.イブレフさんを一番初めに知ったのはね,生物生産に関する論文やわ,彼の.ロシア語なんやけどね,何とかして無理して読むから別刷ほしいって言うた.そして自分の論文を送ったらね,似たようなことをちょうどおんなじ頃にしてたな言うて,本,送ってくれたんや.有名なあの本ですわ.日本語訳は「魚類の栄養生態学」(1965年,新科学文献刊行会).

 聞き手:「食い分け」という言葉は川那部さんが考えたんですか.

 川那部:「食い分け」っていう言葉は,そうやろね.しかしその前に今西さんの「棲み分け」があるからそんなん当たり前や.あの人はね,棲み分けっていう言葉をいろいろに使ったから,ちょっと癪に触って,自分はちゃんとした言葉として使おうと思った.「棲み分け」,「食い分け」っていう用語は,現実の相互関係の結果でないと使わない,と自分で考えたわけ.

 ボクが今西さんの話の悪口言うたら,今西さんが反論したの知ってる?今西さんらしい反論のしかたや.「川那部君はここのところはこういうふうにおかしいと言った.ひどいと思う」って論文の脚注に書いてある.あの人らしいでしょ.ちゃんと言うてくれはるんやから,えらい.

 聞き手:生物生産といえば,川那部さんは生物生産,生産性ということについて総説を書かれていますね.

 川那部:生物学的生産の概念について,ってな論文ね(川那部・原田,1964).プロドゥクティヴィテート(Produktivität)とプロドゥクティフクラフト(Produktivkraft)とプロドゥクティフクレフテ(Produktivkräfte)というような概念がね,マルクスさん(Karl Marx)などはちゃんと分けて書いてんのやけど,日本語の翻訳ではほとんどすべて「生産力」.生態学でも日本語は生産性とか,生物生産力とかいう言葉があったでしょ.この言葉を生物学に導入したティーネマンさん(August F. Thienemann,–1960,陸水生物学研究所,陸水生物学)も,人間の経済学に学んでこの概念を作ったって言うてるんやから,経済学の概念はほんまはどうなんか知りたいわけや.それで一生懸命見ようとしたら,日本語読んでもわからへんわけ.ほんならやっぱりドイツ語から読み直そうかって話になってさ,原田英司さんが,アダム・スミスさん(Adam Smith),ミルさん(John Stuart Mill),それに『資本論』の第1巻を,原著に当たって全部読みよった.で,伊藤さんなんかは,そんなことは無駄なだけって,これもまた批判してくれたけど.

 聞き手:あの当時,伊藤さんは,生理学とか遺伝学,DNAやっている人たちと比べながら,世界に向けて発信していかないと今の生態学ではダメだ,というように言っていました.若いときにボクら(前川)もそう思いましたね.

 川那部:生態学だけやのうて,全体として,ここしばらくの間,世界も日本も科学における競争っていう概念が全盛やから,それは伊藤さんがえらいわけやな.ほんまかいなとボクは思っているけど.長い長い目で見たらそれがええかどうかわからん,いや違うと今でも思うているけどね.

 それでも「生産速度」っていう言葉をあれ以後かなり使うようにならはったから,それ言うたのはよかったのかなあとは思ってるねん.それはまあ別にしてね,誰が一番初めにどういうつもりで言うて,その後どういう文脈で,いろいろに人が違うこと言うて,それが定着したりするとかいう...やっぱりちょっと歴史を振り返りたくなるわけね.しかし,そんなんしている暇があるんなら,もうちょっとこっちの現実的なことをせえ,というわけや.

 聞き手:川那部さんのやり方は,今思うと,大変面白い.中身については細かいとこでそれぞれ違う考えを持ったりしてたけど,ボクたち(前川)の年代の人たちはみんな,競って伊藤嘉昭と川那部さんのやつはすぐ読んでたわけですよ.

 川那部:読まんでええねん(笑).向こうのだけ読んだらええねん.

写真4.新潟水俣病裁判の結審のあと,原告側弁護団長渡辺喜八氏の自宅のある加茂市にて.左から,滝沢行雄氏,食堂の主人,渡辺喜八氏,飯島伸子氏,宇井 純氏,川那部氏(1971年5月21日,おそらく高見 優氏撮影;川那部氏提供).

5.公害から保全,そして生態学〜「生態学をやることだけは自分で選んだ」

新潟水俣病と大学紛争,そして生態学

 聞き手:自分の人生で一番大きい「悪事」といえば何でしょうか.

 川那部:何やろなあ.いっぱい悪いことしたけどなあ.ボク自身の生態学を変えたのは...やっぱりあれやね.大学紛争と...それから新潟水俣病やね.

 聞き手:いや,あれは悪事じゃなくて...

 川那部:あのときにね,ボクの「生態学」が変わったのね.ここの話に合うかどうかは別にして.

 かなりの人は,ボクをね,生態学のある程度中心に居たと思ってるらしい.でもボクは生態学の中心には居たことはないねん.「個体群生態学やってる」なんて言うたら,本職に殴られたかもしれんし,群集生態学でも中心的な意見は全部拒否した.でも,その横には,そっと付随してんの.ある意味ではものすごく弱いというか,近似体制派というか,そんなんですよ.群集関係って言うててもね,「全部をやる」,「関係の総体」なんて言うておきながらね,そんな総体なんかやっぱり本気ではやらなくてね.一対一というのはだめで,連続したものとしてやらないといけないとか言いながらね,やっぱり解析しやすいところだけ,もっと言うたら論文が書けるような,と言ったらいいかな,何とか答えが出そうな問題をやってたわけ.

 そうやっていったら,大学紛争と阿賀野川の第二水俣病の問題が起こった.そのとき,やっと「同伴」はあかんのやないかと思うた.いや,合うてるか間違ってるかは別にして,あのとき,やっぱり生態学っていう学問自体を批判せなあかんと思ったわけ.少なくとも自分が立ってる基盤は潰さないかん,と.

 阿賀野川の水俣病のときに,宇井 純さん(–2006,沖縄大,環境学)に慇懃無礼に叱られたの.彼に言われて,一生懸命考えてね,あれはやっぱり食物連鎖関係の問題やと思ってしまったわけね.しかもそれは,個々の魚や食物連鎖の一つ一つの鎖なんていう話じゃなくてさ,あの川の中・下流全体の話になってしまうでしょ.それをね,全体として,疑似科学やって言われても,そうせなしゃあないのやないかと,こう思い始めるわけね.二体問題で物事を解くことをやめて,やっぱりどんなに無茶やって言われても,多体問題は多体問題として解きたい...多体問題は質点系の場合ですら,数学的な一般解はないことが証明されてるのも知ってるけども.ボクはもうそれで,今までの個々にやってたことを全部やめようと思うた.

 そこでボクの「生態学」は変わるわけね.生態学っていう学問なんかどうでもええやないかと思うだけではのうて,自分たちがずっと歴史的に作ってきた生態学っていうのを,やっぱり早う潰さないかんなあと思うわけ.つまり基盤をこう掘り返すことによって,潰れるだけなのか,なんかが新しくできるのかどうかよう知らんけど...あのとき初めてそう思うわけね.

 聞き手:それはその後,どういうふうになっていったわけですか.

 川那部:それが...わからんのやわ.しかしね,例えばタンガニイカ湖は,ひょっとするとそうかもしれん.つまり,何て言うかな...「食い分け」してるか,しなくてもいいような状態か,どっちかが起こっているって,取りあえずは思ってるわけね.その二者択一で考えていくつもりでいた.そしたら全然違うもの,つまり「競争的共同」なんて妙なものが出てくる.それ,思ってもいなかったわけね.従来の考え方に,そのままこう,なんかかんか言いながら,付き添ってきていたというのがあるじゃない.それ,やっぱりおかしいのやないか,いっぺん全部考え直さないといけない,と.

 そう思っていたからタンガニイカに行った,と言うんではないんですよ.ただ,積極的には意識してないんだけど,心の底に,まったく違ったことは見つけられないか,考えられないかと,無意識のものがあって,それで行く気になったのかもしれない.

 聞き手:どこが「悪事」なのかはわかりませんでしたが.

 川那部:だって,2重の意味で悪事ですよ.ボク個人にとってはそれまでを潰される「悪い事」だったし,それを止めてこのようにやろうと思ったのに,そうはやってない「悪事」でもあるしね.

 聞き手:阿賀野川のときは裁判も?

 川那部:行ったよ,原告側の証人としてね.裁判ではね,大抵のところはボクの言うことが受け入れられた.

 聞き手:大きかったわけですね,阿賀野川の問題は.

 川那部:そら大きいですよ.ボクはやっぱりあれで変わってしまったと思うね.しばらく落ち込んだ.ただそのときはね,非常にええことに大学紛争があった.大学紛争でやっぱりいろんなこと考えた.いや,ものすごい勢いで考えさせられた.ホースの前にも立ったし,大学院との長い「団体交渉」もやったでしょ.だから逆に言うたら落ち込んでる暇,なかってん.それはある意味では幸いやったと思う.あの激動期やったから,余計なことを思わんと耐えられたのかもしれん.

 

自然保護,そして生態学

 聞き手:公害問題のあとも,淡水魚や河川環境の保全に関していろいろコミットされてきていますが,川那部さん自身がどういうふうに保全そのものに,生態学者というよりも,一人の人間として関わったかをお聞きできればと.

 川那部:関わったかって?関わってないのやわ(笑).

 聞き手:関わってないって言うから,それは本当かというのがボク(前川)の聞きたいこと.関わってないとすれば,どうして関わらないのか,という話になるのですが.

 川那部:個人としては,ほんとに関わってないと思うんですよ.まったく違うことを言うと,ある時点での「保全」っていうのは,ある保全されている現状があるわけね.それに対してこう,開発の方は,どんどんどんどん,その時点の開発状態からさらに先に向かうものとして考えてる.それで,政治的にいろんなことを含めてどういうふうに解決するかって言ったらね,今の保全状態とこれから起こる開発状態との,必ず真ん中になる.それを拒否しようとした,っていうのはある.

 保全ということを考えるときにはね,真ん中を取るのはあかんのですよ.保全はやっぱり,元のほんとのところを原点にせんとしゃあないわけ.歴史的なところ,そう,さっき言うたやつや.ええ意味でも何でも近代主義者やなくて,ボクは古典主義者か歴史主義者や言うたのはそういうとこでね.どんなに言われても,もともとそうやったというところに原点を置かないとしょうがない,と.

 その原点がどこかっていうことについては,そら,いろいろ議論があるわけね.つまり農業が本格的に始まった弥生以来,全部おかしかった,っていう意見もあるしね.しかし本州のいわゆる「田舎」については,1950年ごろから問題になる.それまでの農村は中世の続きやったという人もいるしね.漁業法ができて,51年にアユ放流基準密度の選定が始まって,宮地さんとこにも話が来るわけね.やっぱり45年に戦争に敗けた後,50年ぐらいまでは変化は少なかった.朝鮮戦争によって大儲けするのも含めて,大がかりな変化は50年くらいから始まってますな.55年くらいまでは,アユの研究を行った宇川みたいなとこは,何とか以前のままやった.私のノスタルジーだけではのうてね.そやから,やっぱり戦後の朝鮮戦争特需の前ぐらいの時期,少なくともちゃんとそこを原点にしないといかんやろうと思うわけね.

 だから保全についてどうかっていうことを言うとね,現状からではなく,この「原点」からの変化として捉えるべきや...てなことと言うた途端にどこからも叱られて,もうあかんようになるんやわ,話が.だから個人的には個々のことにはあんまり言わんことにした.せいぜい,川辺川ダムとか長良川の河口堰は,絶対にいらんと思うとかね,そういう言い方しかできない.

 聞き手:保全に関しては,すごい直接的にはコミットはしていないけど,関係はずっとしてきたみたいな,そんな言い方でしたが,一方で,淡水魚保全に関係してずっと頼られて,あるいは発言をされていましたよね.長良川みたいなときは典型的ですけども.

 川那部:長良川に関係さされそうになったのはね,これまた1963年や.アフリカを回って帰って来たら,長良川の河口堰の研究会をやるので,当時信州大学におられた小泉清明さん(–1977,岐阜大,陸水生態学)が,自分たちが作った「木曽三川河口資源調査団」(KST)のアユの班の主任になれと言うてこられた.そのときにはもう「びわ湖生物資源調査団」(BST)に入ってたから,KSTの方と両方やるのはとてもだめです,と断ったわけ.そのときからね,小泉さんが,こんな報告出したよ,こんな報告出したよ,って送ってきてくださっていたわけ.それで,ボクが読んで,「もうちょっとちゃんと科学的に言うた方がよろしいね」とか,報告書の論文に批判やら悪口を言うてた.

 そうやってるうちに,74年やったかな,落釣こと木村英造さん(–2016,淡水魚保護協会,自然保護)や田中豊穂さん(中京大,公衆衛生学)やらに,長良川の河口堰問題についてどう思う,って呼び出された.そして同じ年に,都留重人さん(–2006,一橋大,経済学)がね,「環境国内診断・河川」というので,長良川の調査会を開かれることになってね.付いて来いって言われて,四手井綱英さん(–2009,京都府立大,森林生態学)と2人で参加したんや.

 そんなんで,やっぱり気になってね.「昔々,小泉さんに言われて,木曽三川の調査報告書を,こういうことで送っていただいていて...」って言うたら,「その報告書は科学的にはどうですか」って言われたから,「ここはええけども,ここは駄目.それにこの結果でこの結論は出せませんね」とかね,いくつか指摘した.

 それで裁判に引っ張り出されたわけ.証言で要求されたのはね,長良川河口堰を作ってはいけませんということとは違うんや.報告書にある論文におかしいところがあること,そのそれぞれの論文と最後に出版された「要約報告」との違い.それから,今の考え方からしたら,あれはアセスメントになっているかどうか,サツキマスの問題について触れられているか,とかね.そういうことだけ.だからボク,河口堰に対しては,悪いともええとも言うてないわけよ.

 聞き手:80年代後半にいよいよ盛り上がって,いろいろとありましたけど...

 川那部:自然保護の立場の人から言うたらね,ある意味で買いかぶり過ぎたんや.私は自然保護的にあれは作ってはいけないと言ったことはほとんどない.しかし,「よろしい,大丈夫です,という証拠はまったくありません.むしろ怪しいということはあり得る」っていう立ち位置.

 聞き手:それはなぜそうだったんですか.

 川那部:それがボクのええとこか…ボクはええとこと思ってるけど,悪いとこでもある.例えば,裁判所に行くでしょ.ボク一番初めに訊いた.「個人としての意見をお訊きになるんでしょうか,専門家としての意見をお訊きになるんでしょうか」.答えは決まって,「専門家としてのご意見を伺います」や.わざわざそうやって訊いたのは,ボクが分けたかったからよね.科学者として言うたときに,あれは科学的に間違っている,あれはおかしい,あの意見はまったく支持できない,とは言うたけども,その政策がええか悪いかっていうのは裁判でも言うたことないの.

 聞き手:なぜ言わないんですか.川那部さんぐらいの口の上手さからいうと,そこを織り交ぜたりとか,レトリックで自分の個人のものと専門のものを混ぜ合わせることも十分に可能だと思うんですけども.

 川那部:それは絶対拒否した.だから,新潟水俣病のときでもね,最後に,「川那部さんはどう思いますか」って言うたからね,「私はほんとはおかしいと思ってるんですけれど,それは今日の話と違います」って言ったように思う.それまで全部,専門家としてどう思われますかと訊かれたからね.それ,ものすごくストリクトにボクはそう思ってるわけ.正しいかどうかは別としてよ.

 だから長良川でも,一方では,ある河口堰賛成の町から,「つるし上げるから来い」と脅迫文をもらったこともあるし,同じ町から文部省へ,「京大から川那部を罷免せよ」と要求が出たのも事実らしいしね.それは別にしてね,保全の側からも,けしからんって言われましたよ.生態学者は基本的に自然保護をちゃんとやるべきであり,自分たちの立場に立って,「反対!」って言うべきであるのに,川那部さんはいっぺんもそれをしたことがない,と.天野礼子さん(自然保護)などにもね.しかし,言うこと聞かなんだわけ.非常に悪い意味も含めて,意外にサイエンティフィックなんや,ボクはね.

 聞き手:そういう立場でふるまってきたというのはよくわかりましたが,その中でどう思われていましたか.自分自身が長良川河口堰の問題とか,あるいはいろんな淡水魚保全の現場などで.

 川那部:ボクはさっき言うたみたいに,保全する原点は少なくとも1950年以前やと思ってます.保全の原点から考えないといけない.非常に単純なことを言うとね,保全を考えるときに,現在の状態から自然の方へ,どういうふうに戻したらええかって考える人が多い.そのほうが簡単やからね,などと言うと,叱られるけど.ボクはそうではなくてやっぱり,原点へ戻らないかんと言ってるわけ.

 聞き手:具体的に言えば,もう堰そのものを取ってしまう?

 川那部:いや,すべての堰やダムについて,そこまでは言うてない.個人的には絶対に,例えば長良川河口堰は取り外すべきやと思うてる.しかし科学研究者としてどう考えるかって訊かれたらね...原点がまったく考えられていないし,作る前の事前調査もほとんどやられていない.それにもかかわらず「試行」と称して堰を閉めて,それ以後ずるずるとそれが続いているのやから,それは最低限やめるべきや,と.できるだけ早く,潰すでもなんでもして,「逆試行」という名前ででも開門し,事前の状態をある程度復元する.そして,「原点」の状態に比べてどうなっていたかってことも明らかにする.それ以外無理でしょ,って言うてるだけ.

 

生態学,再び〜「教師はすべからく反面教師でしかありえない」

 聞き手:自分で言うのはアレかもしれないですけど,川那部さんが一番聞かれたくないことって何ですか.

 川那部:あんまりないんやなあ.間違えたなあ,と思うのは,いくらでもあるけどねえ...

 聞き手:では,最大の“間違い”を.

 川那部:最大の間違い?そら,宮地さんとこ行ったことや(笑).あれは自分で決めたんやから,そうしか言いようがない.あとはね,みんな押し付けられたんやから.

 聞き手:若い魚類学者あるいは生態学者に向けて,なんでもいいから正直に話していただけますか.

 川那部:さっきも言うたけどね,教師っていうのは反面教師でしかありえない.だから教師の言うことを聞いたらいかんねん.そのまま聞いては絶対にいけない.正反対のことをするのは,まあええけどね.すべからく反面教師やと思って,自分で判断せないかん.

 聞き手:それは今の世の中でちょっと通らないかもしれないですね.完全に今の大学院はアメリカナイズされていますから.

 川那部:オダムさんみたいにね,1週間にいっぺん論文の束を渡して,「これ読んで来なさい」って言うて,「はい」って言って学生が次の週に返してね,で,「次はこれをしなさい」って...科学研究者になるつもりでなかったら,あるいはそうするつもりでなかったら,それでもいいんや.ボクは絶対に悪いとは言わへん.しゃあないやん.

 宮地さんは,表向き,学生には何にもせん人やった.ただし論文を書いたら,真っ赤っけで還ってくる... いや,一番最初は赤も入らない.ただ「わからない」とあるだけ.2,3回目ぐらいになるとね,文章そのものを直してくれはるねん.それで書き直して...今じゃないから,手で書き直すでしょ,全部.それで,持っていくと,そしたら今度は一番基本的なとこから直さはるねん.「基本的なとこを先に直してくださいよ」って言うとね,「川那部さんねえ,前の文章ではどれが基本でどれが端か,まったくわからないよ.文章を直してから,やっとわかるようになったよ」って言うて.こういう調子でやってくださったけど,「こうしなさい,こう書きなさい」っていうようなことは,一言も言わはらへんわね.

 宮地さんがさらにえらかったと思うのはね,いついつまでに論文を書きなさいなんて言うたことないわけ.だから,大学院の5年間で学位取得するなんて,まずまずありえないわけよ.たいてい8年ですからね.

 聞き手:8年でも,ちょっと前の京大なら早い方だったかもしれない.

 川那部:逆にいうと,2年くらい経たないと自分の仕事を本当には決められない.そのかわり決めたらね,つまり5年経ったときぐらいにはね,やっぱり自分で自分の仕事がすごく面白いのよ.誰もあんまり考えてなかったようなことを見つけて,いろいろ論じて,論文を書く...というのが,宮地さんやらの考え方やった.ボクもほんとはそうであるべきやと思うね.ある意味では,旧制大学院と違う必要はない.

 現在はそれが許されないというのはよく知ってる.文部科学省がどう言うてるかも知ってる.しかし文部省の官僚の中にはね,20年か30年前から,あれは間違いやったって言うてる人が結構いたわけ.つまり,修士の終わりのときまでに,博士課程へ入ったらいくらお金をくれるか,くれないか,っていうようなことを,論文がいくつ出てるかなんてことで決めるようなやり方.そうなればね,当然教師の方が課題を与えたりするわけや.だからロクでもない仕事しかせえへん.短い時間でできるものしか考えない.ボクらのときは,博士論文を提出するときに,2つ,論文が書けてたらええなあっていう程度やった.

 やっぱり科学ってそうでないといけないとボクは思ってる.ノーベル賞なんかどうでもいいけど,これから日本で取る人は絶対減りますよね.

 聞き手:川那部さんが言われた例で言うと,講義を今,もともと15回やらなければならないのに,4回,5回でやめてしまうとかいうようなことは,ほとんど許されない.

 川那部:だから,そんなんどうでもええねん.つまり,ボクでも宮地さんでもね,4回しかやらへんかったから暇やったかいうたら,そんなことはないんや.その他のときにはレポート出さすやん.これについて書きなさいと.提出されたらね,読んで全部直さないかんやん.片っ端から赤で,ここはおかしい,ここはおかしいって直すでしょ.5へんも6ぺんもこうやって返すからね.時間的なことから言えば,講義してるほうがよっぽど楽なんですよ.15回のうち4回したということは,他のことで,もうちょっとまともな教育をしてるわけよ.講義なんかしてないだけで.

 「ええときに辞めましたね.今あなたがいらっしゃったら,たいへんでしょうね」って言われることがあるけどね,そんなことないと思ってんの.ボクやったらね,そんなもん全部拒否しますよ.絶対4回しかしません.

 聞き手:拒否したら,今は学生が訴えるんですよ.

 川那部:面白いやん,訴えたらええねや.ボク裁判とか好きやから(笑).学生さんはね,講義なんて聞かんでもよろしいっていうこと.出席取るなんていう大学で集中講義したこともあるけど,意味なかったなあ.

 ちゃんとしたレポートの問題を教師が出したらね,ちゃんとした答えを出したらええねん.つまらないレポート問題を出してきたら,それに対して,けしからん,と書いて返したらよろしい.それに対してバツを付けたら,それこそ裁判を起こしたらええ(笑).

 しかしそれはね,逆に若い人らだけに言うたらいかんのや.やっぱり教師の方がボケてる,アホやからや.それは権威主義になっとるだけと違うんやろか.

 聞き手:今,聞きたいのは,今の教師論じゃなくて...

 川那部:学生たちに?だから,そんな教師には,反対せな,おかしいわけよ.付いて行くなんてのは,信じられないわけ.

 聞き手:白熱してきましたが,この件はこの辺で.話は変わりますが,今もし,自分が若手でしたら,生態学をまたやり始めますか?やりたいですか?

 川那部:おそらくねえ,生物学をやってるという範囲内で言うたら,きっとそうでしょうね.ひょっとして,まったく違うことをしてた方が成功してたかもわからないと,それは思わないことはないけどね.江戸朝文法史やった方がよかったかなあ,とか.でもそれは全然別の話.生物学の中でやったら,やっぱりええとこしたし,ものすごくいい時代に,いい「先生」の下に,いい友達らの中にいたと思うわ.大喧嘩も含めてね.

 聞き手:ずっとお話をお聞きしてると,もう,「宮地先生LOVE!」みたいな話になっていますが.

 川那部:正しく言うとね,宮地さんは何もしなかったんです.なんっにもしなかった.それがものすごくよかったことや.

 聞き手:ほんとに何もしなかったわけではないんですよね.

 川那部:中海とか琵琶湖の委託研究でもね...中海のときは原田さんとボクがね,ともに博士課程の1回生のときですが,島根県との交渉でも何でもね,最初に2分ぐらいしゃべるのは宮地さんで,これは挨拶ね.あとは全部ボクら2人ですよ.それで,ときにはむちゃくちゃ言うわけね.喧嘩もする.それでもね,宮地さんは,「ハッハッハ」って笑ってるだけや.「若い人たちは元気がよくて」って最後に言うだけ.で,部屋へ帰って来てからね,「原田さん,川那部さん,あれはね,ちょっとやっぱりね,まずかったよ」と.そこのところはこう,あそこのところはこういうふうに話したらよかったんでは,って,教えてもらえるわけね.絶対に向こうの前では言わないわけ.

 聞き手:宮地先生とは,何歳ぐらい違うんですか.

 川那部:31違う.1901年生まれ.

 聞き手:少しわからないところがあるんですが...教師はすべからく反面教師であると言いながら,川那部さんにとって宮地さんは...

 川那部:ある意味ではね,あそこまで何もしないって,ええのかな,というのは少しはあるけどね.

 聞き手:(笑)ぎりぎりのところで反面教師なんですか.

 川那部:いやね,それは奥さんが面白いこと言ってらしたね.「宮地はね,学生さんや周りの人,勝手に走らせていると思われているらしいけれど,あれは気の小さい男でね,自分の範囲から絶対に外れてくれては困るんですよ」.「えっ」て言うたらね,「ただね,ながーい長いロープで縛ってね,自分はこう持ってね,じっとしているのよ」って.「ロープが長いから自分で動いてると思ってるけどね,実は全部握られてて.それで,『どうだ!』って思っているんですよ.私たちも娘や息子もみんな,そうされてます」って.これが奥さまのご意見.

 聞き手:川那部さんは,学生たちに長いロープを付けていたんですか.

 川那部:付けてなかったと,「自分では」思ってる.宮地さんだってロープ付けてると思ってないからね,きっと.でも言われてみたら,ひょっとしたらそうだったのかなあ,と思わないことはない.それは他の人に聞いてください.

 ただ,「関係の総体」っていうのは,「いまだにちゃんと批判し尽くしてないから,そのうちに潰す」って言ってくれている人が,何人かあります(笑).

 聞き手:潰さなくてもいいけど,ボク(前川)なんかも,まだ具体的じゃないな,っていうのはあります.

 川那部:ボクやっぱりね,「関係」って言ったでしょ.しかもそれこそ,当時の言葉で言えば抽象代数学で考えたいなどと.集合論的に言うとね,生態学の対象として,個体とか,種個体群とか,群集とかいう,モノを「元」とする集合を多くの生態学者は考えてきたわけね.その元の間の関係はどうなってる,って言ったわけね.ボクは社会学や群集生態学で「関係」のこと言うたでしょ.後で考えたらね,ボクにとっての元はね,個体でも,種でも,生態系でもないのね.「関係」なんや.「関係」を元とする集合なんや.関係の集合っていうのはね,「モノの集合」とは違うんやないか,「コトの集合」やと.

 聞き手:何度か本の中でも書かれてますけど,やっぱりイメージつかない.

 川那部:それはよくわかります.

 聞き手:それは川那部さんがひょっとして,イメージできてないんじゃないかと思って...

 川那部:それや.関係の総体論を批判する連中は,みなそう言うわけや.

 聞き手:ところが哲学としてみると大変面白いんですよ.生態学としてよりも.若いときにウーンって思ったやつが,年寄りになって読むと大変面白い.

 ずっと話を聞いてて,お父さんのお仕事が...それから,もともと文科系が好きだった,歴史が好きだったということが関係しているのかと...

 川那部:精神病学や社会学は関係あったと思うけどね.江戸文法はあんまり関係がないような気がするんやけど...あ,そうでもないか,文法っていうのはやっぱり,関係の科学,言葉の関係の話かな.

 聞き手:川那部さんの話聞いてると...生態学を愛してるんですね,ほんとに.

 川那部:生態学?全然!早よ,潰さな.今の生態学は潰さないかんと思ってる.

 聞き手:(笑)そこまで考えるっていうのは...

 川那部:しゃあないやん.間違うてやってしもたんや.宮地さんに騙されたにしても,生態学やろうて,それだけは自分で選んだんやから.

あとがき

 「はじめに」に記したとおり,川那部氏は,日本の魚類・生態学者としては例外的に,これまで多数の論説やエッセイを残しており,本インタビューで語られた内容の一部はすでに氏の著作の中にも見ることができるだろう.驚くのは,川那部氏の記憶のよさと,著作と寸分違わぬ文脈で語られる内容も多かったことである.しかし,それらを含め,2回にわたる長時間のインタビューを通して,我々は,決して単純な理解を許さない川那部氏の人物像,そして氏の視点や活動を通した戦後の魚類学・生態学の黎明期から国内外での研究・交流の展開のようす,そして社会の中での生態学のあり方について,ある意味で一貫した,新たな理解を得たように感じている(確信はもてないのだが).同時に,まんまと氏の思うままにまとめてしまったのかもしれないとも感じている.

 川那部氏は,1950年代のアユの研究に始まって,60余年の長きにわたり,国内外での生態学研究を先導し,大学,研究所,博物館とそれぞれの場で新しい研究のあり方を模索し,また図鑑や著作,研究プロジェクト等を通じて複数の世代の研究者,さらには行政や社会に幅広い影響を与え続けてきた.一方,インタビューでは繰り返し,生態学を選んだこと以外はすべて「押し付け」られたものであり,それらを真剣に意義付け,また自ら壊しながら歩んできたことが述べられている.その姿は,真っ赤に熱せられた鉄板のような円卓上で,降りるに降りられず一人舞い続けるジョルジュ・ドンのバレエ「ボレロ」のイメージにも重なり,その周りには数を増やしつつ踊り始める我々魚類生態学徒の姿も見えるのである.


引用文献

川那部浩哉.1960.川の動物群集をどうとらえるか.生理生態,91–10

川那部浩哉.1972.アユの社会構造の進化史的意義について,付 分布南限における社会構造.日本生態学会誌,22141–149

川那部浩哉.1987.偏見の生態学.農山漁村文化協会,東京.250 pp.

川那部浩哉.1996.生物界における共生と多様性.人文書院,京都.205 pp.

川那部浩哉.2007.生態学における「大きな」話.農山漁村文化協会,東京.220 pp.

川那部浩哉・原田英司.1964.生物学的生産に関する諸概念の検討.生理生態,12300–316

奥富 清・黒岩澄雄・小野勇一・川那部浩哉・只木良也・松本忠夫・松田裕之.2013.日本生態学会60周年記念座談会.日本生態学会誌,63157–177

高橋 建.2001.川の自然を残したい:川那部浩哉先生とアユ.ポプラ社,東京.139 pp.

渡辺勝敏・佐藤拓哉.2018.インタビュー,先達に聞く:名越 誠.魚類学雑誌,65218–226

※魚類学雑誌に掲載されたものから、一部誤字等を修正しています。

ウェブに転載するにあたっての追記:

 生態学の巨頭である川那部氏のインタビューを私のような者が行うこととなったのは、ひとえに日本魚類学会の年会の懇親会の場でのノリによるものであった。しかし、その場での企画のスタートもそうだが、川那部氏に機嫌よく、また時に激して様々お話しいただけたのは、川那部氏と私の間の年代で、付き合いもはるかに深く長い前川氏のおかげである。

 2回にわたる10時間半を超えるインタビューは、まずほとんど全て、私自身が文字起こしを行った。それは総計18万字を超えるものだった。この膨大な素材の構成、編集もすべて自由に行わせていただいた。構成にあたっては、基本、時系列を踏まえたことになるが、文字起こしの過程で、私の中には一つの明確なイメージができあがりつつあった。

 それは「あとがき」にも触れたが、モーリス・ベジャール(1927–2007)の振り付けによるバレエ「ボレロ」(ラベル作曲)である。中でもジョルジュ・ドン(1947–1992)は外見的にも川那部氏に似た雰囲気がある(笑)。もともとボレロは女性舞踏家が踊り、魅惑的で徐々に盛り上がる踊りで酒場の男を引きつけていくというストーリーらしい。しかし、音楽やバレエの教養に甚だ欠ける私には、この舞踏が違ったものに見える。つまり、何かの出会いの喜びに一人静かに踊り始めたところ、徐々に徐々に周りに共感が広がり、一緒に踊るものが増えだし、真っ赤に熱せられた鉄板のような円卓から降りるに降りられないまま、ますます激しく、また大規模に盛り上がっていく。そういった矛盾を孕んだ激烈なものと感じる。私の中では、「生態学を選んだこと以外はすべて押し付けられた」という表現が孕む矛盾とよくリンクした。

 「ボレロ」の構成に詳しい人は気づいたかもしれないが、このインタビュー記事も楽曲同様、5部構成となっており、各部は、第5部を除いて4つのパート(AABB)からなっている。各パートの最後はモーリス・ベジャールの振り付けのユーモラスなつなぎ部分をイメージし、関西人的な「笑い」や「皮肉」で締めることとなった。途中、舞踏への参加者も徐々に増えていく。第5部は楽曲と同じく3パート(ABC)のみであり、激烈である。公害問題、築き上げてきた生態学の否定、また矛盾を孕む反面教師論。そして生態学をやることだけは間違いなく自分で選んだ、という原点に回帰する。

(渡辺記 2022年8月12日)