インタビュー 先達に聞く

名越 誠  NAGOSHI, Makoto

出典:魚類学雑誌 65(2): 218226, 2018

聞き手:渡辺勝敏(京都大学大学院理学研究科)・佐藤拓哉(神戸大学大学院理学研究科)

インタビュー:2005818日    於:奈良県野迫川村・民宿えびす屋
                                    2006年11月11日    於:奈良県野迫川村・民宿か わらび荘

名越 誠博士は2017年5月27日に逝去されました。

魚類学雑誌に掲載されたものから、一部誤字等を修正しています。

名越誠氏に関する関連記事は、こちらにも掲載

はじめに

 我が国の淡水魚類生態学の草創期を切り開き,その後も継続的に多くの重要な業績を残すとともに,幾人もの研究者を育て導いた名越 誠・奈良女子大学名誉教授が2017年5月27日(享年80才)に亡くなった(森・渡辺,2017).私たちは迂闊にも,その日が来るのをまだ遠い先のことと思い,10年余り前に本企画のために行っていたインタビューを記事にまとめ,ご本人に完成稿をご覧いただくことのないままその日を迎えてしまった.

 本稿は,名越氏のキリクチ(ヤマトイワナ紀伊半島個体群)の長期調査の場であった奈良県野迫川村で,2005年から2006年にかけて3回にわたり行われた10時間以上に及ぶインタビューを編集し,まとめたものである.インタビューは食事や他の同席者との雑談を交えながら行われ,その内容は多岐にわたるため,文脈を損なわない範囲で大幅に編集を行った.本稿では主に,淡水魚の生態研究黎明期の京都および三重でのご自身と周辺の研究や当時の雰囲気を伝える内容を中心にまとめることにした.名越氏の魚類生態学の先駆的研究と後進へのかけがえのない遺産に思いを馳せながら,謹んで本稿を上梓するものである.


生い立ちと魚類生態学への道

 聞き手:1936(昭和11)年7月18日,岡山のお生まれということですが.

 名越:岡山の新見,そこから山のほうに入ったところ.中国山地というのは谷が深くないからね,高原みたいになっていて.私の田舎は標高が600メートルほどあって,高梁川の源流なんだけどね.源流といってもダラダラ流れてきて,コイ科ばかりいるんです.だいたい20種類.カワムツがメインですね.オイカワがそれの何十分の1ぐらいいてね.年によって,多かったり,少なかったり.子供の頃,やっぱりきれいだから,それを捕まえるのに必死になってね.

 戦中,戦後,小学生のときは,ひたすら魚採りに専念してたんです.勉強はもうそっちのけで,水に潜ったりして.ちっちゃな川なんだけど,もう朝から晩まで,田んぼや畑の仕事がない限りは行ってたんです.私の魚を捕る範囲というのは,1キロぐらいかな.どこに石があって,どこに何がいるかはだいたい分かる.オオサンショウウオがたくさんいるんで,それに何度か噛まれましたけどね.道具がないから手づかみやね.まあそれが生態学に貢献しているとはいわないけど,かなり役立った(注:名越氏はキリクチの個体数調査を,主に手づかみによる捕獲で実施した;佐藤ほか,2006).

 聞き手:最初に魚捕りを教えたのはお父さんですか?

 名越:父も魚捕りは嫌いじゃなかったけど,教えられたのは先輩かな.先輩に小学校1,2年生ぐらいのときに.とにかくまず水泳をおぼえなあかんということでね,深みにボーンと放り込まれる.泳がな溺れてしまう.だからあっという間におぼえた.それからは潜って魚を捕る.

 私は魚捕りで,近所の大人から随分嫌われていた.さっぱり魚が釣れないのは,名越の倅が...と随分いわれた.そんなこと人間がやることでできへんのやけど.まして子供がね.まあそれぐらい捕りまくっていたのは事実だけど.

 6年の間に兄,弟と妹の4人おるんで,かなり生存競争が激しかった.間に挟まれてもう大変やった.2番めで,どっちをやっても怒られるわけですよ.長男に逆らうとは何事や,女の子をいじめるとは何事やと.そういう意味では鍛えられたと思ってます.

 一番よくやったのはウナギ釣り.夜,穴に仕掛けるのね,ミミズとかをウナギ針で.アユがいなかったから,餌はミミズが多かった.あとドジョウとかね.それを2,3百本.

 聞き手:子供の仕業ではない...(笑)

 名越:それでも多くて5,6本しか捕れないんでね.とにかく上げるまでが楽しみなんやね.毎朝,夜が明けると同時に行って,学校に行く前にバァーと上げて歩く.それが一番楽しみやったね,今思い返すと.

 聞き手:普通の釣りはどうでしたか?

 名越:釣りもひたすらやった.糸と針がなかなかなくて,親父になんとか買ってくれ,いうて.針は大事に使うんですけど,糸はね,あっち引っかかったり,こっち引っかかったりして.今のように丈夫なもんだったらいいけど,なくてね.ひどいときは,クスサンって...ヤママユやね,あれの幼虫潰してね.繊維を引っ張り出して,それを酢につけて,糸にして使ったりして...

 聞き手:それは実話ですか(笑).漫画で読んだことがありますが.

 名越:実話です.あれが蛹になるとね,集めてきてフライパンで炒って食べるとか.塩をバァーとまいてね.結構美味しかった.香ばしくてね.しかし,今食べろといわれると抵抗を感じるやろ...(笑)

 それとね,石を投げつけるやり方.あそこに入ったいうたら,その上にボカンと石を投げる.脳震盪を起こし,パッと浮くんですね.それを非常によくやったね.

 あとはね,カーバイドを使った爆弾...あれはよう大人に怒られた.それから山椒の根を叩いて...

 聞き手:密漁談義になってきました(笑).学校は...

 名越:小学校は一番近くて,2キロぐらいで.中学校は4,5キロで.高校はね,往復20キロ歩いてたんですよ.私の家から700メートルぐらいの峠を越して,国鉄の駅まで行くのに8キロぐらいあったんでね.汽車に乗って,新見という駅まで40分かかるんですけど,それからまた2キロ.だから朝ね,4時に起きて,飯食べたりして5時には家を出て,高校に8時半頃に着くように行きました.でも1日も休んだことないですよ.12年間,私,皆勤賞ですよ.風邪も引かない.親父の赤痢がうつって40日間学校休んだんですけど,法定伝染病だからそれを除いて.

 聞き手:高校はもう戦後教育ですよね.

 名越:昭和27年に高校入学ですね.高校時代はもう通うのに一生懸命やったけど,私,スポーツも好きだったから,走るのが好きでね.20キロも毎日歩いてるんだからもう走らなくていいんだけど,なんか駅伝のメンバーにさせられて.夏から秋ごろは授業が終わったら駅伝の練習.帰るのがもう夜中になる.また次の朝4時に出ていかなならなくて.

 聞き手:大学は...

 名越:私の母はね,私が小学校5年のときに死んだんですよ.終戦直後,無医村で.未だに無医村やけどね.症状がわかって,大八車で運んで...死んだんです.私はそのときに,医者にならなあかんと,医者を志向してたんです.

 でまあ,一期は岡山大を受けたんだけど,ダメで.二期で愛媛大の文理いうのがね,当時医学部ができますよと「螢雪時代」なんかに書いててね.医学進学コースというのが,文理学部の理学科の中に何人か含まれていたんです.それで浪人するのもあれやからいうて,そこへ行ったんです.

 でも,行っているうちに先輩やらなんやらの話聞いとったら,医者ってほんとよろしくない,面白くもないということで,もう諦めた.それとね,制度がちょうど私が専門に入るかどうかいうときにいろいろ変わってしまったんですよ.

 それでまあ,この際,魚のことができるところに行かなならんちゅうて.

 聞き手:そこで魚の世界に行ったわけですね.

 名越:卒論のときはいろんなことをやりましたね.伊藤猛夫さんのところに行ったら,こき使うんだわ.ひどいのは,私と水野(信彦)さんを鵜のごとく使ってね,早明浦ダムができるときの補償問題で,吉野川の大歩危小歩危(おおぼけこぼけ)のちょっと上流から下流までバァーと泳がされてね.アユの数,数えてこいって.大歩危なんてすごいんやわ.流速はものすごく速いし,水量多いやろ.ダァーと流されて.10メートルぐらいの深い淵がある.上がるとこあらへんのやわ,渓谷になっていて.あれはひどかった.水野さんは京大の大学院でね,魚に詳しい,いつも川に潜っているらしいからというので,戦力に呼んできた.

 あとは海の仕事もやっていてね.魚礁にどういう生物が付着して,どれぐらい漁獲効率を上げているかの調査.それをあちこちでやってたんだけど,まず連れて行かれるんですよ.なんで狙われたかとあとで考えたらね,酒が飲めるということで.(伊藤氏が)すぐデレンデレンに酔ってね,介抱せなならんので.まあ体力もありそうやということで使われたんだと思うけど.

 それと当時は河川の汚染問題いうのは,まだいわれてなかった時代でしたけど,重信川の支流にどこかの工場が廃液を流しててね.そこの廃液の流れている流域の淡水魚の状態を調べてた.オイカワが主流だったんだけど,下流に行くほど増えるとかね.単純な調査結果だったけど,そんなことをやらせてもらった.

 聞き手:愛媛大学のときに魚の方に行くことになって,そのときにはもう水野信彦さんと出会われていたのですね.

 名越:ちょうど4回生のときに(京都大学理学部の)森 主一さんが特別講義に来たんです.あまり大学時代に講義を真面目に聴いてなかったんだけど,それはなんでかしらん一生懸命聴いて,今でも印象に残ってる.それで京大の大学院があるいうのをその頃やっと知って.大学院の走りみたいな時代やったね.

写真1.理学修士号の取得を記念して京都大学理学部動物学教室玄関前,1962 年 2 月下から 2 列 目左から 4 人目が名越 誠氏1 列目中央が宮地伝三郎氏川那部浩哉氏提供.

大学院時代

 聞き手:森 主一さんはどんな講義をされておられたんでしょうか.

 名越:宮地(伝三郎)さんと森さんの本があるじゃないですか(「動物の生態」:宮地・森,1953).あれの初めの方,作用・反作用の問題とか.こんな面白い分野もあるんやな,と.

 聞き手:水野さんも直接的なきっかけは森 主一さんの集中講義が非常に印象深かかったことをいっておられました.

 名越:おんなじやなあ.宮地さんは講義というのは嫌いな人で,みな森さんに振ってたみたい.

 私は大学院には一浪したんです.その間はしんどかったな.親父が教員してたから,教員として早よ戻れ,いうてね.あと養子の口があるから,養子に行け,いわれて.何通も手紙が来た.それで浪人している間,家帰らないで松山に閉じこもっとったな.

 私も先の見通しがあったわけじゃないんだけど,これしかないっちゅうんで,2年目だめやったら諦める,いうてね.それでまあ,まさに運良く入ったんだけど.

 聞き手:大学院に入られたのは何年になりますか.

 名越:1960年.昭和35年やね.動物生態ではね,柳島静江,ショウジョウバエの.その人と川那部(浩哉)さんの2人が助手やったね.

 生態は(同級生が)2人おったんやけど,1人はショウジョウバエのことを森さんに付いてやってて.本が好きでね,大学院マスター終わったら築地書館へ行った.もう一人はサルをやってて.杉山(幸丸)さんと水野さんがD(博士課程)にいた.(東 幹夫さんは)私より1つ下.須永(哲雄)くんとか,牧(岩男)くんとかも.

 上ではね,そうそうたるメンバーがおったんやけど,院生でいてたのではね,大串龍一いうてね,最終的には金沢大の.それから水原洋城,サルの.奥野良之助はもう須磨の水族館に勤めてたね.そういうのが皆,談話会(生態談話会,京大理・動物学教室の第二講座のゼミ)にいつも来てね,ひたすらいじめて喜んでた.あと徳田御稔,系統の.それから小野喜三郎や渋谷寿夫.彼らはいじめるいうよりは,アドバイスしたり,なだめたりしてたけど.

 談話会で,もうものすごくやられる.とにかく無茶苦茶.私だけやなくて,とにかくとことんやってくるわけ.それやって何がわかる,これやって何がわかる,何を目標にしとるってね,バァーとくるわけですね.それでマスターに入って,3,4回目ぐらいかな,だんだん脱落していくわけ.生態の連中,半分以上は学位取ってないですよ.そのときに,えらいとこに入ったなって思ったね.でもここでがんばらないかんて,必死やった.特にね,森(主一)さんはドイツ語が得意なんですよ.生態のゼミはね,森さんはドイツ語ばっかり選ぶ.ティーネマン(August F. Thienemann)とかね,あのへんのヨーロッパの陸水学のドイツ語の文献を来週までに読んでこいってね.それを訳せっちゅうて.もう悲惨やった.

 聞き手:でも子供のときから魚とりをやってきたという,そういうときに基本的な強さが...

 名越:なんか筋が通っていたと自分では思ってます.だから,大学院に入ってからそういうところに追い込まれても,もうこれからはこの道しかないっていうね,ある意味では開き直りみたいなものがあったね.我々の時代に,談話会にこっぴどくやられるいうことは,かなりプレッシャーになってたんじゃないかな.僕はね,やっぱりいじめる側面は必要だと思う.だけど,なにがしかのね,救いの道を与える,そういう努力はしましたよ.

 聞き手:川をやっていたグループは,川那部さんや水野さんだけになったのですか.

 名越:そうです,実質的には私が最後みたいなもんでね.琵琶湖総合開発,BST(びわ湖生物資源調査団,1962–1965年)いうのが始まって,ほとんどのもんがそっちへ移ってしまったもんだから.ちょうど私もマスター終わった時点で,ドクター行ったら何をするかいろいろ考える時間に,ちょうどBSTが始まるところで.それでイサザに取り組むことにしたんです.

 聞き手:その前に「川の魚の生活」(名越ほか,1962等)とか,我々が読めるものが残っていますが,あれはどういうふうに進められたんですか.

 名越:一つには,子供の頃にオイカワとカワムツというのに非常に興味持って,単純なことだけど,面白いなあと思って.よく似てるんだけど何で違うのか,というようなところからその仕事をやってみたいいうので行ったら,水野さんがやってたんやね.それでもまあなんとか,やりながら考えるからといって.そうしたら,淡水区水産研究所が京大にそういう研究の補助金を出したんですね.

 聞き手:実際,グループでは,川那部さんがリーダー的な役割を持っていたわけですか.

 名越:そう.でも川那部さんもアメリカに行ったりして.とにかく上から指導するという体制は採らない,集団指導制だ,と当初からずっといってたんでね.我々は「責任回避や」いうて(笑).だから好きなことをやったらええと.しかし,何をやるかいうのはきちっと自分で考えてやれというやり方やったから.

 聞き手:オイカワ,カワムツだけでなく,いろんな魚の生活史等がまとめられています.そういった調査も名越先生が中心になって...

 名越:まあ,中心いうけど,結局グループって水野さんと2人,単独みたいなものでしたけどね.水野さんもマスターが終わったあと,むしろ就職の方を一生懸命やったな.カワヨシノボリのことをまとめるのに一生懸命やった.私が大学院に入って半年ぐらいして大阪教育大へ行ったんじゃないかな(1960年).

 マスターの2年間は,由良川の上流で土師川って,京都の園部からちょっと福知山寄りのところにね,春先から夏場,下宿みたいにしてずっとやってたんですよ.投網持って,それこそ5キロや10キロは歩いて,1日に何百回も網を打ったりね.そして時々,川那部さんに,暇やったらカバン持ちしてくれ,いうてね.そういうのには川那部さんは意外と付き合うんでね.ちょっと水生昆虫ソーティングしといてくれ,いうたら,一生懸命やってくれてね.(投網などは)ぜんぜんダメ.役に立たないね.当時はね,川那部さん,酒を一切飲まなかった.私や水野さんは仕事終わったら酒をがぶがぶ飲んでやな,そしたら川那部さんは冷静な顔して,人を観察している感じでね.

 聞き手:宮地伝三郎先生とはいつまで?

 名越:宮地さんにはマスター論文が最後ですわ.宮地さんのときはね,誕生日の日に退職になるというシステムやった.だから宮地さんはたしか1月の何日か知らんけど,私はその年の1月にマスター論文を書いて出さなならんかった.書きましたから見てください,いうたら,あなた読みなさい,てね.ストーブの横で読まされて.3時間か4時間ぐらい.そしたら,ここは文章になってないとか,データもこの辺はもう一度検討しなさい,と.だからそういう意味では私なんか最後ですわ.

 聞き手:宮地先生のことを悪くいう人はあまり聞きません.あの友田淑郎さんですら(笑),徳田御稔は自分をほっといて中国に行ってしまったけど,それを救ってくれたのは宮地先生だといわれていました.

 名越:私も,人格者としてはもう最高の人だったと思うね.非常に尊敬する人やった,私の研究史の中で.

 宮地さんは,自分でよく考えて,どう自分で進めるかを判断して付いてきなさいという姿勢だった.講義をいっぺんぐらい聞かせてください,いうたら,君らに講義する必要はない,一番up-to-dateなことは君らが一番良く知っているはずであるから,そういう方面で勉強しなさい,と.だから私なんかいっぺんも講義聴いたことないですよ.そのかわりに昼飯時間にね,テーブル囲んで,しょっちゅう話してたね.

 やっぱり社会の動きの先取りをしとったと思うんですね.自分が自我を主張して物事を進めても将来的にはそうは行かないんではないかと.だから各研究者が独自に考えて進めていくのが大事なんじゃないかというのが,宮地さんの根底にあったと思うんですよね.今西(錦司)さんなんかとは対照的だった.

 私はBSTのグループが比較的うまく進行したのは,宮地さんが団長で,そういう信頼関係があったからではないかと思ってます.もし政治的なものを含めていろんな反発があったら,まとまらなかったんじゃないかと.その危険性は十分あったと思うんです,あの時代の社会情勢からいうと.

 聞き手:ドクターコース以降は琵琶湖の仕事に?

 名越:琵琶湖の仕事と同時ぐらいに三重県立大学のほうに就職したんですよね.ちょうどドクターコースの3年で(1965年),学術振興会の奨励研究生というのに採用されて.当時は,生態分野一人だけでね.それでやる気になってたら,やり始めた途端に就職が決まった.当時ね,私はブルーコピーで履歴書を作って,先輩にばらまいたんですよ.そうしたら,津田松苗さん(奈良女子大学)から,三重県立大に椎野(季雄)さんいうのがおるから,そこへ行ってみたらどうかと.そのかわり,きついと.先輩で3ヶ月おってもう逃げて帰った人がおるいうんでね.しっかり脅されて.とにかく行くことにして,行ったんですよ.

 聞き手:津田松苗さんとのつながりは... 

 名越:BSTで同じ琵琶湖のグループでやってた時代.それと当時はね,合同ゼミいうて,動物生態の方から奈良女に行ったり,舞鶴の水産に行ったり,東京都立大に行ったりね,そんなことやってて,奈良女にはしょっちゅう行ってた.

 

琵琶湖研究と博士論文

 聞き手:少し遡って,琵琶湖の仕事は,フナ,イサザ,それと...

 名越:ビワマスとかね.ビワマスはポピュレーションストラクチャー,個体群の動態も含めて,ほとんど鱗からやった解析.論文にしているのは,Population Ecologyに三浦(泰蔵)さんと共著で.

 聞き手:ゲンゴロウブナはかなり大規模な標識再捕みたいなことを...

 名越:あれは莫大なエネルギーをかけたね.早崎内湖のそばの民家に泊まり込んでね.4ヶ月だったかな.5月のゴールデンウィーク付近に雨がバァーと降るとね,一斉にダァーと入ってくるんですよ.そのときにエリとかモンドリで大量に獲れるんですわ.多いときは1トンぐらい,3,4千匹.それを全部買い上げてね.そんなに捕れると,キロ10円ぐらいで分けてくれるわけですよ.もういらんから持っていってくれてもええ,ていうぐらいやけど.それで買い上げて,急遽大学の方へ連絡して,3,4人来てもらってね.すぐにオパーキュラー(鰓蓋部)にタグを打ってマーキングする.それを2年で5回やったんかな.方法としてはKetchen–De Luryの方法いうてね,除去法ですわ.移入率や移出率も推定できる.

 聞き手:三浦泰蔵さんは早くに亡くなられましたけど,年代的には?

 名越:10ばかり上ですわ.彼はね,カナダの有名なラーキン(Peter A. Larkin,主にカナダ・ブリティッシュコロンビア大学)のところへ行ってて,そこで学位を取って,終わって向こうで就職するつもりだったらしいんだけど,ちょうどそのときに臨湖(京都大学理学部附属大津臨湖実験所)のポストができて,それに呼び出された.それがBSTの2年目ぐらいやったかな.

 三浦さんの影響が我々にかなりあったかな.質的な問題だけでなくて,生態学いうのは量的評価をきちっとやらないとだめだというてね.世界的にいろいろやられているRickerの方法とか,そういうのを取り入れていくことをかなり主張した.

 聞き手:その頃イサザのサンプルも尾上で採り始めたんですね.

 名越:BSTをやってる中で,友田さんがとにかくよう部屋にやってきて,しゃべってた.あるとき,琵琶湖の非常に美味しい魚を捕ってきたから,来い,いわれて.イサザを捕ってきてね,生のやつをストーブの上で焼いて食べるいうて.まあ,あんなに話が長い人とは知らんで行って,4時間ぐらいやられたんやないかと思うんだけど,そのときにいろいろ話を聞いて,こらあポピュレーション変動に格好な材料じゃないかゆうので飛びついた(注:その後長きにわたって収集されたイサザ標本は琵琶湖の長期生物試料として,現在も様々な研究で活用されている).

 聞き手:学位論文は三重県立大学に行ってから?

 名越:学位論文をまとめるのに結局3年ぐらいかかったですかね.1965年に就職して,1968年に学位申請して.当時は単位取得後3年以内に取るのが普通になってた.だからそれに一生懸命になってたのと,国立移管問題に一生懸命に(笑)(後述).

 主論文はグッピーの実験,それから総説みたいなもの.サイズヒエラルキーが成長に与える影響ということでやった.(グッピーの実験は)完全に三重県立大に来てから,プレハブみたいなところで,もうほとんど手作りでやりましたね(注:博士学位論文「魚類の成長におよぼすsize hierarchyの影響についての研究」,京都大学大学院理学研究科,1968年).


大学教員として

 聞き手:三重県立大学の水産学部には当時,椎野季雄教授と...

 名越:大石(茂子)さんが講師でおった.とにかく椎野さんいうのは,研究者としては立派で人格的にもすごい人やったけどね.強烈やったですよ.まあ私は何でか知らん,ほとんど怒られたことはなかったんだけど.(椎野教授の)「水産無脊椎動物学」(培風館),あれの図の3分の1は私が書いて.椎野さんがどこから引っ張ってきたんか知らないけど,全部写真を撮ってきてね.それを丸ペンで.1枚描くのに2日も3日もかかるのもあって,大変やった.

 県立大に行ったら,早速国立移管問題(水産学部の国立大学への移管:1972年)が起こってね.私らも組合に入ったら,今度は組合の三重県水産支部みたいのに引っぱりだされてね.そんなんで,今度は知事交渉とか,なんかそんなことばっかりやってましたよ.

 聞き手:院生の頃は院生の代表をやっていたとか.何でそんな運命に?

 名越:院生のときは選挙みたいなんで選ばれるから仕方ない.大学院会いうのがあって,それの議長にね.3,4年やらされたんとちがうかな.なんでか知らん,人がいいのか,能力がないのにそんなんやらされて.

 聞き手:そして三重県立大に行ったら組合の...

 名越:当時は教授が絶対やったからね.まず学内改組いうので,助手会いうのを作ってね.教授会いうたら教授だけでやっとったのを,まず教官会議にして.国立移管に対応するというんでね.随分嫌われたと思うよ,私.

 聞き手:先生が提案されて?

 名越:そう.私よりも前に来てる連中は教授に使われとるだけやからね,そんなことやったら,お前どっか行け,いわれるだけや.大変でしたよ.

 それから70年安保に引っかかっちゃって,今度は学生の封鎖にあってね.私の卒論生が3人ぐらい首謀者,裏で操っとるやつが3人ぐらいおって.

 聞き手:つながっているんではないかとか(笑).

 名越:もう狙われました.だから,封鎖解除に持ち込むまで大変やったね.

 その後今度は農水統合になったでしょう(注:1987年に水産学部と農学部が統合し,生物資源学部が誕生).私なんか助教授やったのに水産の委員長をやらされて...ヤクザみたいな教官にボロクソにやられた.教授会で,土下座して謝れとかね.というのはね,学長,農学部の委員長,学部長やね,5人で文部省の審議官に会いに行ったわけですよ,何で統合せんなならん,てね.でも学長なんかボロクソにやられた.今頃何そんなことをいいにきたんやて.追い返されたようなもんやけど,要するに,統合を進めなさい,それ以外に生きる道はないというふうにいわれて帰ってきて.その報告を教授会でやったわけ.そしたら,誰の了解を得てそんなとこ行ってきたんや,行ったやつは土下座して謝れ,いうて.

 ところが統合されたら,生え抜きの教授が天下取ったみたいに変わった.私からいわせたら,そらあもう,こんな大学けしからんと.そのときにちょうど奈良女から(異動の)話があって,こんなところにおれるかちゅうて...

 聞き手:三重(県立)大学は水産学部で,理学的なものと水産的なものはギャップがありましたか.

 名越:それは感じたね.やっぱり私なんか理学的な考えで,どういうんかな,理論を...何か新しいものを作らなあかんというようなそういう考えやけど,水産いうのは新事実を見つけたらいいというようなね.

 私ら理学部から入っているから,随分批判的な目で見られたんじゃないかと自分では思ってたね.そのくせ理屈はよういうから,いろんなところで利用したれっちゅうてね.私なんかはそんなに理路整然とやるような能力は持ってなかったんだけど,その辺がうまく利用されたなあっていうのは,後日思ったね.(国立)移管問題とか,(農水)統合問題とか.

 聞き手:博士論文後の三重(県立)大学での研究生活は...

 名越:三重は,当時,今以上に地方やった.だからそこにはまってしまったら,研究者としてはもう小さなものとしてね,評価されないだろうと.だけど幸いにして椎野さんいう人は研究者としては立派で,大いにがんばれということをいわれてね.私も京都との密接なつながりをできるだけ保つような努力をしたいと思ってね.それはやっぱり非常に有益だったと思う.そうでないとやっぱりね,地方に行ってしまうと,そこへ埋没していく.もう自然にそうなってしまう.

 今のように情報をどんどん取り入れられる時代と違ったし,三重に行ってから,ものすごい頻度で京都・津間を往復しましたよ.私は自動車の免許を取ったのが1960年.それ以来,車で走った走行日誌をずうっと付けてるんですけど,今もう60万キロ位走った.

写真2.国際イワナシンポジウム(北海道大学)にて.1988年10月.左から名越 誠氏,Kurt Fausch氏,中野 繁氏.徳田幸憲氏提供.

長期研究,海外研究,そして中野 繁氏のこと

 聞き手:三重大でされた有名な仕事として,平倉の演習林(雲出川水系)でのアマゴの長期研究がありますが,どういう経緯で... 

 名越:演習林があって,そこの中に川が流れてアマゴがおるいうのを誰かから聞いたんやと思うんです.じゃあ,いっぺん行ってみようかと.1968年ぐらいかな.

 行ったら,大酒飲みの助教授がおってね.酒に誘われて飲んでたら,坂本さんちゅうて,坂本小屋いうアマゴの料理を出す店の主人がえらく気に入ってくれてね.そこの主人はとにかく研究熱心で.三重大におる間,しょっちゅう大学へ相談に来はるし,ちょっと寄ったりしてね.演習林の池にアマゴの稚魚をもらって,飼うようにしたんです.あの人にはすごく研究を助けてもらったんです.それと放流用の稚魚を作ってもらったんですね.現場で採った稚魚から育てたものだから,えらい労力を費やしましたよ. 

 聞き手:平倉川ではアマゴだけでなく,カジカの現存量とか,水生昆虫とかいくつか論文を書かれています.学生を何人も演習林で研究させるスタイルで...

 名越:みんな喜んで来てくれました.その代わりアホなやつは来んといてくれって.他の講座なんかは週休5日制やとか,そんなこというてね.「そんな考えはあかんで,朝9時には来い.私が帰る5時までには少なくともいっぺんは顔出せ」と.そんなんでなかったら卒論生としては資格がないっちゅうてね.

 中野(繁)が1回生のとき(1981年)来たときね,「ボクは先生のところ行くために大学に来たんや」とかいって.そんなもん,私としては困る,何人希望するかわからんのに,あんただけ特別に扱うことはできへん,ちゅうて.どうするかはこっちが選択するんやからねと.「いやあ,ボク,来たいやつ,来ないようにしますから,ボクだけとってください」とかいって(笑)(注:中野 繁,1962–2000.渓流魚の生態研究や森と川の生態系間相互作用に関する研究で世界的に名を馳せつつあったが,2000年3月にバハカリフォルニアの海難事故で他の内外の著名な研究者とともに若くして逝った;Fausch,2000).

 名越:川の中で観察しようということになってね.淵尻から落差があるようなところを下からね,アマゴと同じレベルで観察したら,絶対いろんなビヘイビアーが観察できるから,やりなさい,ちゅうてね.で,演習林のそこへ中野をやったら,こんな冷たいところで何ということを...こんなもん耐えられません,ちゅうて(笑).

 修士の1年のときに,そういう文句いうもんだから,アフリカへ行ってタンガニイカ湖の仕事をするかいうんで,連れて行ったんですね.そしたら今度はマラリアにかかって,1ヶ月ぐらいパーになった.帰りたいんやったら帰れというたら,いや,がんばります,と.2ヶ月ぐらいの間に結構論文になる仕事したから,まあマスター論文にはなんとかなるやろ,てね.

 タンガニイカでジィーと潜って見てたら,魚のビヘイビアーがいかに観察できるかいうのがわかったんやろな.帰ってきたら,絶対もう一度アマゴを見直します,て.まあ,そこまでいうんやったら,最悪の場合タンガニイカの仕事をマスター論文にできるはずやから,それを英文で書きなさい,そうでなければ観察したのをやりなさい,いうてね.で,結構いい仕事をしたんやね.北大へ行ってから,それを中心にドクター論文をまとめた.

 (タンガニイカ湖の研究経験は)やっぱり彼の仕事をイニシエートしたかなり大きな要因になったんやないかな.行った直後は泣き言ばっかりいってたけど,ボクは突き放して.マラリアにかかって向こうの病院でキニーネを打たれるわけ.そしたらね,あと揉んどかないと痛くて大変やで,ていうてるのにね,揉まへんわけ.誰か揉んでくれたら,っていうて.そんな人おらへんで,と.そしたら,ある程度治ってきて,階段上がるごとにものすごい痛いらしいわ.イタタタ,イタタタ,一段上がるごと下がるごとに.泣き言いうんやったら帰れって,かなり酷なこといった.そしたら幸田(正典)君が,「中野君,痛いやろ」とかいってね,優しんやわ,彼は.

 聞き手:平倉の10何年のデータについて一番いい形で出たのは,中野 繁さんの初めての論文でしょうか.密度調節のNakano and Nagoshi(1985).

 名越:そうです.あれ書くときに,中野は,何でボク英語で書かなならんのですか,と.いやあ,だからもう,とにかく英語で書けと.その後イワナシンポ(第2回国際イワナシンポジウム)が北海道であって,また,何で英語で喋らなならんのですか,って.これからはもうそれやらなかったらダメや,ちゅうて.それで初めてファウシュ(Kurt Fausch,元コロラド州立大学)に出会った.

 (イワナシンポでは)演台のところでヘッドランプ着けて.あれでもう聴衆がえらい感動しとった.彼が修論を終わってドクターコースに相当する頃(飛騨・北アルプス自然文化センターに勤務).私も行って,ファウシュに紹介して.あとはもうえらい両方が意気投合してね.

 聞き手:ファウシュ博士たちは,日本の魚類生態学について掘り返してレビューを書いていますね(Fausch and Nakano, 1998).欧米の人たちにとって,日本の研究なんて日の当たらない論文がたくさんあるでしょうからね.田舎の未開国ではなかったと気づいてくれたんですね.

 名越:そうそう.私はね,3ヶ月(ファウシュ博士を)呼んでやったんですよ,奈良女におるとき.そのとき,論文をかき集めたんです.

 聞き手:タンガニイカ湖では,名越先生と堀 道雄さんはマラリアにかからない...

 名越:戦後生まれの人は抵抗力が弱いんじゃないですか.私なんか蚊に刺され放題だったけど.私はね,基本的には水道水はどこへ行ってもそのまま飲むんですよ.だけどアフリカはね,ザイールのウビラに行ったときは水生昆虫がウヨウヨしているわけ.石ころで濾過しているだけで.でも夜飲みたくなると,もうしかたなく飲むのね.私はそういうときは,その水飲んで,ウィスキーをバァーと飲んで.

 ザイール(コンゴ)はいいところでした.トータル1年半ぐらいおったけどね.もう一回行ってみたいけど,無理やな,あそこは.私らが(ザイールで)基地にしたペンバいうところなんかは,温泉が湖底から湧いて,ブワーッと泡が出ていて.観察中に体が冷えたらそこへ行って,体を温めたりして.

 最初行ったんが1981年か...その頃は若かったから,1日数時間潜ってましたよ.午前2時間,午後3,4時間ね.10メートル以浅だと結構3時間ぐらいもつからね.タンガニイカオオナマズいうて,1メートルぐらいのがね,15メートルぐらいの湖段みたいなところの穴場に,いつ行ってもいる.10年ぐらい何遍も行ったけど,いつでもそこにいるんやわ.いつも顔を見に行って...

 聞き手:調査中の生活は...

 名越:「マタビシ」いうて,なんか貰いたいゆうのが集まってくる.子供がね.どういうんかな,お礼,っていうんかな.それでアメのことをボンボンいうんやわ.若い隊員とかは,ようやるんやわ.私,絶対そういうことしたらあかんいうて.行く先々で子供が集まるでしょ.私の目盗んでね,バァーとアメをやったり.すると次回行ったら皆集まってきて,ボンボン,ボンボン,アメくれ,いうて.10キロ,20キロ先からやってくる.

 それでね,日本人は潜ってるときにいろんなものを使うじゃないの,ポリ瓶とかプラスティックバックとかね.そういうのを水中で何かの拍子で手から離すと,パァッと浮くじゃない.そうすると拾うわけですよ,住民が.そうしたらこれは日本人が落としたもんやと,10キロぐらい遠くから持ってくるわけですよ.代償として,金くれ,物くれ,ちゅうて.そういうのがエスカレートして,次から次,持ってくるわけ.もうひどいときは,サルとかシカとかね,土産もんに買ってくれって.カメレオンとかね.

 ダメやいうのは(スワヒリ語で)「ハパナ」いうんやけど,私はね,現地仕切らなならんから,なに持ってきてもね,もうとにかく私のとこに持ってきたら,「ハパナ」,帰れ,ちゅうて.そしたら「ハパナ名越」って呼ばれて(笑).あそこへ行ってもあかんから,他の連中を攻めろ,いうて... 

写真3.奈良県野迫川村,キリクチ調査にて.2005年8月.右は佐藤.

キリクチの生息地にて—結びにかえて

 名越氏は,奈良女子大学に赴任後,奈良県からの依頼を契機として,1990年代初頭から紀伊半島の山深い地にすむ世界最南限のイワナ個体群であるキリクチの生態・保全研究を開始された.キリクチの研究は退職後数年間,2000年代後半まで継続され,また現地で後進の指導にあたられた.


 聞き手:キリクチはここ野迫川村と天川村にしか残っていませんが,こちらの方が川の荒れ方がひどいです.何かいい方法は...

 名越:持論やけど,植林を間伐してね,落葉広葉樹林に変えていく...だから百年計画ですよ.植林も戦後60年かかっていますわね.こんなにしてしまったんで,もし元に戻すとしたら,おそらくもう100年はかかると思うんですよ.そうするとね,水量も増えてくるし,よくなると思いますよ.

 そのいい例はね,伊勢神宮林.戦前かな,かなり切り倒して,荒廃しかかったんやね.それで今は間伐をものすごくして,下草なんかが十分生えるような管理をしてるんですね.

 聞き手:奈良女子大学の学生をはじめとして,ずいぶんたくさんの人がここに来ました.ここは独特の空気が流れていますね.下界と違う...いい空気が流れている感じがします.もちろんキリクチの現状は決してよくないにしても.

 名越:15年ぐらいになりますね.しかしここへ来るのは楽しかったね,正直いって.

 まあ私,今思うと非常によかったのは,若い人が引き継いでくれたことがね.これなかったら,何したんかなあっちゅう...そういう意味では,ぜひこれから活躍してほしいなあ.私が取ったデータ,まあいろいろ問題があるにしても,それが活かされて,これから先にね,続いていくようにしていただければ,実にありがたい.

 

 インタビュー記録:2005年8月28日,(場所)奈良県野迫川村・民宿えびす屋,(聞き手)渡辺勝敏・佐藤拓哉,(同席者)森 誠一・小川裕久・有薗正弘・更谷隆彦・戎谷玉子;2005年11月10日, 奈良県野迫川村・民宿えびす屋,渡辺勝敏・佐藤拓哉,(同席者)有園正弘・戎谷玉子;2006年11月11日, 奈良県野迫川村・民宿かわらび荘,渡辺勝敏・佐藤拓哉,(同席者)鹿野雄一・曽根亮太

 

引用文献

Fausch, K. and S. Nakano. 1998. Research on fish ecology in Japan: a brief history and selected review. Environ. Biol. Fishes, 52: 75–95.

Fausch, K. 2000. Shigeru Nakano – an uncommon Japanese fish ecologist. Environ. Biol. Fishes, 59: 359–364.

宮地伝三郎・森 主一.1953.動物の生態.岩波書店,東京.

森 誠一・渡辺勝敏.2017.名越 誠先生のご逝去を悼む.魚類学雑誌,64: 231–232.

名越 誠・川那部浩哉・水野信彦・宮地伝三郎・森 主一・杉山幸丸・牧 岩男・斎藤洋子.1962.川の魚の生活.III.オイカワの生活を中心にして.京都大学生理生態学研究業績,82: 1–19.

Nakano, S. and M. Nagoshi. 1985. Density regulation and growth of a red spot masu-trout, Oncorhynchus rhodurus, in a mountain stream. Physiol. Ecol. Japan, 22: 1–16.

佐藤拓哉・名越 誠・森 誠一・渡辺勝敏・鹿野雄一.2006.世界最南限のイワナ個体群“キリクチ”の個体群変動と生息現状.保全生態学研究,11: 13–20.