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グランドオペラ的悲劇
大規模な舞台、豪華な演出
合唱や群衆シーンが多い
戦争・宗教・国家・権力など壮大なテーマ
個人の悲劇も描かれるが、舞台規模・スケール感が際立つ
ポイントは、La TraviataやRigolettoのような「家庭や個人の心理劇」ではなく、歴史的・国家的スケールのドラマ
エジプトのイスマイル・パシャは、スエズ運河の開通にあたってヨーロッパに強い文化的アピールを狙っていた。
カイロに新しい歌劇場(現在のカイロ・オペラハウス)を建設し、記念公演としてヴェルディに作品を依頼したいと考える。
当時の劇場支配人候補であったポール・ドラネット(Paul Dranett)を通じてヴェルディに打診(この時点では「賛歌」の作曲という軽めの依頼)。
→ ヴェルディはこの段階では断る。「記念曲を書く義務はない」と語っていた(彼はこうした記念式典への参加に慎重だった)。
フランスの劇作家で考古学にも通じていたオーギュスト・マリエット(August Mariette)が、エジプト風の壮大な物語を執筆(散文の原案)。
ジュール・ロクル(ジュ・ロクル)がその原案を元に台本作成を仲介し、ヴェルディに再打診。
ヴェルディがリコルディ宛の手紙で、「良い構想のオペラを持っている」「ギズランツォーニに詩を書いてもらえるか」と言い出す。
同日、ジュ・ロクルにも「取り掛かりたい」という意向と条件提示。
この時点で、ヴェルディの中で『アイーダ』という作品は「かなりの確率で作曲する可能性があるもの」になっている。
マリエットの原案 → ロクルが仏語で台本化 → イタリア語台本に翻訳されていく準備段階。
ヴェルディは台本の構成や言葉選びにも非常に細かく口を出すタイプだったので、時間がかかる。
台本の詩的な部分はアントニオ・ギズランツォーニが最終的に仕上げることに。
台本がほぼ整った段階で、ヴェルディは『アイーダ』の作曲に着手。
→ この頃はすでに普仏戦争が勃発しており、舞台装置がパリで作られていたため、後に輸送トラブルが起こる(→ 初演延期)
ヴェルディは作曲の進捗をリコルディやジュ・ロクルに逐一報告しながら進めた。
このあたりで、もう作品の骨格は完全にできあがっていたと見られる。
なお、この作品の作曲料としてヴェルディが受け取った金額は約15万フラン。
当時としては破格の額で、『ドン・カルロ』の4倍に相当するといわれている。
どちらかというと“特別委嘱料”に近いが、《アイーダ》がどれほど国家的な一大プロジェクトだったかを示す象徴的な数字でもある。
※約15万フランは、現代の日本円に換算するとおよそ5,000万〜1億円程度に相当すると考えられる
当初は1871年1月に初演される予定だったが、普仏戦争の影響で舞台装置がパリから届かず、延期。
ようやく12月にカイロで初演され、大成功。
翌1872年にはミラノ・スカラ座での上演でさらに評価が高まり、『アイーダ』は世界的な名作として定着。
🎼 ヴェルディは《アイーダ》の時に引退を考えていた?
ヴェルディはこの頃すでに58歳、オペラ作曲家としては大成功を収めていた。
実はそれ以前から「もう引退したい」とたびたび周囲に漏らしていた。
特に《ドン・カルロ》(1867年)あたりから、規模の大きい作品を書くたびに消耗していた。
名声も地位もすでに十分に得ていたから、「もうやめてもいい」と本気で考えていたらしい。
🌍 でも《アイーダ》は特別な経緯で生まれた
エジプト総督(ヘディーヴ)からの依頼で、スエズ運河開通を記念した作品として注文された。
世界的な大舞台にふさわしい作品として、ヴェルディに白羽の矢が立った。
最初は断ろうとしたけど、結局は作曲を引き受け、結果的に自身の代表作のひとつになった。
🎼 その後の流れ
《アイーダ》以降、ヴェルディは本当に引退モードに入ったが、出版商リコルディや指揮者ボイトらに説得され、最後に《オテッロ》(1887年)や《ファルスタッフ》(1893年)を完成させる。
👉 まとめ
《アイーダ》の時点でヴェルディは「もうこれで引退かな」と思っていた。
実際一度引退状態に入ったが、その後説得され『オテッロ』『ファルスタッフ』を書いた。
① 原案はエジプト学者オギュスト・マリエットによるもの
フランス人エジプト学者マリエットが構想した物語が『アイーダ』の原案。
エジプト政府の要請により「Scenario(仏語の梗概)」を作成。
考古学的知見を活かした時代考証も含まれている。
② ヴェルディへの依頼はカミーユ・デュ・ロクルから
パリ・オペラ座支配人のカミーユ・デュ・ロクルが、マリエットの原案をヴェルディに提示。
エジプト副王イスマイール・パシャの文化事業の一環として、オペラ化を依頼。
当初はスエズ運河開通の祝賀を想定していたが、完成はそれより遅れた。
③ ヴェルディは「祝典オペラ」への抵抗を示していたが…
祝賀イベント向けの依頼には基本的に消極的だった。
しかし『アイーダ』の内容にはすぐに惹かれたことが、作品の芸術的魅力とヴェルディの創作欲の強さを示すものと考えられる。
④ ヴェルディは原案にすぐ関心を示した
1870年6月にデュ・ロクルが原案を送付 → ヴェルディは数日以内に関心を示す返信。
書簡の記録(ヴェルディ→リコルディ社、デュ・ロクル)から、すでにオペラ化の意思が明確だったとされる。
ヴェルディは、「良い構想のオペラを手元に持っている」と記している。
そして、「ギズランツォーニに台本詩を依頼できるか?」と尋ねている。
また「散文の形で脚本を検討してから進めたい」という意向も表明。
この手紙は、リコルディ家に保管されていた書簡集などで確認できていて、
複数のヴェルディ研究者(Budden、Phillips-Matzなど)も一次資料として引用している。
ヴェルディはロクルに対し、「エジプトの物語に取り掛かりたい」と書いている。
ただし「大規模な作品になるため、時間が欲しい」とも明記。
さらに、作曲を引き受ける場合には、報酬や条件についての詳細な希望も述べている。
ジュール・ロクル(Jules-Hippolyte Louis Lacombe Locle)は、パリ・オペラ=コミックの支配人で、この頃から『アイーダ』台本構想に協力していた人物だから、このやりとりも極めて重要。
この時点(1870年6月)で、ヴェルディはほぼ『アイーダ』の方向に心が動いており、制作の準備段階に入ったと見て間違いない。
⑤ ジュゼッピーナ・ストレッポーニの協力
ヴェルディの妻ジュゼッピーナが、フランス語で書かれた原案をイタリア語に翻訳。
フランス語に堪能で、内容の整理や翻訳において初期段階で重要な役割を果たした。
⑥ 台本(リブレット)はアントニオ・ギスランツォーニが執筆
ヴェルディは台本に対して多数の修正・意見を出しており、特に1・2幕には構成上の強い意向を反映。
ギスランツォーニはそのフィードバックをもとに台本を完成させた。
⑦ サンタガタ荘に資料が現存
ヴェルディの自邸「サンタガタ荘」には、ジュゼッピーナの筆跡とされる草稿・訳文が保存されている。
これらは現在も研究対象となっており、彼女の協力の実証資料となっている。
オギュスト・マリエットは、エジプトの考古学者として知られ、1870年に『アイーダ』のフランス語による原案を作成しました。この原案は全23ページにわたり、4幕6場から構成されています。この段階で、オペラのストーリー展開の骨格はほぼ完成しており、マリエットはその後も、ヴェルディやギスランツォーニに対してエジプト考古学上のアドバイスを提供し、初演の舞台装置や衣装製作を担当しました。
パリのカミーユ・デュ・ロクルは、1870年5月にマリエットの原案をヴェルディに送付し、翌6月にはフランス語による原台本を著しました。この原台本は、デュ・ロクルがヴェルディの自宅を訪問した際に書かれており、この段階からヴェルディ自身のアイデアが取り入れられています。例えば、マリエットの原案第2幕、凱旋の場の前にアムネリスの居室の場面を挿入したのは、デュ・ロクルとヴェルディの創意によるものと考えられます。
マリエットは、オペラの初演に際して、衣装や舞台装置のデザインも手がけました。彼のスケッチは現在も残っており、当時のエジプトの雰囲気を再現するための貴重な資料となっています。例えば、以下のような衣装スケッチが知られています:
アイーダの衣装スケッチ
トランペット奏者の衣装スケッチ
マリエットの証言は、彼の貢献を強調するものであり、彼が『アイーダ』の原案を提供し、舞台美術や衣装デザインにも関与したことは事実です。しかし、オペラとしての完成には、デュ・ロクルやヴェルディなど、複数の人物の協力が不可欠でした。親しい何人かとはいえ、マリエットのオペラは全て自分が思いついたという証言は彼の主観が強く反映されたものであると考えられます。
このように、『アイーダ』の成立には多くの人物が関与しており、マリエットの貢献は重要な一部であるものの、全体を彼一人の発想とするのは過剰な主張といえるでしょう。
一部の研究者や伝記作家が、「第3・4幕の繊細な心理描写や構成には、ジュゼッピーナ・ストレッポーニ(ヴェルディの妻)の意見が強く反映されているのでは」と推測している
ジュゼッピーナ自身がかつて名ソプラノ歌手で、特に心理描写に敏感だったこと、そして、夫ヴェルディの作品制作にもたびたび関わっていた
こうした背景から「後半の構成は彼女の影響が濃いのでは」という説が出てきた。
🧐 つまり:
ジュゼッピーナが実際に構成したという文書上の証拠は残っていない。
ただし、彼女の意見や感性がヴェルディの後半の構成に影響を与えていた可能性は高い。
第3・4幕については、妻でありソプラノ歌手のジュゼッピーナ・ストレッポーニの意見や感性が、構成に影響を与えていた可能性もあると考えられています。彼女はヴェルディの創作にたびたび助言を行っており、心理描写の豊かさにはその存在が垣間見えるとも言われています。
物語は古代エジプト、ファラオ全盛期の時代に設定されている。舞台となるのは、エジプトの首都メンフィスと、神殿が立ち並ぶ宗教の中心地テーベ(現・ルクソール)。壮大な神殿、ナイル川のほとり、戦場、そして地下の墓所など、様々な場所でドラマが繰り広げられる。
主要キャラ
•アイーダ(Aida):エチオピア王女(奴隷の身)(S:ソプラノ)
•ラダメス(Radamès):エジプトの若き将軍 (T:テノール)
•アムネリス(Amneris):エジプト王の娘 (Ms:メゾ・ソプラノ)
•アモナズロ(Amonasro):エチオピア王(アイーダの父)(Br:バリトン)
•ランフィス(Ramfis):エジプトの大祭司 (B:バス)
•エジプト王(Il Re):アムネリスの父 (B:バス)
その他の登場人物
•巫女長(La Sacerdotessa):儀式で歌う(S:ソプラノ)
•使者(Un Messaggero):エチオピア軍の進軍を報告(T:テノール)
合唱
•神官たち(I Sacerdoti) (B:バス)
•巫女たち(Le Sacerdotesse) (S:ソプラノ)
•大臣たち(I Ministri) (Br/B:バリトン・バス)
•軍隊長(Capitano delle guardie) (T:テノール)
•役人たち(Funzionari) (Br/B:バリトン・バス)
•エチオピア人の奴隷と捕虜(Schiavi e prigionieri etiopi) (T/Br/B:テノール・バリトン・バス)
•エジプトの民衆(Il popolo egiziano) (合唱:S/A/T/B)
若き日のジャコモ・プッチーニ(1858–1924)は、1876年、まだ10代の頃にヴェルディの《アイーダ》を観て深い感銘を受けたと伝えられている。
その《アイーダ》は1871年にカイロで初演され、当時イタリア国内でも大きな話題を呼んでいた。
プッチーニは音楽一家に生まれ、教会音楽やオルガンの勉強をしていましたが、この《アイーダ》を観たことが、オペラ作曲家としての道を志すきっかけに。
プッチーニが《アイーダ》に強く感動したという話は、本人や家族、友人たちの証言からも広く知られている。
「ルッカからミラノまで徒歩で行った」という逸話はやや誇張があるかもしれないが、《アイーダ》との出会いが彼にとって転機だったことは、音楽史的にも重要な事実。
この出来事をきっかけに、プッチーニはのちに《ラ・ボエーム》《トスカ》《蝶々夫人》などを生み出し、ヴェルディに続くイタリア・オペラの巨匠として名を残すことに。
《アイーダ》は、その後の世代にも影響を与え続けた作品の象徴とも言える。
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