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公爵は、どこか動揺した足取りで広間に姿を現した。
まだ夜の帳が残る宮殿の中を、憂いを帯びた瞳がさまよう。
「私のあの娘が攫われた…!」
思わず吐き出したその声は、ただの遊び人にすぎなかった彼の胸に、初めて湧き上がる本物の焦燥を隠せなかった。
いつからだろう。
あの娘を見かけて以来、気まぐれではない熱が心に灯っていた。
だが扉は開きっぱなしで、人気のない部屋には、彼女の姿はもうなかった。
帰り道を引き返してでも会いたかった。
だがすでに、あの可憐な姿は消えていた。
「ああ、私の中の予感が…来た道を引き返させたのに!」
彼の頭に浮かぶのは、教会の門の向こうで見かけたあの澄んだ瞳。
純粋で慎み深い微笑みは、放蕩の生活を送ってきた彼の心に、
初めて美徳というもののかけらを教えてくれた。
「あのように純粋で、慎ましい視線で、私を美徳へと導いてくれたあの娘は…どこにいる?」
初めてだった。
心の底から、彼女の涙を思って胸が張り裂けそうになる。
あの弓のように柔らかな眉の間から零れる涙が目に浮かぶ。
突然の恐怖に怯えながらも、彼女はきっとあの夜の名を呼んでいるだろう──
グアルティエールと。
「涙を流すのが見えるようだ…戸惑っているだろう…」
自分は放蕩者だったはずだ。
だが、あの娘だけは違う。
彼女の涙は、彼の中の復讐心をかき立てた。
誰がやったのかはわからない──だが必ず見つけ出して報いを受けさせてみせる。
あの涙が、最愛の娘の涙がそれを求めているのだから。
「ああ、最愛の娘よ──
全身全霊で、お前にだけはこの世での幸せを捧げたかった。」
かつて誰をも羨まなかった自分が、
今は天使たちの住む楽園さえ妬ましく思う。
あの娘と共にあることが、この世で最も尊い幸福だったのだ。
公爵の心の奥底で、確かに愛の名残が揺れている。
だが、それはまた新たな悲劇の引き金になることを、
このときの彼はまだ知らなかった──。
宮殿の大広間に、足早に入ってくる廷臣たちの姿があった。
マルッロ、チェプラーノ、ボルサ、そしてその背後には他の廷臣たち。
普段は放蕩と悪戯を愉しむ彼らの顔に、今はどこか得意げな笑みが浮かんでいる。
彼らは、苛立ちと焦燥の面持ちで立つ公爵を見つけると、待っていましたと言わんばかりに一斉に声を上げた。
「公爵、閣下!」
公爵は彼らを鋭く見据える。
「何事だ?」
マルッロが一歩前へ出て、抑えきれない笑みを滲ませた。
「リゴレットから…愛人を攫いました。」
その言葉に、公爵の目が大きく見開かれる。
思わず前のめりに一歩踏み出す。
「何だと?どこからだ?」
廷臣たちは面白がるように顔を見合わせた。
「奴の住まいからでございます。」
「ああ…!」
公爵は思わず短く呻くと、重々しく椅子に腰を下ろした。
その目は早く続きを語れと告げている。
廷臣たちは、先程の夜の出来事を得意気に語り始めた。
「皆で町外れを歩いていたのです、日が暮れて間もない頃。
かねてより噂に聞いていた通り、まれに見る美しい女を見つけました。
奴の愛人に違いないと確信しましたが、その姿はすぐに消えてしまったのです。」
廷臣たちは声を揃えて続けた。
「私たちは女を攫おうと企んでおりました。
そこへ、あの道化が現れたのです。
あろうことか奴は我らがチェプラーノの夫人を誘拐するものと思い込み、
目隠しまでされながら自分で梯子を押さえたのです!
我らは梯子を昇り、素早く女を引きずり出しました。
そして奴が復讐に気づいた時には、侮辱されたと悪態をついていたというわけです。」
廷臣たちの声の奥には、道化師への嘲りと復讐心が滲んでいた。
だが公爵の耳には、彼らの語る戯言はどうでもよかった。
頭の中にあるのは、たったひとつ。
〔ああ…最愛の人だ…!〕
公爵は震える声で尋ねた。
「その娘は、どこにいる?」
廷臣たちは声を揃えた。
「ここへ、連れてきております。」
公爵の心に、一筋の光が差し込んだ。
思わず立ち上がると、胸に熱い衝動が込み上げた。
〔ああ、天はすべてを奪わなかった!
私の愛が、私を呼んでいる!
すぐにでも彼女のもとへ行かねば。
王冠を捨てても構わない、
彼女の心を慰めることができるのなら。
今こそ知ってほしい、
誰に愛されているのかを──
王座にあってなお、愛の奴隷である私を。〕
公爵の心は、権力者の威厳を捨てたかのように熱く脈打っていた。
その様子を見た廷臣たちは、思わず顔を見合わせた。
「一体、何が閣下をここまでご機嫌に…?」
だが彼らの疑問をよそに、公爵は一瞬にして気配を変え、
まるで獲物を捕まえた獣のように、勢いよく広間を駆け抜けていった。
彼の背が扉の向こうに消えた瞬間、
広間の奥に、もう一つの影が音もなく現れた。
苦悩に満ちた顔で鼻歌を口ずさむのは、
他でもない、奪われた娘の父──道化師リゴレットであった。
廷臣たちのざわめきの中、リゴレットが足を引きずるように現れた。
道化の仮面はすでに外れている。
父として、ひとりの老人として、娘を探すためにここへ来たのだ。
マルッロがひそやかに呟く。
「哀れなリゴレット…」
リゴレットの口元には乾いた鼻歌がこぼれる。
ララ、ララ、ララ…
だがその瞳は血走り、何かを探すように辺りを彷徨っていた。
廷臣たちは嘲るように声をかける。
「やあ、いい日だな、リゴレット。」
〔こやつらにやられたのだ!〕
心の奥で毒づくが、声には出さない。
不意打ちのように奪われた娘の姿が、脳裏から離れない。
「何かあったのか、道化よ?」
チェプラーノの言葉に、リゴレットは鼻歌をやめて目を細める。
「何かあったのか、だと?
……貴様らが疎ましいだけだ。」
廷臣たちは大声で笑い飛ばす。
はっ! はっ! はっ!
リゴレットは落ち着かない様子で部屋を見回す。
〔どこに隠した…娘をどこに隠した…〕
「なんと不安そうな顔だ!」
廷臣たちは面白がって囁き合う。
リゴレットはマルッロににじり寄った。
「旦那様…昨夜は何事もなく…?」
「昨夜だと?」
マルッロはとぼける。
「そうだ。ああ、素晴らしい一撃を食らわせたな…
……あんたは何も知らぬ顔で眠っていた、と。」
「そうだとも。」
「なら良い、夢を見ていたのだろう、わしは…」
リゴレットは笑いながら机の上のハンカチをつかむ。
イニシャルを確かめるが、娘のものではない。
無造作に放り投げる。
〔娘のではない…公爵はまだ眠っているのか…?〕
廷臣たちは嘘を塗り重ねる。
「閣下はまだお休みだ。」
だが公爵夫人の小姓が現れ、宮殿に公爵がいることをうっかり漏らす。
〔ここにいる! 娘はここだ! 公爵といるのだ!〕
リゴレットは叫んだ。
「貴様らが昨夜、わしの家から攫った若い娘だ!
……だがわしは取り返す! 娘はここだ!」
廷臣たちは嘲るように言い返す。
「愛人を失くしたなら探すことだな、他の場所で。」
「わしの娘だ!!」
静まり返る空気。
嘲笑が止まった。
「わしの娘だ! どうした? 笑わぬのか?
……娘はここだ、返してもらおう…!」
扉へ駆け寄るリゴレットを、廷臣たちが遮る。
必死で突破しようとする父の腕は振り払われ、
老人の体は疲弊して膝をつく。
「ああ…皆でわしの邪魔をする……」
声がかすれ、涙が滲んだ。
「マルッロ…旦那…あんたは優しい人だ、
どこへ隠したんだ? 娘を…教えてくれ…
旦那様方……どうかお慈悲を……
老いぼれに娘を返してくれ……
わしには娘がすべてなのだ…お慈悲を……」
そのとき、左の奥の部屋から
小さな影が駆けてきた。
白いドレスを揺らし、泣き腫らした瞳の少女が、
父の腕の中に飛び込んだ。
「お父様!」
「神よ……ジルダ!」
リゴレットの腕は娘を抱きしめ、
この世界にたった一人の家族を失わずに済んだことを
必死に確かめていた。
「これがわしのすべてだ……ふざけただけだろう?
泣きはしたが、今は笑おう……な? どうして泣く?」
娘の口から、恥のすべてが零れ落ちる。
「……ああ、辱めを……お父様……
顔を赤らめるのは、お父様の前だけにしたかった……」
リゴレットは怒りと絶望を胸に噛みしめた。
「皆出ていけ! 公爵が来ようと、わしがここにいると伝えろ!」
廷臣たちは薄笑いを残し、去っていった。
父と娘、二人きりの空間に、
嘆きの言葉だけが静かに落ちていく。
ジルダは父の前にひざまずき、
震える声ですべてを語った。
恋に憧れた純粋な心、
偽りの名を名乗った公爵、
暗闇に忍び寄る廷臣たち──
そして宮殿の奥へと引きずり込まれた夜の苦しみ。
「ああ……恥はわしだけに……
娘は天に昇らせてやりたかったのに……
神よ……祭壇を覆ってしまわれた……」
ジルダが泣き、リゴレットはその頬を抱き寄せる。
その胸の奥底に、次第に冷たく澱むものがあった。
ちょうどそのとき、鎖の擦れる音と共に
モンテローネ伯爵が護衛に連れられて横切った。
呪いの言葉を吐き捨てる彼の背中を見て、
リゴレットの瞳に、狂気と復讐の炎が灯る。
「違うぞ、御老体……復讐は叶う……
桁外れの復讐を……
道化の手で、あの男を雷のように打ち滅ぼしてやる……!」
ジルダは父の腕を取り、涙を滲ませて囁いた。
「お父様……許してあげて……
神様がお許しになるはず……
私たちの声も、天に届くはずだから……」
だが父の耳に、慈悲の声は届かない。
リゴレットの胸の奥で、運命の歯車がもう戻れない音を立てて回り始めていた。
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