哲学の誤読

もちろん、タイトルは、大学入試現代文における哲学系の文章に対する出題者の誤解、誤読を扱った入不二基義の著書にあやかっている。

私も哲学を研究している関係で、この手の「誤読」に気づくことが少なくない。言ってしまえば、解答や解説に間違いがある例が、珍しくないのだ。

ここでは、入試問題や、入試関係の問題で扱われた哲学系の文章について、私の気づいた「誤読」を扱っていく。

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以下で扱うのは、2013年の駿台第二回東大入試実戦模試の国語、第一問(現代文)である。出典は出口顕の『レヴィ=ストロース』であり、構造主義におけるパースペクティヴィズムの概念を説明している。

先日、この問題と、この問題についての駿台の解説を読む機会があったが、「誤読」だと思われる解説だったので、記事を書いて、指摘することにした。

大問まるごと通して「誤読」が目立つ解説だったが、小問すべてについて解説するのは面倒なので、設問1についてのみ解説することにする。

必要な箇所だけを引用する。

<以下引用>

パースペクティヴィズムの思想においては、主体性をもつ人間によって客体=対象物(object)とみなされる非人間的存在も、実はみずからと他者をまなざすことのできる主体なのである。しかしここで注意しなくてはならないのは、まなざしに先だって主体と客体が所与のものとして決まっているのではなく、まなざしあるいは視点が定まるとき、主体の位置が決まり、まなざしの交錯=交換において主体が決定されるということである。したがって人間もまなざされる客体となりうるのである。非人間的存在を、動物や草木虫魚などの自然界に存在する物として実体的にとらえてはならない。

<以上引用>

ここで、「実体的にとらえてはならない」に傍線がひいてあって、「「実体的にとらえてはならない」とあるが、それはなぜか、説明せよ」と問いが付してある。

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解説しよう。

まずは、傍線部の直前部分を読んでいただきたい。

「まなざしに先だって主体と客体が所与のものとして決まっているのではなく、まなざしあるいは視点が定まるとき、主体の位置が決まり、まなざしの交錯=交換において主体が決定される。したがって人間もまなざされる客体となりうるのである」とある。

さらにその前を読むと、「主体性をもつ人間によって客体=対象物(object)とみなされる非人間的存在」と書かれている。

この二つの箇所を考え合わせると、ここで筆者が述べていることは、「視点を決めてはじめて、何が主体になって、何が客体(=非人間的存在)になるのかが決まる。だから、非人間的存在とは実体的なものではないのだ」ということである。

そこで、私の考えた模範解答は次のようなものである。

模範解答:「ある存在が非人間的であるかどうかは、どのような視点を取り、何を客体と見なすかによって変わってしまう相対的な事だから。」

筆者が述べていることをもう一度繰り返せば、それは、パースペクティブの主体の位置が決定されることではじめて何が「非人間的存在」になるのかが決定されるということである。つまり、確固として「これが非人間、あれが人間」という区別があるわけではなく、なにが非人間になるかは、どこに主体を置くかで変わってしまうことなのだ、ということである。

これがまさに筆者が文章全体を通して説明を試みている「パースペクティビズム」であって、レヴィ=ストロースに始まり、ラトゥールらの科学人類学に連なる思想である。つまり、ここで「実体的でない」とあるのは、「非人間的存在」というのが確固としてそれぞれの個体のうちに実在するような実体的な属性ではなく、どのパースペクティブを取るかに応じて変化する属性である、という意味である。以上より、上記の回答が正解となる。

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さて、一方で駿台がこの問題につけた正当例を見てみよう。

駿台の正答例:「非人間的存在とは、まなざす主体を人間としたときに客体として関係づけられる他者であり、人間にも適用しうる概念だから」

誤答である。大まかに言って、減点ポイントが二つある。1)「人間にも適用しうる概念だから」が設問への解答になっていない。2)「まなざす」という語を不用意に解答に使っている。

まず、1)の点についてであるが、「人間にも適用しうる概念だから、実体的でない」というのはおかしな解答である。あるいは、明らかな説明不足である。文中では人間もまた、動物などとならんで一実体として扱われている(し、常識的に考えても人間は実体を持つ)。そのため、「人間に適用可能であること」が、「実体的ではない」ことの理由にならないことは明らかだろう。

ここでの駿台の解答は、

「株式会社って、ヤマハと東芝のこと?」

「う~ん。ヤマハとか東芝が株式会社なんじゃなくて、株式会社っていうのはもっと抽象的な概念なんだ」

というやりとりの後で、

「そうか、第一生命も株式会社だもんね!」

と言ったようなものである。見当外れである。

もしもこれが、

「第一生命は相互会社だったが、2010年に株式会社になった。だから株式会社とは、流動的で抽象的な概念である」

ということを主張したくて言ったのならば、まあ間違いではないが、言葉不足は明らかである。

まあ、あえてこの解答を正解にするならば、傍線部を「実体的にとらえてはならない」ではなく、「動物や草木虫魚などの」にひくべきだが、そんなことをしては完全な愚問になる。

さらに、2)の「まなざし」についても指摘しておきたい。正解例では、これ以降も、「まなざし」が含まれているかを執拗に採点の基準にしてる。しかし、「まなざし」という語を解答文中に用いてはならない! 「まなざし」という語は、哲学周辺では頻出単語だ。レヴィ=ストロースに限らず、サルトルやレヴィナス、見田宗介といった思想家たちも「まなざし」という語を用いてきた。しかし、これは往々にして、特別な意味がこめられたテクニカルタームである。

一般に学術関係の文章で「まなざし」が用いられた場合は、解答中で説明なしに用いてはならないテクニカルタームだと考えるべきであり、不用意に解答文中に用いるべきではない。どうやら出題者は「まなざし」を日常言語における「まなざし」と同一視して考えてしまったようだが、明らかな誤読である。

ここで出口が用いてる「まなざし」も、この後問題文を読み進めれば明らかなように、レヴィ=ストロースの「遠いまなざし」を意識したテクニカルタームであり、日常語ではない。よって、説明なしに解答文中で用いてよい概念ではない。レヴィ=ストロースの「遠いまなざし」の原語は「 le regard éloigné」であるが、これは直訳すれば「遠隔的注視」あるいは場合によっては、「遠隔的配慮」という意味の表現であり、ここには、実際に視線が届かない相手についても、想像力を用いて補おうという含意がある。つまり、一種の比喩表現として「まなざし」という語を用いているのであって、これを日常語の「視線」程度に捉えて、駿台のような解答を書いてしまうのは筆者の狙いの非常に重要な部分を読み取れていないと言わざるをえない。むろん、減点対象である。

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以上、2013年駿台第二回東大入試実戦模試の国語、第一問の「誤読」について解説した。

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