GARNET CROWを「卒業」する ~livescope THE FINAL 東京公演 を終えて~
ライブが終わり、家に帰り、物販で買ったパンフレットを開いて驚いた。
パンフレットの中のインタビューで、中村と古井が口を揃えて「卒業」という言葉を使っていた。
「卒業」。まさにライブの最中、ステージを眺めながら私の脳裏をよぎった言葉こそが、この「卒業」だったのだ。
これは偶然だろうか。
「解散」というネガティブな言葉を使いたくない、前向きな気持ちを表現したい、という程度のニュアンスで、「卒業」という言葉が選ばれたのだろうか。
そうではない、と私は思う。
単にネガティブな表現を避ける目的ならば、「船出」や「旅立ち」、「新たなる始まり」など、言葉はいろいろある。
「卒業」は、待ち望まれるものであると同時に、しなければならないものである。
つまり、卒業という言葉には、幾許かの義務感が含まれている。
それは「卒業できる!」と同時に、「卒業しなくちゃ」なのであり、中村と古井はともかく、私の脳裏をよぎったのは、まさに、「ああ、私たちはガネクロを卒業しなくちゃいけないんだなあ」だったのである。
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ガーネットクロウは、元来、とても自閉的な性質をもったバンドだ。
個々のメンバーが内向的だ、とかそういうことを言おうとしているではない(いや、それもあるのかもしれないが)。
楽曲の持つ世界観が、つねに一ヶ所へ、立ち戻ろうとするのだ。
変化を拒否する方向へと、つまり、変わらない方向へと、ベクトルが働いている、といってもいい。
考えてみてほしい。ガーネットクロウの歌の多くは、「見送る歌」である。「見送られる歌」などほとんどなく、「見送る歌」が圧倒的に多い。
GCの楽曲群のほぼ全ては、アウェーではなく、ホームの歌なのだ。
たとえば「マージナル・マン」だ。この楽曲で歌われるマージナル・マンは、破天荒な振る舞いをし、最後には街を追い出されるが、実はこの曲の歌い手はマージナル・マン本人ではなく、その一部始終を見守った、街の住人だ。マージナル・マンが街を去った後も、彼女は街にのこり、変わらない生活を続けてゆく。
「夢見たあとで」を考えてほしい。「解き放つ窓の向こう」とAZUKIは書いた。このとき、歌い手はあきらかに窓の内側、つまり、部屋の中にいる。おそらく、窓の向こうに広がる世界のどこかには、私のもとから歩み去っていった人がいることだろう。
AZUKIの詩集『80.0』の17番目の詩と18番目の詩の間に挟まれた写真が、私は好きだ。
マンションのベランダ。窓枠に腰掛けて、不機嫌そうに足を投げ出したAZUKIが歯磨きをしている。
この写真が象徴的に表しているのはGCの大きな特性である「日常性」であり、それはとりもなおさず、ホーム=家にいること、なのだ。
なにかが変わるとき、変わらない側にいること。
これがGCの大きなテーゼだった。
GCを聴くとき、私たちがなぜ癒され、落ちつくのか。
それは、このように、GCの楽曲が、私たちを安心できるホームへと立ち戻らせてくれるからだ。
ああ、変わらない世界がある。私はこの場所に抱かれて、守られていていいのだ、と思わせてくれる安心感。
その安心感はたとえばクリストファー・ロビンが夢見た100エーカーの森のものであり、バスチアンが子供に戻ることをゆるされたアイゥオーラおばさまの家のものであり、アルが友達になったダダとエラソーニのものなのである。
ガーネットクロウは「日常」であり、「家」だったのだ。
しかし……
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「卒業」である。
卒業とは、それまで学生として、あるいは高校生として、守られ、保護されていた場所(つまりは学校の事だが、いままでの言葉で言えばホーム、日常、家と同義だ)を出てゆくことでもある。
これは、多くの人にとっては、朝、布団から出なければならないときのような、後ろ髪をひかれる思いを伴うだろう。
しかし、私たちは卒業しなければならない。卒業はある種の義務感を持って、私たちに迫ってくる。
ラストライブは、とても心地よかった。
ラストであるという変な気負いは感じられず、アットホームで、出演者と観客がゆるく一体となった、楽しいライブであった。
すばらしかった。
しかし、このような心地よさを感じるほどに、たとえば中村の心には、「いつまでもここにいてよいのだろうか。いつかはこの居心地のよい場所を出ていかねばならないのではないか」という気持ちが働いたはずだ。
「ナァナァ」になることを恐れ、馴れ合いになることを一貫して嫌いぬいた四人である。
居心地の良い、「家」的 / 「高校」的な、変わらない空間をつくりだすこと。
「ナァナァ」や馴れ合いにならないこと。
この二つのベクトルは、真逆の方向を向いている。
GCは、この二つのベクトルの間で、実に危ういバランスを保ち続けてきた。
「この居心地のよい場にもっと長くいたい」という思い、そして「いつまでもここにいてはいけない」という思い。
このアンビバレントな感情を表したのが、古井のインタビューにおける次のような発言だったのではないか。
「そうですね、だから今は学校を卒業して次へ向う時のような気分です。3月のライブ期間中もこの楽しい空間がなくなってしまうのか…なんてリアルに感じる瞬間もありましたが」
「卒業しなくちゃ」なのは、メンバーに限った話ではない。
それはリスナーである私たち自身の話でもある。
それが、私がラストライブの最中に感じた「ガーネットクロウを卒業しなければいけないんだなあ」という感覚である。
クリストファー・ロビンが物語の最後で100エーカーの森を出たように、私たちもこの居心地のよい場所から、一歩を踏み出さなければいけない。
しかし、だからといって、なにもおそれる必要はない。
安心して歩いてゆこう。
これから先、辛くなったとき、苦しくなったとき、私たちはいつでも、GARNET CROWのつくりあげた数々の楽曲、安心して抱かれていられるterminusへと帰ってくることができるのだから。
(2012.5.24)