山田詠美『ぼくは勉強ができない』

山田詠美の名を初めて知ったのは、確か文學界新人賞の選考委員としてだったと思う。

いや、中学校受験の題材としても、本作をはじめとして多く取り上げられている作家だから、小学生のころから断片的には読んでいたに違いないが、兎も角、意識的に彼女の文章を読んだのは、『文學界』誌上での、新人賞受賞作への書評が初めてだった。受賞作に対して、彼女のコメントはかなり辛辣だった。他に優れた作品がなかったからしかたなく選んだ、受賞作なしでもよかった、といった趣旨だった。他の選考委員(たしか、島田雅彦や浅田彰、奥泉光といった面々だった)のコメントも厳しいものだったこととも相俟って、片隅に掲載された受賞を喜ぶ作者の声が、空々しく思われたことを覚えている。

文學界新人賞の選考委員のコメントは、読んでいて面白い。選考委員同士が、楽しくおしゃべりしながら作品を選んでくる様子が伺われるようなのである。大森望と豊崎由美も、対談『文学賞メッタ斬り!』の中で同様の事を述べている。「なにかにつけて山田詠美が奥泉光をいじるんだよね」と豊崎は言う。「クラスの学級委員をいじる、利発でモテる女の子みたいな雰囲気があって。みんななかよしなんだなあって、なんだか読んでて和みます」(ちくま文庫、p.118)。

「利発でモテる」というのは、まさに山田の個性を的確に言い表している。作品を分析し、アラを暴き、情け容赦なくその欠点を説明しにかかる。しかし、このたび、本作『ぼくは勉強ができない』を読んでみて、彼女の批評家としての優れた個性は、小説家としての足枷になっているように思われた。

本作は、ませて大人びた高校生、時田秀美を主人公とした小説である。秀美はサッカー部に入っており、バーで働く年上の女性とつきあっており、両親は離婚して母親と祖父に育てられている。まあ、ちょっとヒネた少年であるわけである。そんな秀美が、カタブツで権威主義的な先生に逆らったり、勉強のできる優等生を逆上させたり、女の子をフったり、家事をほったらかしにして男と遊んでいる母親にうんざりしたりしながら、高校生としての日々を過ごしていく。

さて、本作の主人公である秀美君は、とても頭がいい。たとえば秀美は、普段思弁的な話ししかしない友人が、サッカーで足の骨を折ったときに、こう声をかける。「空虚がなんとかって、おまえ、言ってたよなあ。今も、そう感じてるか」(新潮文庫、p.47)。これに対し、友人は、今は空虚など感じない、足が痛いと答え、秀美は満足そうにうなずくのである。

あるいは……。

秀美は校舎を歩いているときに、コンドームを袋を落としてしまい、それを見とがめた教師に叱られる。「不純異性交遊が、その[秀美の成績が低い]原因だとは思わないかね」(p.105)と言う教師を前に、秀美はこう考える。「ぼくは、小さい頃から、相手が激怒すると、妙に冷静に、その人と向かい合う癖がある。思い起こしてみると、ぼくが、そういう状態になるのは、佐藤先生のような人間を前にした場合が多い。つまり、事実を自分勝手に解釈して、それの確認を他者を使って行なう人々だ。自分は、こう思う。そのことだけでは満足できずに人の賛同を得ようとする種類の人間たち。その人々は、自分の論理を組み立てた結果以外のものを認めない。どんな論理にも隙間があるのを信じようとはしない。隙なく組まれたものが、ある時には、呆気なく崩れてしまうというのを知らないのだ。それにしても、ぼくの性生活に、何故、こんなにも腹を立てるのか」(p.108)。

むろんここで、いや、作品全体を通じて、秀美は、作者である山田詠美の代弁者であることは言うまでもない。時田秀美と山田詠美、字面の類似性を指摘しておくことも無駄ではないだろう。山田自身、大学生時代に『漫画エロジェニカ』誌でエロ漫画家としてそのデビューを飾り、小説家としてのデビューまでの間には、バーのホステスやヌードモデルとして働いたこともあった。こういった経験をする中で、「佐藤先生のような人間」から、様々な誹謗を受けたことは想像に難くない。この小説では、佐藤先生のような「マトモな人間」に対する批判が、繰り返し描かれる。選考会で奥泉をいじったように、山田はまじめな人間をからかうのである。

山田詠美が、あるいは時田秀美が、「ふまじめ」であることは(作中の言葉を借りれば「勉強ができない」ことは)、この作品の価値をなんら減じない。むしろ、山田にしか書けないことを、リアリティを持って書いているという点で、この作品の大きな魅力として捉えられるべきである。「お話にならねえや。ぼくは、恋愛にもっとも役立たないのは肉親であると確信した」(p.64)というフレーズや、「ぼくは、人に好かれようと姑息に努力する人を見ると困っちゃうたちなんだ。ぼくの好きな人には、そういうとこがない」(p.151)というセリフなんか、実感がこもっていて、思わず、そうなんだよなあ、と頷きたくなる。

しかし、一方で、この作品の中でコテンパンにされる「まじめ」な人たちは、リアリティをもって描かれているだろうか。骨を折ったところに、秀美に、お気に入りのカミュのシーシュポスの神話について語ってみろと言われて、「シーシーシーシュポシュポシュポ……」(p.47)としか言えない植草少年や、「こんなこと[セックス]にうつつを抜かしていると、勉強に身が入らんだろう」(p.105)というステロティピカルな説教をする佐藤先生は、少しアホすぎやしないだろうか。つまり、作中で、「まじめ」サイドの人間は、過剰に情けなく描写されてはいないだろうか。「まじめ」サイドの人間だって、一個の人間である以上、もう少し複雑であるはずだろうと、私は思う。このように過剰に情けなく描写された「まじめ」な人たちを秀美がやりこめたとして、それは、そこまで得意になれることなのだろうか。

議論の場で、対抗する相手の意見を歪めて引用し、それに対して反論することを「藁人形論法」と呼ぶ。私には、秀美は(そしてとりもなおさず山田詠美は)、藁でできたまじめ人間の人形を倒して得意になっているように思えるのである。つまり、作中には、秀美にとって、やりこめることのできる相手しか登場しない。

勝てる範囲の相手としか戦わないことは、一般的な戦術としては正しいのかもしれないが、なにかを考えたり、つくりだしたりする者にとっては、致命的なロスだ。

トマス・ネーゲルは、近年の哲学者たちが、自分たちに扱うことのできる問いしか扱っていないとして、次のように批判している。「特定の標準的な諸方法に愛着を持った場合、それらの方法によくなじむ諸問題に関心が集中するようになることは、理解できることである。それらは戦略的な選択としては完全に合理的でありうる。しかし、それはしばしば、何が真正の問いであるかを、利用できる解決方法の側から規定するという傾向をともなうのである」(永井均訳『コウモリであるとはどのようなことか』継承書房、iv)。

山田が本作で行ったことも、また、「何が真正の問いであるかを、利用できる解決方法の側から規定する」行為にほかならない。

秀美君は、とても頭がいい、と私は先に述べた。秀美は作中で、次々とまじめな人間たちを論破し、自分の考え方の正しさを見せつける。これが私には大きな違和感であった。小説は、果たして、答えを与えるものなのだろうか。これでは、ただの山田詠美による自己の思想の陳列ではないか。だとしたら、これは小説の形をとる必要はない。エッセイか、あるいは批評の形を取った方が、ずっとシンプルでわかりやすい。解決できない問いに向き合うことこそが、小説のなすべきことなのではないのか。それなのに、秀美は(詠美は)、解決できる問いを自分で提示し、それを解決して喜んでいる。なるほど、これが批評ならよかったかもしれない。しかし、小説でそれをやられると、読者は(少なくとも私は)シラケてしまうのである。

自分に勝てるように、まじめ人間を矮小化して、それに勝ち続ける秀美君に、私は彼自身の言葉を贈りたい。「事実を自分勝手に解釈して、それの確認を他者を使って行なう人々」とは、そして、「そのことだけでは満足できずに人の賛同を得ようとする種類 の人間たち。その人々は、自分の論理を組み立てた結果以外のものを認めない。どんな論理にも隙間があるのを信じようとはしない。隙なく組まれたものが、ある時には、呆気なく崩れてしまうというのを知らないのだ」というのは、まさに、自分の考えが絶対に相手をやりこめられると信じて疑わない、秀美のことではなかっただろうか。

(2013.3.19)