『ある家族の駆け落ち』(H.G.ウェルズ)

「わたしたちが一緒にいること、奥さまには気づかれてないわよね? 」

ミス・ホーキンスは訊いた。

「大丈夫だと思うよ」とギャビタス氏は答えた。「今はあの神智学者と話しているから」。その神智学者は細身の若い男でインドの出身だったが、髪はスーダン風の縮れ毛だった。ギャビタス夫人はローマ人風の知的な容姿の女性だが、深遠なことに魅かれてしまう愚かさをも持ちあわせていた。彼女は明らかに、そのヒンドゥー教徒の話にとても興味をひかれている様子だったので、ミス・ホーキンスはまたギャビタス氏の方に向きなおった。

「このままではいられない、と言ったんだ」とギャビタス氏。

「声が大きいわ」

「このままではいられないんだ、おまえ」

ギャビタス氏は、かすれた囁きにありったけの愛おしさを込めて言った。

「わたしたち、どうすればいいの」

「思いきってやってみるんだ――高飛びするのさ」とギャビタス氏は言った。「全部投げだして、もっと暖かい国へ――」

「しっ! あの人たち、わたしに歌わないかと言いにきたみたい」とミス・ホーキンス。「少しだけ、待っていらして」。

ここぞという見せ場で彼女を取られてしまったギャビタス氏は、彼女の横顔が見える位置まで移動すると、壁に身体をもたせかけた。

「あれは実に賢い女だね」。左手に立っている上品な若い紳士が、友人と話している。

「おまけに貞節だ」、と友人。「しかしそれが間違いなのだ。彼女はもう少し物事を――楽しむことを覚えた方がいい。男たちは、ただ歌が上手いというだけの理由で歌手を追いまわすわけではないのだから。わかるね」

「彼女はそんなことなど、重々承知」と若い紳士は優雅な口調で答えた。「計算づくだよ。きっとそのうち食い物にされる奴が――」

「なんてことを! 」ギャビタスは小声で言った。「そんなことを私の愛しいミニーが考えるはずがない。これ以上は聞きたくない」。彼は急いでどこかに空いている壁がないかを探しに行ったのだった。

「また二人になれてよかった」。ほどなくして、ギャビタス氏ははてしない安堵感を覚えながら、ミス・ホーキンスにそう囁いていた。「それでおまえ、率直に言って、その、――私と一緒に来てくれるかい? どんなにおまえのことを思いこがれてきたことだろう、そう、魂の底から想ってきたのだ――だから」(突然声を大きくして)「いや、とても楽しいひとときを過ごさせてもらったよ」

この意味のない台詞を言ったのは、誰かがミス・ホーキンスの椅子のすぐ後ろを通り過ぎたからである。

「いなくなった」とギャビタス氏。「教えてくれ愛しい人、さあ。囁いてくれ。私と来てくれるかい? 」 [間]

「あなたのためなら」。ミス・ホーキンスは目を伏せながら、やさしい声で囁いた。

ギャビタスはこれを肯定の返事と受けとった。

「ああ、愛しい人よ、もう私だけのものだ! 暖かい太陽が顔を出すだろう。つまり――この部屋は少し暑いようだね」

「今度はなに? 」

「妻と目が合った。どうやら帰りたがっているようだ。神智学者がどこかへ行ってしまったからだろう」

賢明な読者は、妻から逃げようとする男は、たとえ妻がローマ人風だとはいえあまり美しくない容姿の持ち主だったとしても、またたとえ神智学に入れこんでいたとしても、一抹の良心の痛みを覚えるものだと言うだろう。むろんギャビタスも例外ではなかった。金めあての結婚においてすら、共同生活を送る必要性から互いをいたわる習慣が芽ばえるものなのだ。

「とても充実した夜だったね、おまえ」とギャビタス氏は言った。

「すてきなサンドイッチがあったね」

「ええ」。ギャビタス夫人はうっとりとした目で彼を見ながら言った。「サンドイッチはすてきだったし、会場の飾りつけもすてきだったわ。それから音楽も。これよりすてきな夕べなんて、わたしには想像できないくらい」

「おまえが楽しんでくれて、私もうれしいよ」

夫人は神秘的な微笑を浮かべて彼を見つめた。彼女はなんの前触れもなく、日ごろ抱いたことのない愛しさに包まれたようだった。「あなた、」と彼女は言った。

(今度はどうしたというのだ? )とギャビタス氏は思った。(カマをかけているのではあるまいな)。しかしそんなことはおくびにも出さずに、「どうしたね、おまえ」。

「あなたはいつでもわたしにとっていい夫だったわ」

(まぁ……な)。ギャビタス氏はひとりごちた。そして口では、「ああ、いつでもね」。

「ねえ、キスしてもいいわよ」

ギャビタス氏は言われたとおりにキスをひとつした。それで妻の気持ちはおさまったようで、その後は疑うようなそぶりも見せなかった。ギャビタス氏は心の底から安堵した。とはいえ、妻がこんな話し方をすることなど今までになかったのはたしかだ。彼女が感傷的な性格になりつつあるのならば、駆け落ちをするのにまた新しい理由が加わったわけである。

それからの数週間というもの、二人で過ごしているときには、ギャビタス夫人はくり返しあの奇妙な甘い気分へと戻っていくのだった。そのようなときには、彼女の口にする短い言葉がギャビタス氏をおおいに戸惑わせるのだった。とはいえ、それでもギャビタス氏は自分の部屋では荷づくりを続けたのだった。彼は意志の固い男だったのだ。

「あいつに知ることのできるはずがない」

あるとき、いつものような会話の後に妻を目で追いながら、彼はひとりごちた。

「うん。知っているのなら、あいつのことだからいまごろは喧嘩になっているはずだ。あいつならぜったい騒ぐにちがいない。おれはあいつの性分をよく知っている。おおかた、なにかの小説にでも影響されてあんな態度をとるのだろう。あわれなミムジーばあさん! 」

妻の部屋の前を通りかかったとき、彼は一瞬足をとめた。妻がベッドのそばにひざまづいて泣いているように見えたのだ。しかし、それは視界の片隅に映ったからであった。まっすぐ向きなおって見てみると、彼女は衣装籠に服をつめているだけなのであった。彼は安心して階段を下りていった。

さいごの奇妙な会話が交わされてから五日の後、ギャビタス氏は目の前に積み上げられた男物や女物の荷物の山に気を配りながらも、間違ったことをしているのではないかという疑念が胸の中で高まっていくのを感じつつ、ウォータールー駅のサウサンプトン行きのプラットホームに立っていた。その傍では、ミス・ホーキンスが不安と冷静さが入り交じった気持ちを楽しんでいた。

「これでロンドンとも、世間体のいい生活ともお別れだ」とギャビタス氏は言った。

「そして人生の始まりでもあるわ、あなた」と、ミス・ホーキンス。

「あった。うちの荷物だ」と、ギャビタス氏は言った。

彼らの荷物のそばには、もうひとつ似たような荷物があった。その小さな旅行かばんは彼の目をひいた。見覚えがあるような気がしたのだ。「これは私のものかね? 」と彼はポーターに訪ねた。

「ミセス・ダコスタ」。ポーターはラベルを読んだ。「リスボン行き」。

「違った。私のじゃない」とギャビタス氏は言った。

「しかし……なんとなく……おかしな感じがするな。そろそろ、われわれの席が誰かにとられてしまっていないか見にいった方がいい、と私は思うね、おまえ」

彼らのコンパートメントのドアの前に、こちらに背を向けて立っている男がいた。男は明らかに外国人だった。男の髪の毛は、イギリス人ならばやりもしないし出来もしないような独特な形に縮れていた。二人が近づいていくと、男がこちらを振りかえった。

どちらから口を開けばよいのか戸惑うような間があった。

「これはジャマジー・ギャンパットさん」とギャビタス氏は言った。

高名な神智学者であるギャンパット氏は、間の抜けた表情を浮かべながら彼の方を見た。ギャンパット氏は一瞬、怖がるようなそぶりを見せた。それから彼の表情は明るくなった。彼は帽子を持ちあげて、「ギャビタス・サン――とミス・ホーキンス! 」。

ミス・ホーキンスは旅行かばんからほつれた紐を引き抜こうと横を向いた。

「サウサンプトンに行くところなのです」。ギャビタス氏は頭をはたらかせようと懸命になりながら言った。「二人で。妻に会いに行くのです」

「ナルホド! 」。そうこたえたギャンパット氏の目が、待合室のドアの辺りが気になるように泳いだ。どこか神経質になっているようだった。「あのですね」。彼は言った。「その、ワタシ……ちょっとですね……スミマセン。失礼」。彼はとつぜん背を向けると、急いで歩き去った。

「彼に気づいてよかった」とギャビタス氏は言った。「とても緊張しているように見えたな。もしかして気づかれたのだろうか。ショックを受けたのかもしれないな。あれは! 」

ギャンパット氏は待合室のドアに手をかけようとしたが間に合わなかった。ドアが開いた。灰色の旅行ドレスを着た女性が現れた。亜麻色の髪をした、ローマ人風の顔立ちをした女性が、ギャンパット氏に向かって微笑みを浮かべながら。

「ミムジー! 」。ギャビタス氏は言葉をついで叫んだ。

「奥様! 」とミス・ホーキンス。

ギャンパット氏の不安な表情を見て、ギャビタス夫人の顔から微笑みが消えた。その原因をさぐろうと、夫人はギャンパット氏の肩越しに車内のようすを眺めた。

「ああ、わたしのかわいそうなジョージ! 」。彼女はかすれた声で言った。

それからミス・ホーキンスを見つけて、「あなたは! 」。

「座って! 」と車掌が叫んだ。「お座りください! 」

「おそらく」と、ギャビタス氏は自分の声が聞き苦しくかすれていることに気づいた。「こうなったからには、皆一緒に車室に入って話をするべきだろうな」。

一分後には、意気消沈して黙りこくった四人の人間が、ウォータールー駅を出発した一等車のコンパートメントの中で揺られていた。これは切り出すのが難しいたぐいの会話なのだった。ボクソール駅に着くころ、ギャビタス夫人が沈黙をやぶった。

「こんなのって、ほんとにおかしいわ! 」。彼女はだしぬけに、興奮気味に言った。「馬鹿げているわよ! どうすればいいのかわからないわ」

「それには、ねえ、まったく同感ですわ」。ミス・ホーキンスが目を伏せて紙切れをいじりながら、とてもゆっくりと言った。

「こんなのロマンチックなスキャンダルにもなりやしない」。ギャビタス夫人が涙交じりに言った。「手垢のついた、ありふれた話。嘲笑されるだけよ。最低で、獣じみてるって! 」

一同沈黙。

「どうしたらよいのか」。ギャンパット氏が半ば笑いながら言った。「なんです。可笑しいではないデスか」

再び沈黙。

クラップハムを過ぎたころ、ギャビタスがひとつ咳払いをした。

「ええ? 」とギャビタス夫人。

「われわれは」とギャビタス。「この泥沼に足を踏み入れてしまった。そしてなんとかして出なければならん。私とギャンパットが決闘で――」

「ダメ」とギャンパット。「ご婦人たちの前! 決闘よくない」

「われわれは闘わねばならん」とギャビタスは言った。「しかし、なにを巡って闘うのかといわれると、よくわからんな」

「そのとおり。闘って奪いあうもの、どこにもない」。ギャンパットはそう言うと、安心させるようにギャビタス夫人に微笑みかけた。

「そうすれば婦人たちの名誉も傷つくまいな」とギャビタス。

「もちろん」。ギャンパットは元気を取り戻しつつあった。「こんどはワタシの言うこと、聞いてください。ワタシたち、どうすればいいか? 教えてあげます。ここにギャビタス夫人とミス・ホーキンス、います。二人は行きます――二人はワタシたちと一緒に、サウサンプトン行きます。ここまでダイジョウブね? 最後まで聞いてください。そこでワタシたち別れます。ワタシとあなた、ギャビタス・サン、ワタシとあなたがパリ行く。ワタシとギャビタス夫人が行く予定だったところです。あなたは――つまり、マダム――あなたはミス・ホーキンスと一緒に行く。行先は――ええ――」

「リスボンがいいのではないかしら。荷札にもあることだし」

「ええ――」。ミス・ホーキンスは、紙切れをななめに裂いて四角形をつくりながら答えた。「理に適っていると思いますわ。わたしはそれで大丈夫です。今となっては」

「いい心がけね。それで、あなたはどうなの、ギャビタス? 」

ギャビタスは少しの間、ミス・ホーキンスを見つめた。

「獣じみた失態だ」と彼は言った。

ミス・ホーキンスが顔を上げた。彼の目には、彼女が微かに頷いたように見えた。彼はギャンパットの方に向きなおった。

「たいへんけっこう。これで大丈夫そうですな」

「わたしたち、すこしおかしかったみたい」とギャビタス夫人が言った。――「馬鹿だったわ、じっさい」

「私の知るかぎり」、と彼女の夫が言った。「石を投げてよい者は一人もいないな」

「罪のないヒガイシャ、この車両にはひとりもいません」とジャマジー・ギャンパット氏が言った。

「これで」。ギャビタス夫人が言った。「すべてがうまくおさまったようね。なにか他の話をしましょう」

「巻き毛」、とミス・ホーキンスは膝の上で、紙くずを二つの山にまとめながら言った。「巻き毛が、奥様、次のファッションの流行らしいですわ」

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A Family Elopement(1884)を訳出しました。

2013.4.24