「レオ・レオニ 絵本の仕事」

レオ・レオニときいて、あなたは何を思い出すだろうか。私の場合は、小学校の教科書に載っていた「ニコラスどこにいってたの?」だ。

世界中で、多くの人々に親しまれている絵本作家レオ・レオニ。ここ日本でも、人気は高い。金曜の午後、bunkamuraミュージアムはいつもの展示に比べて、多くの人でにぎわっていた。とりわけ、子供連れや女性が多い。展示の中途に置かれた座って読める絵本コーナーで、実に様々な女性がレオニの絵本を読んでいる様子は、見ていて壮観だった(一人だけおじさんが交じっていて、座って絵本を読んでいたのも面白かった)。

この美術展では、レオニの絵本の原画が展示されている(残念ながら「ニコラス」の原画はないが)。優しいタッチで描かれるその絵の、どこまでが貼り絵で、どこからが水彩によるものなのか、近くで眺めることができるのはファンにとっては大きいだろう。彼の貼り絵を眺めていて感じたことがある。素材の良さだ。いや、題材といいたいのではない。素材、つまり、貼り絵に使われている紙が素敵なのだ。マーブル模様の紙を切り取って海の波に見立ててみたり、どこかしら日本めいた桜の壁紙を切り取って、木にはりつけてみたり。ああ、この素材はどこに行けば買えるのだろうか。こんな素敵な素材があったら、自分だって小学生の頃の美術の授業で、もうちょっと素敵な貼り絵ができただろうに。

いや、素晴らしい素材があれば、誰だってこんな素敵なねずみが描けると言っているのではない。優れた素材が手に入る環境というのは、創作家にとっては大切だろうと感じた、という話だ。

レオニの魅力は貼り絵、もとい、コラージュだけではない。「さかなはさかな」は、やさしいタッチの色鉛筆で描かれているし、「みどりのしっぽのねずみ」は油彩、「チコときんいろのつばさ」はテンペラ、「あいうえおのき」ではゴム版を用いるなど、数多くの手法を縦横に駆使しながら、どの手法に置いても、シンプルでやさしい、レオニワールドを描き出している。レオニの高い技術が伺える。

さて、気づいたことがいくつかある。

まず、レオニの作品は、絵ではなく、あくまで「絵本」なのだということ。それも寓話めいたストーリーのものが多い。展示パネルの「これは○○を描いた話」というキャプションが、絵本を読んだことのない人にもストーリーを教えてくれる。しかし、私はこれに、少々困惑した。私が美術展に足を運ぶ理由のひとつは、絵は語らないからである。絵は語らないことによって、私が語ることを誘発する。絵は「私は○○を意味しているのです」と語らないところがよいのだ。私は美術展を歩いている間、「この絵についてなにが語れるか」を絶えず考えている(思えば、つまらない鑑賞法かもしれない)。ところが、絵本の場合、語ることは封じられてしまう。「これは、芸術家の役割を描いた作品です」というキャプションがついている、しかも、そのキャプションはおそらく、作者が絵本の中で書いている通りだろうからだ。

そして、レオニの絵本のメッセージは、常識的であった。だからこそ、広く人々から支持されたのだろうが、ひねくれた芸術家に言わせれば……「ふん、あんなのは大衆への迎合だよ。レオニは資本主義の作家さ」ということになるのかもしれない。ベルリンの壁が崩壊した年に、レオニが「どうするティリー?」という作品を描いていることは示唆的である。この作品は、壁の下を掘り進んで向こう側に到達したねずみが、壁の向こうにいたのも自分と同じねずみであったことを発見する、というストーリーなのだ。

しかし、レオニは単純な商業主義の作家とは言い切れない。レオニはおさないころ、水槽の中に草や生き物を入れ、小さな箱庭のようにして眺めるのが好きだったそうだ。たしかに、レオニの絵には、どれも箱庭的な安心感がある。大自然を愛するとまではいかなくとも、このような小さなナチュラリストとしての側面が、レオニにはたしかにある(まあ、それが商業主義と相容れないかどうかはまた別の話かもしれないが)。

こんな写真が、私の目にとまった。レオニが、浜辺の様々な形の石を描き、こどもたちに自然の中に出かけるように促した、「はまべにはいしがいっぱい」という、繊細な鉛筆画作品がある。この作品をレオニが制作していたときの写真だ。

レオニが石がたくさん並んだ浜辺に寝転んでいる。笑顔でこちらを見ているレオニの姿に違和感があった。しばらくながめていて、違和感の正体がわかった。レオニは左手に腕時計をはめているのだ。アウトドアで遊んだ経験のある方ならばおわかりと思うが、腕時計は外してから遊ぶ。手首の動きを制限するし、なにより、浜辺で小石をあつめるときなど、腕時計をしたままでは時計に傷がついてしまう。するとしたら、スポーツ用の腕時計(レオニの時代にはなかったかもしれない)だ。

腕時計をしたまま石ころだらけの浜辺に寝転ぶなど、あぶない。というのが私の感じた違和感だったのだ。

このことからも、レオニが単純なナチュラリストではないことがわかるだろう。いわば、彼は商業的なナチュラリストなのだ。この言葉を悪い意味に捉えないでいただきたい。レオニの自然への目線は本物だろう。だが、レオニは、自然をほのぼのと描き出す自分の才能を、どのようにプロデュースしていけばよいのかを知っていたのだ。これが、凡百の絵本作家とレオニを分けた点である。セルフ・プロデュースの才能があったからこそ、つまり、「これはいい絵でしょう」だけではなく、「こういう風に描けば売れるのです」をもわかっていたからこそ、彼の絵は世界中の子供たちに読まれたのである。これは、もしかしたら、大学で経済学を専攻したという、彼の意外な経歴とも無関係ではないかもしれない。

「レオ・レオニ 絵本のしごと」展はBunkamuraミュージアムで8月4日まで開催されている。

(2013.7.26)