雑学

蒐集した雑学を記録しています。

―――

【未分類】

「春夏秋冬」と書いて「ひととせ」と読む苗字があるとしばしば言われるが、実在しない。また、「一」と書いて「にのまえ」と読ませる苗字も、実際には存在しないだろうと言われている。

卵を生産するとき、1kcalの蛋白質を得るために39kcalのエネルギーが必要とされる。なんと1 : 39という非効率っぷり。植物の場合は、1 : 2.2 と効率がよい。

やなせたかしはメロンパンナのキャラクター制作に取り掛かるまでメロンパンを口にしたことがなかったが、製作を決めてからはそのためにメロンパンを2年間食べ続けた。

LogitecはElecomの子会社。シェーファーはBICの子会社。スタインバーガーはギブソンの子会社。

【天文学】

小惑星の発見者は、星に名前をつけることができる。しかし、いくつかルールがある。自分の名前をつけることはできず、また、死後100年以内の政治家や軍人の名前をつけることもできない。まだ歴史的評価が定まっていないから。

日本の天文学者、磯部琇三は、アマチュアが興味本位で名前をつけているとして、小惑星の命名に反対していた。しかしそれを知らない外国の研究者が、磯部へのプレゼントとして、小惑星にIsobeと命名してしまい、磯部は周囲から、からかわれるはめになった。

【遭難】

世界で最初にSOS信号を出した船は、1909年6月10日にアゾレス諸島沖で難破したスラボニア号。二隻の汽船が駆け付け、全ての乗員が救助された。救助にあたった船の名は、バタビア号とプリンセス・イレーン号。

マルコーニ式電信機を積んだ船の中で、世界で最初にSOS信号を出したのは、1912年4月14日にニューファンドラン ド沖で難破したタイタニック号。ただし、遭難信号を出し始めたのは日付が変わった15日0時15分から。最初は旧式の遭難信号であるCQD信号を出してい たが、途中でSOS信号に切り替えた。

タイタニックから18~30km先には貨物船カリフォルニアン号が停泊していたが、通信士が一人し かおらず、就寝中だったため信号は伝わらなかった。マウント・テンプル号が救助に向かい、20km未満まで近づいたが、氷山を恐れた船長が救助をあきら め、その地点で明りを消し、周辺海域に自船が存在しないように装った。結局救助にあたったのは107km離れた地点にいたカルパチア号で、ボイラー爆発の 危険を冒しながら設計最高速度を3ノット上回る17ノットで走行、現場に到着したのは沈没から2時間40分後だったが、706名の救助に成功した。

【音楽】

「金太の大冒険」のバックで演奏しているのは四人囃子(正確には、ギターとドラムが四人囃子のメンバー)。

ウェスト・バージニアの風景を歌った「カントリー・ロード」の世界的なヒットで知られるジョン・デンバーは、実は生涯で一度もウェスト・バージニアに行ったことがなかった。

センチメンタル・バスの"Sunny Day Sunday"でギターを弾いているのはROLLY(ex.すかんち)

ROLLYは槇原敬之の従兄。

かまやつひろし(ムッシュかまやつ)は森山良子の従兄。

ビートルズの『リヴォルヴァー』のジャケットデザインを担当したクラウス・フォアマンは、元々はマンフレッド・マンというバンドのベーシストだった。そのマンフレッド・マンでクラウスの前任だったベーシストは、あのジャック・ブルース。

昔、ウクレレのチューニングは、現在よりも1音高かった。

16-18世紀のヨーロッパでは、フレットのあるヴァイオリン(と同形状の楽器)が使われていた。

汽車が坂を上がるときの音を「なんだ坂 こんな坂」と表すのは、昭和二年の歌曲「汽車ぽっぽ」が最初だとされているが、それより一年前の昭和元年に竹久夢路が「玩具の汽缶車」の中で同様の表現を用いている。

現在ではAの音は440Hzとして定義されているが、かつてはもっと低い音が基準音として使われていた。そのため、当時の弦楽器を現在のチューニングで合わせようとするとネックが反る。

【ノーベル賞】

今までノーベル賞を受賞拒否したのは、哲学者サルトル(文学賞)と革命家レ・ドゥク・ト(平和賞)の二人だけ。前者は、「いかなる人間でも生きながら神格化されるには値しない」という理由から。後者は、「まだベトナムに平和がおとずれたとはいえない」という理由から。

医学生理学賞のドーマクはナチ政権によって受賞を拒否するように強制されたため辞退したが、大戦後に受賞している。ナチ政権が受賞を拒否するよう強制したの は、ドイツがヴェルサイユ条約に反して軍備を拡張していることを告発したジャーナリスト、オシエツキーに平和賞が与えられたのに反発して。

今まで7組の親子がノーベル賞を受賞している。このうち親子で異なった部門で受賞しているのはキュリー親子とフォン・オイラー親子だけ。

【知識人】

ハーバード・スペンサーは自伝に、自分が二十歳のときに考えついた円に関する証明を掲載したが、実はその証明はプラトンが二千年以上前にやっていたものだった。

SF作家のアイザック・アシモフは第二次大戦時に海軍工廠で働いていたが、このときSF作家ハインラインも同じ工廠で働いており、二人は知り合いだった。三大 SF作家のうち、二人がこの工廠にいたことになる(あとの一人はクラーク。第二次大戦中はイギリス空軍の将校としてレーダー開発を行っていた)。