サルトル『ユダヤ人』

昨年には、「在特会」なる右翼団体による、在日韓国人へのヘイトスピーチが問題となった。今年に入ってからは、都内の図書館で『アンネの日記』が破られ、サッカーのファンが球場に「JAPANESE ONLY」という垂れ幕を掲げるなど、現在の日本では、人種差別が急速に表面化してきている。

本書はユダヤ人だけでなく、人種差別一般について有益な示唆に富む本だ。ヘイトスピーチや、アンネの日記の問題を考える上でも、必読書となろう。

たしかに、1954年のフランスで書かれた本書を、今日の日本と結びつけることは、浅薄の謗りを免れないかもしれぬ。むろん、フランス内でユダヤ人の置かれていた状況と、日本国内の在日韓国人らが置かれている状況、そして両者の歴史的経緯には、大きな違いがある。

それでも、サルトルが本書の中で(きわめてサルトル的な手法で)描き出した、差別に加担する者たちの心理は、今日にもそのまま通用するものである。

すなわち――

反ユダヤ主義者たちは、なんらかの事実から、理性にもとづいてにユダヤ人を差別しているわけではない。彼らの差別は感情的なものである。だから、差別に反対するものたちが、いくらかの事実をあげつらって彼らに反論しようとも、それはなんの効果もない。

彼らはなぜ理性を捨て、感情に走ったのか。それは、理性というものが、彼らに不安をもたらすからだ。

理性というものは、アンバランスで、ぐらぐらしている。学問の探究が、どこまでも不安定な近似でしかないように。この不安定さ(サルトルは「執行猶予」と表現する)は、ストレスとなる。今すぐ、わかりやすい真実をくれ! ユダヤ人を憎む、と決めこんてしまえば、不安定な真実を求めて悩む必要はなく、安定が得られるのである。

「反ユダヤ主義は、一口に言えば、人間の条件に対する恐怖である」とサルトルは言う。つまり――サルトルの実存主義思想を思い出してみよう――自らの自由意志で物事を判断し、その責任を引き受けるということ、即自存在である人間としての条件を、反ユダヤ主義者たちは放棄したのである。彼らの「ユダヤ人は悪い奴だ」という考えは、いわば「本質は実存に先立つ」式の、実存主義に逆行する思考なのである。

サルトルの批判の矛先は、反ユダヤ主義者だけではなく、ユダヤ人を擁護する民主主義者たちにも向く。民主主義者たちは言う。「ユダヤ人の中にも善良なユダヤ人はいるし、キリスト教徒の中にも貪欲なキリスト教徒はいるではないか」。しかし、このような反論が反ユダヤ主義者を改心させる可能性は、万に一つもない。前述のとおり、反ユダヤ主義者は、「ユダヤ的性格」という抽象的な対象を憎んでいるのである。そこに、ユダヤ人個人の話を持ち出しても、議論は食い違うばかりである。

このように、本書は人種差別一般についても示唆に富むとともに、それに反対している人(別に「しばき隊」に加わっている人、というわけではなく、ぼんやりと「人種差別はよくないなあ」と考えている程度の人)にとっても、自らの身を省みさせられる論考である。

本書の構成は以下である。

第1章「なぜユダヤ人を嫌うのか」では、差別をする者たちの一般的な心理が語られる。

数ページしかない第2章「ユダヤ人と民主主義」では、ユダヤ人を擁護しようとする民主主義者について触れられる。

続く第3章「ユダヤ人とはなにか」では、それまでの章よりも具体的にユダヤ人について記述される。

これまた数ページの第4章「ユダヤ人問題はわれわれの問題だ」は、サルトルの呼びかけである。サルトルは、反ユダヤ主義に反対する連盟を、われわれ(つまり、ユダヤ人はなく、アングロサクソン系フランス人)がつくらなければならないと主張して本書を締めくくる。

(2014/3/21)

本稿は、

サルトル(安堂信也訳)『ユダヤ人』, 岩波新書,1956

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